第十八章
冬が過ぎて夏が過ぎ、九月と十月が来て去って、十一月の中旬までに雨季が始まった。月末近くの、ある雨模様の午後のこと、チャーリー・ギアリーは事務所の自分の席に座っていた。そのときは何もしておらず、回転椅子にもたれかかって、足をテーブルにのせて、葉巻を吸っていた。ギアリーは、電車賃を節約して買える分の葉巻しか吸わないという昔の習慣をやめていた。今はとても順調にいっていたので、いつでも好きなときに吸うことができた。今でも〈ビール&ストーリー〉という大きな事務所に所属し、まだ共同経営者ではなかったが、補佐役の地位に昇進していた。今は自分の訴訟を抱えていた。しかもたくさんあった。そのほとんどが市と州全体を破産させていると言われたある大企業に対する損害賠償訴訟だったからだ。ギアリーはその最も手強い敵として振る舞い、疲れを知らないエネルギーと、ほとんど復讐と言ってもいいほどの熱心さとで、その企業に対して起こされたどの訴訟も推し進めていた。世間の目には彼が自分の居場所に落ち着き始めたように見えた。会社が嫌われたのに比例して、ギアリーは称賛された。たちまち金回りがよくなった。このときはまだ三十歳にもなっていなかったのに、すでに金持ちと呼ばれてもいいものになっていた。
ヴァンドーヴァーとの「取引」が不動産への関心を呼び覚ましたので、極力注意した上で、時々少し控えめな投資を手がけた。製靴工場から通りを渡ったところに、最近、小さな借家が一列並ぶ街区を完成させたばかりだった。借家には部屋が二つあって、大きなキッチンがついていた。ギアリーはこの製靴工場なら千人くらいは工員を雇うだろうと計算し、家族持ちで工場の近くに住みたがる工員を入居させようと思い立ち、借家を少し建てたのだった。代理人は〈アダムズ&ブラント〉だった。
時刻は五時半。この日できることはもう何もなかった。ギアリーは帰宅する前に、回転椅子にもたれかかり、少しにこにこして、かなりご満悦だった。相変わらず賢くて抜け目がなく、相変わらず具体的になった野心にとりつかれ、相変わらず誰かを出し抜けるときがうれしくてたまらなかった。彼はまだ若かった。自力で手に入れたスタートラインがあっても、並外れた能力があっても、自分にあるのがわかっている自信と「押しの強さ」という力があっても、自分がどんな地位に到達できるかはまったくわからなかった。彼がこの立派な事務所の実質的トップになるのは時間の問題だった……その時間が短いことを彼は知っていた。彼が手がけたものは、すべてが好調だった。ミッション地区の借家街は拡大して、近隣のすべての労働者の本格的な居住地になるかもしれなかった。片や、お金に支えられ、片や、大手法律事務所の巨大な組織に支えられた、彼の若さ、賢さ、野心は、人間世界の偉大な地位に彼を持ち上げることができた。葉巻の煙の小さな青いもやを通してじっと見つめながら、漠然と考え始めた。出世を、政治的な成功を、考え始めた。政治は彼を魅了した……こういう活動の分野は、自分にぴったりの世界に思えた……市や州の政治ではなく、収賄とかロビイストや監督官が関わるたちの悪い小競り合いでもなく、大きな何かだ。人を鼓舞する何か、とてつもなく大規模な何か、そのためなら人の全人生と努力を差し出せる何か、人間がすべてを……友情、財産、良心、原則、人生そのものを……犠牲にできる何かだ。たとえ何があろうと「成功」し、「達成」し、「そこにたどり着き」、全世界を向こうに回してもその欲しいものを手に入れ、目をつぶって耳を貸さず拳を握りしめ歯を食いしばって邪魔者をすべて踏みつけ、あるいは打ち砕いて乗っかってそれに向かうのだ。市や州の小競り合いに明け暮れている政治ではない。国政だ、国民全体を支配し統治するのだ。下院、上院、内閣、そしてその次だ……駄目な理由があるだろうか?……最高、最上の行政職、そう、ギアリーは大統領にさえ憧れを抱いた。
しばらく、気ままに楽しい夢にひたって、それから自分の愚かさを少し笑った。しかし、壮大な考えを楽しむことさえ、こうして、彼を調子づかせてしまったのだから、再び元の水準に下げるのは困難だった。自分でも気づかないうちに、途方もない考えを、誇大妄想を、論理的に考え続けて、ものすごく抽象的な考え方と組み合わせて形にしていた。そして、最後に、駄目な理由を考えた。他の人たちは努力して達成していた。他の人たちは今でも努力している。他の人たちは「到達する」だろう。僕がやったっていいじゃないか? 他の人がやるようにやればいい。自分の身は自分で守れ……これは彼が戒めとする言葉だった。これはものすごく自分勝手かもしれないが、人間の本質だった。一番弱い者は壁際にいて、一番強い者は前にいる。どうして、僕が前にいてはいけないのだろう? どうして最前列にいてはいけないのだろう? どうして最前列の前……リーダー……であってはいけないのだろう? 彼の心が見ているものの前を、ものすごく大きくて漠然とした思いつきが、ゆっくりと横切った。その思いつきを、系統立てて考えにすることはできなかった。思いついたのは、無限にいる人間の群れが、まるで何かの巨大な情け容赦のない機関車によって追い立てられる、何か恐ろしく遠い目的地に向けて追い立てられる、あわただしく遮二無二に追い立てられる、姿だった。すべての人生は、真後ろに押し寄せる無数の回転する車輪に踏みにじられないようにするための闘いに過ぎなかった。一番前にいる者が一番幸せだった。後方で遅れをとるのは危険だった。転ぶことは死であり、踏みにじられることであり、粉々に打ち砕かれることであり、無数の回転する鉄の車輪の下で容赦なく押しつぶされ、抹殺されることだった。ギアリーがすばやく顔をあげると、ヴァンドーヴァーがドアのところに立っているのが見えた。
ギアリーは、長い髪と汚い鬚をして、緑色っぽい帽子をかぶり、縞柄でシミのあるコートを着た、痩せ細ってよろよろ歩いているこの人物が誰なのか、すぐにはわからなかった。しかしそれがわかると、怒りと憤りの感情が起こった。
「おい!」彼は叫んだ。「きみは入る前にドアをノックした方がいいとは思わないのか?」
ヴァンドーヴァーは納得いかないのか、ゆっくりと片手をあげて、弱々しい震え声でゆっくりと答えた。まるで老人の声だった。「ノックはしたんです、ギアリーさん、悪気はなかったんです」彼は一番近くの椅子の端に腰掛けた。ぼうっとした様子で馬鹿みたいに床を見回し、目の代わりに頭を動かしながら、時々小声でぼそぼそと繰り返した。「悪気はなかった……全然ありませんでした……悪気はなかったんです!」
「そのドアを閉めろ!」ギアリーは命令した。ヴァンドーヴァーは従った。彼はベストを着ていなかった。古いカッタウェイ・コートは、残っているボタンひとつで留められていて、はだけてシャツが見えるうえに、ひどく汚れていて、腰のあたりが野良着のように膨らんでいた。細長い革紐一本で吊るされた「青いズボン」は、泥や油やペンキで汚れていて、彼の周りにはある種の臭いが漂っていた。貧困と堕落のあの独特の臭い、古着と洗っていない体の臭い、がした。
「それで?」ギアリーはぶっきらぼうに言った。
ヴァンドーヴァーは指先を唇に当てて、ギアリーの視線を避けながら、部屋を見回した。それから再び床に視線を落とし、カーペットの模様を見ていた。
「なあ」ギアリーはいらいらしながら繰り返した。「僕が世界の時間を全部持っているわけじゃないことを知ってるだろ」突然、ヴァンドーヴァーは泣き始めた。とても穏やかで、鼻をすすり、顎がぴくぴく動いて、薄いまばらな顎鬚の間を涙が流れた。
「おい、さっさと始めろよ!」ギアリーは今度は完全にあきれかえって叫んだ。「それをやめろ! 男だろ、お前は? それをやめろってば! 聞こえてんのか?」ヴァンドーヴァーは、息を整え、手の横側でゆっくりと目を拭いて、従った。
「僕はどうしようもないんだ!」やがて、首を振り、涙を流してまばたきしながら言った。「僕は……僕はおしまいだよ。お金がないんだ。ああ、もちろん、わかるだろうけど、悪気はないんだよ。僕が望むのは、わかるよね、男らしくなることなんだ。挫けず、狼にとりつかれないことだ。それから、僕はパリに戻るよ。ここはすべてがとてもゆっくりと回っているし、遠くに感じるんだ。だから僕はうまくやれないんだよ。それに、お腹がすいて、時々全身がぴくぴくすることがあるんだ。まいったよ。僕はもう一セントのお金もないし、ペンキ屋の仕事もなくなったんだ。金庫に風景画を描いて週二十ドルもらっていたところがあるんだけど、それがさ……」
ギアリーは遮って叫んだ。「きみは一セントも持ってないのか? じゃあ、債券はどうしたんだ?」
「債券?」ヴァンドーヴァーはぼうっとして困惑した様子で繰り返した。「僕は債券なんて一度も持ったことはないよ。何の債券だろ? ああ、そうだ」彼は突然思い出して叫んだ。「そう、知ってるよ、僕の債券だもの、もちろん、あった、そうだ、そうだ……ええと、僕が……あれを……あれを、あの債券は売らなきゃならなかったんだ……ほら、借金があったんだ、食費とか仕立て屋の請求書が。あいつらが僕を追いかけてきて、何かの書類を出したっけな。そうだ、債券のことを忘れてた。カードをやって、あれはひとつ残らずなくなったんだ……全部ギャンブルですっちゃたんだ。駄目じゃないかって? でもね、一度は勝ったんだよ……たった二晩で一万ドル勝ったんだ。それから、また負けなきゃならなかったんだけどね。あのね、僕はとてもお腹が空いて、時々、体中がぴくぴくするんだよ……こんなふうにね。僕に一ドル貸してくれよ」
ヴァンドーヴァーが椅子の端にどっしりと腰をすえて、緑色っぽい帽子をいじくり、床を見回している間、ギアリーはしばらく黙ったまま、物珍しそうに彼を見つめていた。やがて尋ねた。
「ペンキ屋の仕事は、いつなくなったんだ?」
「おとといです」
「じゃあ、今は失業中なのか?」
「そうです」ヴァンドーヴァーは答えた。「お金がないんです。一文無しです。どうすればうまくやっていけるかがわかれば、ありがたいんですが。最近はペンキ屋の仕事をして、金庫に風景画を描いてました。そこで週五十ドルもらってたんだけど、仕事がなくなったです」
「大変だな、ヴァン!」ギアリーは突然叫んで、反射的に彼に向かってうなずいた。「気の毒なことだ!」
相手は笑った。「そうですね、僕は見るからに哀れなものだと思います。でも、これには慣れました。眠る場所と十分な食べ物があれば、今はあまり気になりません。もしきみが僕に何か仕事を世話してくれれば、とてもありがたいんですがね、チャーリー。わかるでしょ、僕が欲しいのはそれなんです……仕事ですよ。人をだましたくはないですからね。僕は正直者なんです……馬鹿正直なんですよ。他の貧しい人を助けるためにすべてのお金を手放しました。何千ドルもね。僕がとても困っているときに僕に親切にしてくれたので、その人に恩返しをするつもりだったんです。感謝の気持ちでした。僕が持っているすべてのものを与えるという書類にサインをしたんです。パリでのことですよ。僕の債券はそこへ行ったんです。相手は苦労人の芸術家でした」
「いいか!」ギアリーは聞くだけ聞いてやろうという気になって言った。「きみは僕には正直に話した方がいいぞ。僕に嘘は通じないからな。きみは債券を全部、ギャンブルで失ったのか、それとも騙し取られたのか、それともまだ持っているのか? さあ、さっさと白状したまえ」
「チャーリー、僕は一文無しです!」ヴァンドーヴァーは相手の顔を直視して答えた。「もし持っていたら、僕はここにいて、きみから仕事をもらおうとするでしょうか? しないでしょ、僕は全部、ギャンブルで失ったんです。知ってのとおり、僕は金利四パーセントのアメリカ国債を八千九百ドル持ってました。所持金が乏しくなったときに、まずは物を質に入れ始めたんです……絶対に手放さないと言っていた親父の腕時計、その次は自分の服なんかもね。僕はカードから離れることができなかったんです。どうせ、きみにはこれを理解できませんよ。ギャンブルは僕を楽しませることができる唯一のことだったんです。やがて僕は債券を担保にし始めました。最初はほんの少しでしたが、ああ、返済が遅れて、やがて売るはめになったんです。で、どういうわけか、全部なくなりました。しばらくは、ペンキ屋の仕事で順調にやってたんですが、ここにきて先方が僕をお払い箱にしたんです。僕が定期的に仕事をしないからだと言ってました。宿泊所の代金がひと月分近くたまったんです」彼の目は馬鹿みたいにぐるぐる回って、また床をさぐった。「ひと月分近くですよ。だから、僕は飛び上がってこんなにうろたえてるんです。時々、僕を見るといい……ブルルルル!……って、僕は吠え出すんです! 僕は狼も同然なんだ、あるいは何かの動物か、何かの獣なんです。でも、すべてがあまりゆっくりと回らないで、遠く離れているように見えなければ、大丈夫ですがね。でも、僕は狼なんです。僕には気をつけてください、僕があなたに噛みつかないように、精々用心してください! 狼……狼ですから! ああ! 廊下の端の階段を四つのぼると、とても暗くて、緑色の布袋に入った八千ドルがあって、たくさんの光が燃えている。僕の指の爪がどんなに長いか見てください……どう見ても鉤爪だ、これは狼、獣なんだ! どうして僕は喉ではなく、口を使って話せないんだろう? これが大変でね。鋼や鉄に色を塗っても、まともには乾かない。すべての黄色が緑に変わるんだ。でも、先方が僕を首にしなかったら、すべては順調だっただろう! 僕は誰にも話さなかった……これが僕の役目だったね? そして、八千の小さな明かりが赤く燃え始めたら、そりゃあ、もちろん、きみだって気が気じゃあるまい! だから、僕は水を大量に飲んで、肉屋の包装紙を噛んでなきゃならないんだ。これであいつをだませるんだ。あいつは自分が食事をしていると思うんだよ。太陽が出ているときは、僕が広場で大人しく横になってればいいんだ。あそこに貸馬車の待機所があるのは知ってるね。飼い葉袋の底にある燕麦を食べようとして馬が頭をあげるたびに、柱の鎖を鳴らすんだ。神に誓うが、それが面白くてね、僕は毎回笑ってしまうよ。音は楽しいし、鎖がものすごくきれいに光るんだ! ああ、僕は文句を言わないよ。一ドルくれたら、僕はきみのために吠えてやる!」
ギアリーは椅子にもたれてヴァンドーヴァーの話を聞き、不思議な気持ちになり、旧友の成れの果てのありさまに驚いた。彼はヴァンドーヴァーを気の毒だとも思った。しかしそれでも、ある種の漠然とした満足を感じ、相手が不幸になったことで少し勝った気になり、自分たちの立場が逆転していないことを喜び、自分がこういう習慣や、このような形で終わるライフスタイルと無縁でいる十分な賢さがあってよかったと思った。ギアリーはテーブルを強く叩いた。ヴァンドーヴァーはしゃきっとして目をあげた。
「きみは仕事が欲しいのか?」彼は尋ねた。
「そうだよ、それが僕の探してるものだ」ヴァンドーヴァーは付け加えながら言った。「どうしても必要なんだ!」
「うーん」ギアリーはためらいながら言った。「やることなら、あるにはあるんだが、かなり汚い仕事だぞ」
ヴァンドーヴァーは少し微笑んで言った。「僕が耐えきれないほどの汚い仕事を、きみじゃ僕に提供できないと思うな」そう言って彼はまた急に泣き始めた。「僕は正直でいたいんだ、ギアリーさん」指の甲を唇に当てて彼は叫んだ。「僕は正直でいたい。落ちぶれてしまったけど。僕に悪気はないよ。チャーリー、きみと僕はかつてハーバードでは古い友だちだった。まったくなぁ! 思えば、僕はかつてハーバードの学生だったんだ! ああ、僕はもう先がないし、友だちひとりいないんだな。ペンキ屋にいたときは、いい給料をもらったんだ。最近僕はペンキ屋で、金庫に小さな絵を、小さな風景画とか周りを山に囲まれた湖とかを、描いてたんだ。二十ドルと材料代をもらってね!」
「おい、馬鹿はよせよ!」ギアリーはこういう見世物を見るだけても恥ずかしくて叫んだ。「男らしくできないのなら、出ていっていいんだぞ。なあ、いいか、きみは一度ここに来て、僕の事務所で僕を侮辱し、詐欺師呼ばわりしたっけな。ああ、きみはあのとき思い上がっていた。そして僕を侮辱し、僕が誠実でないと攻撃して、いかがわしいものを押しつけたと非難した。いつもなら、こういうことは決して忘れないんだが、今回は見逃してやる。今だって、意地悪な態度をとって、きみに向かって自分の食い扶持は自分で何とかしろと言うことだってできるんだ。何か食べるものを手に入れるために、今、五十セントがほしければ、それをきみにやってもいい。でもな、僕はきみを援助するつもりはないからな。いや、そうじゃないな! もしきみが働きたいのなら、僕が働けるようにしよう。でも、僕がそれにいい報酬を出すのなら、僕はきみにいい働きを期待するからな。きみは今、酔ってるのかもしれない、そうでなくても……きみの何が問題なのか、僕にはわからない。でも、明日の正午にここに来れば、もしきみがここにしらふで、まともな状態で来れば」……ギアリーは両手を宙ぶらりんにしたまま落ち着かなげに動かし始めた……「仕事の話をしに来れば、僕はきみのために何かを用意できるかもしれない。でも今夜はこれ以上足止めをくらうわけにはいかないんだ」
ヴァンドーヴァーはゆっくりと立ち上がった。緑色っぽい帽子のつばを回しながら、うなずいた。「はい、わかりました」彼は答えた。「ありがとうございます、ギアリーさん。あなたのご親切に感謝します。必ず正午にうかがいます」
ギアリーはひとり残されると、ゆっくりと窓のところまで歩いて、そこに立ち、しばらく当てもなく通りを眺め、何度も首を振って、昔の友人の零落に驚いた。そこに立っていると、大きなオフィスビルのドアからヴァンドーヴァーが歩道に出て来るのが見えた。ギアリーはかなり興味を持って彼を見つめた。
ヴァンドーヴァーは歩道で一瞬立ち止まって、通りを切り裂くように吹き抜ける冷たい貿易風に備えて古いカッタウェイ・コートの襟を立て、両手をズボンのポケットに深く突っ込んで、肘ごと脇をしめ、肩を丸め、体を温めようと小さく縮こまった。風は、彼のコートの裾を羽ばたく翼のように吹き回した。彼は歩道の外側を離れないように足早に通りを進み、肩をまるめ、風に立ち向かうように頭を傾け、足を引きずって歩いた。ギアリーは大型の荷馬車にピアノを持ち上げていた男たちの群れの中で一瞬、彼を見失った。通りは、夕食のために帰宅中の会社員、事務員、タイピストでかなり混雑していた。ギアリーはすぐには彼を見つけられなかった。そのあと突然、カーニー通りの角で彼がためらっているのを、電車の通過を待っているのを見つけた。まだ両手をポケットに突っ込んだままだった。そして走って通りを横断し、高い肩と長い首と緑色っぽい帽子を時々見せながら、巧みに人混みを出入りして先を急いだ。一瞬立ち止まって、煙草やパイプを売る店のショーウィンドウをのぞき込んだ。中国人の女性がひとり、新たに灯された街灯の光の中で緑色の翡翠のイヤリングをキラキラと輝かせながら、危なっかしい足取りで彼とすれ違った。ヴァンドーヴァーはぼけっと見つめながらしばらく彼女を見送り、それからまた突然歩き始め、アスファルト上の人混みをぬって大股でジグザグに進んだ。歩く間は頭が低い位置で左右に揺れていた。すでに通りをかなり先まで進んでいた。薄暗かったので、ギアリーは彼の頭と肩をたまに垣間見ることしかできなかった。やがて姿は見えなくなった。
* * * * *
翌日の一時十分前頃、昼食から戻ったギアリーは、ヴァンドーヴァーが事務所の半開きの窓から中をのぞいているのを見て驚いた。彼は、まさかヴァンドーヴァーが戻って来るとは思わなかったからだ。
債券の消滅についてヴァンドーヴァーが語ったたくさんの異なる話の中で、おそらく真実は、彼のギャンブル熱がその原因であると説明したものだった。この情熱はリノハウスに来てからずっと鳴りを潜めていた。一緒にカードができる相手を彼が誰も知らなかったのと、このとき収入のすべてが食費と宿泊費に消えたからだ。しかし、ギアリーの事務所を訪れる約六か月前のある日、ヴァンドーヴァーはリノハウスのオーナーが読書室の片隅に大きな玉突きの台を設置したのを目にした。船乗り、牧場主、果物売りといった男たちが、すでに遊んでいた。ヴァンドーヴァーは近づいて勝負を見守った。ピンの間をジグザグに進んでいるビー玉の気まぐれな動きを見るのはとても興味深かった。ビー玉が幸運の玉受けのひとつにすばやく入ったときのベルの明快な小さな音と味気ないカラカラという音は、頭から足まで彼をぞくぞくさせた。両手が震え、突然、左半身が激しく痙攣した。
この日を境にヴァンドーヴァーのわずかな所持金の残りの運命は決まった。モントゴメリー通りのあるブローカーのところで債券の一部を売却してお金を調達しながら、二週間で二十ドルをバガテルで失ってしまった。ギャンブルを再開したとたんに、昔の浪費癖がぶり返した。書類にサインするだけで欲しいお金をすべて手に入れられると知った瞬間から、倹約をやめ、次にごちそうを食べられる特定の日を待ちわびさせていたこれまでの吝嗇をあざけった。今は毎日ごちそう三昧だった。まだリノハウスの部屋住まいを続けていたが、回数券で食事をする代わりに、スペイン人街のレストラン通いを始め、できたてのスパイスの効いた食事を日に三回でも四回でも腹いっぱい食べた。早めにバガテル台をあきらめた彼は、カードのテーブルに向かい、二人の牧場主を相手に盛んにギャンブルをした。ヴァンドーヴァーはほぼ毎回負けて、負ければ負けるほど熱く向こう見ずになった。
彼は短期間で債券をことごとく売り払い、最後の売却で得たお金の二十ドルを除くすべてをギャンブルで使い果たした。ヴァンドーヴァーはこの総額、二十ドルを慎重に節約することに決めた。彼と飢えとの間に残されたのはこれがすべてだった。ギャンブルをやめて、何か仕事を見つけなければならないと腹を決めた。ペンキ屋の仕事をやめて長いことたっていたのに、彼は今さらのこのこ店に戻って、以前の仕事をやらせてもらえないかと尋ねた。相手は彼の顔を見て笑った。彼は相手がそういうやり方で仕事をするとでも思ったのだろうか? 見当違いもいいところだった。別の男が彼の仕事を引き継いでいた。はるかに優秀な人で、きちんとした人で、頼りにできる相手だった。その同じ夜、ヴァンドーヴァーは二十ドルに手をつけて泥酔した。バーバリー海岸の酒場のひとつの奥の部屋で、ポーカーの勝負が行われた。プレイヤーのひとりはトードという牧場主で、リノハウスに居合わせた客だったが、他の二人のプレイヤーは面識のない相手だった。そこは狭く汚い部屋で、床にはおが屑が散乱し、蝿のたかった赤と青のティッシュペーパーの花綱の飾りが、ひとつしかない揺れるランプを引き立て、壁には『黒い悪魔』のビラから切り取られた人物の絵が貼られていた。時刻は真夜中を回った静かな時間、その夜、外のバーが閉店してからかなりたった頃、ヴァンドーヴァーの財産の最後の一ペニーがギャンブルで失われた。
この勝負は喧嘩で幕を閉じた。ヴァンドーヴァーはひどく酔っぱらい、自分の不運に憤慨し、牧場主のトードがいかさまをやっていると非難した。トードが腹を蹴ったせいで、ヴァンドーヴァーはひどく具合が悪くなった。それから相手が帰ってしまうと、ヴァンドーヴァーはこの小さな汚い部屋にひとり残されて、吐き気に悩まされ、悪酔いして、テーブルに前のめりに倒れ、組んだ腕の中で泣き崩れた。しばらくすると眠りに落ちたが、それでも吐き気は続き、少ししてから、嘔吐いて吐いた。彼は全然動かなかった。目が覚めないほど泥酔していた。両手とコートの袖と周囲のテーブルは言葉にならないほど汚れていたが、無気力な朦朧とした状態で、そのど真ん中で眠り続けた。たくさんの蝿がぶんぶんいいながら頭と顔のまわりに群がっていた。彼がギアリーに会いに行ったのはこの翌日だった。
「ああ」彼が近づくとギアリーは言った。「きみか? まさかまた会うことになるとは思わなかったな。廊下の外に座って数分待ってくれ。僕はまだ出かける準備ができてないんだ……いや、待ってくれ、ここで、きみがやることを言うから」ギアリーは紙切れに品物のリストを書き出して、テーブル越しに小銭と一緒にそれをヴァンドーヴァーに向けて押しやった。「一番近くの雑貨屋でこれを手に入れてくれ。きみが戻るまでに僕は出かける準備を整えるから」
ギアリーはこの日ヴァンドーヴァーをミッション地区に連れ出した。二人はケーブルカーで出かけた。ギアリーは中に座って朝刊を読み、ヴァンドーヴァーは前方のデッキに立ち、ギアリーが買えと言った物、石鹸、たわし、雑巾、ほうき、バケツを運んでいた。
終点近くで下車して横断し、ギアリーの不動産が立ち並ぶところまで行った。ヴァンドーヴァーは周囲を見回した。かつて彼自身の物件が立っていた土地は今、白い石の装飾が施された巨大な赤レンガの建物が居座っていた。正面玄関の両脇には、白い石の丸い浮き彫りがあって、表面には、決して労働者がかぶらない四角い紙の帽子をかぶった労働者の頭と、曲がった前腕と、巨大な上腕二頭筋と、決して労働者が使わない短いハンマーを握る拳が彫られていた。巨大な丸い煙突がひとつの角から突き出ていて、開いた窓から機械の大きなブーンとうなる音が聞こえた。そこは、ギアリーからこの土地を一万五千ドルで購入した大企業によって建てられた製靴工場で、その同じ土地をギアリーはヴァンドーヴァーから八千ドルで購入したのだった。
工場から通りを渡ったところに、小さな借家が立ち並ぶ長い街区があって、とてもこじんまりした家には、それぞれにキンレンカが育つ小さな庭がついていた。そういう借家が十五棟あり、空き家はそのうちの三棟だけだった。
「これは僕の思いつきなんだ」街区に近づく間にギアリーは言った。ヴァンドーヴァーにはわかるまいと思ったが、彼は説明をいとわなかった。「ここは硝酸塩の地層のように苦労のしがいがあるよ。僕には、こういう借家こそ、まさに家族を持つ工場労働者に求められているものだと見抜く賢さがあったのさ。製靴工場に僕の土地を売ったときに多少儲かったんで、それをこの借家に再投資したんだ。安くて使い勝手がいいんで、需要を満たすんだね」ヴァンドーヴァーはうなずいて同意し、漠然と自分のまわりを見た。借家を見たかと思えば今度は通りの向こうの大きな建物を見た。ギアリーは空き家の一棟の鍵を手に取って、二人は中に入った。
「さて、僕がきみにお願いしたいのはここなんだ」ギアリーは杖で回りをぐるっと指しながら話を始めた。「見てのとおり、退去者の中には部屋を汚しっぱなしで出ていく者がいるんだ。それだと人が下見に来たときに家の印象が悪くなる。僕はきみに家全体を片付けてほしいんだ。上から下まで、隅から隅まで、きれいにして、床を掃いて、ペンキのところを洗ってほしいんだ。そして、この窓なんだが、どれだけ汚いかわかるだろ、中側も外側も洗うんだけど、不動産屋の看板はどかさないようにね、わかったか?」
「はい、わかりました」
「さあ、ここを出て台所に行こう。こういう洗濯用のたらいとかあの流しを見てくれ。あの油汚れ全部だ! あれを全部きれいにするんだ。それとこの流しの下も。あそこにゴミがあるだろ! あれも片付けるんだ。今度はこっち……あの浴槽とトイレを見てくれ。住人がどれほど汚れたままにしていたかがわかるだろう。あれを新品同様にしたいだろ!」
「そうですね」
「今度は下に降りよう。ほら、床張りの小さな地下室になってるんだ。倉庫兼石炭置き場みたいなものだ。汚れとゴミのほとんどはここだね。そこを見てみろ! あそこで山積みになってるのが全部見えるかな?」
「見えます」
「あれを全部出して、裏庭に積んでおいてくれ。ゴミの収集人に来てもらって撤去させるから。やれやれ! この下に雌鳥の死骸があるな。まずはそいつを放り出してからだ」
二人は再び戻って家を通り抜けて、ギアリーはヴァンドーヴァーに小さな庭を指し示した。「あれの手入れを少しして、古新聞やブリキの缶を拾ってくれ。見た目をよくするんだ。さあ、僕が何をしてほしいかはわかったよね? この仕事をきちんとやって、この家が済んだら、この街区の次の空き家にかかってくれ。鍵は同じ場所にあるから。さっそく仕事にかかってくれ。今日の午後のうちにこの家を片付けてしまうといい」
「わかりました」ヴァンドーヴァーは答えた。
「僕は少し見回りして来る。一時間くらいしたらまた立ち寄って、きみの仕事ぶりを確認するよ」
そう言ってギアリーは立ち去った。これは土曜日の午後のことだった。土曜日は正午で法律事務所が閉まるので、ギアリーは夕方まで自分の不動産を管理することに時間を費やすことがよくあった。彼はヴァンドーヴァーを残して、ゆっくりと通りを進んだ。とても満足そうに一軒ずつ気にかけて、そのうちの何軒かに入って、主婦たちと話をした。男性はみんな工場に出払っていた。
ヴァンドーヴァーは古い脂ぎったカッタウェイコートを脱いで、作業を始めた。隣りの敷地の庭の蛇口からバケツで水を汲み、窓を洗い始めた。まず、アダムス&ブラントの看板を濡らさないようにとても注意して中から窓ガラスを洗い、それから窓枠に座って体の半分を家の中、半分を外を出して外側をきれいにした。
ギアリーはえらくご満悦だった。大家が来たという知らせが、借家から借家へと広がって、この一帯がちょっと騒がしくなった。主婦たちが家の前の階段や歩道に姿を見せた。かなりだらしない格好だった。コルセットもつけず、髪をおろし、洗濯中のたらいか調理中のストーブから直行したかのような色褪せた木綿の部屋着姿だった。主婦はさまざまな不満をかかえていた。こっちでは雨漏りがする、あっちではドアのベルが壊れた、ある種の悪臭がして、それが子供たちの顔の発疹に何か関係があるのではないか、などだった。主婦は少人数ずつギアリーに会うのを待った。おどおどとした、とてもうやうやしい態度だったが、何かにつけて文句を言うので、嘆く声がその場の空気に満ち満ちた。
ヴァンドーヴァーは窓の掃除を終えて、今は流しとたらいをきれいにしているところだった。ひどい悪臭を放ち、古い肉の脂、石鹸、すす、埃のべとべとに入り混じったもので、全体が汚れていた。たらいの注ぎ口のまわりには小さなカビが生え始めていた。流しの排水管は詰まっていて、目詰まりを解消するためには何度も指を突っ込まなければならなかった。キッチンはとても汚れていた。スイート油の古い瓶、カビの臭い酢、気の抜けたビールが、食料貯蔵庫の埃っぽい棚に散らかっていた。
一方、ギアリーは見回りを続けた。とても感じのいい満足そうな態度で、店子に愛想を振りまきながら、彼らの話を聞いて回った。彼は大きく構えて、店子の真っ只中でイギリスの貴族のような雰囲気を身にまとい、寛容な気立てのいい微笑みを浮かべて店子の不満に耳を傾けた。男性も少しはいた。そのうちの何人かは一時的な失業者で、他は病人だった。ギアリーはこの人たちを特に見下していた。彼が座るのは、店子の居間や、小さなごちゃごちゃした部屋で、むっとする室内装飾材や最後の食事の匂いがした。とても派手な、毛糸で編まれた椅子カバーが、大きな椅子の背もたれを覆っていて、隅っこには必ずといっていいほど飾り棚があって、貝殻の箱、壊れた温度計、マッチを入れておく葬式用の壺のような形をした小さな雪花石膏の瓶でいっぱいだった。主婦はとても汚い子供たちを連れてきた。子供たちの目は、ギアリーを真剣に見ているうちに、牛がまっすぐまばたきしないで見つめるように大きくなった。
このときまでにヴァンドーヴァーは流しとたらいを洗い終え、四つん這いになってキッチンの床の油汚れをこすっていた。水が冷たかったので、これはとてもつらい作業だった。ギアリーが戻ったとき、彼はまだこの辺の作業をしていた。この頃にはヴァンドーヴァーはかなり疲れて全身ががくがくした。背骨が真っ二つに折れそうな気がした。時々、作業を中断して、腰のくびれに手を当てて、目をつぶり、深呼吸をした。
「さて、どんな調子だ?」手袋をして帰る準備をしながらキッチンに入ってくるなり、ギアリーは尋ねた。
「ああ、順調にいってます」ヴァンドーヴァーは膝立ちになって答えた。
「急いだ方がいいな」ギアリーは答えた。「今日の夕方までにこの家を片付けないといけないんだから。僕は明日の新聞にここの広告を出したいんだ」
「わかりました。終わらせます」
「かなり汚れてたんじゃないか?」
「はい、かなり汚れてました」
「今日の午後は、いつもより少し遅くまでここで作業をしなければならないかもしれないけど、帰る前に確実にすべての清掃を済ませておいてくれよ」ギアリーは言った。
「わかりました」と答えてヴァンドーヴァーは再び作業に戻った。
まさに帰ろうとしていたとき、ギアリーは、借家の前の階段で家探しをしていた少人数のグループ、若い女性二名と小さな男の子、に出会うというありがたい幸運に恵まれた。その小さな男の子の母親は、自分は工場の研磨工のひとりと結婚していて、もうひとりの女性は自分の妹だとギアリーに説明した。
ギアリーは彼女たちにその小さな家を見せた。今この場で彼女たちを入居者に決めてしまおうととても熱心だった。彼は家の長所を並べ立てた。工場に近く、配管設備は万全で、浴室や据え付けの洗面台があり、小さな庭があって、立地がよくて通りの日がよく当たる側にあった。「僕はいい大家です」ギアリーはキッチンを案内する間に彼女たちに言った。「この借家一帯の誰に聞いてもそう言うでしょう。僕は家をきちんと修繕して、清潔にしておくよう心がけているんです。ほら、今だってここに掃除をしている者がいるでしょ」ヴァンドーヴァーは一瞬、女性たちを見上げた。女性二人と少年は、床に四つんばいになっている彼を見下ろした。それから彼は自分の作業を続けた。
「ここがキッチンですよ」ギアリーは説明を続けた。「キッチンがどれだけ広いか見てください。ほら、ここに、たらい、鉄製の流し、湯沸かし器、入居者が必要とするものはみんなそろってます。もちろん、今は少し汚れてますが、あの男が作業を終える頃には、あなたの顔と同じくらいきれいになってますよ。さあ、ここから下へどうぞ。地下室をお見せしましょう」
すぐに、キッチンの床越しに彼らの声が聞こえた。不明瞭な途切れ途切れの小さな声だった。それから戻って、またヴァンドーヴァーのそばを通り過ぎ、長いこと居間で立ったまま値段の交渉を続けた。この借家の家賃は十五ドルだった。この若い女性はその金額でこれを受け入れてもいいと思ったが、水道料金はギアリーが払うものと考えていた。ギアリーはこれに耳を貸そうともせずにつっぱねた。この街区の他の店子はみんな、自分の水道料金を支払っていた。若い女性たちは悲しそうに首を振りながら立ち去った。玄関前の階段を途中まで降りさせておいて、ギアリーは女性たちを呼び戻した。彼は妥協案を提示した。水道料金はこの若い女性たちが支払うが、最初の月の家賃は半額になるというものだった。研磨工の妻はそれでも躊躇して言った。「わかってるでしょうけど、この家はものすごく汚いわ」
「だから、ほら、こうしてきれいにしているでしょ!」
「徹底的にきれいにしてもらわないとね。私は汚いのが我慢できないのよ」
「汚れは徹底的に除去されます」ギアリーはねばった。「そうなるまでその男が作業に当たります。あなたが彼を監視して、あなたの納得いくように作業が進むのを見届けていただいて構いません」
「あのね」研磨工の妻はしぶった。「私は今すぐに入居したいのよ。その人が作業を終えるのを一週間も待ちたくないわ」
「でも、今夜にはこの家を片付けてしまいますよ」ギアリーは喜んで叫んだ。「とりあえず、あなたがこの家を借りたいことはわかりました。そういうすてきな人たちにこそここを借りていただきたいんですよ。あなたたちはいい住人になると思うんです。この家を借りたい人なら他にいくらでも見つけられるんですが、それがどういうものか、あなたならおわかりでしょ。たちが悪くて、家のことになるとだらしのない女、それに、汚い子供がたくさんいるものなんです。そこへいくと、あなたは汚れがお嫌いなんですって、わかりますね。これに決まりと言って、さっきの条件で行きましょう」
結局、研磨工の妻はこの家を借りた。ギアリーは、これを確定するために五ドルの手付金を払うように彼女を説得した。
ヴァンドーヴァーは地下室に降りて、前の店子に置いていかれたゴミの残り物、壊れた瓶、古いコルセット、死骸、錆びたベッドのスプリングでバケツをいっぱいにした。まず、雌鳥の死骸の片足をつかんで運び出した。それは身の毛がよだつほどおぞましいもので、部分的にネズミに食われ、膨れて、異常に重く、長期間床に置いてあったために片側が平らになっていた。彼は立つのがやっとで、かがむたびに背骨がはずれてしまいそうな気がした。ゴミを片付けてから床を掃き始めた。埃がひどく、息が苦しく、目が見えなくなるほどで、自分が何をしているのかもほとんど見えないくらい充満していた。やがてドアのところにギアリーの姿がぼんやりと見えた。
「あの人たちがこの家を借りたよ」彼は叫んだ。「僕はあの人たちに、きみが今日の夕方までにここを片付けると約束した。だから、終わるまで、残って作業を続けてほしい。もうやることはあまりないと思う。家の前の小さな庭も忘れないでくれよ」
「はい、忘れないようにします!」
ギアリーは帰った。ヴァンドーヴァーはさらに一時間作業を続けた。感情を表に出さず、頭は完全にからっぽで、自分がとても疲れていることと、背中が痛いことしかわからなかった。地下室の作業は終えたが、散らかった変色した新聞を拾いながら、小さな庭のまわりを動き回っていると、研磨工の妻が妹と小さな男の子を連れて戻ってきた。少年はバターを塗ったパンを一枚食べていた。女たちが再び家に入ると、あっちの部屋、こっちの部屋から声が聞こえた。再度、将来の自分たちの家を見て回っていた。どうやら近所に住んでいるようだった。
突然、研磨工の妻が玄関前の階段に現れて、小さな庭を見下ろして、ヴァンドーヴァーを呼んだ。かわいげがなく、男のような鼻をしていて、エラが張っていた。
「ねえ、ちょっと」女はヴァンドーヴァーに声をかけた。「あなたは室内がこれで終わったって言うつもりなの?」
「はい」ヴァンドーヴァーは背筋を伸ばして、うなずきながら答えた。「はい、終わりました」
「じゃあ、中に入って、これを見なさいよ」
ヴァンドーヴァーは女に従って小さな居間に入った。そこにはとても太った妹がいた。獣脂ろうそくと調理されたキャベツの匂いがした。少年は近くでまだバターを塗ったパンを食べていた。
「あの幅木を見なさいよ」研磨工の妻は叫んだ。「あなたはあそこに触りもしなかったわね、帽子を賭けたっていいわ」ヴァンドーヴァーは返事をしなかった。バケツに水を汲んで、たわしに石鹸をつけて、再び四つんばいになって、研磨工の妻が指摘した幅木の塗装部分を洗った。女二人はそばに立ち、彼の動きを見て指図した。少年は一部始終を見て、一言も喋らずに、ゆっくりとバターを塗ったパンを食べていた。頬についたバターとパンの跡が、口の端から耳まで伸びていた。
「どうしてあなたがあれを見落とすことになったのか、私にはわからないわ」研磨工の妻はヴァンドーヴァーに言った。「あんな汚い幅木を私はこれまで見たことがないわ。まったく! 私はもともと汚いのが我慢できないのよ! そこよ、あなた、あのシミを落とさなかったでしょ。あれは煙草のシミだと思うわ。戻って、もう一度洗い直してちょうだい」ヴァンドーヴァーは従った。片方の手にたわしを持ち、もう片方の手とふたつの膝を床について這って動いた。彼のまわりは、とても冷たい石鹸の泡が立つ汚い水たまりだらけになり、水が古びた「青いズボン」に染み込み、肌まで濡れたが、彼は気にしないでやり遂げた。「もう少し力を入れてうまくやりなさいよ」研磨工の妻は続けた。「そのシミを取るにはかなり強くこすらないと駄目よ。今度は床のこの辺全体をよくこすってね。あそこに線が見えるでしょ……あそこ全体が何かでベトベトしているわ。またたく間に虫がたかっちゃうでしょ。そこは、それでいいと思うわ。さて、他はすべてきれいになっているのかしら? ギアリーさんは、私が満足するまできれいにする、すべてきれになるまで、あなたはここにいるんだって言ってたわ」
彼女の声は突然、工場のサイレンの長い轟音にさえぎられた。その音はまるで絶対に鳴り止まないかのように鳴り続けた。時刻は五時半だった。ブーンとうなっていた機械のかすかな音は一瞬のうちに小さくなって、とまり、急な静けさを空気中に残して消えた。すぐに工員が大挙して正面入口から流れ出てきた。男性、若い娘、青年、みんながとても急いでいた。男性は階段を駆け下りる間に、コートの襟を直していた。いつもは静かな通りが、一瞬で混雑した。
研磨工の妻は妹と一緒に空き家の前の階段に立って、群衆が通りに流れて来るのを見ていた。突然、妹が叫んだ。「あそこにいるわ!」すると妻が、通りの反対側にいる労働者のひとりに片手を振りながら、叫び始めた。「オスカー、オスカー!」それは彼女の夫の研磨工だった。昼食入れのカゴをコートのポケットに押し込みながら、通りを渡ってきた。小心者の痩せた小男で、顔は白くふっくらしていて、薄い藁色のまばらな無精髭に覆われていた。彼のまわりには馬具屋のような臭いが漂っていた。ヴァンドーヴァーは、ほうきとバケツと石鹸を片付けて帰る準備をしていた。
「ねえ、オスカー、私はこの家を借りたのよ!」研磨工が家の前の階段をあがってくると、妻が話しかけた。「でも、水道代込みで十五ドルで貸すと言わせられなかったわ。大家のギアリーさんが今日ここにいたんで、私が彼と交渉したの。ここにいた人に一日中掃除をさせていたのよ」彼女は契約の内容を説明した。研磨工はすべてを了承し、ずっとうなずいていた。妻は研磨工に家を案内し、妹と少年は黙って後に続いた。「彼はいい大家さんだと思うわ」若い女は続けた。「この街区の誰もがあなたにそう言うわ。自分の家をきちんと修繕して管理しているんだもの。ねえ、見て、ここがキッチンよ。どんなに大きいか見てよ。ここには、私たちのたらい、私たちの鉄製の流し、私たちの湯沸かし器、私たちに必要なものがみんなあるわ。すべてがとても清潔なのよ。それに、流しの下の大きな収納スペースなんだけど、そこにいろんな物をしまっておけるのよ」彼女は夫に見せるためにその扉を開けたが、すぐに上体を起こして叫んだ。「あら、まあ……あなた、あんなの見たことある?」流しの下の収納スペースはものすごく汚れていた。ヴァンドーヴァーはそこを完全に忘れていた。
この小柄な研磨工は自分でもかがんでのぞき込んだ。
「ああ、こりゃ駄目だな!」と叫んだ。「あの男はもう帰ったのか? 帰しちゃ駄目だ。まずはこいつをきれいにしないとな!」彼は弱いかすかな声をしていた。図体と同じで小さく、おどおどしていた。急いで玄関の外に出て、ちょうど家の前の階段を降りかけていたヴァンドーヴァーを呼び戻した。二人はキッチンに戻って、流しの前に立った。「その下を見てくれ!」研磨工は甲高い声で言った。「これをそのままにしておいちゃいけないな」
「わかってるでしょ」彼の妻は抗議した。「すべて私たちが納得できるように片づけるんだったわよね。ギアリーさんはそう言ったわ。だから私はこの家を借りることにしたのよ」
「でも、もう六時になるわよ」調理したキャベツの匂いをさせながら太った妹は言った。「その人だって多分帰って食事したいでしょうに」しかしこれに対して二人は異口同音に叫んだ。「仕方がないよ、まずこれを片づけてもらわないことにはな」研磨工は叫び、妻は、私はもともと汚いのが我慢できないのよ、と抗議して言葉をつないだ。「すべて私たちが納得できるように片づけてくれるはずよ。まだ全然納得できないわ」この騒ぎを面白がって、少年はバターを塗ったパンを食べるのも忘れて、黙ったまま、片方からもう片方へと盛んに目をきょろきょろさせていた。
一方、ヴァンドーヴァーは反論せず、再び床に這いつくばって、流しの下の汚物を突っつき回していた。他の四人、研磨工と彼の妻と義妹と少年は、ヴァンドーヴァーの後ろで半円を描くように立って、彼がきちんと仕事をするのを見守り、どう作業を進めるべきかを指図していた。
「今度は確実にその下にあるものを全部どかしてくれよ」研磨工は言った。「わぁっ! 何て臭いだ! いつもゴミを溜め込んでやがったんだな」
「あの隅っこにあるのは何かしら?」妻が体をかがめながら叫んだ。「見えないわ。あの下は真っ暗ね……何か灰色のものがある。あなた、見えない、あの下よ? 確かめるには這って行かないとならないわ……行っちょうだい!」ヴァンドーヴァーは従った。彼のすぐ上には流しの配管があったので、体をもっと低くかがまなければならず、ついには腹ばいになった。流しの下の汚物、酸っぱいにおいのする水、油、ゴミの中でうつ伏せになって、研磨工の妻が見た灰色のものを手でさぐり、それを見つけて引っ張りだした。それは緑色っぽくなって毛羽立った古い豚の大腿骨だった。
「おい、お前!」研磨工は両手をかかげて叫んだ。「ほら,そんなものをうちのきれいな床に落とさないで、お前のバケツに入れてくれよな。さあ、残りのゴミも出してくれ、急いでくれよ、もう遅いんだ」ヴァンドーヴァーはまた流しの下を中ほどまで這って戻った。今度は、むせびたくなるほどのひどい悪臭を放つ固まった肉汁のようなものが半分入った錆びた鍋を運び出した。次は、古いストッキング、インクの瓶、壊れたネズミ捕り、注ぎ口のないひしゃげたティーポット、ゴムのホース一本、髪の毛がひとつかみ分くらい絡まった古い櫛、破れた長靴、新聞紙、前の店子が住んでいた間にたまりたまった他の大量のゴミだった。
「今度は雑巾で床をふいてくれよ」こうした品々の最後のひとつが運び出されると、小柄な研磨工は命じた。「あの不快な汚れを全部ふきとってね! あなたの膝の左側を見て! たわしであそこのあの大きな汚れをこするのよ……油汚れみたいだわね。その調子よ……一生懸命こすってちょうだい」妻は夫の指示につけ足した。ここが終わると、そこ、今度はあっちの隅、今度はこっちの隅、そして今度はたわしと石鹸を使い、今度は雑巾で乾拭きだった。遅くなる一方だったのでずっと大急ぎだった。しかし、この場で起きていることが面白くてたまらなくなった少年は、いきなり初めて沈黙を破って、バターを塗ったパンを頬張ったまま、金切り声で叫んだ。「おい! 起きろよ、この老いぼれの怠け者め!」
他の者は大笑いした。お目付け役にぴったりの賢い坊やがいるぞ。ああ、この子はこの母親よりも先に一人前になるな。あんな子供に、起こったことのすべての状況がわかるなんて大したもんだ。興味を持ったってだけのことだが。知っておくといい、子供は何でも見る、そして、年端もいかない子供なのに、びっくりするようなことをだしぬけに言い出すんだ。それもたったの四歳半なのに。彼らは少年が半ズボンをはいた最初の日を互いに思い出した。両手をポケットに入れて一日中家の前の歩道に立っていた姿を。関心がヴァンドーヴァーからそっちに向けられた。みんなは背を向けて、この少年のまわりに集まった。研磨工の義妹は、家族の誇りである自分の小さな娘について話をする番だと感じた。うちの娘は十二歳になるのよ。あんな小さな娘が小学校の最終学年の一つ前にいるのかって思うかしら? 担任は、実にすばらしい、これほど利口な生徒を受け持ったことがない、って言うの。ああ、でもね、あの娘がいつもどうやって本で勉強してるか知っておくべきだわ。来年はハイスクールに入学させようってことになるけど、もちろん、まだハイスクールに行く準備はできてないし、それに、そうやって子供を進学させるのは規則に反してるのよ。年齢が若すぎるから。でも、コネがあるのよ、わかるでしょ。まあ、確かにコネがあるのよね。娘にもちゃんと使ってくれるんだわ。研磨工の妻は聞いていなかった。自分の小さな息子に関心を引き戻したかったのだ。彼女は体をかがめて、息子の小さなジャケットを伸ばして言った。「バターを塗ったパンがいいのかい? まあ、欲しいものは全部お食べ!」しかしこの少年は母親に全然注意を向けなかった。彼はウケたのだ。野心が少年の中でうごめいた。話のわかる聞き手が喜んでくれることに味をしめ、バターを塗ったパンなどどうでもよくなっていた。さっきの成功をもう一度味わいたくなって、これまでにない金切り声で叫んだ。
「おい! 起きろよ、この老いぼれの怠け者め!」
しかし父親は息子をたしなめた……母親たる者は、息子を調子に乗らせて失礼な態度を取らせるべきではない。「そういうのはよくないな、オスカー」彼は首を振りながら言った。「お前はその気の毒な人に親切にしなければいけないよ」
ヴァンドーヴァーは深々と正座して背中を楽にし、他の人たちが話し終えるまで待っていた。
「それで、終わったんですか?」研磨工はか細い声で尋ねた。ヴァンドーヴァーはうなずいた。しかし、妻は念のために自分で収納スペースをのぞき込むまで納得しなかった。その間、夫は火のついたマッチを妻のためにかざしていた。「まあ、こんなものかしらね」よくやく彼女は言った。
もうすぐ七時だった。ヴァンドーヴァーは二度目の帰り支度を始めた。少年は彼の前に立ち、たわしと雑巾とほうきをひとまとめにする間、彼を見下ろしていた。少年はその間もバターを塗ったパンをゆっくりと食べていた。部屋の片隅で、研磨工と妻と義妹の間で、興奮した小声の話し合いが続いていた。「残業だろ……仕事をいとわないんだ……ほら、やった方がいいと思う、それを必要としてるみたいだし」という言葉が時々聞こえた。すぐに二人の女性は出て行き、少年についてらっしゃいと声をかけたが無駄だった。研磨工は部屋を横切ってヴァンドーヴァーのところに向かった。ヴァンドーヴァーは膝をついて、束ねたものを藁の紐でしばっていた。
「すまなかったね」研磨工はきまり悪そうに口を開いた。「夕食を食べられない目に遭わせるつもりはなかったんです……これなんですが」彼はヴァンドーヴァーに二十五セントを差し出して続けた。「さあ、これを受け取ってください、いいんですよ……あなたはうちのために残業したんですから、ほんの気持ちですよ。さあ、オスカー、おいで、私の息子」
ヴァンドーヴァーはベストのポケットに二十五セント硬貨をしまった。
「ありがとうございます」
研磨工は「おいで、息子、お母さんが夕食の支度をするのを待たせるんじゃないよ」と声をかけながら急いで立ち去った。しかし、少年は相変わらず興味津々でヴァンドーヴァーが床の上で最後の結び目を結ぶのを見ていた。支度を終えると、ちらっと見上げた。一瞬、二人はじっと動かないままその場にとどまり、互いの目をのぞき込んだ。床の上のヴァンドーヴァーは包みを縛った藁の紐に片手をねじ込んだ。少年は彼の前に立って、バターを塗ったパンの最後のひと口を食べていた。
ーー 完 ーー