表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
16/18

第十六章


リックハウスのその特別室は建物のかなり奥の方、上の方の階にあり、窓からはテレグラフヒルの急勾配に向かって少しずつ高くなる、広大な屋根の一帯が見渡せた。そこは、電線が灰色の迷路のように張り巡らされ、複数の煙突を組み合わせた煙突が何千と突き刺さった、汚い、(すす)けた荒野だった。屋根の多くは、錆と煤とで黒くなってからずいぶん経つブリキで覆われ、乾かすために吊るされた衣類があちこちに見受けられた。もっと大きなビルのいくつかの側壁には、ときどき巨大な看板が掲げられていた。煤けた茶色と灰色の真っ只中に、真っ黒と真っ白という著しく対照的のものが、煙草や新聞やデパートを宣伝していた。それほど遠くないところで、二本の高い黒ずんだブリキの煙突が、豪華客船のようなとても大きな一本と、漏斗形のピークキャップをつけた細くて形のいい一本が、スチーム式の洗濯工場の屋根の上で空高くそびえていた。これらの煙突は昼も夜も煙をあげていた。最初の大きい方の煙突は、不機嫌な戦士の羽飾りのようにゆっくりと休まず揺れているどす黒い煙を、とても陰気にもくもくとあげた。もう一本の高くて細い方の煙突は、一度に三つ、小さな白い煙を続けざまに吐き出した。煙はたくさんの白い鳩のように浮き浮きと楽しそうに空に立ちのぼって、最後は見えなくなり、もっと高い日差しの中に溶けて、別の煙にただあとをゆずった。煙は一度に三つ出た。咳でさえぎられた笑い声のように鋭い派手な音をあげて、排管は煙を放り出していた。


しかし、部屋の内装はホテルの寝室によくある退屈なものだった……何の愛想のない、嘆かわしいものだった。


壁は白塗りで、絵も装飾品もなく、床はさえない赤いカーペットで覆われていた。家具は「セット」のものだったので、全部が似通っていた。中に入ると、右側の壁に面してベッドがあった。大きなダブルベッドで、ベッドカバーと枕カバーの隅にホテルの名前があった。部屋のど真ん中の、ガス器具の真下にセンターテーブルがあり、氷水の入ったピッチャーがのっていた。部屋の片側の何もない真っ白な単調さは、鉄製で黒塗りの格子とマントルピースで破られた。マントルピースの上には、先端を切った円錐形の、側面に(うね)のある、小さな陶磁器のマッチ箱があった。煙突の真向かいは箪笥で、片側はクローゼットのドア、その反対側にあたる部屋の隅には、据え付けの洗面台があって新しい石鹸と三枚の清潔で高級感のあるタオルが置いてあった。ドアの左側の壁には電鈴(でんれい)とその使用説明書があった。ドアそのものには、食事の時間、ホテルのルール、宿泊業者の責任を定めた法令の抜粋がすべて真っ赤な文字で印刷されていた。すべてが清潔だった。挑戦的に、攻撃的に清潔だった。空気中には新しい石鹸の清潔な匂いがした。


しかし、この部屋は何の個性もなかった。そこで暮らし、おそらくは苦しみ、そこで死んだ何百人もの人たちは、何の痕跡も、何の兆候も残さなかった。彼らのさまざまな性格は、その雰囲気や外観にこれっぽっちも印象を残さなかった。箪笥の引き出しのひとつの底にヘアピンが少し散らばっていただけだった。クローゼットの一番上の棚に忘れ物の薬のビンが二つ残されたままだった。


これが、サッター通りの巨大なアパートの続き部屋を出た後で、初めてここに来たときのヴァンドーヴァーの新しい家の概要だった。彼はもうここに一年以上住んでいた。


すべては、アパートの大家に家具を差し押さえられたことから始まった。知らぬ間に、彼は六か月分の部屋代とまかない代を滞納してしまい、この請求書に利子を加算すると、千ドル近くにまで膨れ上がっていた。最初、彼はこれを信じようとしなかった。自分の知らないうちに、請求書が積もってこんな大きくなるなどありえなかった。彼は間違いだと言い放って、差し出した事務員に請求書を投げ返えし、信じられないとばかりに首を振った。相手は怒って、店の帳簿を見せてやると言った。管理人まで呼ばれて、数字、日付、記載事項からの抜粋によって事務員の計算書が正しいことを証明しようとした。ヴァンドーヴァーは相手の騒がしさに混乱して今度は怒り出した。だまされるつもりはないと大声で叫ぶと、相手は激怒で応酬し、この話し合いは大騒ぎで終わった。


しかし最後は彼らが自分たちの言い分を通した。彼らは正しかった。ついにヴァンドーヴァーは説き伏せられて、自分が間違っているとわかったが、手元にお金がなかった。債券を手放すか、家に追加の抵当を設定するかを渋ってぐずぐずしている間に、ホテル側が二度の警告の後に、いきなり家具を差し押さえた。ああ、惨めだこと! 


一瞬にして、彼からすべてが奪われた。彼が大喜びして買い、大きな幸せと、大きな満足と、決して尽きることのない喜びを感じてその中で暮らした、すべての美しい骨董品、すべてのすてきなもの、すべての小さな美術品が。すべてがなくなった……ルネッサンス時代の肖像画、パイプ立て、老紳士が死んでいた椅子、アッシリアの浮き彫り、そして中でも最悪なのが、あのストーブ、あのすてきなタイル張りのストーブ、美しく華やかに装飾が施されたあの愉快で楽しい鉄のストーブだった。差し押さえ後の最初の数か月、ヴァンドーヴァーは怒りと失望とで荒れ狂い、自分がああいう部屋以外のどこにも住めないことを確信した。まるで自分が根こそぎにされて、どこかの不毛の、自分とは全然合わない土地に放り出されたようなものだった。彼はホテルの新しい部屋が嫌で嫌でたまらなかったので、長いことそこを睡眠と洗濯ができる場所としてしか使わなかった。彼の柔軟な性格でさえ、こういう環境に順応するのをずっと嫌がった。四つの巨大な白い壁、漆喰の天井、暗い赤のカーペットに囲まれるのを嫌がった。彼は時間の大半をよそで過ごした。朝は機械工図書館で新聞を読み、午後はカーニー通りとマーケット通りで行ういつものちょっとした四時の散歩の時間まで、ホテルの受付や談話室の近くで座っていた。彼はかなり前からこの散歩道の見慣れた人物になっていた。女性やフロッシーのようなタイプの少女でさえ、この疲れてしょぼくれた目をした青白い顔の、背の高い痩せた若者に興味を持つのをやめていた。しかし、ある日、奇妙な出来事が一瞬、急な劇的関心をヴァンドーヴァーに向けさせた。それは彼がリックハウスに引っ越した直後、ミッション地区の土地を売却してひと月くらいしてからのことだった。ヴァンドーヴァーはカーニー通りとマーケット通りの角にあるロッタの噴水のところに立ち、警官と二人の青年が転倒した馬の馬具をつけ直しているのを見るのに気を取られていた。突然、彼は通りにベタッと倒れ込んだ。花売りのひとりを突き飛ばしてもう少しでひっくり返してしまうところだった。酔いつぶれたように、腕組みしたまま腕を下敷きにして、地面に衝突した。帽子が泥の中に転がっていった。当惑したまま、体を起こした。彼が倒れるのを見た人はほとんどいなかったが、これに小さな人だかりができた。ひとりが、酔っぱらっているのかと尋ねた。ヴァンドーヴァーは警官が護送車を呼ぶのを恐れ、急いで立ち去って近くの地下の床屋に行き、ずっと当惑したまま、取り乱し、何が起きたのだろうと考えながら、そこで身なりを整えた。


ヴァンドーヴァーが経験した恐ろしい神経性の危機はゆっくりと収束していた。少しずつ徐々に、再び自分を取り戻していた。しかし頭には奇妙な麻痺が残った。そして、ある特定の方向に考えが集中するとすぐに、長時間読書をするとすぐに、特に深夜だったりすると、麻痺は大きくなった。目の奥のどこかで奇妙なぼんやりした霧が立ちのぼるように見えた。彼はどんな問題にも頭を集中できないことに気がついた。印刷されたページの言葉は少しずつ意味を失っていった。最初これは彼にとって無限の恐怖の原因だった。これを何かの精神的な崩壊が近づいている症状だと想像したが、数週間過ぎて何も異常が起こらなかったので、慣れてしまい、心配するのをやめにした。もし読書をして頭に異常を感じるのなら、治療は簡単だった……読書をしないだけでいい。彼は大変な読書家で、かつては小説のページに没頭してたくさんの楽しい午後をよく費やしたものだったが、今はあっさりと気にもせずこのすべてをあきらめた。


しかし、これだけでは終わらず、この発作は彼の神経全体の調子を狂わせた。ちょっとした午後のカーニー通りとマーケット通りの散歩でさえ彼を疲弊させた。些細な突然の物音、ドアの閉まる音や時計の時を刻む音が、息を呑んで心臓をドキッとさせて、彼をその場から跳び上がらせる原因になった。何も原因がないときでさえ、夕方にかけて、この小さな神経の痙攣がときどき彼を襲った。今では最初にこの一連の嫌気と発作をひととおり経験しないことには眠りに落ちることができず、時には彼を乱暴に起こして座らせてしまうことがあった。呼吸が短く早くなり、心臓がドキドキし、自分でも何なのかわからないものに驚いた。


最初は医者に診てもらうつもりだった。しかし予定を先延ばししているうちに、このすべての問題に慣れっこになっていた。これ以外は順調で、食欲は旺盛で、最終的に眠りについてしまえば、少なくとも八時間は目が覚めなかった。


しかし、最初の危機から約三か月後のある晩、前回の発作が体と心に残した状態にヴァンドーヴァーがちょうど慣れた頃、二回目の発作が起こった。これは恐ろしく、最初の時よりもはるかにひどいもので、今回は疑いの余地がなかった。ヴァンドーヴァーはすぐに自分が本当に正気でないことを知った。


エリスは午後のほとんどをヴァンドーヴァーと一緒にいて、六時近くまでヴァンドーヴァーの部屋で二人でカードをしていた。午後はずっとウイスキーを飲んでいて、その間カードに興じた。夕食の時間までどちらも全然食欲がなかった。エリスは今食べたら気分が悪くなると言って降りるのを断った。ヴァンドーヴァーはひとりで降りて行き、いったんダイニングに入ったものの、自分も食べられないことに気がついた。しかし、それがウィスキーのせいではないことは知っていた。二日間、食欲不振が続いていたのだ。食べ物の匂いでむかむかしたので、夕食のテーブルを離れた。吐き気が長く続く予感がしたので、殺風景な嘆かわしい自分の部屋に向かった。エレベーターと自分の部屋の間の誰もいない廊下で、突然、二回目の危機が彼を襲った。それはあまりにも突然で、まるで敵が影から飛び出して、背中に飛びかかり、背後からつかんで、しっかり抱きつきでもしたかのようだった。再び病的な興奮が枯れ葉のように彼を揺さぶった。小さな神経性の発作が急に起こって、一斉に広がり、混ざって、ひとつの長い震えとなって恐怖に打ち震えた。未知の何かに対する先の見えない合理性のない恐怖だった。麻痺が頭脳を制圧して、やがて意識がどんどん薄れてただの点になり、ありがたいことに、波打つ神経の苦痛を和らげた。両手と頭が急速に途方もない大きさに膨れ上がっているように、彼には思えた。


彼は以前にもこれをすべて感じたことがあった。これは彼の古くからの敵だったが、今、この二回目の発作とともに、新しい、さらに奇妙な感覚が始まった。ゆがんだ精神の中で、彼は自分が何だか変形している、別の人間になっている、と想像した。さらに悪いことに、自分がもはや人間ではなく、一瞬にして何かの恐ろしい獣のレベルにまで落ち込んでいるように思えた。


その同じ日の夜遅く、エリスは劇場から出てきたヘイトに会って話をしたが、ヘイトはこれを信じなかった。エリスはとても青ざめていた。ヘイトには、彼が何かものすごい興奮を抑えようとしているように思えた。


「もしあいつが酔っ払っていたのなら」エリスは言った。「あれは僕がこれまでにお目にかかった中で一番変な酔っぱらいだったよ。あいつ、四つん這いで部屋に戻って来たんだ……それも手と膝をつくんじゃなくて、わかるかい、手のひらとつま先をついて床を走り回るんだ……頭で部屋のドアを押し開けて、犬のようにその隙間に鼻を押し付けてたんだからな。いやぁ、あれは怖かった。ヴァンに何があったのか、僕にはわからないよ。きみもあのざまを見ておくべきだったな。頭は低く垂れ下がっていて、移動のたびに左右に揺れるんだ。目を覆うように、髪全体を振り乱してな。歯をガチガチ鳴らし続け、ときどき喉の奥で唸り声のように低い調子で『(ウルフ)……(ウルフ)……(ウルフ)』って言うから、僕はしっかりつかまえて、両足で立たせてやったんだ。まるで眠っているようだったよ。僕が揺さぶると、突然目を覚まして笑い出す始末さ。僕は言ってやったよ。『どしたんだ、ヴァン、どうしてそうやって床を這ってるんだ』ってね。すると『知るわけないだろ』って、目をこすりながら言うんだ。『どうやら、僕は頭がおかしくなったに違いない。ウィスキーを飲み過ぎちまったな!』さらに『僕をベッドに寝かせてくれよ、バンディ? ヘトヘトだよ』って言うから、僕はあいつをベッドに寝かせて消臭カリウムを取りに行ったんだ。それがあれば眠れて神経が落ち着くって言うもんだからね。戻って来るときに、僕はヴァンドーヴァーの部屋の外でちょうどベルボーイに会ったから、そいつにホテルの医者に往診を頼んだんだ。いいかい、僕はまだ部屋のドアを開けてはいなかったんだ。すると、僕がベルボーイに話している間も、部屋の中で何かが四つん這いで行ったり来たりしている物音が聞こえたよ。僕が中に入ると、ヴァンが素っ裸で、壁伝いに行ったり来たりして、とても低い位置で頭を揺らして、ぶつぶつ独り言を言ってるんだ。でも、僕が体を揺さぶってやるとまた目を覚まして、ひどく恥ずかしがった様子で、ベッドに直行したよ。やっとのことで眠りについたんで、僕は医者をあいつのところに残して、自分の神経が休まるものを何か取りにそこを出たというわけなんだ」


「医者の診立ては?」ヘイトは恐る恐る尋ねた。


「『狼憑き』だとさ。僕はこれまでそんな病名を聞いたことがない……何かの神経性の病気だな。ヴァンはかなり急ピッチで飲んでたと思うし、それに、悩み事もずいぶん抱えていたと思うんだ」


*  *  *  *  *


発作は再び治まった。ヴァンドーヴァーは疲弊し、全神経はぴりぴりし、健康は損なわれた。毎日、痩せ細っていく気がした。目の下には大きな茶色のくぼみができ、額の皮膚は青く見えてぴんと引きつった。深刻な憂鬱が次第に彼を弱らせ、これがいつまでも続いた。何ものも彼の興味を引かず、何ものもにも価値がないように思えた。彼の神経はただ調子が狂っただけでなく、疲れて鈍くなって(たる)んだのだ。それらはまるで、とても長い間とても激しく弾かれてきたので、すごい強風にでも()でられない限り、もはや震えることができなくなったハープの弦のようだった。


ヴァンドーヴァーが予見していたとおり、彼は再び悪いものに、今や繊維細胞レベルで我が身に編み込まれた悪いものに、徐々に彼を完全に占有せんとする獣の生態に、戻ってしまった。しかし彼はもう悪いことにさえ喜びを見出さなかった。それはかつて楽しみだったが、今は日常だった。それは、絶えず彼を苦しめ始めていた最近のあの恐ろしい神経疾患を和らげるように思えた唯一のものだった。


しかし、彼を楽しませることができるものが何もなかった反面、彼を不安にさせられるものも何もなかった。終いには、神経の乱れが彼を悩ませることさえなくなった。彼は完全な無関心の境地に到達していたのだ。自分の柔軟な性質を、何度も自分の変化する環境に合うように再調整してきたので、ついには自分がほぼどんな環境でも満足できることに気がついた。彼には、喜びも、気がかりも、野心も、後悔も、希望もなかった。単なる受動的な存在だった。自分からは動かず、植物のようにぼんやり生きていた。最終的な堕落を前にしたひとときの活動停止であり、最後の避けられない退廃だった。


リックハウスでの生活が一年近く続いたある日のこと、不動産業者の〈アダムス&ブラント〉がカリフォルニア通りの彼の土地に問い合わせがあると知らせをよこした。それは彼の持ち家だった。ヴァンドーヴァーの家を借りていた青果連盟会長のイギリス紳士が、今、それを買う気になっていた。このときまでに事業の基盤が確立し支払いも順調だったので、サンフランシスコに家を構えることに決めたのだった。彼は家具込みでその家に二万五千ドルを提示した。


ブラントは何回かヴァンドーヴァーと話をして、簡単に売却を勧めた。「自分でも計算してみるといいですよ、ヴァンドーヴァーさん」彼は自分で計算したものを示しながら言った。「市内ではこの十年、不動産の下落が続いています。競合する鉄道が開通するまで土地は下落し続けるでしょう。売れるときに売った方がいい。二万五千ドルなら妥当な金額だ。もちろん、抵当の分は精算しなければなりません。あなたがそこから得られる金額は約一万五千ドルですが、同時にその抵当分の利息を銀行に払う必要がなくなります。ひと月それだけのものを払わずに済むわけです。その一万五千ドルであなたが得られる、そうですね、六パーセントを加えれば、月々現在の家賃とほぼ同じ収入が得られるでしょうし、その方がはるかに確実でもあるんですよ。仮にあなたの店子(たなこ)が出て行ったら、そのときあなたはどうなりますかね?」


「わかった、わかったよ」ヴァンドーヴァーは漠然とうなずきながら答えた。「話を進めてください、僕は構いません」彼はミッションの土地を手放したのと同じくらい無関心に自分の古い家を手放した。


ヴァンドーヴァーは自分の持ち家をなくす権利書にサインし、ほぼ同時に最初の支払いがなされた。彼名義で銀行のひとつに一万ドルが預金され、その金額の小切手が送られた。翌日、ヴァンドーヴァーはそこから五百ドルを引き出した。


一度は、以前住んでいた大きなアパートから家具を買い戻し、それを使ってリックハウスのパッとしない寝室をもっと自宅のようにしたいという野心を持っていた。見知らぬ人にこの家具を使わせたり、老紳士が死んでいた立派な革椅子に座らせたり、ルネッサンスの肖像画やアッシリアの浮き彫りの複製をぼけっと見つめさせたりしておくのは沽券に関わると考えた。とりわけ、自分以外の手があのすてきなタイル張りの派手なストーブ、生きている人のように気分屋で気まぐれなストーブ、おだてて機嫌を取らねばならないストーブ、自分だけが理解できるストーブの手入れをするのか、と思うと拷問だった。もしこの先再びお金に余裕ができれることがあればこの家具を取り戻そう、と自分に言い聞かせていた。最初はこれがないことが、最大の無念と深い悲しみのもとだった。快適な環境に慣れていたので、刑務所のようなこの新しい部屋にいるのはみじめだった。彼の気ままで贅沢な性格は、落ち着いた感じの、調和のとれた色、絵画、装飾品、柔らかい敷物を絶えず求めていた。彼の想像力は永遠に、その白い壁をザラザラの灰色がかった柔らかい青の壁紙で覆い、その冷たい殺風景な部屋のいろいろな場所に、間仕切り、低いソファー、窓際の椅子を置き続けた。ある朝、ホテルの便箋をねじって巻いてインクスタンドに浸したものを使って絵を描いた小さなビラを、壁中にピンで留めるほどにまでなっていた。「パイプラックはここ」「モナリザはここ」「ストーブはここ」「窓際の席はここ」客室係のメイドに注意されてもエリスに冴えない皮肉を言われても、彼はずっとこれらをそこに置いておいたのだ。


しかし、今はたっぷりお金があった。一週間以内に家具を取り戻すつもりだった。ポケットにお金を入れて銀行から戻ると、すぐにアパートの所有者に手紙を書こうとぼんやり考えながら部屋に直行した。しかし背にしたドアを閉めて、寄りかかってあたりを見回すうちに、さっきまでの欲望がなくなったことに突然気がついた。この環境にすっかり慣れてしまったので、ここがわびしく、哀れで、殺風景であろうがなかろうが、もう彼には全然違いがなかった。これは彼の他のすべての小さな野望と同じだった……彼はそういうものに対する興味をなくしてしまったので、結局、何も大きな違いを生まなかった。お金ができるのが遅すぎたのだ。


もう自分を楽しませることができないものに、 どうして五百ドルも費やさなければならないのだろう? どこかで楽しいひとときを過ごすことにそのすべてを費やした方がはるかに賢いだろう……フロッシーとのシャンパン・ディナーか、競馬で賭けをやるか……何がしたいか、自分でもはっきりわからなかった。このいずれかでさえ、自分をあまり楽しませないのは確かだ……習慣としてこういうものに落ち着くだろう。ついでに言うと、何もかも退屈だった。ヴァンドーヴァーは何かの新しい娯楽を、何かの過激で試したことない興奮を、強く求め始めた。


ギアリーにはミッション街区の土地が売れてから、ほとんど会っていなかった。ヘイトは、彼がターナー・レイヴィスと別れて以来、仲間ではなくなっていたが、徐々にエリスや彼の友人のダミーとつき合い始めていた。ほぼ毎晩、三人は一緒にいた。ある時は劇場で、ある時は〈インペリアル〉の奥の部屋で、またある時は特定の家の居間にさえ入り込んで、厚手のシルクや糊で硬いスカートの衣擦れに囲まれた。時には週に四夜、酔っ払うことがあった。そして、こういう場合、エリスとヴァンドーヴァーの間では、ダミーをたっぷり酔わせて話ができるようにしてしまおうと暗黙のうちに了解が成立した。


しかし、エリスの悪癖はギャンブルだった。彼とダミーはたびたび徹夜でカードに興じた。ヴァンドーヴァーがエリスの影響をどんどん強く受けるようになると……チャーリー・ギアリーの影響に屈したのと同じくらいだらしなくカードに屈して……こういうパーティーに参加するようになった。彼らは一ゲーム五ドルでブラックジャックをやった。ヴァンドーヴァーは負けたのと同じくらい買ったが、カードの習慣は着実に身についた。


五百ドル引き出したその日の夜十一時頃、ヴァンドーヴァーは二人の友人を探しがてら〈インペリアル〉に行った。いつものように、エリスが小部屋のひとつでひとりでウイスキーを飲んでいるのを見つけた。十五分後にダミーとフロッシーが彼らに加わった。フロッシーは、ヴァンドーヴァーが初めて彼女に会った約十年前よりも太っていた。二重顎になり、腫れぼったい変色した(くま)が目の下にできていた。今は髪が染められ、頬と唇には紅が塗られ、健康と健全な精神からなる以前の雰囲気はなくなっていた。全然笑わなかった。煙草をたくさん吸っていたので、今では声がささやき声より大きくなることはほとんどなかった。かつては、酒はやらないとよく自慢し、それが彼女がよく知られるきっかけになった彼女らしい特徴のひとつだったが、今回はエリスと一緒になって彼のウィスキーを飲んだ。昔決めた禁酒のルールを破ってかなり経ち、今ではウィスキー以外のものは何も飲まなかった。飲める量でも有名になっていた。


四人は三十分ほど、小さなテーブルを囲んで、当時建設中の新しい巨大なスートロバスについて話していた。しばらくしてフロッシーが席を離れ、ダミーがカードを配る動作のまねを始めて、同時に周囲の顔色をうかがった。


「どうだい、バンディ?」ヴァンドーヴァーは尋ねた。「今夜、一勝負やらないか?」


この口数の少ない男はただうなずいて、残りのウィスキーを一気に飲み干した。全員がヴァンドーヴァーの部屋にあがった。ヴァンドーヴァーはカードとセルロイドのチップと新しい葉巻の箱を取り出した。ダミーは左手の指を二本立てて、その後右手でそれを収め、歯の間からシューと音を立て、ヴァンドーヴァーに向かって眉をあげた。ヴァンドーヴァーは了解すると、ベルボーイを呼んで、サイフォンボトルに入ったソーダを三本注文した。


ケームは「ヴァンテアン」、俗に言うブラックジャックだった。カードを引いてディラーを決めた。エリスが最初のエースを出して、ヴァンドーヴァーは彼から親を買った。最初の一時間は、笑ったり、互いに話したり話かけられたりしながら、とても楽しくやっていた。ダミーは特に雄弁で、絶えずメモ帳に走り書きをして、それを他の人たちに向けていた。しかし、相手が返事を書く必要はなかった……彼は唇の動きを見ればわかるからだ。運の行方はまだはっきりしなかった。誰も大負けも大勝ちもしていなかった。ベルボーイがサイフォンを運んできた。ダミーがコートを脱ぐと、他の二人もそれに倣った。彼らはみんな煙草を吸っていた。鼻を突く青い煙が部屋に充満し、どのガス球のまわりにも金色のもやがかかった。


しかし、徐々にギャンブル熱が彼らをとらえた。幸運がその姿を見せ始め、エリスとダミーの間を交互に行き来していた。ヴァンドーヴァーは負けっぱなしだった。彼の親は二度も破綻させられ、買い取らざるを得なかった。勝負は二つに分かれた。一方はヴァンドーヴァーがゲームの継続に苦労し、もう一方はエリスとダミーの間で大勝負が続いていた。彼らが笑うのをやめて、一言も話されなくなってからずいぶん経った。それぞれがゲームに没頭し、カードがめくられる間ひたすらその様子をを見守っていた。シャンデリアの四つのガス灯は着々と燃え続け、見守っている四つの白い壁に反射して跳ね返されたまぶしいほどの明るさを持つ、そのままの自然な光で部屋を満たし続けた。部屋が暑くなって、天井のすぐ下の汚れた暖かい空気の層が、ゆっくりと降りてきていた。刺激的な煙草の煙はもう立ち上らなかったが、彼らの頭のすぐ上で、ゆっくりと波を打ちながら長い糸のようになって漂っていた。彼らはひらすら勝負を続行した。大きな静寂が部屋を包んだ。静寂を破るのは、チップの立てる小さな音とシャッフルされるカードの控えめな音だけだった。一度、ヴァンドーヴァーは手をとめて、ベストを脱いでとカラーとスカーフを外す時間をとった。一瞬、彼にツキが回って来たかに思えた。彼はまだ親だった。二回連続してブラックジャックを引いた。二回ともダミーに大勝し、少ししてから二十でエリスと引き分けた。そのときエリスはチップの三分の一くらいを賭けていた。しかし、次の六回の勝負で、エリスは復活して再びリードし、他の二人に勝利した。ここで勝負はついた。幸運は突然、誰が見てもわかるようにエリスに舞い降りたので、ダミーとヴァンドーヴァーは単に二位争いをしているだけだった。エリスはリードしたままだった。一時にはこのゲームで五十ドル近く勝っていた。部屋の深い静寂が彼らのまわりに広がったようだった。真夜中を回ると、ホテル内の物音、遠くで鳴る呼び出しベル、厨房から聞こえる皿がぶつかり合う音、エレベーターのドアが閉まる音、が次第にしなくなった。たまに、外の廊下でベルボーイの急ぐ足音と、彼が運んでいる水差しの中の氷がぶつかる音が聞こえるだけだった。外で大きな静寂が、ある意味で眠っている街から立ちのぼったように思え、通りの騒音が消えた。終電が、長い小さなもの悲しい音をあげながら、カーニー通りをひた走った。時折、遅れて家路につく馬車と夜勤の車が、玉石の舗道をガタガタと進んだ。近くでは、屋根の上で、スチーム式洗濯場の細長い煙突が、絶えず一度に三つ煙を吐いた。何だかもたついている綿毛のようだった。部屋はどんどん閉塞感が強くなった。誰もわざわざ時間を割いて窓を開けようとしなかった。天井から床までの空気が、彼らの呼吸によって、煙草の煙によって、四つのメラメラと燃えているガス灯によって、汚された。この時にはもう、陰鬱な興奮で目は爛々(らんらん)とし、指は震えた。彼らの視線は一瞬たりともカードから離れなかった。エリスはまたウイスキーのソーダ割りを飲んだ。彼の手は無意識に動いて絶えずグラスを探していた。ダミーは興奮のあまり葉巻の火を消さずにおくことができず、ヒステリックに顎を動かして端っこを噛むだけで満足した。汗が数珠のようにヴァンドーヴァーの手の甲に浮かんで、小さな川になって指の間を流れ落ちてゆき、歯はぎゅっと食いしばられ、鼻で短く息をした。手が繊細に震え出すと、チップが手のひらでカスタネットのようにカタカタ鳴った。眠っている街の広大な静寂の中、温度のあがりすぎた部屋のこもって汚れた空気の中、彼らは着々とゲームを続行した。


それから、彼らはゲームのリミットを解除して勝負をすることに同意し、赤いチップの価値を十ドルにあげて、「突っ込み」始めた。時にはチップが使い果たされて、自前の硬貨で勝負することさえあった。ヴァンドーヴァーは所持金を全額失った。もうずっと、その日に銀行から引き出した五百ドルでギャンブルしていた。エリスは事実上、ダミーを勝負から排除して、今はヴァンドーヴァーとさしで勝負していた。エリスは親をやっていたが、ついにどちらかに親を売ると言い出した。本格的なギャンブルが始まってから初めて彼らは少し話し始めたが、短い簡単な文章に、単音の言葉と身振りでの答えが帰ってきた。


「親代にいくら出す?」エリスはデッキをかざして片方から片方へと目をやった。ダミーは即座に数字で十ドルと書いて、彼に見せた。ヴァンドーヴァーはダミーが書いたものを見て言った。


「十五」


「二十」ダミーはヴァンドーヴァーの唇がその言葉の形をつくるのを見て走り書きをした。


「二十五」ヴァンドーヴァーは受けて立った。ダミーは少しためらってから「三十」と書いた。「そんなもんじゃ親は保留だな」と言いながらエリスは首を振った。


「四十ドル!」ヴァンドーヴァーは叫んだ。ダミーは椅子にもたれかかって首を振った。エリスはテーブル越しにヴァンドーヴァーに向けて一式を押しやり、ヴァンドーヴァーは彼に二十ドル札を一枚と赤いチップを二枚渡した。


ヴァンドーヴァーが最初に配ったカードを受けて、ダミーは二番目のカードに「ステイ」して二十ドル賭けた。エリスは一枚目のカードに二十五ドル賭けて二枚目を引き、両方とも表向きにした。ジャックが二枚だった。「それぞれに二十五だ」彼は言った。「僕はそれぞれにカードを引く」ヴァンドーヴァーは自分のカードを見た。十のカードだった。突然、向こう見ずになり、突発的な愚かしさにとらわれ、大勝負に出ようと腹を決め、「賭け金は二倍だ!」と一方的に言った。ダミーはさらにチップを十二枚置いた。エリスはさらに五十枚置き、彼のベットはちょうど百になった。ヴァンドーヴァーはエリスにカードを配り始めた。エリスは最初のジャックに十一を引いてそこでステイした。二つ目のジャックに落ちた最初のカードはエースだった。「ブラックジャック」彼は静かに言った。ダミーはカードを三枚引いて、十九でステイした。ヴァンドーヴァーは自分のカードを表にして、自分の分を配り始めた。すでに十を持っていた。今度は七を一枚とキングを続けて引いた。


「親払いかよ」と叫んで、ダミーにチップを二十四枚支払った。エリスには、最初のジャックに引いた十八に対して五十枚を支払い、二枚目のブラックジャックに対しては百枚を支払った。後者の組み合わせは、掛け分の二倍が要求される。この他に親を失った。彼が親に支払った四十ドルを含めて、全部で二百十四ドルを失った。


ヴァンドーヴァーは人生でこんなに高いレートの勝負をしたことがなかったし、これまで一度に五十ドル以上勝ったり負けたりしたことがなかった。しかし、彼はこれに満足だった。ようやく、ここに彼が待ち望んでいた娯楽があった。彼の退屈した神経を目覚めさせる新鮮で過激な興奮、彼を楽しませることができる唯一のものが。しかし、彼の「大勝負」の負けは彼にチップを残さなかった。彼はゲームからおりた。やめることにした。五百ドルの半分以上がすでになくなっていた。ソーダを一杯、サイフォンボトルのうちの一本に残っていた分を飲み干した。あくびをしながら立ち上がり、少し身震いして、両腕を上に高く伸ばした。他の二人は着々と勝負を続行した。ダミーはゆっくりとエリスに追いつき始めた。とても慎重に勝負を続け、絵札、エース、十のカードにしか賭けなかった。エリスは二度、彼に親を売ると持ちかけたが、ダミーはそれが自分のツキを変えてしまうのではないかと恐れて断った。


ヴァンドーヴァーはダミーの椅子の後ろに座って、彼がやるのを見物しているうちに、やがて疲れて、眠りに落ちていったが、時々、すべての神経がいきなり高ぶったり落ち込んだりするたびに目を覚ました。一時間後に、一向に終わらないカードのすれる音が彼を目覚めさた。エリスとダミーはまだ勝負を続けていた。ダミーは葉巻の吸いさしにもう一度火をつけていた。エリスはディーラーを続けて、ほぼ毎回勝っていた。山積みのチップとお金が肘のそばにあった。ヴァンドーヴァーは数分の間、椅子に前かがみになり肘を膝に乗せて、ダミーがやるのを見物していた。しかし、ダミーが戦意を喪失していたのは明らかだった。エリスの連戦連勝が長い時間かけて彼をくじいたのだ。ある時は、価値のないカードに大金を賭け、またある時は、明らかな理由が何もないのに、九と十を投げ返すというありさまだった。最後にエリスが彼にクイーンを配ると、ダミーはそれを手元に置き、チップを十枚賭けた。次のカードは七だった。彼はエリスに向かって、ステイの合図を出した。エリスはカード三枚で二十を引いた。ヴァンドーヴァーはダミーの愚かさにイライラして叫ぶのを抑えきれなかった。この勝負で手札二枚だけの十七にステイしなければならないとは、何て愚かなのだろう。彼はすぐにテーブル越しにエリスに二十ドルを放って言った。「それでチップをくれ。またやるよ」彼はもう一度テーブルについた。エリスは彼にカードを配った。


しかし、ヴァンドーヴァーが口を挟んだことで、一瞬エリスの注意が勝負から離れた。椅子に座ったまま身じろぎして部屋を見回し、頬を膨らませ、唇の間から息を吹いた。


「なあ、この部屋は閉めっぱなしだから息が詰まるんだ。後ろの窓を開けてくれよ、ヴァン、きみが一番近いんだ」カーテンを開けると、ヴァンドーヴァーは叫び声をあげた。「ここに来て見てみろよ! どうだ?」


朝だった。すでに登って一時間になる太陽の光が街にあふれていた。空には雲ひとつなかった。屋根の上や、電線の灰色の迷路の中で、スズメの群れが声をからしてさえずっていた。ヴァンドーヴァーが窓を開けると、はるか下の通りで新聞配達が朝刊と繰り返し叫んでいる声が聞こえた。


「来いよ、ヴァン!」エリスはじりじりして叫んだ。「こっちはきみを待ってるんだ」


この夜が、これを決めたのだ。この時から、ヴァンドーヴァーの唯一の楽しみはギャンブルになった。昼も夜もカードに向き合い、負け続けるたびに情熱は高まった。彼の不運は桁違いだった。これはまぎれもなく躁病で、限界を知らない、無謀な計画性のない狂乱だった。最初は、一回二十ドルか三十ドルで勝負が決まるゲームで満足していたが、これにはすぐに飽きてしまった。彼は自分の退屈した神経が求める、自分の中の関心を、鋭い緊張する興奮を、かき立てるために、絶えず掛け金をあげざるを得なかった。


彼の古い家の最初の支払金の一万ドルから引き出した五百ドルは、一週間のうちに溶けてなくなった。ほんの数年前なら、ヴァンドーヴァーはこの意味を考えるために立ちどまっていただろう。彼を絶えずギャンブルのテーブルに引き寄せる誘惑に抵抗しただろう。しかし抵抗する考えさえ思いつかなかった。彼はこの一万五千ドルを投資に回さず、自分の最新の熱狂を満たすために絶えず引き出した。彼がギャンブルをやったのは勝算があったからではなかった……彼の金銭欲は決して強くなかった……これはその瞬間の興奮が大好きだったからに過ぎなかった。


銀行の一万五千ドルは少しずつ減少した。すべてがカードに消えたわけではなかった。ある種の浪費癖がヴァンドーヴァーについたが、これは執拗なギャンブルの自然な結果であり、楽に勝ちたい欲望は早く使いたい衝動と釣り合いがとれていた。彼は両手で金をばらまくことにある種のヒステリックな喜びを感じた。今や喜びは、湾の周りを十日間クルージングするためのヨットのチャーター、ある週に買われて翌週捨てられた自転車、毎月そろえられる新しい衣装、一度しか着用されなかった手袋、フロッシーのポケットに突っ込まれる金貨、オペラの女優……二十四時間程度の知り合い……に振る舞われた夕食、八百ドルで買われ二百五十ドルで転売された競走馬、〈インペリアル〉でおとなの女や若い娘に贈られた指輪やスカーフのピンだった。そして彼の貧しい歪んだ才気が時々思いつく愚行のすべてだった。彼の判断力は失われ、精神のバランスは崩れた。ヴァンドーヴァーは生涯を通じてゆっくりとどんどん沈み続けたが、これは最後の急落の始まりだった。堕落の進行は避けられなかったが、彼がいつもどんな形でもいいから悪にひたっている限りはゆるやかだった。しかしある特定の悪徳への情熱が彼を吸収した今は、破滅に向かって真っ逆さまに突き進み始めた。


彼は一年足らずで、一万五千ドル……古い自宅の売却額……をギャンブルにつぎ込んだというか投げ捨ててしまった。これを一度も投資することなく、日々食いつぶし、時にはギャンブルの借金返済のために、時には馬鹿げた贅沢な気まぐれを満たすために、時にはリックハウスの請求書を支払うために、時には全然理由もなく、無謀な浪費願望にあっけなくまわされた。


家を売却して九か月後のある感謝祭の夜、ヴァンドーヴァーは〈インペリアル〉の婦人用通用口から入って、ゆっくり通路を進み、エリスとダミーをさがしながら右側に連なる小部屋をのぞいていた。その日は大学対抗フットボールの大きな試合があった。かつてこういうものに興味があったことを思い出しながら、ヴァンドーヴァーは最初、それを観戦することに決めていた。しかし、午前十一時頃、雨が降り始めたので、彼と一緒に行くことになっていたエリスは、雨なのに出向くほどその試合に興味はないと明言した。ヴァンドーヴァーはがっかりした。この試合なら……最近楽しめたものくらいに……楽しめると思ったからだ。しかし、結局は、エリスが行こうが行くまいが行くことに決めた。その日は休日だった。ヴァンドーヴァーはエリスとダミーを連れてホテルで昼食をとった。その場でその晩のすてきな感謝祭のディナーを決めた。彼らは〈インペリアル〉の小部屋のひとつで落ち合い、そこからレストランに行くつもりだった。昼食が終わる頃、ヴァンドーヴァーは言った。


「きのう、新しい種類のリキュールを手に入れた……スミレのような色で、コロンのような香りがするんだ。きみたちも僕の部屋に来てそれを試した方がいい。あの試合に行くなら、とにかく僕は上に行って着替えないといけないし」彼らはみんなでヴァンドーヴァーのわびしい部屋に行った。エリスは、雨の中を外出する愚かさに反対してヴァンドーヴァーと議論を始めた。


「きみだって、あの試合に行きたいわけじゃあるまい、ヴァン。雨がどれだけ降ってるか見ろよ。賭けてもいいが、そこに千人もいないぞ。どうせ、試合は延期になるさ。なあ、これは見た目が変なものだな。何て言うものなんだい?」


「クレーム・ド・バイオレット」


ダミーは空にしたリキュール・グラスをマントルピースの上に置いて、ヴァンドーヴァーに向かって満足そうにうなずき、メモ帳に「絶品」と走り書きした。


「咳止めのシロップにアルコールを加えたような味だな」エリスは顔をしかめて少しずつ飲みながらうなった。「これを一パイントも飲めば、ダミーはオランダ語を話せるようになると思う。その調子でいけよ、ダミー」相手が唇の動きを読み取れるようにはっきりと発音しながら続けた。「もっと飲め……話せるようにな」ヴァンドーヴァーは仕立て屋から届いたばかりの段ボール箱の周りの紐を切っていた。中身は、粗いチョビオットの、小さなチェック柄の茶色い新しいスーツだった。彼はゆっくりと着替えて、ズボンの具合を確認するために、寝室のタンスの開閉式ミラーの方を向いてちょっと触ってみた。その間に、エリスとダミーはセンターテーブルの引き出しからカードとチップを取り出して、ゲームを始めていた。


「考え直せよ、ヴァン」エリスはカードから目もあげずに言った。


「そうはいかないね」ヴァンドーヴァーは言った。「きみはあれがどういうものかを知らないんだ……大学生だったことがないんだから。僕はどんなことがあってもフットボールの試合は見逃さない。競馬や野球どころじゃないんだ……きみに言っておくがね、この世界に白熱したフットボールの試合ほど興奮するものはない」丈が長くて色調の強いレインコートを羽織ると、エリスの後ろに立ち、しばらく勝負を見守った。その一方で、長いシルクの飾りリボンを二本、傘の柄に結びつけた。


「これはカレッジカラーのひとつなんだ」彼は説明した。「ハーバードの昔に戻ったようだ」エリスは軽蔑して鼻を鳴らした。


「ガキどもめが!」と彼はうなった。


「少し前に四輪大型馬車(コーチ)の一台が通りを行くのを見たんだ」エリスがカードをシャッフルして配るのをずっと見ながら、ヴァンドーヴァーは続けた。「上に二十人くらい大学生が乗っていて、母校の色の紐をつないだ大きなブルドッグを連れて、魚屋が吹くような大きな音の笛を吹いてたな。またあの中のひとりに戻れたらなあ、と思わせるものだったよ」エリスは答えなかった。おそらくは聞いてもいなかった。彼とダミーは両方とも、間違いなく午後いっぱい続く勝負のために腰を据えていた。ヴァンドーヴァーは彼らに自分の部屋を自由に使わせた。二人は彼がいないときでも、よくそこでギャンブルをした。しかし、勝負の最中に誰かが自分の席の後ろに立つことは、いつもエリスを神経質にしたので、そわそわと体を動かし始め、やがて腕時計を見た。「出かけた方がいい、遅れるぞ」


「少しくらいいいさ」ヴァンドーヴァーは勝負への関心をだんだん強くしながら答えた。「勝負を続けてくれ、僕のことは気にしないで。そうそう、チャーリー・ギアリーも見かけたよ」彼は続けた。「別の馬車にいた。そっちのメンバーと一緒にね。チャーリーはターナー・レイヴィスと一緒にボックス席にいたんだ。ターナー・レイヴィスを覚えてるかい、バンディ? 僕がつき合ってた女の子だけど」


「僕が好きになれなかった女の子がいる」エリスは言った。「彼女はいつも、よくいる俗物のひとりという印象しか僕に与えなかった」


「ああ、俗物どころじゃない」ヴァンドーヴァーは同意した。「向こうは自分を、僕にはもったいなさすぎるって考えたんだ。僕がアイダ・ウェイドの件に巻き込まれたとたんに、捨てたんだからな。いや、もう僕とは関わりたくなかったんだな。まあ、彼女は地獄に落ちればいい。ギアリーが好きにすればいいんだ」


「僕は、ドリー・ヘイトが彼女と結婚すると思ったんだがな」エリスは言った。「いったい、何があったんだだろう?」


「僕は知らないよ」ヴァンドーヴァーは答えた。「おそらく、ドリー・ヘイトは彼女に見合うだけのお金がなかったんだ。彼女は、この町でひと山あてて、出世もしそうな男がほしかったんだと思う。絶対に!」


三十分経っても、彼はまだエリスの椅子の後ろにいた。エリスはすっかり落ち着きをなくしていたので、どんどん負けていた。もう一度ヴァンドーヴァーの方を向いて、肩越しに言った。「ほら、ほら、ヴァン、フットボールに行けよ。きみがそこに立っていると僕は気になるんだ」ヴァンドーヴァーは十ドル金貨をテーブル越しにダミーに押しやって言った。彼が親だった。


「それをチップにしてくれ。僕もやる」


「僕はきみが試合に行くんだと思ってたが?」エリスは尋ねた。


「ああ、ちくしょう!」ヴァンドーヴァーは答えた。「雨がひどすぎるんだよ」


彼らは午後ぶっ通しで休まず勝負を続けた。今度はヴァンドーヴァーはツキっぱなしだった。再び〈インペリアル〉で七時に会うことを了承して五時に解散したとき、彼は百ドル近く勝っていた。


この約束を守るために外出したとき、ヴァンドーヴァーは通りが、特にカーニー通りとマーケット通りが、混雑していることに気がついた。時刻は六時半頃だった。フットボールの試合が終わって、大学生たちが戻ってきたのだ。彼らはいたるところにいて、銅鑼を叩く男を各列の先頭に据えて、鎖につながれて連行される一団のように、長い行列を作って練り歩くか、十人並んで歩道を行進し、大学の校歌を歌うか、自分たちのスローガンを叫んでいた。あらゆる瞬間に、「ラー、ラー、ラー……ラー、ラー、ラー!」と大学同士が街角から街角へエールの交換をするのが聞こえた。ヴァンドーヴァーは〈インペリアル〉が学生で混雑していることに気がついた。バーは入口までいっぱいで、正面玄関側のどの小部屋も満席だった。フロッシーとナニーは奥の大部屋のひとつで若い連中の盛大なパーティーを受け持っていた。バーの人混みの中で、勝ったチームの三人のメンバー……頭に包帯を巻いた英雄たち……が長かった数週間ぶりに初めて練習を中断して、煙草を吸い、酒を飲んでいた。


ヴァンドーヴァーはエリスとダミーが混雑した正面通路で壁に寄りかかっているのを見つけた。二人とも不機嫌だった。ダミーは、フロッシーがフットボールの選手のひとり、フルバックで、指を二本脱臼した若いブロンドの大男のために彼をおいてけぼりにしたのですねていた。エリスは今夜バーでカクテルが飲めずストレートのドリンクしかなかったので、憤慨していた……あまりにも混雑しすぎていた。このいまいましい大学のスポーツは、町を我が物顔で占領していた。「なあ、ここを出ようぜ、ヴァン!」ヴァンドーヴァーが視界に入ると、彼は群衆の頭越しに呼びかけた。


彼らは通りへ出て、感謝祭のディナーを食べることに決めていたレストランの方向に進んだ。その日の午後、ヴァンドーヴァーが帰った後で、エリスがこのレストランのウエイター長に会って、ヴァンドーヴァーとダミーと自分がリックハウスの昼食のとき決めたメニューを説明してあった。通りは一時的に静かになっていた……六時半から七時の間のことだった……大学生のほとんどはホテルやカフェに集まって夕食をとっていた。彼らは約一時間後にまた一時的に全員が集まることになっていた劇場につづく道という道に現れるだろう。


しかしヴァンドーヴァーは自分が一口も食べられないことに突然気がついた。食べ物の匂いがすると気分が悪くなった。


彼は大きなショックを受けていた。その日の夕方、ホテルを出ようとしていたとき、ホテルの事務員が彼の郵便受けにたまっていた手紙を何通か彼に手渡していた。ヴァンドーヴァーは朝食をとりに行く午前中に手紙を確認することを一度も思いつくことができなかった。最近、頭に何か異常があったのは確かだった。物事を思い出すことが日々どんどん難しくなっていることに気がついた。手紙は全部で三通あった。一通目は彼の最後のスーツが完成したのと同じ日に郵送された仕立て屋の請求書、二通目は当時建設中だったスロート・バスが開業間近であること知らせる広告、三通目は彼の口座が約六十ドルの残高不足になっている事実に彼の注意を促す銀行からの通知だった。


最初、ヴァンドーヴァーはこの通知の意味がわからず、仕立て屋の請求書と一緒にポケットに押し戻したが、やがてゆっくりとある考えが思考に踏み込んだ。もう僕のお金が銀行にないという可能性はあるだろうか? 僕の一万五千ドルはなくなってしまったのだろうか? 彼の通帳は時々、残高が確認されて、毎月最初の数日中にいつも小切手が、使用済みのが、くしゃくしゃにされ、変なサインがされて、青いインクでスタンプが押印されて、戻ってきていた。しかし最初の数か月が過ぎると、彼はこれらに最低限の注意さえ払わなくなっていた。数字に対してはまさに女性のような恐怖を持っていたので、口座の管理をしたことがなかった。しかし、自分のお金がなくなったと考えるのは馬鹿げていた。ふん! 九か月で一万五千ドルも使い切れるはずがない! ありえないことだ! この通知は僕には理解できない何か専門的なものだ。明日にでもこれを調べよう。そして、何か厄介な荷物をおろしたかのように肩をすくめてこの疲れる問題を頭から払いのけた。しかし、この考えは消えなかった。どういうわけか、彼はこの印刷された伝票の行間から新しい災難を嗅ぎ取った。これを何度も読み返した。ホテルの入口に立って、レインコートの襟を立てて、まだ雨が降っているかを確認するためにアスファルトの舗道のくぼみの小さな水たまりを見たときに、突然、確信に至った。瞬時に、彼は自分が破滅したことを知った。この通知の本当の意味が、大きな閃光の速さで明らかになった。彼は一万五千ドルを使い果たしていたのだ! 


この打撃は、ヴァンドーヴァーの曇ってゆがんだ知性さえ貫くほど、強烈で突然だった。彼の勇気は一瞬で消え、突然の麻痺のような無感覚が脳を襲った。そして、未知の何かに対する不安が生まれ、アイダ・ウェイドの自殺の翌朝初めて彼を襲った、あの大きくて理由のわからない恐怖にとらわれた。その恐ろしさは、圧倒的であり、彼は叫んだり腕を振りまわしながら通り中を駆け抜けたがる野蛮でヒステリックな欲望を抑えるために、歯を食いしばらなければならなかった。


三人の友人たちが感謝祭のディナーをとることになっていたレストランにたどり着くまでに、ヴァンドーヴァーの食欲は食べ物の匂いそのものを嫌悪するほどに変わっていた。彼の神経過敏は急速にヒステリーに近づきつつあり、体中の神経の塊が小さな蛇の玉になって縮んだりもがいたりしているようだった。時々、突然の物音に驚いたかのように鋭く痙攣し、呼吸が短くなったり、鼓動が早まったりした。


彼らは二階のレストランの個室のひとつで食事をとった。食事の間中、ヴァンドーヴァーは自分を抑えるのに苦労し、この古い敵の再登場と、この恐ろしい危機の突然の再来に備えて全力で戦い、他のメンバーの前に自分の姿をさらけ出して恥をさらすまいと決めた。彼は食べるふりをして、無理して話に入り込み、フロッシーのことでダミーにからんでいたエリスに話を合わせた。とるべき適切な行動は、ダミーの注意が他に向いているときに彼のグラスを満杯にして、最終的に酔わせて喋らせることだった。ディナーが終わる頃、エリスは成功した。突然、ダミーは立ち上がった。目は酔ってうつろで、不規則な円を描いて揺れ、今度はテーブル、今度は椅子の背もたれ、今度は背後の壁にすがって体をささえていた。かなり怒っていた。エリスのからかいと悪口に抑えが効かなくなるほど憤慨した。我を忘れて、とても弱くて甲高い一連の叫び声を発した。それは何らかの通信障害で言葉が聞き取れないときに電話越しに聞こえる声のようだった。口が大きく開かれ、歯の間で舌が変なふうに動き回った。一言か二言なら時々聞き取ることができた。エリスは脇腹をかかえ、息を切らして、発作的に笑い出した。ヴァンドーヴァーは面白がらずにはいられなかった。二人は息がつけなくなるまで、ダミーがどもりながら怒るのを笑った。その夜の残りが終わるまで、ダミーは何度か同じことを繰り返した。ふらふら立ち上がって、拳を振って、たわいのない無力な鳥のさえずりのような言葉を吐き出しては、エリスの悪口に悪口で対抗しようとし、二人がそれを面白がるのをやめてからも、ずっと話そうとし続けた。エリスはこれっぽっちも酒の影響を受けずに六時間近く飲み続けた。ダミーはとっくに酩酊状態だった。そして今、ヴァンドーヴァーは空きっ腹で飲み続けただけに、とても騒がしくなって荒れ始めた。少しずつエリス自身も自制心を失い始めた。やがて、エリスとヴァンドーヴァーはそれぞれ別個に、とてもかすれた声を張り上げて歌を歌い始めた。凄まじい聞くに耐えない騒音を出しながら、ダミーが二人に加わった。エリスはすっかりそれに影響され、悲しげな音楽に圧倒された子犬のようにそれに向かって吠えかかるふりをした。しかし急にエリスは思い立ち、二回のしゃっくりの合間に大声で叫んだ。


「なあ、おい、ヴァン、僕らに犬の真似を披露しろよ! さあ! 僕らに向かって吠えろ!」


このときまでにヴァンドーヴァーはほとんど正気を失っていた。彼の緊張が始めたものを彼の酔いが完成させようとしていた。攻撃は急速に最高潮に近づきつつあった。彼の脳裏を奇妙で不自然な空想が去来し始めた。


「さあ、ヴァン!」エリスはアルコールで重くなった目ではやし立てた。「やれよ、犬の真似だ!」


まるで怒った犬が足もとのテーブルの下の骨をめぐってうなるか吠えるかしているかのようだった。エリスは大笑いしたが、突然、彼自身も酔いが回った。午後ずっと自分を保っていたが、このときに一気に酔いが回った。目のまわりの皮膚は紫色で腫れぼったく、瞳孔そのものは収縮し、一段と暗さを増して、瀝青(れきせい)の色を帯びていた。いきなり腕を一振りして、テーブルから、グラス、皿、香辛料、ナイフ、フォークなどすべてを払いのけた。それから、アルコールが毒ガスのように瞬時に彼を打ち負かした。エリスは椅子に座った状態で前のめりになって、何もないテーブルに突っ伏した。伸ばした両腕の間で、頭が緩慢に左右に揺れた。再び彼が動くことはなかった。


隣の部屋では、ヘイトが数名の大学の仲間、社交クラブのメンバーと食事をしていた。全員が彼の友人で、彼が試合の往復に乗っていたのが彼らの馬車だった。彼は廊下の向こうの部屋でヴァンドーヴァーとエリスの声を聞きつけて、彼らの声だと気がついた。ヘイトがエリスの友人だったことはなかった。しかし、ダーナーでさえそうではなかったのに、この大学時代の旧友ほどヴァンドーヴァーの破滅を悲しんだものはいなかった。


ヘイトはエリスがテーブルを一掃したときに落ちる陶器の物音を聞いて、くるっと頭を向けて耳をそばだてた。その後で一瞬、沈黙があった。何かの事故が起こったのではないかと恐れながら、ヘイトは廊下に出て少し立ったまま再び耳をすました。閉まったドアの方に頭が向いた。うめき声も、苦痛の叫びも、会話の音さえも何も彼には聞こえなかった。閉ざされたドア通じて一定の吠える声がするだけだった。


戸惑いながら、ドアが開くかを試したところ、予想どおりに鍵がかけられているのがわかったので、ドアノブに片足をかけて、上段の脇柱をつかみ、体を持ち上げて、明り取り用の空間から下をのぞいた。


部屋はとても暖かく、調理された食べ物とウィスキーの揮発成分と葉巻の煙の刺激臭が空気に充満していた。エリスは椅子から転げ落ち、テーブルの残骸の中に顔をうずめて床に倒れていた。彼の近くの床には同じようにダミーが、ただし座った状態で、壁によりかかっていた。まるで自分の舌を見つけたことを喜んでいるかのように、絶えず独り言をつぶやいていた。頭が肩の上で揺れて、大きく開いた口からは、優しい鳥のような意味をなさない不思議なかすかな音が、ずっと遠くから聞こえる物音のように、聞こえた。


ヴァンドーヴァーは椅子にまっすぐ座っていた。両手はテーブルをつかんで、目は真ん前を見つめ、休まず吠えていた。今、彼が自分をとめられないでいるのは明らかだった。これはヒステリックに笑うのと同じで、自制が効かないものだった。ヘイトは二度彼の名前を呼んで、彼の足がかかっているドアを叩いた。ヴァンドーヴァーはようやくその声を聞きつけた。それから、ドアの上から出た顔を見つけると、上唇を歯の上まであげて、彼に向かって延々と悪意に満ちたうなり声をあげた。


ヘイトが廊下に降り立つと、ウエイターが駆け寄ってきた。彼も皿が割れる物音を聞きつけたのだ。鍵を錠に差し込むと、少し間をおいて、耳をすませ、戸惑いの目をヘイトに向けた。「後から犬をここに連れ込んだのかな? 来たときは、犬なんか連れてなかったのに。おかしな話だ!」


「ドアを開けてください」ヘイトは静かに言った。中に入るとヘイトはヴァンドーヴァーのもとに直行して叫んだ。「ほら、ほら、ヴァン! 僕と家に帰るぞ」ヴァンドーヴァーは急に飛び上がり、困惑した様子で周囲を見回し、手で顔をぬぐった。


「帰る」彼は漠然と繰り返した。「そうだな、それがいい。帰ろう。僕は寝たい。やあ、ドリー! きみはどこから来たんだい? なあ、ドリー、言っておくけど……ここで聞いてくれ……もっと近くにきてくれ。僕にかまっちゃいけないよ。僕はね、ほとんど狼なんだから!」


二人はリックハウスに向かった。ヴァンドーヴァーは屋外の空気を吸ってしばらくするとさらに落ち着いた。ヘイトは彼としっかり腕を組んで、黙って一緒に進んだ。このときにはもう再び通りは混雑していた。劇場は終わり、また大学生だらけだった。今、彼らは結集してひとつの巨大な行列になり、ビール売りのワゴンに乗ったブラスバンドが先頭に立った。カーニー通りとマーケット通りのあちこちをあてもなく練り歩いて、ひどい騒音を立てていた。先頭ではブラスバンドがバスドラムを盛大に打ち鳴らし、人気のあるクイックステップの曲を演奏していた。前列の大学生たちはある歌を歌い、後列は別の歌を歌い、隊列中央は、魚屋の笛と警官隊の鳴り物と大きな中国の銅鑼から成るひどいメドレーをやらされた。群衆は一定の間隔で立ち止まり、学校名を叫んだ。


「ドリー、きみと僕はよくあれをやったよな」ヴァンドーヴァーは行列を見送りながら言った。彼はこのときまでに自分を掌握しおえていた。「レストランで僕に何があったんだ、ドリー?」彼はしばらくしてから尋ねた。


「ああ、きみはかなり飲んでいたんだと思うよ」ヘイトは答えた。「きみは……きみは自分のことで何だか奇妙な考えを持っていたよね!」


「ああ、わかってるよ」ヴァンドーヴァーはすばやく答えた。「僕は自分が何かの獣だと想像したじゃなかったかな……何か狼のような? 時々そういう考えが浮かんで、それを頭から追い出せない。それでいて気になるんだ」


二人はヴァンドーヴァーの部屋に上がった。ヴァンドーヴァーはガスに火を灯した。まぶしい光がいきなりヘイトの顔を照らしたときは、叫ぶのをほとんど抑えられなかった。いったい、僕の旧友に何があったのだろう? まるで何かの恐ろしい圧倒的な災難に、希望をくじかれ、叩き潰され、打ちのめされたかのようだ。目には恐ろしい苦悶が見受けられる。絶望するほど惨めな気分が、顔をひきつらせ、ゆがませていた。何かが彼の人生を破滅させてしまったことは疑いようがなかった。ヴァンドーヴァーは破滅した男を見ていた。


「なあ、ドリー!」ヴァンドーヴァーは叫んだ。「いったい、どうしたんだい? きみはまるで死人のような顔をしているぞ! どうしたんだい? 具合でも悪いのか?」


ヘイトは友人の探るような視線をとらえた。二人はしばらく何も言わずに互いを見つめ合った。ヘイトのぼんやりした無気力な目の奥でくすぶっていたものすごい悲しみは、見間違えようがなかった。ヴァンドーヴァーは一瞬、ターナー・レイヴィスのことを考えた。しかし、たとえ彼女が彼を振ったのだとしても、それだけでは旧友の心と体のひどい状況は説明がつきそうもなかった。


「どうしたんだ、ドリー?」ヴァンドーヴァーはしつこく問いただした。「少し前まで、僕らはかなり仲が良かったよな」


二人はベッドの端に腰を下ろした。すると一瞬、二人の立場が逆転したように見えた。ヘイトが守られて慰められる側で、ヴァンドーヴァーが相手を守っている、自立した存在だった。


ヘイトは答える前に手で顔をぬぐった。ヴァンドーヴァーは、彼の指が老人の指ように震えていることに気がついた。


「きみはあの晩を覚えてるかな、ヴァン、きみとチャーリーと僕がターナーの家に行って、タマレスとビールを飲むと、グラスが変なふうに割れて、僕が唇を切ったときなんだが?」


ヴァンドーヴァーはうなずいて、アルコールの蒸気を気にしないようにしながら、友人の言葉に耳を傾けた。


「僕たちはその後で〈インペリアル〉に行った」ヘイトは続けた。「そして、偶然エリスに出会って、さらに何かを食べたよね。僕たちがそこに座ったときに、ウエイターのトビーがフロッシーを連れてきて、彼女がしばらく僕たちと一緒にそこで同席したんだけど、きみは覚えてるかな?」


ヘイトはいったん話をやめて言葉を選んだ。ヴァンドーヴァーはその出来事を思い出そうとしながら、じっと耳を傾けた。


「彼女は僕にキスをしたんだ」ヘイトはゆっくりと言った。「すると、絆創膏がはがれた。きみは、僕が女性とは全然かかわりを持たなかったのを知ってるだろ、ヴァン。僕はいつも女性に近づかないようにしてたんだ。でも、僕の人生は事実上あそこで終わってしまった」


「きみが言いたいのは……」ヴァンドーヴァーは切り出した。「つまり……きみは……フロッシーが……?」


ヘイトはうなずいた。


「いや、僕には信じられないな。そんなことは、ありえないだろ! 僕はフロッシーを知ってるからね!」


ヘイトは苦笑いしながら首を振った。


「こればかりは仕方がないよ、ヴァン」彼は言った。「事実は否定できないし、他にできる説明はないんだから! 僕はわかってすぐに、ここの医者に行った。それからニューヨークまで診てもらいに行ったんだ。でも希望はなかった。僕は知らなかったんだ。そんなことになるとは思わなかったんだ。ターナー・レイヴィスと僕は婚約してたのに。僕は長く待ちすぎたんだ! もう僕には退路がひとつしかない」声が低くなり、彼は一瞬、床を見つめた。それから背筋を伸ばして、違う調子で言った。「しかし、ちくしょう、ヴァン、この話はやめにしよう! 僕は昼も夜もこのことに悩まされてるんだ。僕はきみと話がしたい! 僕は真剣にきみと話がしたいんだ! きみは、自分で自分を駄目にしてるんだぞ、大将!」


しかし、ヴァンドーヴァーは手で彼を制しながら言った。「その先を言うな、ドリー、そんなことをしたってちっとも役には立たないよ。そういう時期もあった。しかしそれはずっと昔のことだ。以前は気にかけていたし、よく後悔したものだよ。しかし今はそうではない。自分を駄目にしているって? 僕はとっくの昔に自分を駄目にしてしまったんだ。僕たちは二人とも駄目になったんだ……ただきみの場合はきみのせいではなかった。もう僕は手遅れなんだよ。それに僕は手遅れだってことを後悔してさえいないんだ。ドリー、僕は立ちどまりたくないんだ。きみは、そこまで堕落した人間を想像できないだろ? 僕だって数年前までは想像できなかったよ。僕は今、まっすぐ悪魔のところに進んでいる。きみは脇に寄って僕を自由に行かせてほしい。どうせ僕は遅かれ早かれそこにたどり着くんだから。僕はきみなら、僕のようにこれがはっきりわかる人は、不安に思ったり、自責の念やそういったものをすべて抱くだろうって思うんだ。まあ、僕も最初はそうだった。最初にそれがわかったあの夜を僕は決して忘れないね。もう少しで自分と撃とうとまでしたんだから。でも、僕はそれを乗り越えたし、今ではその考えにも慣れてしまった。ドリー、僕はほとんどすべてのことに慣れてしまえるんだ。今の僕には、何も大きな違いは生じないんだ……ただカードをするのが好きなだけだ。これを見てみろ!」銀行からの通知をテーブルに広げながら話を続けた。「これが今日届いたんだ。これが何だかわかるよね! 僕はカリフォルニア通りのあの古い家を売ったんだ。それでね、そのお金をギャンブルでなくすのに一年かからなかったんだ。今、僕は経済的に破滅しているらしいが」……そして彼は笑い始めた……「どうにか生き延びている。この知らせじゃ、僕が今夜飲むのを防げなかったよ」


ヘイトが帰ったあと、ヴァンドーヴァーはベッドに入って、ガスを消し、窓を上から半分ほど引き下ろした。ワインのせいで眠くなり、とても心地よいまどろみに落ちかけていた。すると、そのとき突然の衝撃があった。体の全神経が激しく跳ねるような衝撃が、彼を座らせ、息切れさせ、心臓を高鳴らせ、両手で何もない空間を叩かせた。再び落ち着くと、寝返りをうち、とても疲れた目を閉じて、安眠を求めた。ドリー・ヘイトの恐ろしい話、彼の理不尽な運命、その絶望的悲劇が、脳裏によみがえった。ヴァンドーヴァーは彼となら喜んで立場を入れ替えただろう。ヘイトは、知り合いからも愛され尊敬されていたからだ。彼、ヴァンドーヴァーは、かつて自分が大切にしていたものの残りと一緒に、友人の愛情も彼らの尊敬までも投げ捨てていた。彼の思考は、意志の全支配から解き放たれ、信じられないほどの速さで頭の中を行き来し始めた。混乱した考えが、中途半端に記憶された場面が、過去数日の出来事が、特別な理由もなく思い出された会話の断片が、すべてが、怯えた馬の長い群れのように、脳裏を駆けまわり、興奮が、高揚からくる不思議な震えが、彼の中で広がった。今や完全に目が覚めた。しかし、バネ仕掛けの罠が突然作動するように、左足と、左腕から手首にかけてと、左半身全体が痙攣した。ベッド全体が揺れてきしむほどの激しい衝撃だった。それから回避不能の反応が続き、神経がゆっくり縮こまってうち震え、小さな蛇の大きな群れのように、互いにからみ合いつづけた。それは足首から始まって、ゆっくりと体のあらゆる部分に広がっていくように思えた。これは紛れもなく拷問だった。ヴァンドーヴァーはあまりの痛烈さに、うめき声をあげて目をつぶった。一秒たりともじっとしていられなかった……ベッドに横になっていられなかった。寝具をはぎとって飛び起きた。ガスに火も灯さず、バスローブを脱ぎ捨てて、床を歩き始めた。歩いていても、瞼はどんどん垂れ下がった。眠気が彼を襲ったが、意識がなくなりそうになると、あの同じ衝撃に、あの同じ神経の反動に、いきなり、たたき起こされた。それから、手と頭が膨らんだように思えた。次は、部屋全体が彼には小さすぎる気がした。ヴァンドーヴァーは窓を開け放って、肘をついて外を眺めた。


雲が切れ始めていた。雨が徐々にやみ、空気中の湿った新鮮な匂いの中に、濡れたアスファルトや、水が滴り落ちている木造物の匂いが残っていた。大気は暖かかった。湿っぽく、どんよりして、生ぬるかった。星がひとつふたつ出ていた。薄暗い光が、テレグラフ・ヒルの急勾配に向かって伸びている眼下の広大な屋根の一帯を彼に見せた。それほど遠くないところで、細長い優雅な煙突が絶えず咳き込んで、小さなたくさんの白い噴出物を絶えず吐き出していた。それらはとても勇ましく陽気に宙にのぼり、最後は未練がましく小さくなって、へこたれて、くじけて、悲しげにしぼんで、夜の闇に消えてなくなった。まるで外の世界に触れたとたんに見えなくなる幻のようだった。ヴァンドーヴァーが窓から身を乗り出して何も見えない目で夜を見つめていると、まだ通りを占拠し続けている学生たちの大きな群れから、再び大学のスローガンがあがった。


「ラー、ラー、ラー! ラー、ラー、ラー!」


彼は部屋に戻って、洗面台の瓶の中から臭化カリウムを探し出した。必要な量をティースプーンに注ぐときに、再び手が鋭く痙攣したので、胸元がはだけたままのバスローブから露出した素肌の首から胸に薬がかかった。それは冷たくて、手の甲でぬぐうとき、彼は少し震えた。


神経性の発作が再び起こりかけているのがよくわかった。洗面台に瓶を置くときに、独り言をつぶやいた。「ああ、あの夜を迎えるのか」哀れな粉々の心で高まりつつあるヒステリーと戦いながら、時々激しく襲いかかるあの奇妙な幻覚、あの不貞腐れてうなり声をあげる物体、あの四つ足の物体の幻覚、を頭から締め出そうと努めながら、再び大股で床を歩き始めた。ホテルは静まり返って、警備員がガス灯を一つおきに消しながら廊下を巡回した。火事のときに出口がわかるように、階段の踊り場に設置された赤い球体に収まった噴射ノズルがドアのすぐ外にあった。これは一晩中燃えて、ヴァンドーヴァーの部屋の欄間から流れ込み、大きな正方形の赤い光で天井を染めていた。ヴァンドーヴァーは今、近ごろではおなじみになってしまったあの同じ恐怖、未知の何かに対する合理性のない恐怖に圧倒されて、苦しんでいた。彼は叫んだ。絶望と惨めさから生じた押し殺された叫びだった。それから急に自分を抑えて、驚き、この叫びは人間のものではない、自分のものではない、何か四つ足のものだ、何か怒りに駆られた獣のうなり声だ、という空想にとらわれた。彼は突然、歩くのをやめて、耳を澄ませ、得体のしれないものを突きとめようとした。大都会の静寂が彼の周囲で広がった。何かの大きな池の静かな水面のようだった。その静寂を抜けて、群がる若い大学生たちの物音が聞こえていた。彼らは行進の隊列を二倍にして戻って来るところだった。開いた窓から入ってくる長いひと吹きの生ぬるい空気が、彼の耳に、スローガンを唱える遠くの歓声を届けた。


「ラー、ラー、ラー! ラー、ラー、ラー!」


隊列が隣の通りを通過すると、物音は小さくなっていった。ヴァンドーヴァーはまた落ち着きがなくなった。少しずつあの幻覚が彼を襲った。彼の理性は少しずつ彼の手中から滑り落ちた。狼……獣……その生き物が何であれ、彼の病んだ想像の中で、時々、強くなったようだった。しかし、彼は全力でそれと戦った。周期的に自分を襲うこの奇妙な躁病と戦った……両手をきつく握りしめるほど戦ったので、指の関節が白くなり、手のひらに爪が食い込むほどだった。どういうわけか、自分の人格が三つに分かれているように彼には思えた。彼自身が、日頃の本物のヴァンドーヴァーが、鏡から彼を見返す同じ見慣れたヴァンドーヴァーが、いた。それから、狼だか獣だか、それが何であれ彼の体内で生息し、今、彼と戦い、支配権を得るために、本物のヴァンドーヴァーをそれ自身の醜い自我に吸収しようと必死になっているものがいた。最後に第三の自分がいた。これは形がなく、とても漠然としていて、とらえどころがなく、離れたところに立って他の二つの争いを見守っていた。しかし、狂気と戦うにあたって、凄まじい意志の努力で全神経を集中させつづけたので、これをするたびに、思考に生じる奇妙な麻痺が、霧のように頭脳を包んだ。すると、この第三の自分はこれまで以上に曖昧になり、だんだん小さくなって、消えてしまった。どういうわけか、これは意識と関連があるようだった。というのも、この後、物事に対する現実の感覚が彼には曇ってぼやけが生じたからだ。彼は自分が何をしているのか正確にわからなくなった。彼の知的な部分は次から次へ落ちてなくなり、本能しか、盲目的で非合理的な獣の衝動しか、残らなかった。


それでも彼は落ち着きなく動き続けた。よろめきながら部屋の中を行ったり来たりし、頭を低くうなだれ、足を動かすたびに体を左右に揺さぶった。とても神経質になっていたので、バスローブとゆったりした寝間着のせいで課せられた行動の自由への制約が、神経を逆なでして彼を苛立たせた。とうとう彼はすべてのものを脱ぎ捨ててしまった。


突然、何の前触れもなく、両手がゆっくり頭上にあがって、手のひらをついて前方に倒れた。とっさにあきらめ、一秒であのすねてうなる四つ足の奇妙な幻覚に屈していた。今は片時も休まずに、手のひらをついたつま先立ちで部屋の壁沿いを走って行ったり来たりした。サーカスで見かけるある種の道化師か、何かの巨大な犬を真似ながら大鋸屑(おがくず)のまわりを歩く曲芸師に似た滑稽な容姿だった。しかし足を引きずるたびに左右に頭を揺らしても、どんよりした目は動かなかった。長い間隔を置いて、言葉とも叫びともつかない「狼……狼!」という音を発したが、それはくぐもっていて、不明瞭で、しわがれ声で、唇ではなく喉から出ていた。確かに動物のうなり声だったかもしれない。長い時間が過ぎた。ヴァンドーヴァーは、裸のまま、四つ足で、走って部屋の端から端まで行ったり来たりした。


深夜一時を回るまでに、空は澄み切って、星はすべて出そろった。低く振り下ろした三日月刀(シミタール)のような細い月が、街の屋根の黒ぐろとした塊の陰に沈んで、地平線全体から生じたような淡い青みがかった光を残していた。大きな静寂がどんどん完璧になるにつれて、あの細長いブリキの煙突の執拗な吐き出す音が、咳でさえぎられた控えめな笑い声のように聞こえる三回の陽気な楽しい小さな物音が、はっきり聞き取れるようになった。部屋では、何か四つ足のものが行き来する執拗な足音以外の物音はしなかった。終いにはこの音さえも突然しなくなった。疲れ果てたヴァンドーヴァーは長くひと息ついて、前向きに倒れ、顔を伏せた。静かに横たわったまま、ついには眠りについた。大学生の大きな集団の残りが、隣の通りに移って、最後のしめくくりにリズミカルなスローガンを唱えていた。それは開いた窓から入って来て、湿気をたっぷりふくんだ暖かい空気によって和らげられて、伝わった。


「ラー、ラー、ラー! ラー、ラー、ラー!」


裸の、疲れ果てたヴァンドーヴァーは、むき出しの白い壁の下の、「ストーブはここ」「モナ・リザはここ」とインクでなぐり書きされた小さな札のうちの二枚の下で、大の字になって、ぐっすりと眠っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ