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ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第九章


ヴァンドーヴァーはコロナド・ビーチに二週間滞在して、その時間をとても楽しく過ごした。運が良かったので、よく知っている人たちをホテルで見つけることができた。午前中は入り江で水浴びや舟遊びをして、午後はグレイハウンド犬の群れと一緒に馬で出かけ、島の南端で野うさぎ狩りをした。ヴァンドーヴァーの元気は戻り始め、食欲は回復し、神経は安定し、毎晩八時間眠った。とはいうものの、自分が同じ人間だとは思わなかった。別人だと自分に言い聞かせた。年をとって、以前よりも真面目になったのだ、と。


彼はこの間に父親から何通か手紙を受け取り、すぐ返事を書いた。手紙のやりとりを経て、その月の二十五日に二人がヨーロッパに向かって出発することが決まり、その結果、ヴァンドーヴァーは遅くとも十五日までに戻ることになった。ヴァンドーヴァーは浜辺の月明かりのピクニックに行くために、定期船に泊まり込むほど楽しい時間を過ごしていたが、翌日の午後に、二等船でサンフランシスコに向かった。


この帰りの船旅は、ヴァンドーヴァーにとって長い苦難になった。彼はそれまで二等船に乗ったことがなかったので、これほどひどく不快で嫌なものになるとは一度も想像したことがなかった。マザトラン号は過密状態で、安定せずに、絶えず揺れた。料理はまずく、宿泊設備は満足できるものではなく、客層はどうしようもなく悪かった。寒さと霧の天候が船について回った。同じように果てしなく続く白茶けた丘の連なりが、今度は逆方向に霧の下を通り過ぎた。同じようにだらだらと続くホイストの勝負が、喫煙室の質の悪い煙草の刺激的な煙の中で、べたつく使い古しのカードを使って繰り広げられた。出航初日の夕食の時、ヴァンドーヴァーの隣に座り、耳当てのあるコールテンのスカルキャップをいつもかぶっていた小柄なユダヤ人が、傷のある黄色いダイヤモンドを二つ彼に売りつけようとした。


ハートフォード港を出発して日が暮れてから、マザトラン号は悪天候に見舞われた。嵐ではなかった……すぐ目の前の風と海がただ荒れていて、受け入れがたいだけだった。夕食から三十分もすると、ヴァンドーヴァーは気分が悪くなり始めた。彼は長時間、汚らしい喫煙室のつるつるの革のクッションに座って、ライムを吸い、ソーダ水を飲み、カードの勝負に興味を持とうとしていた。少しうとうとして目を覚ますと、ひどい気分で、冷や汗びっしょりで、後頭部に痛みを覚え、不快な吐き気に苦しめられた。ぐらついて突風の吹き荒れるデッキを手探りで進み、船室に降りて床についた。


マザトラン号は乗客数が収容能力を超える予約とってしまったので、船室係は食堂の床やテーブルの上にまで寝床を作らなければならなかった。ヴァンドーヴァーは特等室を確保できなかったので、船尾の共同部屋の寝台で我慢した。


午前二時頃、胃の具合がものすごく悪くなり、心身ともにひどい状態で彼はこの場所で目を覚ました。彼は上段の寝台をとっていたので、長時間、船の揺れに合わせて転がるように揺られながら仰向けに横になり、自分の真上にある船室の天井、顔の上にかろうじてある手の幅ほどの隙間、をぼんやりと見つめていた。屋根は鉄で、分厚くピカピカに白いペンキが塗られ、無数のボルトの頭と巨大なナットが点々としていた。やがて、特に理由もなく、肘をついて立ち上がり、寝台の横から体を乗り出して周囲を見回した。


強烈な匂いのする船の二つのランタンから漏れ出る光が、細長い船室を照らした。狭い通路が二つあり、その両側に数段重ねの寝台が、寝具を敷いただけの、中が丸見えのただの棚にすぎないものが、屋根まで続いていた。女性のいる寝台には、しみだらけの安い薄布が掛けられていた。


船室は外の空気から二階おりたところにあって、寝台はすべて埋まり、唯一の換気はドアを通して行われていた。船底のいやな臭い、手入れされていないランプの悪臭、大勢の呼吸が吐き出す息、暖かい寝具のこもったむっとする臭いで、空気は淀んでいた。


かすかなざわめきが空気を伝った。深い呼吸の音、粗いシーツの中で落ち着きなく体が動く音、無神経な指先が体をかく瞬間的な音、抑えた咳、眠っている子供のむずかり。その間ずっと、どうやら床の真下にあるらしいスクリューのシャフトが、片時もやすまず、ドンドン、ゴロゴロと音を立てた。


ヴァンドーヴァーの真下で二人の男、酒場の主人たちが目を覚まして、葉巻に火をつけ、許可証の問題をめぐって長い議論を始めた。二、三段離れた寝台で、乗船していた福音伝道者の大きな部隊のひとつ、救世軍婦人部の女性ひとりが息を詰まらせて激しく咳き込み始めた。通路の向こうで、耳当てつきのコールテンのスカルキャップをかぶった小柄なユダヤ人が、喉から出る低音と耳障りな高音を交互に繰り返して単調ないびきをかいた。マザトラン号はこれまで以上に上下にも左右にも激しく揺れていた。そして今、この他の二つの動きと合わせて、長く前方につんのめった。こういうことが起きている間に、小柄なユダヤ人が目を覚ましかけた。彼がいびきをやめると、場が急に静かになった。やがて、彼が不安げにじたばた動き回っているのがヴァンドーヴァーにも聞こえた。まだ半分眠った状態で、ぶつぶつと毒づき始めた。「そうだよな、揺れるよな、僕がお前でもそうなるよ、揺れるよ、正解だよ――ここじゃ、なぁ――ああ、続けるがいいさ――揺れてろ、この忌々しいおんぼろ船めが、揺れるがいい」


続く縦揺れ、淀んだ空気、酒場の主人たちの葉巻から出る苦々しい煙、ヴァンドーヴァーはもう我慢できなくなった。胃がひっくり返り、そのたびに吐きそうになっては抑えた。突然、もうこれ以上は我慢できないと腹をくくると、デッキに出ることに決めた。船室で過ごすよりも歩いて夜明かしする方がましだと思ったからだ。紐を結ばずに靴を履き、襟とスカーフは省いて急いで身支度を済ませ、ぼさぼさの髪に帽子をかぶり、オーバーを着込んで、 ブランケットにくるまって、デッキに向かった。階段のところで、その場で吐かずにいられないほどの吐き気に襲われると、ロウワーデッキを駆け出し、頭がくらくらする状態で手すりをつかんだ。


うめきながら鉄の巻き揚げ機にへたり込んだ。弱りきって、震え、目には涙があふれ、頭が破裂しそうな気分だった。何とも惨めだった。


午前二時半頃、寒い底冷えのする風が索具(さくぐ)の間を吹き抜けて、汽船の煙を縮緬(ちりめん)の大きな覆いのように、デッキや水面に投げつけていた。不吉な薄明かりが海と空の間に広がっていた。それのおかげで、黒い空を横切って渦を巻いている霧だか雲の大きな鉛色のしみと、どっぷりつかったり盛り上がったりしながら通り過ぎてゆく、白いたてがみを揺らしながら疾走する黒い馬の大群のような、無数の白い波頭をかろうじて見てとることができた。北東の水平線の低い位置が、長々と青白く光っていて、それを背景に、真っ黒い汽船の船首が絶えず上がったり下がったり、持ち上がったり沈んだりした。陸側のすぐ近くの、裾野に打ち寄せる波が彼にも聞こえるくらい近いところで、海と空の間で漠然と形のわからない塊ではあったが、丘の長い連なりが途切れることなく続いていた。風と、通り過ぎる波の音と、砕ける波のうねりと、索具のうめき声とがすべて混ざり合って、言葉では表せない悲しみが伝わる、長い小さな音で空気を満たした。大気は冷たく湿っていて、水しぶきが氷の弾丸のように飛んでいった。海をおおう物憂げな光は、濡れたデッキやつるつるの鉄の棒に反射して、長いぼやけた線となってその姿を映した。索具のあちこちで揺れているオレンジ色のもやがかかった球体は、船のランタンが揺れる場所を教えてくれた。船尾の彼の真下では、スクリューがふつふつと沸き立つ湯のような渦の中で休みなくうなった。水は永遠にぐるぐる回って、暗闇の中で見えなくなった。すぐそばにあった船速計測器の表示板がときどき小さなベルを鳴らした。


ヴァンドーヴァーはブランケットにくるまって、靴紐を引きずりながら中央デッキに上がった。風はここの方が強かったが、頭をかがめて風に立ち向かい、喫煙室に向かって進んだ。そこに閉じこもってクッションの上で夜明かしすればいいという考えが浮かんだからだ。何にしても階下の船室に戻るよりましだった。


デッキが持ち上がって足場がなくなり、身長の何倍分も前に投げ出されて、階段にぶつかり、落ちるときに親指を骨折した。起き上がるときに、二度目の衝撃が再び彼を投げ倒した。まわりのすべてが、振動するテーブルの上に置かれたガラス器のようにぐらぐら揺れた。それから、彼の足もとで船全体が、これまでどんな波も持ち上げたことがないほど上昇して、柔らかい水の中ではなく、まるで紙のように船の脇腹を突き破る何かの上に再び落下した。耳をろうするほどの衝突音が、風の悲しげなうなり声を切り裂いた。ヴァンドーヴァーは自分のずっと下の方で、急速な一連の衝撃音と、恐ろしい轟音と打撃音を聞いた。それは船の骨組み全体を貫いてマストの先端まで揺らし震わせるほどだった。デッキで四つん這いになり、片手で索留めをつかんで体のバランスをとり、目を見張り、耳をすませ、すべての感覚を研ぎ澄まし、筋肉を緊張させた。機関室の方から、けたたましく鳴り続ける鐘の音が聞こえた。スクリューが止まった。マザトラン号はなすすべもなく波間でのたうった。


ヴァンドーヴァーの最初の衝動は、自分が助かればいいというごく自然な欲望だった。他人のことは少しも考えなかった。乗船者は全員、溺れるかもしれない、だから自分だけが助かればいい。これは原始的な動物的本能であり、知らないうちに一次的大原則に従っただけであり、興奮初期の瞬間では抗えない衝動だった。前方に走り出して、ブリッジの下に山積みになっていた救命具をひったくった。


それを装着しているうちに、乗客たちが客室から、階段から、食堂から、デッキにあふれ始めた。一瞬にしてデッキは人でごった返した。男と女があらゆるところを走り回って、互いに押したり肘鉄を食わせたり、他人の頭越しに鋭い声をはりあげていた。ヴァンドーヴァーの近くで、寝間着姿の女性が中途半端に服を着た男性の腕にしがみつき、何度も何度も「オーガスト」という人を探して叫び続けた。女性は興奮して手をにぎりしめ、男性は時々、低音の震え声で「オーガスト!」と叫んだ。「オーガスト、私たちはこっちにいるぞ!」「ねえ、ガッシー、どこにいるの?」とその女性は泣き叫んだ。「ここよ、ここにいるわ」ようやく返事があった。「私はここよ、大丈夫」女性は安堵の嗚咽をもらして叫んだ。「ガッシーがいたわ、さあ、何があってもみんな一緒にいましょう」


デッキのいたるところで、こういう光景が繰り広げられていた。ほとんどの女性は寝間着か部屋着姿で、髪は乱れて風で頬に吹きつけられ、裸足がずぶ濡れのデッキの上で滑ったりころんだりしていた。男たちはシャツやズボン下姿で、家族の集まりの中心に立って、無言だったり、興奮したり、とても慎重に様子を見守っていた。他の男たちは、救命具を探して走り回ったり、声をからして叫んだり、独り言を言ったり、思ったことをすべて口に出したりしていた。


パニックはなかったが、動揺や混乱や戸惑いはあった。過剰な恐怖や理不尽な恐怖はなかったが、耳も目も役に立たない完全な無防備状態だった。


突然、一人の男が肩と肘で人混みをかき分けて、大股でデッキを通り過ぎた。船長だった。次の瞬間、ヴァンドーヴァーはその人物がブリッジにいるのを見た。帽子をかぶらず、ベストもコートも着ておらず、まさにベッドから飛び起きたままだった。時々、手すりから体を乗り出し、腕の動きをまじえて、大声で命令を出した。乗組員たちは走り回って、船長の指示を遂行し、邪魔な男たちを押しのけ、女子供を転倒させ、誰にも話しかけず、ひたすら自分の仕事に集中した。


しばらくして、デッキをあずかる船員と航海士の一人が乗客の群がりの中に現れた。彼らはとても冷静で、口を開くたびに「危険はありません。皆さん、自分の寝台に戻ってください。デッキから出ていってください、お願いします。危険はありません、皆さん。皆さん、お静かに願います。寝台に戻ってください!」と叫んだ。 船員がヴァンドーヴァーのところまで来て、救命具の革ひもを引っ張って叫んだ。「これを脱いでください! 危険はありません。あなたは他の乗客を動揺させているだけです。さあ、それを脱いで寝台に戻ってください」


ヴァンドーヴァーは相手に従い、ゆっくりと留め金を緩め、まわりを見て、おろおろしたが、それでも救命具を手にしたままだった。


しかし、何よりもすばらしかったのは、アメリカの戦艦の掌帆(しょうはん)長の帽子をかぶり制服を着た大柄な老人の姿だった。彼は興奮した群衆を一瞬にして支配し、群がりから群がりを回って、全員を落ち着かせ、船全体に自信と勇気の気持ちを広げたように見えた。この男はヴァンドーヴァーを感動させた。彼は我が身を守るという最初の利己的な本能に屈したことが恥ずかしくなり始めた。


「オーガスト」と叫んでいるのをヴァンドーヴァーが聞いた女性に、掌帆長が自分の携行瓶を渡そうとしていたちょうどそのとき、マザトラン号は一、二度大きく揺れて、それからゆっくりと左舷に傾き、見る見るうちにどんどん傾いていった。ヴァンドーヴァーは、自分のずっと下の方でまた新たな轟音と砕ける音を聞き、何かの形で積荷が動いているのを知った。船は復元するどころか、どんどん傾き始めた。左舷の海面全体が手すりのところまで盛り上がったように見えた。ヴァンドーヴァーの足もとでは、デッキの傾斜がどんどん急になった。突然、鋭い一撃をくらったように動揺がよみがえった。天窓の真鍮の格子をつかんで叫んだ。「畜生! もうだめだな!」女たちは恐怖にかられて悲鳴を上げた。男たちの叫び声が聞こえた。「気をつけろ! つかまるんだ! そこにつかまれ!」灰色のフランネルのシャツしか着ていない老人が足を滑らせ、倒れて、愚かにもデッキをごろごろ転がった。動作が緩慢で、助かろうという努力をちっともせず、小さな叫び声ひとつあげることなく、凄まじい衝撃音をあげて手すりにぶつかっていきなりとまった。硬い木材にぶつかったその柔らかい衰えた体は、湿った布を束ねたものがびしゃっと当たったような音がした。叫び声があがった。誰もが彼は死んだと思った……ヴァンドーヴァーは男の頭が鉄の尖った角に当たって深く切れたのを見た……彼は突然、軽やかに跳ね起きて、軽業師のような力強さと敏捷さでデッキの斜面をよじのぼった。


船の反対側に大勢が殺到した。急勾配のデッキをがむしゃらによじ登り、天窓を越えて、マストと通風孔の間を抜けた。人々は何にでも、索留めに、船の椅子に、真鍮の手すりに、隣に立っている人に、しがみついた。彼らはもう勇敢な掌帆長の部下たちの制止に耳を貸さなかった。さっきの大きな揺れがみんなを震え上がらせてしまった。何か恐ろしい目に見えない霧が立ちこめるように、大惨事の予感が周囲に広がり始めた。「何が起こったんだ? われわれはどうなるんだろう?」


ヴァンドーヴァーが右舷の手すりにしがみつき、盛んに目をぎょろぎょろさせて、もう一度自分を制御しようとしていると、若い男がひとり、食堂のウェイターが人ごみの中から彼の方に駆け寄って、手を差し出し「もうだめだ!」と叫んだ。


ヴァンドーヴァーは差し出された手を握って、理由もわからないまま熱く握手を交わした。二人は互いの目をまっすぐ見つめて、ぎゅっと手を握りしめた。するとウェイターは背を向けて、ひざまずいて静かにひとりで祈り始めた。


ヴァンドーヴァーは他の大勢の人たちが祈っているのを見かけた。福音伝道者の一団のまわりに集まったたくさんの人たちが、賛美歌を歌おうとしていた。時折、彼らの歌声が聞こえた。すべて狂った音程で歌っていたので、不協和音の寄せ集めだった。


同時に、ヴァンドーヴァーは、耳当てのあるコールテンの帽子をかぶった小柄なユダヤ人を見つけた。男はデッキにひれ伏し、小さな黒い鞄を胸に抱きかかえ、片時も休まず叫んだ。「神よ、ご慈悲を! 神よ、ご慈悲を!」


この光景はヴァンドーヴァーに反感を抱かせ、落ち着かせるのに大きく貢献した。しばらくすると、彼は再び自分を取り戻し、冷静沈着になり、他の人たちの前で愚か者のように振る舞うのではなく、できることなら人助けをすることに決めた。


彼の近くで救世軍の娘がひざまずいて、帆布に包まれた巨大な束を紐でしばろうとしていた。「どれ」ヴァンドーヴァーがその女性に近づいて叫んだ。「手伝いましょう。僕がこれを結んであげましょう……あなたはこれをおつけなさい」彼は女性の指の間から濡れた硬いロープを取って、救命具を差し出したが、彼女はそれを拒んだ。


「いりません」彼女は熱弁を振るった。「どうせ私は救われるのです。溺れることはありません。イエスさまが私を見守っていますから。ああ!」突然、熱い思いを爆発させて叫んだ。「イエスさまは私を救ってくださいます。自分が救われることを私は知っているのです。それを感じます。私はここでそれを感じるのです」着ていた男ものの赤いジャージの胸の部分に彼女は手のひらを当てた。


「ほお、僕もそれだけの自信が持てたらいいんですけどね」醜い青の縁なし帽をかぶった、平凡で小柄な女性を心から羨ましく思いながら、ヴァンドーヴァーは答えた。


彼女はまるで霊感に打たれたかのように顔を輝かせていた。「ただ、信じること。それだけです」女性は彼に言った。「あなただって今からでも遅くはありません。ああ」女性は笑顔で続けた。「こういう時に、それがどういうものなのか、あなたにはわからないでしょ! 慰めであり、支えなのです! ああ、見て、見て!」彼女は話をやめて立ち上がりながら叫んだ。「あの人、飛び降りようとしているわ!」


それは掌帆長の部下だった。その冷静さと勇気とで乗客全員を力づけ、ヴァンドーヴァーを感動させた、あの英雄だった。何か奇妙な反応が彼を襲ったようだった。突然、手すりに駆け寄った。右舷の手すりは水面から高い位置にあり、彼はしばらくその上に立ち、それから大声をあげて舷側を飛び越えた。彼の愚かさは彼の勇気と同じように伝染した。さらに四人が彼に続き、三人が同時に飛び越え、四人目が少し遅れて手すりの外側に一瞬ぶら下がり、足から最初に落ち、大きなしぶきをあげて姿を消した。それは突然群衆の上に降りた大きな静寂の中で響いた。


何が起こったかをみんなが目撃した。恐怖と不安の戦慄が冷たい息のように全員を襲った。彼らは沈黙し、言葉を失い、死の気配を間近に感じていた。


突然、ブリッジで黄色の長い閃光が、暗闇で一瞬一筋の線を描いて銃声がした。一分後に、銃は再び発射され、それに代わって、しわがれた声が助けを求めるように、マザトラン号の汽笛が轟き始めた。こういう音に混じって、デッキでの新たな騒ぎ、叫び声、悲鳴、大勢の駆け出す足音が聞こえた。小さな子供たちは母親の膝にしがみついて金切り声をあげて「ああ、ママ、ああ、ママ!」と単調な声で泣き叫んだり、母親の陰にまわって恐ろしさのあまり目をぎょろぎょろさせたりしていた。


しかし、子供たちの多くが、年配の乗客でさえもが、完全に沈黙し、恐怖と動揺で呆然とした。彼らの目はぼんやりしたり腫れたりして、ゆっくりと周囲を見回してはいるが、手足を動かそうというところまではなかなかいかなかった。


その間もマザトラン号は前方へ沈んでいき、すでに水しぶきがデッキの上を飛び始めていた。少しずつ恐怖が増大した。人々はデッキに身を投げ出して、また立ち上がり、両腕を天にあげて大声で祈り、また同じことを何度も何度も叫んでいた。救世軍の信徒たちはもう一度賛美歌を歌おうとしたが、彼らの声は騒ぎや、汽笛の轟音、分時砲の号砲、索具が引っ張られて切れる音、どんどん近くに迫ってくる波の音にかき消された。デッキにうつ伏せになって両腕で黒い鞄を抱えたまま、コールテンの帽子をかぶった小柄なユダヤ人が、何かの発作を起こして、白目をむいて、歯ぎしりしていた。ヴァンドーヴァーはうんざりして彼から目をそむけた。それから周囲と頭上を見て、長く息を吸って、声に出して自分に向けて言った。


「どうやらこれで終わりのようだな……やれやれ!」


同時にヴァンドーヴァーは、水がボイラーに達したのを知った。 シューシューという音が聞こえた。耳が聞こえなくなるほどの、びっくりする音だった。湯気を出す白い大波がデッキに押し寄せた。


それはもうマザトラン号ではなかった。もはや木と鉄の物体ではなく、彼の足もとで死にかけている、何かの奇妙な巨大生物だった。最後の苦しみにどっぷりつかってもだえている何かの巨大な(けだもの)だった。腹は下から襲ってきた隠れた敵に裂かれ、内臓は引きちぎられ、命の息吹は湯気を出す大きなあえぎとなってそこから吹き出していた。突然、うなり声がやんだ。巨体はさらに下へと沈んでいた。敵はまさにその重要部分の中にいた。大きなしわがれた轟音は、次第に小さくなって長い臨終の喘鳴(ぜんめい)、それから喉のかすれる音になって、ぷっつりやんだ。獣は死んだ……マザトラン号は難破したのだ。


ほぼ同時に彼はブリッジから命令が二度発せられるのを耳にした。そこで船長と航海士の人影が、蒸気と煙と霧が立ち込める中を動き回っているのが見えた。すぐに掌帆長の笛の甲高い音が続いた。 航海士の一人である一等機関士と、六名ほどの乗組員が群衆の中を駆け抜けてやって来た。「ボートだ! ボートを降ろせ!」という大きな叫び声が上がった。


群衆はバラバラになって、船のあちらこちらを駆け回り、ボートや救命筏のそばで再び小さくまとまった。ヴァンドーヴァーは一等機関士の後を追って、船首のボートのひとつに向かって走った。


「こっちですよ!」彼は救世軍信徒の小さな娘に向かって叫んだ。重たい粗布の包みを持つ彼女を助けようといったん立ちどまった。「さあ! ボートを降ろすところですから」


彼女は彼の後に続こうと立ち上がった。その同じ瞬間に、この事故が何らかの形で影響して緩んだ、船首のマストの帆桁(ほげた)がデッキを横切った。ヴァンドーヴァーはすでにその軌道から外れていたが、帆桁はその若い女性の背中を直撃した。彼女はどさっとデッキに倒れた。それから体がゆっくりまっすぐに伸びて、かたくこわばった。目はすばやくぱちぱちして、口から白い泡がゆっくりぼわっと出てきた。ヴァンドーヴァーは駆け寄って持ち上げたが、背骨が折れていた。すでに死んでいた。立ち上がって心の中で叫んだ。「あれほど自信たっぷりだったのに……自分が救われることを知っていたのに」それから、また急に黙り込んで、不思議そうに遺体を見つめ、不安になり、とても慎重になった。


ヴァンドーヴァーがやっとのことで救命ボートにたどり着くと、そこには人が大勢集まっていた。ボートにはすでに三人乗っていた。ボートを(あずか)る一等機関士と三人の乗組員が、つり綱のそばに立っておろす準備をしていた。マザトラン号のデッキのすぐ下に、船員が二人立って、「女と子供は先に!」と叫び続けながら群衆を整理していた。女性が子供たちを先に行かせると、それを船員がボートに乗せた。金切り声を上げている子もいれば、気絶したかのように黙ってぼおっとしている子もいた。それから手を貸して女性が乗せられた。ヴァンドーヴァーを含む男たちはその後よじ登った。小型のクレーン(ダビット)が外に向けられて、ボートは船の側面に吊るされた。


ヴァンドーヴァーは外と自分の下を見おろして、無意識のうちに船のデッキに戻ろうと動いた。彼のはるか下で、のたうち回っている緑色の水の山々が、それも巨大で無慈悲で太刀打ちできないものが、何千と押し寄せ、船の側面に恐ろしい力で当たって砕け散った、少なくともそう見えた。ボートを水面におろそうとするなど狂気の沙汰としか思えなかった。たとえ沈没しかけている難破船でもこの危険よりは安全だろう。ヴァンドーヴァーは恐怖に震え、またもや冷静さと自制心を完全に失っていた。


船首と船尾に立っている船員が、少しずつロープを繰り出すと、巨大な黒い船体は、彼らの頭上でどんどん高さを増していき、彼らの目には救命ボートが、どんどん小さく、どんどん脆弱に、どんどん哀れになり始めた。


ボートはいきなりバシャンと水面にぶつかって、一瞬のうちにまた宙に放り投げられ、波頭にのって持ち上がり、運ばれて、船に激突した。そっち側のオールはすべて折れた。恐ろしい瞬間だった。小さなボートはたちまち制御不能になり、怯えた馬のように波間を跳びはねてはどっぷりつかり、盛り上がる水面と汽船の船体との間で大きな音をあげて何度もぶつかった。ヴァンドーヴァーはすべてが終わったと覚悟し、ボートが沈む前に飛び込む準備をしようと席を立ちかけた。


絶叫と混乱がしばらく続いて、一等機関士と乗組員が横から体を乗り出し、折れたオールの残骸と長い鈎竿とで船の衝突をかわした。折れたオールと取り替えるために、オールが何本か反対側に送られた。二十のもの手がオールを漕いで、ボートはようやく危険から救い出された。


救命ボートは三十五人乗りだったが、四十人以上乗り込んでいた。荒れ狂う海でボートが沈まないようにするには、慎重さと注意力を総動員する必要があった。船員と、乗客の中の二人がオールを漕ぎ、一等機関士は船尾の操舵オールのところに立って指揮を執った。彼は防水服を着て、脇の下に救命具を縛り付けていた。帽子はなく、突風が吹くたびに、びしょ濡れの髪と顎鬚が顔に当たった。


ボートがちょうど難破船から離れていくときに、ヴァンドーヴァーたちは、耳当てのあるコールテンの帽子をかぶった小柄なユダヤ人が、汽船の手すりの上に立って支柱にしがみついているのを見た。彼は自分が見捨てられたと信じ込んで、両手を広げて彼らに向かって絶叫した。機関士は振り返って彼を見たものの、首を振った。「漕ぎ方始め!」彼は男たちに命じた。「もう乗る場所はないんだ」


ユダヤ人は鞄を放り投げて飛び降りた。一瞬姿を消して、それから突然、波頭にのって、彼らのすぐ近くまで来て、あえぎ、両手をばたばたさせた。口から水が流れた。コールテンの帽子は濡れててかてかになり、ひんまがってねじれ、耳当てが日除けのように目に覆いかぶさった。次の瞬間には、オールの水かきのひとつをつかんでいた。みんなが見守る中で「引きあげよう!」と叫び声があがった。しかし機関士ははねつけた。


「手遅れなんだ!」彼はユダヤ人とボートの乗員に向かって叫んだ。「あとひとりでも入れたら沈んでしまう。そこから離れろ!」


「でも、彼を溺れさせるわけにはいかない」ヴァンドーヴァーと近くに座っていた他の数名が叫んだ。「ねえ、とにかく乗せましょう。危険なのは仕方がない」


「死ぬほど危険なんだぞ!」機関士は怒鳴った。「いいですか、みなさん!」 彼はヴァンドーヴァーたちに向かって叫んだ。「私がここの指揮官で、みなさん全員の命の責任を負ってるんです。これは彼の命をとるか我々の命をとるかの問題なんです。一人の命か四十人の命かですよ。あとひとり乗せたら我々は沈む。そこをどくんだ!」


「そうだ、そうだ」数名が叫んだ。「もう手遅れなんだ! 場所がない!」


しかしそれでも抗議する者はいた。「それじゃひどいすぎる。見殺しにしないで、乗せてあげましょう」彼らは救命具と折れたオールを彼に投げた。しかしユダヤ人は見向きもせず、耳も貸さず、オールの水かきにしがみついて、あえぎ、ぼおっとし、目を大きく開いて見つめていた。


「そいつを振りはらえ!」機関士が命じた。オールを持つ船員は急遽オールを引いてひねったが、ユダヤ人はそれでもしがみついたまま、無言で荒い息をしていた。ヴァンドーヴァーは恐ろしいほど定員オーバーのボートをちらっと見て、そうするしかないとわかり、落ち着いて、事の推移を見守った。船員はそれでもユダヤ人の手からオールを引き離そうとしたが、ユダヤ人はしがみついて、息を切らし、疲労もほぼ限界まできていた。ボートにいてもその息遣いは聞こえた。「ああ、やめてくれ!」男は目をぎょろぎょろさせてあえいだ。


「そのオールを外して海に投げちまえ」機関士は叫んだ。


「やめたほうがいいです」船員は答えた。「他のオールは全部壊れていますから」ユダヤ人はボートの進行を妨げていた。一瞬でも隙があれば、ボートは横倒しになって海に転覆する恐れがあった。


「畜生、どきやがれ!」機関士は自分でオールをひねったりよじったりしながら叫んだ。「どけ、さもないと撃つぞ!」


しかし、耳を貸そうとしない、ぼんくらな、このユダヤ人は、ひと握りずつオール伝いに体を引き寄せて、たちまちボートの縁をつかんだ。ボートはその瞬間傾いた。大きな叫び声があがった。「そいつを押しのけろ! 水が入ってきてるぞ! そいつを押し出すんだ!」すると女性の一人が航海士に叫んだ。「うちの娘たちを溺れさせないでください! あの人を押し出して! うちの小さな娘たちを助けてください! あの人が溺れればいいんだわ!」


一瞬にして表に出たのは、彼ら全員の中の動物性、自分の命と幼子の命を守るために戦う獣の原始的本能、だった。


頭に血がのぼった機関士は、折れたオールの残骸を急いでつかみ、ボートの縁を手が白くなるほどつかんで離さないユダヤ人の手を叩いて叫んだ。「あっち行け! 行くんだ!」しかし、ユダヤ人は片手を緩めるとすぐに、もう片方の手でまたつかんだ。叫び声こそ上げなかったが、ボートの縁を行き来するときの顔は真っ白で苦しみにゆがんだ。やっとのことでボートから叩き出されても、またオールをつかんだ。するとオールは引き抜かれた。機関士は近くの水が赤くなるまで彼の頭や腕や手をめった打ちにした。小柄なユダヤ人は猫のようにオールの端にしがみついて、もだえたり、うなり声をあげながら、口は開いたまま、じっと見すえていた。手がいかれると、腕でオールに抱きつこうとした。波間にずり落ち、体が二回転して、それから沈んだ。頭は後ろに投げ出され、目は見開いたまま、口から銀色の鎖のように泡が漏れ出た。


「漕ぎ方始め!」機関士は言った。


「ああ、神様!」 ヴァンドーヴァーは叫ぶと、顔をそむけて船べりから嘔吐した。


しばらくしてから、船首にいた人が機関士に声をかけて、どうして岸に向かっていないのかと尋ねた。機関士は答えなかったが、ヴァンドーヴァーは、こういう悪天候で砕波(さいは)を進もうとするのは危険すぎるし、風が弱まるか他の船に拾われるまで、ボートの舳先(へさき)を海に向けたまま浮かせて見通しのいいところにいなければならないことを何となく理解していた。


まだ真っ暗だった。小さなボートから夜を見ると、海も空も巨大で恐ろしく見えた。大波が前方の暗闇から現れ、ボートに押し寄せた。大きく、ふくれあがり、静かで、その波頭は時々シューと音を立てて砕け、冷たい白い泡を乱入させた。そのうちのひとつが近づくと、ボートはまるで止まることを知らないかのように波に乗り上げ、一瞬そのてっぺんでぶら下がって、その後に続く黒い深淵に雪崩落ち、ものすごく冷たいしぶきを空高く舞い上げた。風は一向に吹きやまず、三時頃、突然雨が降り始めた。


ヴァンドーヴァー、機関士、船員五人全員と乗客のうちの二人は服を着ていたが、残りの乗客は裸も同然だった。あっちにもこっちにも、寝台から毛布を持ち出した者がいて、その中の一、二名はズボンをはいていたが、残りはほとんどシャツと下着だけだった。ボートには女性が十八人と小さな女の子が五人乗っていて、小さな女の子たちはちゃんと面倒を見てもらえた。二人はヴァンドーヴァーの旅行用の掛け布に包まれ、男性の二人づれが自分たちのコートを三人目にかけてあげた。しかし、体を包むものは女性にまわすほどの余裕はなく、女性の大多数は寝間着かベッドガウンで体を覆われただけだった。


ひどい寒さだった。雨は降りやまず、一向に衰えない突風が吹きつけ、肌を刺し、切りつけた。ボートが縦に揺れるたびに、冷たい弾丸のようなしぶきが宙を飛び、風がそれをとらえて、ボートいっぱいに浴びせかけた。時々、巨大な波が彼らのすぐそばで砕け散った。すると、つらい凍りつくほどの大水が豪雨となって彼らに降り注ぎ、肌にひび割れを起こす塩分を残して去った。女性は他よりも安全な場所とされていた中央の船底に集められた。そこに溜まった泥水で汚れ、長い髪は乱れて、みぞれがしたたり落ち、濡れた頬や喉に張りついていた。体は薄いびしょ濡れの掛け物越しに、寒さで染まったピンク色を見せ、手足はずっと休まず震えっぱなしで、言葉にならないほどのみすぼらしい惨めな一団と化していた。足もとにいた女性の一人が、体を包むものが下着一枚だったことにヴァンドーヴァーは特に気がついた。彼女は全身ずぶ濡れで、素足は冷え切って青白く、頭を後ろに投げ出し、目を閉じていた。異常な突風が、御者の細長い鞭のように、雨を吹き飛ばして体にしぶきを打ちつけるとき以外、口を開かなかった。そして息をするたびに、うめき声をあげ、歯と歯の間から息を吸い込んで、小さな口笛のような音を出してあえぎ、あまりにも弱り、あまりにも疲れ果て、意識が朦朧としていて、全然自分の身を守ろうとしなかった。


ヴァンドーヴァーは何もできなかった。他人が服を着る助けになればと、自分はほとんど裸になっていた。もう何もできることがなく、苦しみは続かざるを得なかった。どうすれば人間はこのような重圧に耐えて生きていけるのだろう、と彼は考え始めた。


しかし、ヴァンドーヴァー自身がひどく傷ついていたので、他人の苦しみにまであまり考えが及ばなかった。このボート全体と分かち合う苦悶の他に、折れた親指の痛みが、ネズミのように絶えず苦しめていた。時々だるそうにあたりを見まわし、暗い空や荒れ狂っている海や、縦にも横にも揺れている救命ボートで肩を寄せ合う人たちを見た。


そこには絵のように美しいものはもちろん、英雄的なものも何もなかった。彼が見たことがある救命ボートの救助活動のどの写真とも似ていなくて、これまでに想像したことがあるどれとも違っていた。すべてがみすぼらしく惨めだった。半裸の女性たちの姿は、汚く、ずぶ濡れで、だらしがなく、同情をさそうどころか見苦しかった。


ようやく夜が明けて、荒れ狂う緑の大波と風に任せの漂流物の世界を白で覆った。ボートが高波に持ち上げられたときにしか見られない三マイルほど離れたところで、同じような白茶けた丘の連なりが、霧の下を少しずつ南に動き、その裾野は打ち寄せる波の白い線に侵された。ボートの航跡からそれほど遠くない後方で、マザトラン号の船尾が白い泡の輪の中から持ち上がっていた。波がまるで船が長い間そこにあったかのように当たって砕け、フランジを空にねじ込むように回しているスクリューは、昔から船体にはりついていた巨大ヒトデのようだった。


時々、他のボートの一隻が、彼らと海岸の間に見えた。緑と灰色のぼんやりとした大海原に一瞬黒い点が見えた。


会話はなかった。男たちは代わりばんこでオールを漕ぐか自分の帽子や手で水をかき出し、ほとんど言葉を交わさなかった。口から出るのは、時々発せられる女子供のうめき声だけだった。食べるものは何もなかった。二本のウィスキーの瓶はとっくに空だった。雨は休まず海に降り注ぎ、いつまでもさざ波の音はやまなかった。


ヴァンドーヴァーはボートの縁にもたれかかり、腕に頭を埋めていたが、突然体を起こして、隣に座っていた男に尋ねた。


「昨夜のは何だったんでしょう? 事故の原因は何だったんですかね?」


相手はだるそうに首を振って、また顔をそむけた。すると、機関士が答えた。


「適切な蒸気圧を維持するのに十分な石炭を運べなかったんで、流されて岩礁にはまったんだ。いつかこうなるって前に一度言ったんだがな」


一時間くらいしてから、ヴァンドーヴァーは寒さと水濡れと親指の痛みにもかかわらず眠りに落ちた。うとうとしては目を覚まし、またうとうとするのを午前中いっぱい繰り返した。正午頃、ボートが一段と激しく揺れて、複数の声があがり、他の乗客まで騒いだので目が覚めた。


雨はまだ降っていた。ボートはもはや船首で波を切っているのではなく、横向きに沖に漕がされていた。船員が巻いたロープを持って船首に立っていた。すぐ近く、波のうねりの向こうに見えたのは、ほとんど止まっている水先案内船の揺れている帆だった。帆のひとつに巨大な数字の六が描かれていた。


ヴァンドーヴァーはそれから一昼夜、温かい毛布にくるまって眠った。翌朝、彼は非現実感と、どこかで一日を落っことした不思議な感覚をともなって目を覚ました。デッキの間の風通しの悪い小さな寝台に横になって、水先案内船の揺れを体の下に感じながら、てっきり自分はマザトラン号にいるものと思い込んで、包帯が巻かれた親指に痛みを感じ、こうなった経緯に思いを巡らせた。それから、デッキでの転落、汽船の難破、船内の動揺、分時砲のように撃たれたライフルの銃声、大きな洗濯場の匂いのする蒸気の雲、耳当てのついたコールテンの帽子をかぶった小柄なユダヤ人が溺れたこと、などを思い出した。体が震え、また一時的に具合が悪くなったので、もうあの光景を忘れることはないだろうと独り言を言った。


食事をとれる乗客は、船室でいくらでも船長と四人の水先案内人と一緒に朝食をとることができた。ここで彼らは、今後自分たちにどういう措置がとられるかを知らされた。このスクーナー船は二週間は入港しないので、その間ずっと漂流者を船内に留めておくわけにはいかなかった。このとき水先案内人たちは付近を巡航して、いつ現れてもおかしくない二隻のケープ岬をまわる船を探していた。そのうちの最初の一隻に遭遇したら、一行を移乗させる決定が下された。


彼らが救助されてから一時間後に、風が強くなり始めた。二日目の正午までに、嵐になりかけた。マザトラン号の残りのボートやいかだについては、吉報を願うことしかできなかった。難破の手がかりはこれ以上、このスクーナー船では発見されなかった。


漂流者がこの小さなスクーナー船をうめつくしてあふれかえっていたので、操縦の妨げになり、あらゆるところで邪魔になった。水先案内人は無作法に人をかき分けて動きまわった。夕食の後、仲間のひとりとマザトラン号の船員との間で壊れたパイプを巡る争いを防ぐために、ひとりが仲裁に入らなければならなかった。マザトラン号の女性たちはずっと寝台にこもって、熱い毛布にくるまり、湯気の立つウイスキーパンチをふるまわれた。しかし午後、ヴァンドーヴァーはそのうちの二人が部屋の陰で髪を乾かそうとしているのを見かけた。 うち一人は、救命ボートで寝間着を着ていたのが特に目についた女性だった。彼女が今着ている服はどこから出て来たのだろうと彼はぼんやり考えた。


翌日の午後三時頃、ヴァンドーヴァーは船尾近くのデッキに座って、タールのついたロープで靴をしっかり結んだ。ずっと引きずりっぱなしだった靴(ひも)はとっくに切れて引き抜かれていた。その頃までに風は北東から嵐のように吹いていた。スクーナー船に荒天用の小縦帆(トライスル)が張られた。船長がそれを「親指が絞り綱になってる三つ折りのミトン」と呼ぶのが聞こえた。この船長はいったん舵を握ったが、しばらくすると、防水服とピージャケットを着た若い男を呼び寄せ、彼に操舵を任せた。ヴァンドーヴァーはずっと、若者が舵を右や左へ回すのや、目が双眼鏡と地平線を交互に見るのを見ていた。


夜十時半頃、マストにあがっていた見張り番が「煙だぞ……おお!」と叫んで大音量の笛を鳴らした。船長は船尾に走り、巨大なカルシウムの照明に火をつけ、主帆(メインセイル)の大きな数字を照らせるようにそれをかかげた。突然、風向計から四分の一マイルほど沖合で、二発のロケットが夜空に黄色の長い軌跡を残した。ケープ岬をまわる船だった。そして、ヴァンドーヴァーは相手の灯火を確認した。二つの明るい点が夜行性の海の怪物の目のように、暗闇を移動していた。数分後、船はブリッジに青い光を見せた。水先案内人を求めたのだ。


スクーナー船が近づいて横付けされると、暗闇に遠洋の不定期貨物船の見上げるほどの巨体がぼんやり見え始めた。漂流者の移乗に混乱はほとんどなかった。そのほとんどは、直近の暴風雨のショックのせいでまだ麻痺しているようだった。彼らは素直に水先案内人の(はしけ)船に押し込まれるままに身を任せ、足もとで揺れ動いている波に再び降ろされる経験を耐えた。怯えた羊のように黙って、揺れる艀船の中で順番に立ち上がり、腕の下のロープの縄目に引っかからないように救命具を肩に装着した。海と空の間で気持ちの悪い上昇気流が渦巻いた。その後、アッパーデッキから差し伸べられた、たくさんの歓迎の手の心温まる握手に迎えられた。午前三時までに移乗は完了した。


ヴァンドーヴァーは水先案内人と残りの船員と一緒にこのケープ岬をまわってきた船に乗り込み、翌日遅くサンフランシスコに到着した。その日はたまたま日曜日だった。


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