第十七章
二年後のある土曜日の朝、ヴァンドーヴァーはリノハウスの自室で目を覚ました。この部屋に住み着いてもう十五か月だった。
リックハウスからは追い出されたと言ってもいいかもしれない。しばらく彼は、ギャンブルで勝ったお金で請求書の支払いをしようと考え、ここに自分の部屋を構えようとしていた。しかし、今や彼の不運は定着してしまった……ほぼ毎回彼の負けだった。ついにエリスとダミーは、自分たちが勝っても彼がお金を支払えなくなったので、彼とのプレイを拒否し、大喧嘩になった。エリスは、濃い髭の下から怒鳴りつけて彼と喧嘩別れした。ダミーはメモ帳に書いた……とても急いで怒りまかせに書いたので、文字はほとんど判読できなかった……僕は博徒、勝った分で生計を立てる連中、とはプレイしない。ふざけんなよ! 人は紳士でなければならないんだ。
次に、ヴァンドーヴァーはチャーリー・ギアリーからお金を借りようとした。ギアリーは、ヴァンドーヴァーが必要としている額は出せないと彼に伝えた。するとヴァンドーヴァーは激怒した。ギアリーがミッションから土地を事実上だまし取ったことを、かなり前から気づいていたからだ。そして、まさにこのとき、巨大な製菓会社が、かつてヴァンドーヴァーが所有していたその土地に建てられた工場を、完成させている真っ最中だった。ギアリーは、「取引」で七千ドルも稼いでいたのだった。このときギアリーが旧友に五十ドルを貸すのを拒否すると、ヴァンドーヴァーはことのほか憤慨した。大騒ぎになった。ヴァンドーヴァーは、自分が彼の「取引」をどう思うかを率直にギアリーに伝えた。二人は面と向かって「詐欺師」、「博打打ち」と叫び合った。事務所全体が騒然となり、ヴァンドーヴァーは力づくで追い出された。通りに続く階段の踊り場に座り込んで、膝を抱える腕の中で泣き叫んだ。部屋に戻ると、恐ろしい神経性の病気が突然ぶり返し、ベッドの下で吠えたり鼻をくんくんさせて鳴いた。
それからヴァンドーヴァーは銀行……残高不足を通知してきたばかりの銀行……に五十ドルの小切手を書いて、ヘイトに渡した。どうしてそんなことをするようになったのか、彼にはわからなかった。ギアリーがまんまと成功させた泥棒の影響だったかもしれない。あるいは彼がついにすべての原則、すべての名誉と誠実さを失ったからかもしれない。いずれにせよ、彼はあまり後悔を感じることができなくなった。彼はヘイトが自分の不正行為を訴えないことを知っていて、ヘイトの寛大さにつけこんだのだ。彼はただ五十ドルを手に入れたと喜んだだけだった。しかし、ヴァンドーヴァーはこのときまでに自分の卑劣さや堕落を驚きさえしなくなっていた。数年前にこれをしていたらそれを感じていただろうが、今や、どうせ盗んでも変わらないと思えるほど性格が激変してしまった。彼はヘイトが彼に抱いていた友情を壊してしまった。大学時代の仲間、親友を捨ててしまったのに、これも彼には影響を与えなかった。今は何も彼に大きな違いを作らなかった。
それにもかかわらず、ヴァンドーヴァーはヘイトのお金を盗んだ三日後にリックハウスを追い出された。その金で請求書の支払いを済ます代わりに、マーケット通りの新しいカフェの奥の部屋で、〈インペリアル〉の赤目のウエイターのトビーと、ドイツ人の「教授」を相手にギャンブルをやってすってしまった。教授はエッフェル塔の小さなデザインが入ったベストを着たビリヤードの記録係で、トマト・ケチャップという名前のトロッテイング・ レース用牝馬の三番目のオーナーだった。
ヴァンドーヴァーに今は残されたものは、債券、金利四パーセントのアメリカ合衆国の債券だけだった。これは彼に四半期ごとに六十九ドル、もしくは彼が取り決めたとおりに、月二十三ドルをもたらした。ちょうどこのとき、まるで奇跡か、機械から本物の神でもあらわれたかのように、ヴァンドーヴァーの弁護士のフィールド氏が、彼に多少お金を稼げる機会を見つけてくれた。人生で初めて、そしてたった一度だけ、ヴァンドーヴァーは生きるために働くというのがどういうことかを知ったのだ。フィールドが彼のために手に入れてくれた仕事は、鉄の金庫のラッカー塗装の表面に小さな絵を描くというものだった。赤と金の文字列の間に、小さな楕円形の風景……でこぼこの渓谷や、すべての帆を張った状態の海洋蒸気船や、水面を疾走中のヨットがいる山の湖や、白い小さな三角を二回塗って描いたボート、ひとつが帆で、もうひとつは水面に映った帆というもの……を描くのである。時には、大きな急行の貨車の両側に他の小さな絵を求められることもあった……たてがみと尾をたなびかせて開けた野原を自由奔放に疾走している二頭の馬、一頭は白で一頭は鹿毛とか、緑と黒の金庫に座っているとても獰猛なブルドッグとか、スタッズつきの首輪をしたマスティフ犬の頭部など。
こういう仕事の報酬と債券の利息を頼りに、安い下宿や安い食堂を渡り歩いて、ヴァンドーヴァーは何とか行き当たりばったりの生活を送ることができた。しかし、彼は二流の労働者以上ではなく、とても不規則な立場だったので、決して信頼されなかった。
再び絵を描き始めた瞬間に……たとえこんなに哀れで小さな絵でさえも……あの同じいつもの経験が繰り返された。指が思いどおりに動かず、考えたものを正しく反映できず、作品が雑に仕上がる結果に終わった。頭が急に麻痺して、目の奥に奇妙な緊張を感じた。しかし、ヴァンドーヴァーはとっくにこの症候に慣れていたので、筆を一度に一分も安定して持っていられなくなるほどの、腕全体の神経的なひきつりや痙攣がそのタイミングで続いて起きなかったら、こういうときでも、こういう症状など気にしなかっただろう。
彼は二年間この街を放浪して、あちこちで生活し、本当にその日暮らしになり、日々少しずつ沈み続けていた。もう、彼を知る者は誰もいなかった。以前にターナー・レイヴィスの生活から消え去ったのと同じように、ヘイト、ギアリー、エリスの人生からも完全に消えてしまった。彼らは最初の一年が終わる頃には、彼のことを考えることさえやめていた。ある日、エリスがバーバリー海岸近くのカーニー通りで、ヴァンドーヴァーが文房具店前の歩道の掲示板に張り出されたイラスト入りの週報の絵を眺めているのを遠目に見たと断言するまで、彼らはずっと彼が死んだと思っていた。エリスは、このときヴァンドーヴァーは以前に増して具合が悪そうに見えたと他の人たちに伝え、自分自身の話に首を振ったり、唇をすぼめたり、顎を突き出したりしながら、彼の外観をくわしく説明した。ヴァンドーヴァーはペンキで汚れた古い青のズボンをはいてたんだ。革紐でとまってたから、ベストの下のシャツが見えた。カラーはつけてなくて、顎鬚は伸び放題。まばらで薄かったから、髯越しにシャツのボタンが見えた。汚い鬚は、安酒場の無料のランチカウンターから失敬したクラッカーのカスだらけだ。みんなが彼と付き合いがあった頃にかぶっていた帽子をかぶってたぞ。しかし、今やその帽子が見ものでな!
これはすべて真実だった。ヴァンドーヴァーは少しずつ自分の外見に対する関心をなくしていた。もちろん、この頃の彼にきちんとした服装はできなかった。しかし、彼は見苦しさや清潔さにさえ気を使わなくなっていた。体もめったに洗わなかった。一年のうちでも寒い夜は、服のままで眠る習慣さえ身につけていた。
何も大きな違いを作らなくなった。心が徐々にどんどん曇っていき、愚かに、怠惰になった。明け方から暗くなるまで街中を歩き回った。足を引きずり、頭は低く垂れて、歩くたびに左右に揺れた。めったに話さなかった。目は死んだ魚の目のように、鈍く、どんよりと、くもって見えた。一定の間隔をあけて、躁病が彼を襲った。四つ足の何かになった奇妙な幻覚が、自分の中の獣が、今はとても大きくとても強欲になってしまったので、すべてを、自分自身さえも、自分のアイデンティティさえも、奪ってしまった……自分は文字どおり獣になったのだ……といういつもの空想が、彼を襲った。発作は収まっても、彼を驚嘆、当惑させ続けた。
ヴァンドーヴァーが十五か月暮らしたリノハウスは、カーニー通り下手のサクラメント通りにある一種のホテルだった。この地域は、バーバリー海岸はずれの貧民街で、古着の店、酒場、質屋、銃砲店、鳥屋、中国人職人の店が立ち並んでいた。カーニー通りの角を曲がると、入場が無料のコンサートホールや怪しげなクラブがあり、近くには古い広場があった。
ホテルの地下には、酒場が二軒、理髪店、ほうきの工場があった。宿泊するのはほとんどが「短期の滞在者」、二つの航海の合間に海岸をぶらつく船乗り、スウェーデン人、デンマーク人、国の遠方から来た農民やぶどう摘みや牛追い、職を求めて売り込む間そこにとどまっている日本人の料理人と弟子、だった。
ヴァンドーヴァーは、全生涯を通して自らが育み、ほとんどどんな状況でも満足できるように自らを導いた、あの致命的な環境への順応性が高じて、たちまちこういう連中のレベルにまで落ちぶれた。まるで、彼の中の獣が永遠に低いレベルを求めていて、堕落や泥沼の下へ下へ転げ落ちてゆき、下向きであることに、緩慢と無気力に、満足しているかのようだった。
土曜日の午前九時十五分頃。この年は雨季の始まりが早かった。まだ九月の半ばだというのに、雨が前の水曜日からずっと降りっぱなしだった。大きな猫が喉を鳴らすような、延々となだめつづける安定感のあるザーザー音は、ヴァンドーヴァーの部屋を心地よい音で満たした。部屋の空気はどんより汚れていて、料理や玉ねぎや不潔な寝具の匂いが耐えがたかった。かなり暖かくて、風通しが悪かった。ヴァンドーヴァーは半分目を覚ました状態でベッドに横になっていた。分厚く粗い毛布と汚れた掛け布団の下でうとうとしていた。靴とコートを除いたすべての服を着ていた。彼は暖かいことを喜び、寝具が熱を持つことも部屋の空気が悪いことも気にならないのがうれしかった。
隣の部屋では、ひどく酔っ払ったポルトガル人の果物売りが、洗面台の上でブリキのピッチャーと厚紙のお椀を相手に戦ったり、頭を濡らそうとしたり、ののしったり、ひどい音を立てたりしていた。終いには、それらを床にひっくり返して、思いっきりピッチャーを蹴飛ばした。この騒音でヴァンドーヴァーは目が覚めた。ベッドに起き上がって、体を伸ばし、両手で顔をこすった。ちょうどそのとき、下の階の事務所の時計が九時を打った。ヴァンドーヴァーは床に足をおろして、ベッドの端に座り、周囲をぼんやり見回した。いつもとても青白い彼の顔は、眠ったせいで脂ぎっていて、ずっと枕が当たっていたので片側が赤く、頬にはまだ折り目の跡が残っていた。長いまっすぐな髪は、もつれたたてがみのように目と耳のあたりに垂れ、髪よりもずっと明るい茶色の、薄いまばらな顎鬚と口髭は、顔の下側を覆っていた。鼻は長くてちんちくりんで、茶色の膨らんだ目袋は、目の下にぶらさがっていた。
白いシャツをかなりしわくちゃの汚れた状態で着て、低い立ち襟をつけた。普通に前に垂らして結んだ黒のネクタイはかなり脂ぎっていた。ズボンは縞模様で、色はスレートブルー……もとは既製服の店の「青いズボン」……だった。ベッドに座ったまま、ヴァンドーヴァーはぼうっとした目で部屋を眺め続けた。
部屋は小さかった。ずっと忘れられていた大昔は、石炭紀の地層の植物相のような巨大な花の模様が刻印された黄色っぽい壁紙で覆われていた。どっちを向いてもひとつの模様が無限に繰り返されていた。天井には新聞が貼られ、大きな正方形のとても汚い敷物が床を覆っていた。家具が少しあった。松で作られた、黒クルミの化粧板張りの、とても古めかしいものと、椅子が二つと洗面台とベッドだ。梱包用のロープで縛られた古新聞の大きな束が、片隅に蹴り出されていた。笠のないガス灯台が二本、整理タンスがあったはずの空間の上に長いアームの伸ばしていた。一枚窓の下にヴァンドーヴァーのトランクがあり、 その上に絵の具の箱と容器がのっていた。帽子はドアにネジ止めされたフックにかかっていた。その帽子はかつては黒かったが、ずっと前に緑に変色し、汗の染みがバンドのまわりに目についた。
ヴァンドーヴァーはゆっくり身支度をした。洗面台の上にかけられた安い鏡の前で少し髪をまっすぐに整えて、すぐ後で帽子をかぶって位置を合わせた。両手は前日の午後から厚紙の湯おけにあった汚い水で洗ったが、顔はそのままにした。コートを着た。数年前に彼の最高のものだった古いカッタウエイコートは、今の彼には極端に小さくて、胸はスープや肉汁による古い染みの点や線だらけだった。最後に靴を履いた。靴は新品だった。ヴァンドーヴァーはそれを二日前に一ドル九十セントで購入していた。靴下をはかなくてもいいように裏地がついていた。
ヴァンドーヴァーにとってひどい一週間だった。ペンキ屋が十日間仕事をくれなかったので、彼は債券の利息……つまり週五ドル七十五セント……でやっていかざるを得なかった。このうちの二ドル七十五セントが部屋代、一ドル九十セントが靴代に消え、火曜日の午後に、煙草一箱を十セントで購入した。土曜日の朝までに、七十五セントを食費に使ってしまった。
ペンキ屋が十分な仕事をくれたときに、あるレストランの一週間分の回数券を買うのがヴァンドーヴァーの習慣だった。ホテルでは食事をしなかった。ホテルは高すぎたからだ。回数券だと、二ドル二十五セント分の食事を二ドルで買うことができて、食事のたびに回数券で支払うことができた。
しかし、今週はこれができなかった。無料のランチサービスを頼りにせざるを得なかった。ヴァンドーヴァーは二年で多くを学んだ。食べ物の問題になると、彼の鈍くなった知性でさえ研ぎ澄まされた。彼の中の獣は、彼の優れた資質をすべて破壊したかもしれないが、その獣でさえ食事をとらないわけにはいかなかった。週の初めに仕事にあぶれたとき、この不測の事態に対する備えがヴァンドーヴァーにないわけではなかった。これは以前にも起きたことがあったので、彼は対処の仕方を知っていた。
月曜日にバーバリー海岸のあちこちを探し回って、バーと連携した無料のランチカウンターを設けている十五軒から二十軒の酒場を選び出した。このうちの一軒目で月曜日の朝食をとった。ビール一杯分の五セントを支払い、ランチカウンターで朝食の、シチュー、パン、チーズを食べた。正午は、彼の順路での二番目の酒場で正餐をとった。ここでまたビール一杯を頼んで、大皿のスープ、ポテトサラダ、プレッツェルを食べた。こうやって、この週は何とか食事にありついた。
日曜日の正餐はたらふく食べたい、少なくとも食事に二十五セントを費やしたい、というのがいつも彼が願ってやまないことだった。これは一週間ずっと楽しみにしていたことだった。しかし、仕事がないときに二十五セントを先取りするのは、とても大変だった。この週、彼は一日二食だけで過ごす決心をしてとりかかった。こうして一日五セントを節約すれば、日曜日の朝までに、三十セントがたまるだろう。しかし彼の決意は毎日揺らいだ。朝食のときは昼食を抜こうと決め、昼食のときは夕食を抜こうと腹をくくり、夕食のときは、少なくともこのときは決心を覆すことができず……明日の朝食を抜こう、と自分に言い聞かせた。しかし、その都度、毎回、彼の空腹は強すぎた。彼の意志がどうであろうと、足が否応なしに彼を酒場のランチカウンターに運んだ。ヴァンドーヴァーは生涯で一度も自制という習慣を身につけたことがなかった。今から始められるはずがなかった。
やがて土曜日の朝が来た。身支度をしている間に、明日の正午はどんな特別な正餐も期待できないことを悟った。この落胆は予期せぬ災害なみの威力を持っていた。彼は過ぎた週の自分の弱さを激しく後悔し始めた。ヴァンドーヴァーは突然、その日は終日食事をとらないことに決めた。これで十五セントの節約になる。何らかの形で正餐に使うつもりだった五セントに、これを加えれば、二十五セントはほぼできたも同然だった。彼は、二十セントで立派な食事ができる場所を知っていた。しかし、日曜日の朝食を抜く決心ができなかった。朝食は食べなきゃな、と独り言を言った。
身支度をすませるとヴァンドーヴァーは外に出た。幸い、雨はやんでいた。彼は悪臭を放つ湯気の立っている通りを抜けて、水辺からそう遠くない大きな青果市場のひとつに向かった。リノハウスで彼の隣の部屋にいるポルトガル人の果物売りが、ここの屋台に雇われていた。ヴァンドーヴァーは彼を少し知っていた。他の売り物に混じって置いてあったひび割れたココナッツのひとつの内側の皮から、薄い果肉を切り離すのは彼にとって難しいことではなかった。
ヴァンドーヴァーは午前中ずっとこのココナッツの薄い果肉を噛み、同時に大量の水を飲み続けた。この方法で何時間も空腹のしんどさを和らげた。腰かけの下で見つけた古新聞を読みながら、広場のベンチに座ってかなりの時間をつぶした。少し日が差してきた。ヴァンドーヴァーはこの暖かさをとてもありがたがった。次の朝まで持ちこたえるのは簡単だと独り言を言った。
時間を忘れていたので、町中の警笛が正午に鳴り始めたときに驚いた。ヴァンドーヴァーはたちまちまたお腹が空いてしまった。これまで以上に頑張ってココナッツの皮の小さな果肉を噛み、公共の水飲み場でたっぷり水を飲むのが精一杯だった。胸と胃の間のこの小さなじわじわと広がる苦しみが、不満を訴え始めた。立ち上がって歩き始めた。広場を後にして、カーニー通りを横断し、水辺にたどり着くまでクレイ通りを進んだ。船にまつわる仕事の中に、特に、巨大な石炭蒸気船の継ぎ目を叩いているコーキング工の一団を見物することに、ある種の気晴らしを一時的に見出した。留め金でしっかり留められた大きな鉄の杭に座って、下の黄色い水に唾を吐いた。船底の汚水やほぐした麻綱の屑や魚の匂いが空気に満ちていた。たくさんのマストが空を背景に灰色の迷路を作っていた。時々、遠くで砲撃をしているような音を立てて、空のトラックが人のない波止場を通り過ぎた。弱気がヴァンドーヴァーを襲った。小さな震えが、みぞおちから生れたように思えた。お腹がぺこぺこだった。明らかに、ココナッツの薄い切れっ端はもう効かなかった。彼はそれを飲み込んで、煙草に火をつけた。前の火曜日に購入した箱にまだ残っていた六本のうちのなけなしの一本だった。
ゆっくりと煙草に火をつけて、できるだけたっぷり煙を吸い込んだ。これで彼は一時間おとなしくなったが、その時間が終わる頃に愚かにもまた煙草を吸った……自分でわかっていたのかもしれないが……またすぐにひもじくなった。暗くなるまで、ひたすら水を飲み続け、材木の切れっ端や、爪楊枝や、わらしべや、顎を動かすことで胃の要求をごまかせそうなものを何でもいいから噛み続けた。夜七時半頃、リノハウスの自室に戻った。もし眠ることができれば、それが一番良かった。部屋にのぼっていく間に、ホテルの階段で、調理中の玉ねぎの強い匂いが突然鼻を突いた。おいしそうだった。ヴァンドーヴァーは長いため息をついて、目をつむりながらその温かい香りを吸い込んだ。大きな倦怠感が彼を襲った。どうすれば次の十二時間を乗り切ることができるだろうと自問した。
一時間後、彼は一日中飲み続けた水のせいで、しゃっくりをしながらベッドに入った。このときまでに、紙巻き煙草の一本の紙をやぶりとって、煙草を噛んでいた。これは彼の奥の手だった。必ず胃の具合が悪くなるので、極力困ったときしか頼らない手段だった。少し眠ったが、三十分後にまた目を覚まして、ひどい吐き気とむかつきに苦しんだ。胃の中には吐くものが何もなかった。ついに彼の空腹は、狼のように荒れ狂った。ヴァンドーヴァーは本当に苦しんでいた。
彼は、ポケットの中にある現金から、五セント硬貨一枚と十セント硬貨二枚から、考えをそらすことができなかった。食べたければ食べられる。この途切れることのない渇望は満たせるのだ。刻一刻と誘惑は強くなっていく。どうして朝まで待たなければいけないんだ? お金があるのに。一番近い酒場まで歩いてほんの数分だ。しかし彼はこの欲望に顔を背けた。ずっと長いこと辛抱してきたのに、ここで屈するのは残念だ。結局のところ、僕はそれほどお腹は空いていないんだ。だめだ、だめだ、僕は屈しないぞ。僕は十分強いんだ。自分の意志に従う限り、屈服の必要はないのだ。これはただ、僕の心の強さを示す、僕の善良な部分を呼び覚ます、という問題でしかない。食べることよりももっとずっといいのは、自分が下等な獣の食欲よりも強いこと自分に示したことを知る満足だ。だめだ、僕は屈しないぞ。
この決心にたどり着いてから一分としないうちに、ヴァンドーヴァーは自分がコートを着て靴をはき、外出の……外出して食事をする……支度を整えていることに気がついた。
部屋のガスが灯されて、五セント硬貨一枚と十セント硬貨二枚のお金が片方の拳に握りしめられた。彼は片手で服を着ていた。意気込んで、慌てふためいて服を着ていた。何が起こったのだろう? 彼は自分自身に驚いたが、一瞬たりとも整った支度を点検しなかった。彼は意志に関係なく、立ち止まることができなかった。彼の中には彼自身よりも強い何かがあった。彼を立ち上がらせ、街の中へと駆り立て、食べ物をほしがって騒ぎ、否定されることのない何かだった。それは彼の中にいるあの動物だった。食事を与えれられることになるあの獣だ。今やこの邪悪で醜悪な獣は強くなってヴァンドーヴァーでは抵抗できなくなっていた……この獣はずっと前に彼の優れた資質をすべて破壊してしまったが、依然として食べ物をよこせと要求し、生きることを要求した。ヴァンドーヴァーは一日かけてためた少しばかりのお金のすべてを、その夜、バーバリー海岸の喫茶店、レストラン、酒場で使い、空腹が満たされた後でさえも食べ続けていた。明け方、部屋に戻って、着の身着のままで、顔を下にして、粗末な毛布と脂ぎった掛け布団の間に飛び込んだ。彼は八時間近くも、長いいびきをかいて、うつ伏せのまま、ぴくりともせずに、食べ物をたらふく詰め込んだ状態で、ぐっすり眠った。
目が覚めたのは、日曜日の午後の真っ昼間だった。起き上がると、広場に行って、ベンチのひとつに長いこと座っていた。とても明るい午後だった。ヴァンドーヴァーは太陽の下で長時間動かずに座っていた。たらふく食べたものは消化され、とても幸せで、暖かいことと、十分に食べられたことと、心地いいことにただ満足していた。