出会い
ドン!
小さな影が旅人にぶつかった。
土埃の舞う道に、遠く市場の喧騒がかすかに響く。
フードを深く被った旅人は柔らかい口調で言った。
「大丈夫かい? 走ると危ないよ」
旅人の目の前には、ボロボロの服を着た八歳くらいの男の子がいた。目が合うと、男の子は慌てて目を逸らし、「う、うん」と小さく頷いた。
旅人は穏やかに笑い、「気をつけて」と手を振って歩き出した。男の子も小さく手を振り返し、その場を離れた。
だが、数歩進んだところで、旅人は立ち止まる。懐に手を入れ、首をかしげた。
「あれれ。そういうことか」
金の入った袋が、なくなっていた。
◇
「うまくいった。とろい旅人で助かったぜ」
そう言ったのとは裏腹に、スリの男の子の顔は冴えなかった。彼は薄暗い路地裏を一目散に駆ける。広くない路地に積まれた木箱の隙間から腐った果物の匂いが漂い、生乾きの布のような湿気が鼻をついた。
(姉ちゃんの薬……買えるよな、これで)
思い浮かべたのは、あの細い手と熱で赤くなった頬。咳き込んで何も食べられない姿。
薬さえあれば、きっと——
男の子は唇を噛み、走る足を速めた。
——姉ちゃんの笑った顔、早く見たい。
——また、一緒にご飯が食べたい。
(悪いことなのは、わかってる。でも……これしか——)
そんな思いが頭をよぎった瞬間。
ドン!
今度は意図せずに何かにぶつかり、男の子は尻餅をつく。見上げると、薄汚れた服を着た三人の男たちが目の前に立っていた。真ん中の痩せた男は、目の下に深い隈を湛え、ぎらついた目で男の子を見下ろした。
「おい、仕事したんだろ? その金を渡しな」
脇に立つ二人——歯の抜けた男と無愛想な男が、じりじりと近づいてくる。
「こ、この金で姉ちゃんの薬を買うんだ!」
男の子は金の袋をぎゅっと握った。
痩せた男が鼻で笑う。
「薬? 俺たちも薬がいるんだよ。腹減りすぎて腹痛だ。なぁ?」
男の声には飢えと苛立ちが滲んでいた。無愛想な男はその言葉に首を縦に振った。歯の抜けた男はゲラゲラ笑い出し、さらに一歩進んだ。
(どうしたら——)
そう思った瞬間、冷たい手が胸ぐらを掴んだ。
指が細くて骨ばってる。寒い夜でもないのに、嫌な汗が浮いた
(——いつものことだ。我慢すれば、また明日が来る。でも……姉ちゃんは……)
「俺もね、こんなことはしたくないんだよ。とても心が痛むんだ。なぁ、俺かわいそうだろ?」
男は歯の抜けた口を大きく開けて笑い、拳を振り上げた。
男の子は思わず目を閉じた。
「さぁ……金を——」
「もしかして、袋叩きの練習中?
……ふふ、情けない人たちだね」
男が言い終わる前に、別の声がそれを押し切るように路地に響いた。
(——女の人の声?)
男の子はハッとして目を開けた。
交差点の先、傾いた日差しが差し込む中、フードを被った旅人の影が現れる。
——さっき金を盗ったあの人だと、すぐに気づいた。
男たちも動きを止め、一斉にそちらを見る。
「誰だお前? こっちは“仕事中”なんだよ」
男たちが顔をしかめて声を荒げた。
「そっか、それは悪かった。でも私の用事は簡単だよ。その子を引き渡してくれたら、あとはご自由に。……変顔で笑わせる仕事でしょ?」
その言葉は明るく冗談めいていたが、奥に冷たいものが込められていた。
「ハハッ! 聞いたか? おい、変顔だってよ!
じゃあ、見せてやらねぇとな、こっちの“笑えねぇ顔”ってやつをよォ!」
「うん、面白い顔だね。冗談のつもりだったけど、ちゃんとその仕事で生きていけそう。
……で、その子。私のお金、持ってるんだ。渡してくれる?」
「お前の金だぁ? 悪いな、そいつはもう俺たちのモンだ」
旅人がふう、とため息をついたのが見えた気がした。
「それは困るな……。それに、大人が子どもを囲むなんて光景を見ると、つい昔を思い出して反吐が出ちゃうんだよね」
その口調に明るさは跡形もなく消えていて、冷たい怒気が混じっていた。男の子は小さく身を震わせた。
痩せた男がキレたように殴りかかる。
だが、次の瞬間、男は地面に転がっていた。何が起こったのか、男の子にはよく分からなかった。ただ、旅人がほんの少し身を動かしたように見えただけだった。
「暴力は良くないと思うよ」
その声の主を、男の子はまじまじと見上げた。
風が吹き抜け、旅人のフードがふわりとめくれた。
男の子はその姿に目を奪われた。
十六、七歳の少女だった。
金色の髪が、まるで陽の光を編んだように風に揺れた。
澄んだ青の瞳がまっすぐにこちらを見ていた。
頬には旅の陽射しが焼け、服は擦り切れていたけれど、まるで幼い頃に聞いた物語の女神か、あるいは空から舞い降りた妖精のようだった——
男の子はただ、見つめることしかできなかった。
◇
「さて」
少女は呟き、一歩前に出た。
「その子から手を離してくれると助かるんだけど、どうかな?」
男たちが目を見開いた。
「声でそうかと思ったが……ずいぶんといい女じゃねぇか。それも若い……」
歯の抜けた男が、ねっとりとした目つきで少女の全身を値踏みするように見た。下卑た笑みが、その顔に貼りついていた。
無愛想な男は縦に首をふった。
転んだ男が這い上がり、血走った目でナイフを抜いた。
「俺たちはな、この街でやっとの思いで食い繋いでんだ。女だからって邪魔するならタダじゃおかねぇ!」
少女は小さく息をつき、首を振った。
「食うのに必死なのは分かるよ。でも、人から奪ったお金で食べるご飯は美味しい?」
彼女の声は穏やかだが、青い瞳には鋭い光が宿っていた。
痩せた男はその言葉に激昂し、ナイフを振りかざし、突進してきた。だが、少女はまるで風のように体を傾け、刃をかわす。同時に男の膝裏を蹴った。男は悲鳴を上げて地面に倒れ、ナイフが跳ねて転がった。
「まあ、こうなったら仕方ないか」
彼女は腰に差した剣を構えることもなく、軽く肩を回す。
「テメェ! アニキを!」
歯の抜けた男が怒鳴りながら殴りかかる。少女は足元の木箱を蹴って後ろに転がし、その上に片足をかけて体を翻した。男の脇に素早く回り込み、わずかに沈み込んでから肘を跳ね上げた。
鈍い音と共に男の顎が跳ね、ぐらりと揺れてそのまま崩れ落ちた。
「次は貴方かな?」
少女が静かに言うと、最後の一人が慌てて懐から鎖付きの鉄球を取り出したが、その手は震えていた。首を横に振り、意を決したようにブンと振り回し、少女に叩きつける。
男の子が「危ない!」と叫んだ瞬間、少女は剣の柄に手をかけていた。
キィン!
澄んだ金属音が路地に響き、鉄球がドスンと音を立てて地面に落ちる。鎖がバラバラになり、男は拳に残る鎖を呆然と見た。少女は剣を鞘に納めると、間を置かず一歩踏み込み、男の脇腹を強く蹴った。
男は「ぐはっ」と呻いて膝をつき、そのまま動かなくなった。
戦闘は数瞬で終わり、路地に静寂が戻る。倒れた男たちの呻き声だけが響いていた——。
少女は息を吐く。
「暴力は良くないって言ったのに、聞かないんだから」
そう呟き、彼女は振り返って男の子を見た。
「君、危なかったね」
声をかけられた男の子は、ハッとしたように顔を上げた。
「ご、ごめんなさい……返すよ!」
男の子は慌てて金袋を差し出した。
「ふふ、ありがとう」
少女はその袋を受け取って、目元まで持ち上げて眺めた。
「……さて、これで私は君の恩人なわけだ。恩人であるお姉さんの言うこと、聞いてもらおうかな?」
金色の髪が風に揺れ、少女の唇にイタズラっぽい笑みが浮かぶ。
男の子はただ頷くだけだった。怯えている、というより——ぽかんとしている。まるで、自分の身に何が起こっているのか理解できていないというように。
「私はアルテア。君の名前は?」
「……ミロ」
「ミロ。そうか。いい名前だね」
優しさが、少女の瞳にそっと灯っていた。