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ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第五章


ヴァンドーヴァーは、午後はサクラメント通りのアトリエで作業をしたが、午前中はいつもデザイン学校の写生のクラスで勉強していた。


場所はマーケット通りにかかるカリフォルニア通りで、ひとつの巨大な部屋が大きな木の仕切りで区切られていくつかの教室にされ、そこで静止画のクラスが、にんじん、ぶどう、埃っぽい茶色の石の水差しを描いて活動していた。


周囲にはたくさんの鋳型があった。戦う剣闘士、円盤を投げる人、ミロのビーナス、そして仮面、胴体、パルテノン神殿の馬の頭などのもっと小さな作品が何百もあった。潰れた絵の具のチューブや割れた木炭の破片が床に散乱し、椅子や棚が散らかっていた。空気には、テレビン油と定着剤の強い匂いが、アマニ油と酸っぱくて古いフランスパンのもっと強烈な匂いと混ざっていた。


毎日午後になると、三十人ほどの肖像画のクラスが、ドア近くの大きめに区切られた教室のひとつに集まった。街の有名人の何人かがこのクラスのためにポーズをとってくれた。一度、白髪で、帽子をかぶらない、ベジタリアンのエルフィック神父が、曲がった杖を持ち、白い服を着て、頭部を描いてもらおうと座ったことがあった。


ヴァンドーヴァーは、おそらくこの学校で最も有望な生徒だった。彼の作風はスケッチっぽくて、入念で、力強さと決断力に満ちていた。彼は豪放な線と、大胆な見た目と、光と影とをふんだんに取り入れた作品を描いた。彼の色使いは巧みで、筆が走るうちに紫や赤、そして暗褐色や混ぜものなしの黄褐色ばりの見事な緑になった。


彼は構図について何も知らなかったが、それを正しく評価する賢さがあった。彼の完成した絵は、砂漠、海岸、荒野などの風景の広大な範囲を網羅していて、彼はその中に人物や動物の孤独な姿をとても効果的な形で配置した……たとえば、長大な海岸線と前景に配置された船乗りの溺死体とか、広大なサハラ砂漠のど真ん中で水を飲んでいるライオンである。あるいは彼が『敗残兵』と呼んだ絵は、何もない平原をさまよう瀕死の軍馬で、鞍は腹の下側に回り、からまったたてがみと尾はバリバリだった。


彼は少し前に素晴らしい絵のアイデアを思いついていた。これは彼の最初の傑作で、彼がパリに着けばサロンを飾る絵になるはずだった。喉の渇きと負傷とで瀕死のイギリスの騎兵と彼の馬が、スーダンの砂漠で絶命しようとしていた。ライオンは砂の尾根の少し離れた場所で彼らに追いついてもいいはずなのに、腹ばいでかがみ、尻尾をぴんと伸ばし、下顎を垂らしていた。古いイギリスの『家庭画集』のメロドラマは、未だにヴァンドーヴァーに影響していた。彼はこの絵の構想を練るのに夢中になり、これを『最後の敵』と名付けることに決めた。彼が出したかった効果は孤独と灼熱だった。兵士に関しては、あきらめて冷静に死と向き合っている姿にするか、最後まで戦う覚悟を決めて役に立たないライフルの銃身をつかんでいる姿にするか、をまだ決めかねていた。


ヴァンドーヴァーは絵の具で描く絵もデッサンも大好きだった。絵が「うまくいっている」とき、そして自分がいい仕事をしていると確信したときは、完全に満足だった。彼が思ったよりもうまくいったことはよくあったが、全力を出し切れたことは一度もなかった。


しかし、あまり一生懸命に取り組むと飽きてしまい、作業が楽しくなくなるとすぐにやめてしまった。そういうときは、その気にならないと駄目だ、インスピレーションがわくのを待つべきだ、と自分に言い聞かせたが、そんな言い訳がどれほど馬鹿げているか、どれほど間違っているか、どれほど有害かをよく知っていた。


ヴァンドーヴァーの性格のあの例の小さな弱点、自分を甘やかす態度は、彼を、自分が楽しくなければならない、と考える人間にしてしまった。絵を描くことが楽しければ、それに越したことはなかったが、もし楽しくなければ、彼は楽しくなるような他のことを見つけただろう。


次の月曜日、写生のクラスを受講中に、ヴァンドーヴァーは前日の日曜日の朝ターナー・レイヴィスと聖餐式に行ったときのことを考えていた、というかむしろ考えないようにしていた。彼はこれをずっと考えないようにしてきたのだ。もしこれが頭に浮かぶことを許したら、それが自分を苦しめ悩ませることを知っていたからだ。やがて、この敵を避けようと努力すること自体が嫌になった彼は、これをあきらめて、この問題と正面から向き合うことにした。


ああ、確かに、彼がそこでしでかしたことは醜態であり、実にひどいことだった。内陣でひざまずいたときは、まだ酔っていたに違いない。ヴァンドーヴァーはこのことを考えて身震いした。これ以上のひどい冒涜は犯しようがない、いつかきっとこのつけを払わされるときが来る、と自分を戒めた。しかし、突然ここで自分を抑えて、それ以上進もうとしなかった。この調子でこういう事を悩み続けたら、心の平穏は失われてしまうだろう。彼は自分が犯した罪の大きさを認識して、それを悔い改めようとした。おそらくそれはこれまでに彼がやった中でも最悪の行為であり、今、彼はどん底にいた。二度とこういうことをしないように気をつけるつもりだった。今後は行いを改めるつもりだった。


しかし、そうはならなかった。気づかぬうちに、ヴァンドーヴァーは背後のドアを閉めていた。もう彼がそれまでの彼とまったく同じということはないだろう。あの日曜日の朝、ターナー・レイヴィスとの約束を守ったことが、彼の破滅と堕落を進める長い一歩になった。


ヴァンドーヴァーはまるで肩の荷でも下ろすように体を揺さぶった。写生のクラスのモデルはちょうどその週のポーズをとらされたばかりだった。そして他の人たちは作業を始めていた。その週のモデルは女性だった。この事実はヴァンドーヴァーを喜ばせた。彼は裸の女性を描くのが、この学校の誰よりも、おそらくはこの街の誰よりも上手だった。肖像画や、顔の微妙な知的特徴をとらえる力は、時として彼の力が及ばないことがあったが、肉体や、特定の姿勢の動勢や雰囲気を感じ取る力は称賛に値した。


ヴァンドーヴァーは作業に取り掛かった。木炭の棒を持ってモデルに向けて腕をいっぱいに伸ばし、測定して五頭身とし、同じ数のスペースで紙を区切った。この後、鏡を使って、三十分近くこのポーズの全体的な特徴を研究した。それから、木炭を数回動かして、伸び伸びとしていて正確な、大きめの作図線を描いた。実に見事な線だった。この線の上に、もう少し詳細な簡単なデッサンを行うと、まだ角張っていて大雑把だったが、全体が図取りされた。それから木炭に、細く薄くエッジをつけて、注意深く完成度の高い輪郭線を描き始めた。


一時間が経つまでに、最初の大まかなデッサンが完成した。それは驚くほど出来がよく、のびのびしていて、しっかりしていた。何よりも、アマチュアと本物の芸術家の違いを生む、形を感じさせるものがあった。


この頃になると、ヴァンドーヴァーの関心は薄れ始めた。モデルの左肩の関節を四回描いて描き直していた。女が立って、彼に対し横向きになり、片手を腰に当てると、三角筋が一気に収縮して奥行きが出た。人体を解剖学的に描くのは少し難しかった。ヴァンドーヴァーは出来の悪さに苛立ちを覚えた……こういう細心の注意とたゆまぬ努力に彼は少し疲れた……部屋は暑過ぎた上に締め切っていて、モデルが暖を取るために台座近くに置かれたガスストーブが、不快な真鍮の臭いを漏らして部屋中に充満させた。ヴァンドーヴァーは、その前の週に機械工図書館で『美術』という古い装丁の本を何冊か調べていて、それらがとても興味深いと気づいたことを思い出した。閲覧室のそれらがあった場所近くに、居心地のいい片隅と大きくて快適な椅子があって、窓から時折通りを見ることができた。そこは静かな場所だったので、午前中はずっと邪魔されることはなさそうだった。この考えがとても気に入ったので、彼は描いたものと描く道具を片付けて外出した。


一時間、『美術』を楽しむことに集中した。これはすべて自分の仕事の範疇あり、時間は無駄にされていない、と自分に言い訳して、怠惰を弁解した。ジェロームの絵の複製が『最後の敵』の参考になるヒントをくれたので、彼はとても注意深く書き留めた。


ヴァンドーヴァーは、糊のきいたスカートが擦れる音と掛けられた声にさえぎられた。


「こんにちは、ヴァン!」


急いで顔を上げると、二十歳くらいの若い女の子が見えた。大きなジゴ袖の、アストラカン織を模した黒のぴったりしたボレロのジャケットを着て、縞模様のシルクのスカートをはき、とても幅広の帽子を片側に傾けてかぶっていた。脱色してから荒れてパサパサになったが、彼女の髪は本物のブロンドで、少しゆるいカールが額のかなり低い位置にあった。信じられないほどかわいらしかった。ヴァンドーヴァーは喜んだ。


「アイダじゃないか!」ヴァンドーヴァーは手を握りながら叫んだ。「ここで会えるなんてうれしいな。座らないか?」そしてアイダに向かって椅子を押し出した。


しかしアイダ・ウェイドは断った。彼女は新しい本を見に来ただけであり、やはり、本は貸出中だった。それにしても、こんなに長い間彼は自分をどこに置いておいたのだろう? というのが、彼が彼女に投げかけた態度だった。確かに、彼は今、ミス・レイヴィスとつき合っていて、他の誰のことも見ようとはしなかった。


ヴァンドーヴァーはこれに対抗した。するとアイダ・ウェイドは続けて、どうして今夜、自分のところに来られないのと尋ねた。


「私たち、チボリかどこかに行けるかもしれないわ」突然、アイダは笑って自分の話を中断した。「そう言えば、この前の夜のあなたたちのことを全部聞いたわ。『サクランボが熟した!』って、 あなたたち、町で盛り上がったんですって? ああ、ヴァン、私、あなたのことをよく知ってるでしょ!」


アイダはどうやって聞いたか話そうとしなかったが、笑いながら立ち去って、早めに来るようくぎを刺した。


アイダ・ウェイドは街によくいるある種の女の子に属していた。彼女は男の間で「放埒」と呼ばれたが、これは彼女について言える一番ひどい言葉だった。彼女は純潔だったからだ。しかし、そう述べる必要があるというこの事実そのものが、疑う発言を引き起こすのに十分だった。もっと若くて、女子校の生徒だった頃は、ターナー・レイヴィスやヘンリエッタ・ヴァンスのような女の子たちと知り合って、仲間だったことさえあったが、そのときからクラスの女生徒たちは彼女を無視していた。今、彼女の知り合いはほとんど全員が男性で、そのうちの半分は一度も紹介されたことがない相手だった。彼らは、カーニー通り、劇場、機械工フェア、野球の試合などでうまいことやって彼女と知り合いになっていた。彼女は「楽しい」時間を過ごすのが大好きだった。彼女にとってそれは、カリフォルニアのシャンパンを飲み、煙草を吸い、シャンデリアを蹴ることだった。彼女はまだ純潔であり、それを守り続けるつもりだった。 彼女には悪い習慣が何もなく、ターナー・レイヴィスの類からもフロッシーの類からもかけ離れていた。


彼女はとても賢かった。彼女の知り合いの半分は、男性でさえも、彼女がどれほど「放埒」かを知らなかった。彼女を最もよく知る者だけが……ヴァンドーヴァーような人だけが……彼女がどういう人間かを知っていた。というのは、彼女は病的なほど体裁に気を使い、早熟の女の子にしかできないくらい自分の評判に対する用心を怠らなかった。


ベッシー・ラグナは彼女の相棒だった。ヘンリエッタ・ヴァンスがターナーの「親友」で、ナニーがフロッシーの「遊び仲間」であるように、ベッシーは彼女が 「行動をともにする相手」だった。


アイダは、ラーキン通りからそれほど遠くないゴールデン・ゲート通りで家族と一緒に暮らしていた。彼女の父親はハワード通りにあるカーペット・クリーニング店の四分の三の権利を持ち、母親は陶器やビロードに絵を描くことを教えていた。アイダは師範学校を卒業したばかりで、市内のいろいろな幼稚園でよく代用教員をしていて、早く常勤になりたいと思っていた。


ヴァンドーヴァーはその夜八時頃、濡れそぼつ霧の中、アイダの家に到着した。二階の客間と表側の部屋には意味不明な木工品で装飾された出窓が据え付けられていた。玄関のドアは客間の窓の右側にあった。玄関の両側にある二本のコリント式の柱がバルコニーを支えていた。この柱には家の木材に似せて塗装が施された鉄の柱頭があり、さらに家が石に似せて塗装されていた。家は二階建てで、屋根の上には鉄の飾りがあった。極めて小さな前庭があって、そこには二歩ほどの小さな砂利道があり、ガスメーターのある玄関先の階段の下のドアに通じていた。埃をかぶって伸び放題のオランダカイウが数本生えていた。


ヴァンドーヴァーが呼び鈴を鳴らすとほぼ同時にアイダがドアを開けて、彼を玄関内に引っ張り込んで叫んだ。「クジラがヨナに言ったセリフじゃないけど、濡れてないで入ってらっしゃい。ひどい夜じゃない?」家に入ると、ヴァンドーヴァーは、内装材と料理とテレビン油の臭いに気がついた。オーバーコートを脱がずに、彼女と一緒に客間に入った。


客間は淡い漆喰の壁の小さな部屋で、「奥の間」からは引き戸で隔てられていた。単層のカーペットが床を覆い、安物のピアノが部屋の一方の隅にあり、もう一方の隅には緑がかったソファーがあった。マントルピースは灰色の斑点がある白い大理石で、その片側に、写真がいっぱい入ったアラスカの「草のかご」があり、もう片側に、ヒナギクが描かれて、青いリボンで結ばれた金色のガマでいっぱいの、逆さにした下水管がひとつあった。ピアノの近くに、真鍮の模造品の巨大なイーゼルが立っていて、写真から拡大したアイダの赤ん坊の妹のクレヨン画が掲げられていた。この絵の片隅に、黄色い「ドレープ」がかかっていた。こういう「ドレープ」が部屋中にたくさんあって、椅子の角を覆い、マントルピースの端にかかり、シャンデリアにさえ絡められていた。マントルピースのちょうど真ん中にある時計は、入室するときに真っ先に目につく、この部屋の主要な装飾品のひとつだった。巨大な赤いビロードで作ったパレットの片隅に、丸い顔の時計がひっくり返して置かれ、パレットが片側に傾いていて、ねじれた真鍮のワイヤーのイーゼルに支えられていた。その親指の穴からは、ワイヤーで丸く束ねられ、金色の絵の具で覆われた六本の筆が突き出ていた。この時計は一度も巻かれたことがなかった。あまりにも進みすぎるので、時計としては役に立たなかった。その上に大きくて印象的な絵がかけられていた。安っぽいグラビアの一種で、檻の中にいるライオンが、見る者を肩越しにおとなしく見ていた。絵の前には本物の鉄格子があって、その奥に本物の藁が詰め込まれていた。


アイダはピアノの椅子に座って、体を前後にひねり、鍵盤に肘をついた。


「みんなはホイスト(トランプ)パーティーに出かけたから、私はマギーと家に取り残されちゃった」アイダは言った。それから付け加えた。「ベッシーとバンディ・エリスが今夜来るって言うから、私はみんなでダウンタウンのチボリかどこかに行けると思ったのよ。知ってるでしょ、屋上の野外のボックス席よ」そう言うそばから、ベッシーとエリスが現れた。


時刻がとても遅かったので、アイダはさっそく二階に行って帽子をかぶった。ベッシーも一緒に行った。


エリスとヴァンドーヴァーは互いに顔を見合わせるなり笑った。エリスはからかうように「イェーイ、オゥ!って感じだぜ」と叫んだ。ヴァンドーヴァーはにやっとした。


「その通りだ」彼は答えた。「そのセリフを何度か唱えたのは今でも覚えてる。でも、きみときたら……まったく、怖かったぞ。ルクセンブルクで騒いだのは覚えてるのかい? きみが噛んだところを見てみろよ」


エリスはギアリーがみんなを見捨てたことにひどく腹を立てていた。


「ああ、あれがチャーリー・ギアリーってもんなんだ」ヴァンドーヴァーは答えた。


彼らが話していると、市内各地で突然鐘が鳴り響いた。同時に水辺で汽笛のかすれたしわがれ声がした。


「火事だな」ヴァンドーヴァーは興味なさげに言った。


エリスはすでにポケットの中を探って、鐘の数を数えていた。


「一つ鳴って」警報の表を引っ張り出して調べながら叫んだ。「そして一、二、三だから、三だ。そして一、二、三、四だから、一と三十四か。どれどれ! ブッシュ通りとハイド通りか、そう遠くはないな」そして彼はまるで義務を果たしたかのように、カードをコートの内ポケットに戻した。


葉巻に火をつけた。「こういうときは」ためらいながら言った。「ここで煙草を吸わない方がいいかな。女の子たちが降りてくる前に、外に出て一服してくるよ」エリスが外に出ると、ヴァンドーヴァーは安物のピアノの前に座って、いつもの三曲、ポルカ二曲と話題の歌のメロディーを演奏した。しかし、叫び声を上げながらドアを開けたエリスに邪魔された。


「なあ、こっちへ来て、火事を見ないか? すごい炎だぞ!」ヴァンドーヴァーは駆け出し、家々の屋根を覆う霧を通して、大きな扇形のぼんやりとした赤色を見た。


「おーい、みんな」階段の下まで跳んで戻って叫んだ。「アイダ、ベッシー、火事だぞ。窓の外を見てごらん。聞こえるだろ、消防車が向かってる」


ベッシーは階段を駆け下りて玄関先の階段に出た。そこに二人の男が帽子もかぶらずに立っていた。


「どこ? ねえ、どっちなのよ! ああ、確かにそうね! 大火事だわ。消防車の音が聞こえる。ねえ、行きましょう!」


「そうだね、よし、行こう!」ヴァンドーヴァーは叫んだ。「アイダに急ぐように言うんだ」


「ねえ、アイダ」ベッシーは階段を上って叫んだ。「すぐ近くですごい火事があったの。私たち、行ってくるわ」


「あっ、待ってよ!」アイダは口にピンをいっぱいくわえて叫んだ。「ブラウスを着替えなくちゃ。だから、待ってて。場所はどこなの? お願いだから、待ってて、すぐ降りるから」


「早く、早くしてくれ!」ヴァンドーヴァーは叫んだ。「僕らが着く頃にはすべて終わっちまうぞ。そっちに手伝いに行こうか」


「いい、いらないわよ!」アイダは叫んだ。「やめてよ、慌てちゃうから。こっちは混乱してるのよ。ああ、まったく、私のツァリーナが見つからない!」


しかし、ついに彼女は息を切らしながら、肩をすくめるようにしてボレロのジャケットをまとい、駆け下りてきた。みんなは、急いで通りに出て、火事の方角に向かった。他の人たちも同じ方向に足早に歩いていた。窓や玄関のドアが開いたり閉まったりしていた。汽船が鐘を打ち鳴らし、煙を上げ、轟音を立てて通り過ぎた。半分へとへとになった子供たちが何人もあとを追った。火事にたどり着くまでに思ったより時間がかかって、その二ブロック圏内に来た頃にはかなり息が切れていた。ここは興奮がみなぎっていた。歩道は同じ方向に進む人たちでいっぱいだった。どちらを向いても火事の現場についての憶測が飛び交っていた。たくさんの家の玄関先の階段で、中年の紳士たちがずっと夕刊と葉巻を持ったまま立って、通り過ぎる野次馬を面白おかしく眺めていた。時々、歩道で踊っている自分の小さな息子たちに声をかけて、行くのを禁じている声が聞こえた。頭上の開いた窓から家族の他のメンバーが、火の光を受けてほんのり染まった顔を出して、眺め、指を差し、向かいの家の友人たちに通り越しに声をかけている姿が見えた。誰もがご機嫌だった。これは催し物、近所を挙げてのお祭りだった。


ヴァンドーヴァーたちはようやく、激しくポンプで水を吸い上げ咳き込んでいる最初の消防車にたどり着いた。近くでは大きな灰色の馬たちが、すでに解き放たれ、毛布をかけられ、平然とかいば袋の餌を食べていた。野次馬の中には火事よりも消防車を見たがる者がいた。さらには「誤報だ」「もう全焼だ」と叫びながらそこから遠ざかる者さえいた。


みんなはすぐ近くまで来ていた。燃えている木の匂いを嗅ぐことができ、近くの家の屋根がその向こうの赤い光を背景に、黒くくっきりと浮かび上がり始めているのが見えた。燃えたのは巨大な木造家屋の裏にある納屋だった。干し草が火薬のように燃え、みんなが現場に到着した時にはすでに火力は弱まりつつあった。ホースがニシキヘビのように通り中に横たわり、隣の屋根にはヘルメットをかぶって斧を持った消防士の集団がいて、下の通りに向かって叫んでいる者や、ホースの噴出ノズルを持っている者がいた。「ああ」アイダとヴァンドーヴァーの近くにいた老人が叫んだ。「最初に火が出たとき、俺はここにいたんだ。あんときの炎ときたら必見だったぞ! ほら、木に燃えうつった!」


野次馬はさらに増えた。警官らはそれを押し戻して、通りにロープを張った。目にしみる立ち込める黄色い煙と、パチパチ、パチンとすごい音をあげ続ける炎の世界だった。ひどく興奮した子供たちが、いたるところにいて、人混みではぐれそうになるたびに、口笛を吹き、互いに呼び合っていた。


彼らは半分出来上がった家の前に積まれた板の上に立って、しばらく火事を見物していたが、鎮火すると飽きてしまった。


「帰ろうか?」ようやくヴァンドーヴァーは尋ねた。


「ええ」アイダは答えた。「引き上げたほうがいいわね。あら、ベッシーとエリスはどこかしら?」二人ともどこにも見当たらなかった。ヴァンドーヴァーは口笛を吹き、アイダは呼びかけたが、無駄だった。人混みにいる小さな少年たちはアイダを真似て、叫び返した。「ねえ、ベッシー! どこ? ベッシー! ママが呼んでるわよ!」近くにいた男たちはこれを笑ったが、これはアイダよりもヴァンドーヴァーをかなり苛立たせた。


「ねえってば、気にすることないわよ」ついにアイダは言った。「二人のことは放っといて、そろそろ、行かない?」


劇場に行くには遅すぎたが、家に帰るのは問題外だった。二人はあてもなくダウンタウンを移動し始めた。


ヴァンドーヴァーは話をする間、困惑していた。アイダは派手な服装をしていて、注意を引きつけることなく、街なかでは口を開くことも指一本立てることもできない女の子のひとりだった。ヴァンドーヴァーは、自分がアイダ・ウェイドのエスコート役としてカーニー通りで見られても平気か全然自信がなかった。誰に出くわすかわからないからだ。アイダは不良でも、札付きでもなかった。しかし、その区別をつけられるはずはなく、疑わしく見えただろう。同時に、アイダは一緒にいるところを見られたくない類の女の子でありながら、そう言われていい類の女の子ではなかった。チボリの桟敷席なら、話は違っただろう……背景に隠れることができた。しかし、あんな帽子をかぶって手袋もはめようとしない女の子と一緒にカーニー通りに出かけるとなると……ああ、だめだ、話にならなかった。


アイダは、先週代用教員を務めた幼稚園について延々と話し続けた。


面白い小さな黒人の少女のことや、ゲームや歌のことや、子供たちがどんなふうに鳥をまねて跳び回って「ばか、ばか」と叫ぶかとか、花を訪れる蝶々ごっこについて彼に語った。波についての歌の一部まで歌った。


「どんな小さな波もナイトキャップをかぶってる。

白い帽子、ナイトキャップ、白い帽子を」


「そういうのが楽しくて仕方がないのよ」彼女は言った。


「ねえ、アイダ」ついにヴァンドーヴァーは話をさえぎった。「僕はかなりお腹が空いてるんだ。どこかに行って何か食べないか? 僕はチーズトーストが食べたいな」


「いいわよ」アイダは答えた。「どこに行きたいの?」


「そうだな」ヴァンドーヴァーは、人通りの少ない通りを通って行けそうな場所を頭に思い浮かべた。「マルシャンか、トルトーニか、プードル・ドッグかな」


「いいわね」アイダは答えた。「あなたの好きなところでいいわよ。ねえ、ヴァン」アイダは付け加えた。「あなたはこの間の夜、インペリアルにいたんじゃない? そこはどういうところなの?」


この瞬間、ヴァンドーヴァーは、この女はどういうつもりだろうと思った。アイダが僕と一緒にああいう場所に行きたがるなんてことがありえるだろうか? 


「インペリアル?」ヴァンドーヴァーは答えた。「ああ、わからないけど、インペリアルは一応はいいところだよ。他のああいう場所と似たような個室があるね。料理はすばらしいの一言に尽きる。それに関連するバーもあると思うな」それからヴァンドーヴァーは脈拍が速くなって神経がぴりぴりしたが、幼稚園について淡々と話し続けた。やがてアイダは言った。


「インペリアルにバーがあるなんて知らなかったわ。てっきり、ただの牡蠣の店のようなものだと思ってたわ。でも、とても素敵な女の子や、しゃれた女の子がそこに出入りしてるって聞いたのよ」


「うん、確かに」ヴァンドーヴァーは言った。「出入りしてるね。ねえ、アイダ」彼は続けた。「そこに行くのはどうかな?」


「インペリアルへ?」アイダは叫んだ。「うーん、私は気が進まないわ!」


「まあ、僕が一緒にいれば大丈夫だよ」ヴァンドーヴァーは言い返した。「だけど、きみが嫌ならどこか他へ行ってもいいよ」


「そうね、私たちはどこかほかの場所へ行きましょ」アイダは答えた。この話題はひとまず取り下げられた。


二人はサッター通りで鉄道に乗って、グラント街で降りて、マルシャンドの店に行くことに決めた。


「あれがインペリアルでしょ?」歩道に降りるとアイダが尋ねた。ヴァンドーヴァーは最後にもう一度誘ってみた。


「ねえ、アイダ、いいだろ、あそこに行こうよ。僕がいれば大丈夫だから。ほら、行くよ、どうした?」


「いやよ、いや、いやだってば」アイダはきっぱりと答えた。「いったい、あなたは私をどういう女だと思ってるの?」


「じゃあ、さ」ヴァンドーヴァーは答えた。「店のそばまで行こう。もし見て、きみが気に入らなければ、入る必要はないんだから。とにかく僕は煙草がほしいんだ。僕が煙草を買うまで、一緒に歩くのはいいだろ」


「一緒に歩くのはいいけど」アイダは答えた。「私は中に入らないわよ」


二人はインペリアルに近づいた。周囲の通りは閑散としていた。そこで待機しているいつもタクシーさえ出払っていた。


「ほら」ヴァンドーヴァーはドアの前をゆっくりと通り過ぎながら説明した。「ここはなかなか静かだろ。ベールを下ろしたら誰も誰だかわからないし、ここには婦人用の入口があるんだ。ほら、すぐ横だよ」


「いいわ、じゃあ、入りましょう」アイダは突然叫んだ。いつの間にか、二人はすりガラスの婦人用の入口の小さなドアを開けて中に足を踏み入れていた。


九時から十時までの間だと、インペリアルはまだ静かだった。男性が少し外のバーで飲んでいた。赤目のウェイターのトビーが電灯の下で声を低くして女の子に話しかけていた。


ヴァンドーヴァーとアイダは奥の通路の大部屋のひとつに入ってドアを閉めた。アイダはボレロのジャケットを肩から押しやって言った。「ここはなかなかすてきで静かそうね」


「まっ、当然だよ」ヴァンドーヴァーはこれで質問を打ち切るような口ぶりで答えた。「さて、何を食べようか? シャンパンと牡蠣にするとしよう」


「それじゃ、クリコにしましょう」アイダは叫んだ。それはカリフォルニアのブランド以外で彼女がこれまでに聞いたことのある唯一のシャンパンだった。


彼女はとても興奮していた。これはある種の「放埒」の時間だった。アイダは、夜遅く男性と二人っきりのシャンパンを伴う夕食を楽むことはあったが、これまではインペリアルのような場所に来たことがなかった。自分がしたことの大胆さと新しさと、こういう形でつかんだ大都会の悪徳の匂いが、喜びと興奮とで彼女の神経全体を小刻みに震わせた。


二人は少しばかりの夕食をさっさと済まさずに、ゆっくり飲み食いして、ボトルの最後の半分をあけるために牡蠣を追加した。アイダの顔は燃えるように輝いて、目はきらきらし、ブロンドの髪は乱れて頬に垂れ下がった。


ヴァンドーヴァーは彼女の首に腕を回して自分の方に引き寄せた。そしてアイダが倒れかかってきて、微笑み、従順になり、髪を肩に垂らし、頭と喉を後ろに反らせると、彼は彼女に頬ずりして低い声で話しかけた。


「いや、いやよ」アイダは微笑みながらつぶやいた。「絶対にだめ……ああ、私が来なかったら……いやよ、ヴァン……お願いだから……」そして長い息を吐いてアイダは身を任せた。


ヴァンドーヴァーは真夜中近くに、ゴールデンゲート街にある彼女の自宅の玄関で彼女と別れた。家へ帰る途中、アイダは彼がこれまでに見たことがないくらい真剣になっていた。今度はひとりで静かに泣き始めた。「ああ、ヴァン」アイダは彼の肩に頭をのせて言った。「ああ、私、とても後悔しているの。あなた、私のこと見損なったりしないわよね? ねえ、ヴァン、あなたはもう私に誠実でなきゃだめなのよ!」


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