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ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第十五章


約一週間後に、娘が自殺したのはヴァンドーヴァーに堕落させられたことが原因であり、自殺の責任は彼ひとりにあると主張して、アイダの父親ハイラム・ウェイドが、彼に対し二万五千ドルの賠償を求めて訴訟を起こした。


ヴァンドーヴァーは、自分の芸術を失った悲しみに苦しんでこの週を過ごしていた。この悲しみは父親の死に感じた悲しみよりもずっとつらく思えた。この最後の不幸は、自分の子供、それも生涯を共にしたかもしれない愛するかわいい子供の死も同然だった。自分の芸術がこんなふうに自分を見捨てることはありえないと思えるたびに、彼は何度もイーゼルに向かったが、脳の麻痺と指の不調をまた新たに経験しただけだった。


ヴァンドーヴァーは再び少しずつ人生の軌道に乗り始めていた。ある水曜日の朝、窓際の席に座ってぼんやりと朝刊に目を通していた。部屋は快適で、朝日がよく当たり、アッシリアの浅浮き彫りが赤々とした光に染まり、ルネッサンスの肖像画が純金のように輝かしいもやを通して彼を見下ろしていた。早朝の空気の肌寒さを和らげるのにちょうどいい小さな火が、すてきなタイル張りの派手なストーブでパチパチと音を立てていた。部屋中にコーヒーと良質の煙草のいい香りが立ち込めた。


ヴァンドーヴァーは訴訟の告知を見つけると、窓際の席から立ち上がり、驚きの目で何度も何度も読み返しながら、思わずハッと息を呑んだ。それは半分あえぎであり、半分叫び声だった。


十数行足らずのとても短い小さな記事が、安っぽい広告に紛れて欄の一番下に隠れていた。事件の前の段階についての言及は一切なく、論調からすると、アイダはその前日に自殺したのかもしれない。これはどこかの頑張り屋の記者が、市役所の記録を掘り起こして、この新聞の読者が少しでも興味を持つかもしれないと思い立って、掘り出し、明るみに出したニュースでしかなさそうだった。しかし、そこには、鏡に映った自分の姿の反射のように、灰色のかすんだ活字の中から自分を見つめ返している自分の名前があった。記事は取るに足らないものだったが、ヴァンドーヴァーには新聞全体がそれしか扱っていないように思えた。これは彼の罪を街中に触れまわったも同然だった。


「しかし、二万五千ドルだって!」ヴァンドーヴァーはゾッとして叫んだ。「この僕がどこで二万五千ドルも見つけられるんだ?」そしてすぐに、見つかるかどうか、支払えなかったら刑務所へ送られるかについて考え始めた。勝訴する考えは一瞬も頭に浮かばなかった。法廷闘争さえ夢にも思わなかった。


一時的に、火が火を駆逐した。ヴァンドーヴァーは自分の芸術がなくなったことを忘れた。彼の心はこの最後の不幸を感じるだけで精一杯だった。僕に何ができるだろう? 二万五千ドル! これじゃあ、僕は破滅してしまう。自分の愚かさに対する立腹、憤慨の叫びがヴァンドーヴァーからもれた。「ああ、僕は何て愚かだったんだ!」


彼は一時間、竹の茶卓と低い本棚の間を一番遠回りになるように行き来して、日当たりのいい快適な部屋のあちこちで憤った。たくさんのいろいろな案や計画が頭の中で浮かんでは消えていった。考えがまとまるにつれて、すぐに誰か弁護士……もちろん、フィールド……に相談しなければならないことがわかり始めた。多分何か打てる手があるかもしれない。結局、聡明な弁護士が僕の弁護を引き受けるのがいいのかもしれない。しかし、すぐに、フィールドが僕の弁護を引き受けることはあるまいと確信するようになった。争点がないことを彼は知っていた。そうだとすると、フィールドは僕のために何ができるだろう? 僕は彼に真実を話さなければならなくなる。この弁護士が僕の弁護を断ろうとするのは火を見るよりも明らかだ。これは名誉をかけてできる仕事ではなかった。では、僕は何をするべきだろう? 法律的なアドバイスをどこかからもらわなければならない。


チャーリー・ギアリーがやってきて、いつものようにドアを叩いてその直後に開けたとき、ヴァンドーヴァーはまだ困惑したままだった。


「やあ!」ヴァンドーヴァーは驚いて言った。「やあ、チャーリー! きみか?」


「なあ」ギアリーは挨拶も返さすに、相手をさえぎるように手をあげて叫んだ。「なあ、きみは自分の弁護士に会ったのか?……どの弁護士でもいいけどさ」


「いや」ヴァンドーヴァーは重々しく首を振りながら答えた。「いや、ついさっき新聞で読んだばかりなんだ」彼はギアリーが来たのを喜んだ。すぐにこの重荷を放り出して親友に背負わせ、この問題の管理を任せたくなった。ちょうど昔の大学時代と同じように、自分に代わってこの問題を解決し、厄介事から自分を救い出してくれる、自分よりも賢くて強いこの男の独裁に自分から進んで、優柔不断なまま、従った。彼はギアリーがやる気と才能に満ちあふれているのを知っていた。それに、彼は年齢が若くて経験が浅くても、弁護士としての自分の能力に自信を持っていた。そのうえ、彼はヴァンドーヴァーの友だち、大学時代の親友だった。ギアリーに気に入らないところがあったとしても、彼がこれから正しいことをすることはわかっていた。


「僕が会いたかったのは、他でもないきみなんだ」手を握りながら彼は叫んだ。「いやあ、来てくれて嬉しいよ。さあ、座って、この件について話をしよう」ギアリーは机の後ろの大きな革椅子に座り、ヴァンドーヴァーは再び窓際の席に体を投げ出した。まるでマシューの部屋に戻ったかのようだった。その頃、二人は何百回となくこれとまったく同じ位置についたものだった。ギアリーは真剣に、神経質に、とても熱心に、勉強机に身をかがめ、ヴァンドーヴァーは窓際の席にだらんと横になって、肘をついて楽な姿勢をとり、相手のアドバイスに耳を傾けたのだ。


「なあ、僕は何をしなくちゃいけないんだい、チャーリー?」ヴァンドーヴァーは切り出した。「自分の弁護士に会え、とでも? しかし、フィールドのような弁護士が僕の事件を引き受けると思うか? 知ってのとおり、僕は反論のしようがないんだぜ」


「じゃあ、きみは彼には会っていないのかい?」ギアリーは鋭く尋ねた。「この件で誰にも会っていないのか?」ヴァンドーヴァーは首を振った。「本当なのか?」ギアリーは心配して尋ねた。


「だって、僕はほんの二十分前に知ったばかりなんだからな」ヴァンドーヴァーは反論し、「何でそこにそんなにこだわるんだい?」と付け加えた。するとギアリーは地雷を爆発させた。


「なぜなら」彼は抑えることができない勝利の笑みを浮かべて言った。「なぜなら、うちが原告側の弁護士で、僕がこの件の担当者だからだ」


ヴァンドーヴァーは驚き、ひどくがっかりして、何も言わずに、窓際の席から跳び上がり、「きみがか?」と叫んだ。ギアリーはヴァンドーヴァーのうろたえぶりを楽しみながら、ゆっくりとうなずいた。ヴァンドーヴァーは再びクッションに腰を下ろし、疑念と怒りを募らせながら、相手をじろじろ見つめた。まさかギアリーが自分の個人的利益のために二人の古い友情を犠牲にできるとは思いもしなかった。二人はしばらくの間、テーブルを挟んで互いに見つめ合った。静寂の中で、ケーブルカーの長い轟音が家の前を通り過ぎ、通りの交差点に近づくと、しつこく鐘を鳴らすのが聞こえた。食料雑貨店のワゴンが脇道を行き、馬の蹄がアスファルトの上でリズミカルにパカパカと音を立てていた。


「まあ」ヴァンドーヴァーは小馬鹿にして叫んだ。「それが仕事なんだろうが、僕ならそれを不親切と呼ぶね!」


「とりあえず、こっちを見ろよ、大将」ギアリーは慰めるように答えた。「そうやって安全弁からモンキーレンチを外すなよな。きみを助けるためでなかったら、何のために僕はここにいるんだい? おそらくきみは知るまいが、これはこの仕事ではやってはいけないことなんだ。ああ、賭けてもいいが、もしビール爺さんがこいつを知ったら、こいつは僕の命とりになる。僕はきみの弁護士になるより、ウェイドの弁護士になった方が、きみを助けられると思わないか? そして今、これは最初に言っておかねばならないんだが……僕がきみに会ったことは秘密だよ。きみがこれを約束しないなら、僕はきみのためには何もできないからね」


「ああ、それなら大丈夫だ」ヴァンドーヴァーは安心して答えた。「大丈夫だよ、きみは……」


「これはやっていいことだとは見なされない」ギアリーはヴァンドーヴァーの返事に耳を貸さずに続けた。「なのに僕がやるのは」……彼は両手をぎこちなく動かし始めた……「僕たちが古い友だちだからだよ。僕たち二人がこの件を担当するってビール・ジュニアが言ったとき、僕は真っ先にこう考えたんだ……僕はきみの弁護士になるより、ウェイドの弁護士になった方が、きみを助けられる。なあ、どうだ、僕ってこういうことに真っ先に気づくくらい賢かっただろ」


「確かにきみはものすごく親切だったよ、大将」ヴァンドーヴァーは心から言った。「僕は最近いろんなことで困ってるんだ!」


「もう心配するなって、ヴァン」ギアリーは慰めるように言った。「うちならきみをこの状況から救い出せると思うんだ」彼は左右を見回しながらテーブルに近づいて「この辺にメモ用紙でも隠してないか?」と尋ねた。ヴァンドーヴァーはメモ帳を彼の方に押し出した。ギアリーは万年筆のキャップを取って、一連の質問をし始め、答えを速記で書き留めた。年齢、この街での居住期間、資産、他のいくつかの専門的事項を尋ねたあとで、椅子にもたれて言った。


「じゃあ、きみの言い分を聞かせてくれ、ヴァン。きみがこの問題を改めて振り返りたがっているとは思わないが、僕が知っておくべきなのはわかるよね」ヴァンドーヴァーはあったことを話した。ギアリーはその間メモを取り続けた。二人のやりとりが終わるまでに、正午近くになった。それからギアリーはその紙をまとめ、帽子と杖に手を伸ばして言った。


「さて、今日できることはこれくらいだな。あさって、午後にでもまた会いに来られると思う。ビール・ジュニアと僕はまた明日ウェイドさんと会う予定だから、その後ならもっとはっきりとした話ができるかもしれない。知ってるよね、これはやってはいけないことなんだ」ギアリーは突然不安に駆られて叫んだ。「こうやって両者の間を行き来するっていうのは、本来なら名誉にかかわることなんだが、知らないかな?」


「もしそれが不名誉だと思うのなら」ヴァンドーヴァーはギアリーと一緒にドアまで行く間に言った。「もしきみがそれを不名誉だと思うのなら、チャーリー、やらないでくれ! 僕はきみに、僕のために不名誉なことをしてくれと頼みたくはないんだ」


「ああ、それはいいんだ」ギアリーはきまりが悪そうに言った。「僕は一刻も早くきみのためにこうしたかったんだ。ただこれだけは聞いてくれ。この件は一言も誰にももらすなよ。きみの弁護士にも、誰にもだ。もしフィールドがきみに手紙をよこしたら、すでに弁護士がいると彼には言うんだ。それと、いいか! もうじき記者たちがここに詰めかけるかもしれない。彼らに顔を見せるなよ。これを忘れるな。きみからは何も聞き出せないようにしろ。それと、きみが理解しなければならないことがもうひとつある。僕はきみの弁護士ではないからね、当然だけど。それを確認してくれ。もし双方の弁護士になったら、僕は資格を剥奪されるかもしれないんだ。それはこういうことなんだ、いいか。僕はウェイドの弁護士だ……少なくとも僕が所属する事務所が彼の弁護士なんだ……当然、僕はウェイドの利益のために行動している。でも、きみは僕の古い友人だ。できれば、僕は頑張って、きみがもっとやりやすくなるようにするつもりなんだ。わかったかい?」


「ああ、わかったよ、チャーリー」ヴァンドーヴァーは答えた。「きみはほんといい奴だな」


ヴァンドーヴァーはその日の残りを居間で過ごした。この宙ぶらりんの状態は、彼の神経をゆっくりぎりぎりと締め上げていた。両手を後ろで組んで、頭をうなだれて、額に皺を寄せて不安と苛立ちを刻んだ仏頂面を作り、何時間も歩いて行ったり来たりをするか、あるいは何も見ていない目で通りを見つめながら、窓辺に長時間立っていた。その夜の夕食のときに、食欲がなくなったことに気がついた。食べ物のことを考えるだけで胃がムカムカした。七時から八時の間に自分の部屋に戻った。心身ともに完全に疲れ果て、何か気晴らしになるものが、一日中彼を悩ませ続けていた考えから逃避できるものが、必要だと切実に感じていた。


寝る前に少し本を読もうと決心した。ずっと前に一度読み始めたが完全に読み終えていなかった本をふと思い出した。難破したアヘン船を五万ドルで買い、たった数缶しか麻薬を積んでいなかったことを後で発見した二人の男の物語だった。物語の結末がどうなったかを知るために読み進めたことがなかったのだ。ふと気づけば彼は「二万五千ドル、二万五千ドル……この僕はどこで二万五千ドルを見つけりゃいいんだ?」と繰り返していた。もし支払えなかったら、刑務所に行くのだろうかと逡巡した。その本への関心は一瞬で消えて、別の愛読書を取り上げた。キリストの時代のひとりの少年、不当にガレー船送りの刑に処せられ、後に解放され、宿敵の打倒に生涯を捧げ、戦車競走で死闘を繰り広げ、もう少しで殺すところまでいき、最後はその敵を打ち負かして屈服させたというユダヤ人の少年の物語だった。


ヴァンドーヴァーは巨大な革椅子をピアノの照明まで引き寄せて腰掛け、テーブルに足を乗せて、本を読み始めた。すぐにあの同じ麻痺が、立ちのぼる霧のように頭の中に忍び込み、奇妙な緊張した感覚が額の奥と頭蓋底で広がった。反応がにぶくなった。動きのないどんよりした雰囲気に似た、奇妙な感覚のなくなる感じがした。すばやく周囲を見回すと、視界の中のすべての物が……机の角、ビロードのソファ、フロッシーの黄色いスリッパとバリィの雌ライオンが置かれた低い本棚が……後退して同一平面上にあるように思えた。物体そのものは動いた様子はなかったのに、目の奥の頭のどこかでそういう感覚が、ゆっくりとめまいのような渦を描いて動き回り始めた。突然の精神的恐怖、胸がむかむかする沈鬱、言葉にならないほどひどい厭世観を伴って、理由のない恐怖の古い感覚がよみがえった。


ヴァンドーヴァーは懸命に自分を抑えて、絶叫して腕を振り回し、壁から壁へと駆け回りたい激しい欲求と戦いながら立ち上がった。何度も繰り返し叫んだ。「ああ、僕はどうなってしまうんだろう?」この異変は彼を不安に陥れて狼狽させた。あらゆる恐怖を感じたが、思い当たる節はなかった。この根拠のない恐怖は最終的に新しい恐怖の原因になった。何ものも恐れないこの恐怖は怖かった。


しかし、徐々にではあるが、この危機は去った。少し落ち着いた。サイドボードでウイスキーの水割りを作っている間に、寝ることに決めた。夜、熟睡すれば回復する自信があった。明らかに神経が混乱しているのだ。深夜に読書をするのがよくなかったのだろう。同時に、心身ともに疲れていることに気がついた。


惨めな夜を過ごした。まどろみと目覚めを交互に繰り返しているうちに三時になり、ヴァンドーヴァーは眠れないことに気がついた。仰向けで横になり、見開いた目で暗闇を見つめ、時計の時を刻む音や、頭上の床をきしませる謎の足音や、水道の蛇口から執拗に滴り続ける水の音を聞いていた。外の通りで早朝の牛乳配達のワゴンが行き来するとき、たまに車輪のガタつく音が聞こえた。犬が一匹吠え始め、粗暴な鳴き声が三回まったく同じ間隔で単調に繰り返された。同時に長いくぐもった車輪の動き出す音があって、いきなりガッタンゴットンとうるさい音を出してとまった。それからまた急に再開して、またとまって、また始まって、長いブーンという小さな音に落ち着いた。ケーブルが動き出した。もうほとんど朝だった。部屋の窓が暗闇で明るくぼんやりし始めた。ずっと遠くで機関車が蒸気を吐き出す音が規則正しく聞こえた。始発のケーブルカーが家のそばを通ったときに、最後の眠りに落ちたが、九時頃再び、窓の下の外の石の歩道でガシャガシャ、ザクザクと誰かがシャベルで石炭をすくっている音がして起こされた。


少し気分がすっきりした。しかし、遅い朝食を取りにダイニングに入ると、食べ物の匂いに耐えられず彼はそこを離れた。食欲がなかった。食べることができなかった。その同じ日の午前中十一時頃、彼は時計を巻いたり、タイル張りの派手なストーブの灰を振り落したりしながら、居間でだらだら過ごしていた。頭の中はハイラム・ウェイドの訴訟に関するあらゆる可能性を百回検討するのに忙しかった。何かの和解が成立しないものかと考えていると、突然眉間に衝撃があって、あの同じ説明のつかない恐怖、あの同じ気分の落ち込み、あの同じ恐ろしい沈鬱と一緒に、頭の麻痺がぶり返したのだ。何事だ! あれがまた戻ってきていた。注意力が集中してもいないのに、頭脳が酷使されてもいないのに、あの奇妙な発作が戻ってきたのだ。


それから苦痛が始まった。今回、この危機は去らなかった。この時を境にしてこれはずっと続いた。ヴァンドーヴァーは変な気分を感じ始めた。最初はこの部屋が彼には見覚えのないものに見えた。それから自分の日常生活がもはや見分けがつけられないように思えた。そして最後に突然、全世界が、物事のすべての既存の秩序が、彼だけを残し、見捨て、どこかの恐ろしい謎の海岸に投げ出して、引き潮のように引きあげていくように思えた。


何ものにも価値がないように思えた。彼の人生の進路を決め、彼が気晴らしや楽しみを見出した、あの幾千もの小さな些細なもののすべてに、興味を感じなくなった。恐ろしい憂鬱が、絶望が、口に出すのもはばかられる生きていることへの嫌悪感が、彼にとりついた。日中はこれだけで済んだ。ヴァンドーヴァーが地獄を見たのはその夜だった。


彼は早めに床についた。頭は混乱し、体はまるで長時間の肉体労働でへとへとになったかのようだった。 全神経に衝撃と反動があって、突然、全身が痙攣したとき、彼はちょうど心地よく眠りにつこうとしているところだった。とっさに目を覚ました。まるで長距離でも走ったかのように、息が切れ、疲れ果てていた。枕をしたままで、もう一度、体を落ち着かせた。すると、もう一度、同じように胸がどきどきして、同じように神経が鋭く痙攣して、張りを解かれたバネの勢いで、突然、意識を取り戻した。とうとう、眠るどころではなくなった。宵の口の眠気は消え去った。仰向けの状態で、手を後頭部で組んで、暗闇を見上げた。思考は休まず脳裏を駆け抜けていた。たとえ頭から(かかと)まで拷問にかけられても、人間が苦しめるとは想像もつかない苦しみを痛みもなく味わっていた。


時々、全神経がゆっくりねじれて縮んでいく感じが、足首から始まって体の隅々へと広がった。ついには叫びながらベッドから飛び降りたくなる抑え切れない衝動に対抗するために、拳を握りしめて歯を食いしばらなくてはならなくなった。手が軽く感じた。彼が言うには「ぴくぴく」した。突然、手に奇妙な感覚を覚えた。手がふくらんだように思えた。指がふわっとものすごく大きくなって、手のひらが盛り上がって、手首から爪までが、息を吹き込んでパンパンにしたときの手袋のように膨張した。次は、頭が同じようにふくらんでいる感じがした。その空想を払拭するためには、両手をこすり合わせて何度も顔をぬぐわなくてはならなかった。


しかし、頭の底で感じるあの奇妙な麻痺は、彼が考えつづけるのを妨げなかった……もし妨げてくれたら彼は喜んだだろう……そして今、ついに恐怖が彼を征服すると、もう原因不明ではなくなった。今はもう、自分が何を恐れているのかがわかったからだ……彼は自分が狂っていくのを恐れていたのだ。


何かの恐ろしい神経性の病気、長年悪癖に溺れた結果、彼の理性を破壊することになったあの獣への恥ずべき降伏。これは彼が自分自身にもたらした罰だった。最高のもの、最も繊細だったもの……絵を描く技術……から最初は始まった彼のすべての能力のある種の低下は、彼が愚かさの最終段階にたどり着くまで下へ下へと広がり続けた。これは自然が容赦なく要求しているからだった。これは巨大な恐ろしい機関車だった。冷酷無情に、抵抗できないように、彼に乗り上げて無数の回転している車輪の下敷きにしていた。


アイダ・ウェイドの自殺、父親の死、社交界追放、絵を描く技術の喪失、身ぐるみ剥がして彼を物乞いにおとしかねないハイラム・ウェイドの訴訟、そしてこの最後の、この進行中の発狂、彼が自ら招いたこの恐ろしい災厄の数々は、もろに頭に跳ね返って、苦悶と後悔の重みで彼を粉々に押しつぶしていた。もはや火が火を駆逐するどころではなかった。こうしたすべての災いの感覚が、最初にふりかかったときと同じくらい鋭く、辛辣に、いっぺんに戻って来たようだった。僕は地獄など信じない、と彼は自分に言い聞かせてきたわけだが、これよりひどい地獄があっただろうか? 


しかし、理由はわからないが、ヴァンドーヴァーは突然、衝動に動かされて、先が見えないのに抗えない直感に動かされて、ベッドで起き上がり、組み合わせた両手を頭上にかかげて、叫んだ。「どうか、僕を助けてください! どうして僕を助けてくれないのですか? あなたならやろうと思うだけで、できるはずです」こういう狙いを外さない直感に頼って彼が叫んだ相手は誰だったのだろう? この謎の「あなた」に、この奇妙な超自然的な存在に、この強力な超人的な力に、彼は名前をつけなかった。これは立ち止まって理性的な判断をしない、苦しんでいる魂の叫びだった。自らの無力を感じ、自分以外の力……危険のときに自分を救える力……の直感に反応する野生的な最後の希望だった。


ヴァンドーヴァーは震えながら、両手を頭上にあげたままで、答えを待ち、奇跡を待った。この苦しい神経の高ぶった状態で、突然、第六感が働いた気がした。この部屋にいればあと少しでわかると思った。その間、両手は頭上で組み合わされたままだった。これは彼の最後の希望で、もしこれが駄目なら、残されたものは何もなかった。彼はひたすら待った。奇跡が起きれば、安らぎと静かな喜びの感覚で一気に満たされるのがわかるはずだ、と感じた。ひたすら待った……何も起きなかった。広大な静寂、破られない夜の(とばり)、永遠に続く夜以外は何もなかった。何も答えはなかった。何も聞こえない静寂、何も見えない暗闇しかなかった。しかし、ふと彼はこの静寂そのものが、答えのないこと自体が、答えだと感じた。彼には何もなかった。彼が叫んだあの大きな謎の力さえ、もう彼を助けられなかった。彼を助けることも、自然の厳しいルールをとめることも、容赦なく彼に乗り上げて粉々にする無数の回転する車輪を持つあの大きな恐ろしい機関車を後退させることもできなかった。そしてその後は? 機関車が作業を終えたあとで、知らない別の時間が訪れたとき、その別の人生は、そのときどうなっているのだろう? いや、そのときでさえ、外の暗闇と歯ぎしりする以外は何もなかった。何も聞こえない静寂、何も見えない暗闇、永遠の夜の破られない黒さ以外は何もなかった。


これはすべての終わりだった! 「ああ、僕はこれに耐えられない!」ヴァンドーヴァーはくぐもった叫び声をあげてベッドから飛び降りて、手探りで居間に入った。彼はこのときまで、耐えがたいすごい苦しみしか意識しなかったので、他のすべてのものは濃霧の中のようにぼんやりしていた。一時間近く暗い部屋の中をつまずきながらうろうろした。家具にぶつかっては怪我をして、ぼおっとして、感覚がなくなって、父親の拳銃をしまっておいた机の引き出しを見つけようとむなしく努力していた。よくやく手がそれを握りしめた。それで打ちつけた鋲や釘との接触でできた何百もの小さな傷とギザギザが、小鼠の歯のように手のひらを引っかいて食い込んだ。最後の瞬間に、何だが恥ずかしい気分になった。寝間着だけで床にのびている姿を発見されたくなかった。ガスに火をつけ、バスローブを着て、腰と首のまわりの紐をしっかりしめた。


振り向いて再び拳銃を手に取ろうとしたとき、覚悟がかなりゆるんでいたことに気がついた。もう一度ちゃんと腹を括り直すまで、生命と魂の破滅について改めて考えざるを得なかった。二時五分前だった。時計が時を告げたときに自殺することに決めた。それまでの時間を使ってこの問題の細部を整えた。最初は立った状態で決行しようと思ったが、倒れる際に頭を家具にぶつけるのを恐れてこの考えを捨てた。大きな革椅子に座ってやろうとしたが、父親の死を思い出してできなかった。結局、床に落っこちないように少し後ろにもたれるようにして、ベッドの端に座ることにした。そしてベッドを居間に引きずり出した。どういうわけかそこで死にたかった。ずっとベッドで横になったままでいようという考えが一瞬浮かんだが、死が上から襲ってくることを考えると怖くなり、すぐにベッドから飛び退いた。だめだ、ベッドの端に座って、撃つと同時に後ろに倒れるのが一番いい。次に心臓と頭のどちらにするべきかで迷った。明らかに頭の方がよかった。右側のこめかみの小さな窪みがいい。次の瞬間、自分がもの好きにも指でその箇所をさわったり押したりしていることに気がついた。同時に、時計が時間の一分くらい前に出す小さなカチカチという雑音が聞こえた。もうすぐ二時だった。彼はベッドの端に座って、拳銃の撃鉄を引き、時計が鳴るのを待った。ふと思い立ち、低い本棚の上の時計の右にあるカレンダーを見た。四月十二日、木曜日、これが自分の命日になるのだ。墓石には、十二日、木曜日、午前二時、と刻まれるのだろう。一瞬、自分にしようとしていることの恐怖が彼を襲った。そして次の瞬間には、コロラドではまだ猟犬と一緒に兎狩りをしているのだろうか、と自分が考えごとをしていることに気がついた。そこにいたときはよくそうしたものだった。すぐに時計が二時を告げた。この最後の瞬間に、鏡の前に座りたいという奇妙な衝動が彼を襲った。じっと鏡像を見ながら、鏡の前の椅子を引いた。拳銃を持ち上げるときになって、理由もわからないまま急に気が変わり、とっさに銃口を口に押し込み、引き金を引いた。


発砲音は聞こえず、何の衝撃も感じなかった。しかしものすごい虚脱感が手足を駆け抜けた。すべての筋肉がゆるんで力が抜けた。目は開いたままだった。オペラグラスを反対向きにしてのぞいたように、すべてのものが小さく、とても遠くにあるように見えた。急に気が遠くなった。


ヴァンドーヴァーが再び意識を取り戻したのは、早朝だった。部屋はたっぷり日が差し込んでいたが、ガスはまだ燃えていた。徐々に昨夜の恐ろしい出来事がよみがえった。自分を撃った自覚があり、最期を待った。あえて動かず、目を閉じた。手はまだ膝の上で拳銃の傷のあるグリップを握っていた。しばらく動かないまま椅子にもたれかかった。満ちてくる潮のように意識がゆっくりと戻ってきた。やがて冷笑と不信の表情を浮かべて立ち上がった。これまでと同じくらい元気で、彼にはかすり傷も傷跡もついていなかった。結局、自分を撃たなかったのだ。


気になって拳銃を見て弾倉を開いた……中は空だった。装填するのを忘れていたのだ。「何て馬鹿なんだ!」あざ笑いながら叫んだ。笑い続けたまま部屋の中央、シャンデリアの下にまで歩いていき、ガスを消した。


しかし振り返って、改めてその日に向き合った。その日と翌日とこの先の全生涯に向き合った。惨めな思いが全力でよみがえった。握りしめた拳を目にあてて光をさえぎった。ああ、だめだ、こんなことには耐えられない……生きていることの恐ろしさが死の恐怖を上回った。生き続けることなんてできやしない。彼は新しいことを思いついていた。惨めでいる間に、良心の呵責、理性を失うことの恐怖さえ、そのうち自分からなくなってしまうのがわかった。これにも慣れてしまうのだろう。そうだ、気が狂う恐怖にさえ慣れるだろう。それからまた悪に戻るのだ。あの獣に戻るのだ、部分同士が、繊維細胞同士が引き離せないほどくっついてしまった、あのひねくれた邪悪な怪物の支配下にまた戻るのだ。彼は何も自分を救えないことがはっきりとわかった。あの夜に、奇跡が起きることはないと答えを得たのだ。それならば、僕が自分を滅ぼすというのは正しいのではないのだろうか? これは僕の義務でさえないのだろうか? 僕の善良な部分が、そうすることを要求しているように思うのだが。まだ善良な部分があるうちに、そうすべきではないだろうか? もう少しすれば、あの獣がすべてを掌握することになるのだから。


ヴァンドーヴァーは洗面台の上の棚にあった緑色の段ボール箱の中で弾薬を見つけ、すべての薬室に慎重に装填した。弾倉を戻したが、撃鉄を引こうとしたとき、すべての勇気とすべての覚悟が砂の塔のように一瞬で崩れた。自分を撃つ勇気が出なかった……怖かったのだ。前の晩は十分に勇敢だった。このとき、同じ勇気と同じ覚悟を呼び覚ませなかったのはどうしてだろう? この醜態と人生の惨めな挫折と先行きの暗さを改めて考えると、僕の苦悩と恐怖は依然として深刻だ。しかし今は自殺願望と、死に対する本能的動物的恐怖が僕を凌駕したせいで全神経が萎縮している。僕の苦しみは続き、なるようになるしかならず、死さえ僕を助けてくれないだろう。このままにしておけばいい。苦しんでいるのは僕の善良な部分だけだ。少しすればこの善良な部分は死んで、あの獣だけが残るのだ。僕が何も介入しなければ、自然に死ぬだろう。自殺の必要があるだろうか? 自殺! 偉大な神よ! 僕の全生涯は、ひとつの長い自殺だったのだ。


*   *   *   *   *


この同じ朝、チャーリー・ギアリーは八時間の良質な長い睡眠を楽しんだ後、朝食に分厚いレアのステーキを平らげた。八時頃、ダウンタウンに出かけた。車に乗らず、歩くことを選んだ。その方が消化を助けて運動にもなるからだ。夜も歩いて帰宅した。これで食欲がわいた。さらに、こうして節約した十セントで、夕食の消化を助けるために夜に吸う上質の葉巻を買った。彼は健康にとても注意していた。まあ、確かに、人は自分の健康に気をつけなければならなかった。


その朝、彼は事務所でビール・ジュニアと一緒にハイラム・ウェイドの訴訟について長話をした。ギアリーが受け入れられたビール&ストーリーというこの大手の事務所は、損害賠償訴訟、特に市と州を破滅させていると言われたある巨大な独占企業に対して起こされたような訴訟を専門にしていた。約二十五万ドルが関係していたこういう案件が、今では事務所のトップと実際にこの事務所全体の注目を集めていて、ハイラム・ウェイドの訴訟は下働きの者に割り当てられた。ビール・ジュニアはそのメンバーのひとりだった。チャーリー・ギアリーは何とかして彼に信頼される事務員の座に収まった。しかし、ビール・ジュニアはウェイドの訴訟にほとんど関心を示さなかった。巨大な独占企業に対する訴訟は山場を迎えつつあった。これは巨人同士の闘いで、気づけば事務所全体が巻き込まれていた。そしてビール・ジュニアは少しずつその闘争に自分を関与させていた。ウェイドの案件はギアリーの手に委ねられた。


ギアリーはこの件を担当することになったことを最初に聞いたとき、旧友の不利になる行動をするのは気が進まなかった。しかし、これは彼が関与するとても重要な最初の法的業務だった。彼はすぐに並々ならぬ野心を抱き、自分を目立たせて事務所の目にとまりたい、上げ潮に乗って、自分の欲望の終着点、この事務所の一翼になるのを目指す長い一歩を踏み出そうと夢中になった。自分ならこの件を見事に成功させられるとわかっていた。ギアリーはこのときおよそ二十八歳、鋭敏で、血気盛んで、著しく才気走っていた。ヴァンドーヴァーに対するこの訴訟は勝ち目があった。ヴァンドーヴァーがアイダ・ウェイドとどれほど親密だったか、彼ほどよく知る者はいなかった。ヴァンドーヴァーは二人の関係を事細かにたっぷり話していた。これに加えて、自殺の前日にアイダがヴァンドーヴァーに書いた手紙が、三つに引き裂かれて、彼女が師範学校で勉強するのに使っていた本の一冊のページの間に挟まっていたのが見つかっていた。これはもろにヴァンドーヴァーを巻き込んだ……これは否定できない証拠だった。ギアリーは自分の古い友人に対し訴訟を起こすことに決めていた。ヴァンドーヴァーは、これがギアリーの仕事だと理解するべきだった。ギアリーは法律の道具にすぎなかった。もしギアリーがこの件を担当しなければ、誰か他の弁護士が引き受けただろう。とにかく、ヴァンドーヴァーがこの観点から見ようが見まいが、ギアリーはこの案件を引き受けることにした。これは見過ごしにできない絶好のチャンスだ。僕は法律で自分の道を切り開くつもりだ。そうでないならそうしない理由を知りたいところだね。誰もが自分の利益を追求するもんだ、これは僕が言った言葉だ。これはひどく自分勝手かもしれないが、人間の本性だ。もしヴァンドーヴァーを犠牲にしなければならないのなら、なおさらだ。いずれにせよ、僕の大学時代の古い友人が堕落しつつあるのは明らかだった。しかし何が起ころうとも、僕は成功するつもりだ。そう、きっとだ、僕は自分の道を進んで、お金を稼ぐんだ。


彼が小さな遺産を相続してからずっと、ギアリーはミッション地区の土地を売るようヴァンドーヴァーに話を持ちかけていた。ギアリーは八千ドルしか提示しようとしなかった。しかしブラントはその土地には一万二千六百ドルの価値があると保証して、そんな数字には耳を貸すなとヴァンドーヴァーにしっかり忠告した。ヴァンドーヴァーは、ギアリーがこの件に固執するのをたびたび不思議に思い、この一画の何をそんなに欲しいのかとたびたび尋ねた。しかし、ギアリーの返事はとても曖昧で、適切な注意を払うことができて押し進めたら、この投資は儲かるからだ、と漠然とした話をするだけだった。彼はヴァンドーヴァーに言った、きみ(ヴァンドーヴァー)は実業家じゃない、これは残念な事実だ、配管の不具合、苦情、修理で絶えず悩まされるより債権の利息で生活する方がはるかにいいだろうに。事の真相はこうだった。ギアリーはある巨大製靴(せいか)企業が同じ土地を狙っていること知っていた。この製靴業者にすれば家そのものに用はなかった。そこに工場を建てるためにその土地が欲しかったのだ。鉄道の待避線がこの土地の真裏の路地を走っていた。住宅地には不利になることでも、製靴業者にとっては欠かせないことだった。ギアリーは、この工場の幹部がこの土地を買うと決めたことを知り、やり手のブローカーに適切に扱われれば、その評価額の少なくとも三分の一以上を提示させられると確信した。これは絶好の投資話だった。ヴァンドーヴァーが、要するに自分以外の誰かが、これによって利益を得ると考えることは、ギアリーにとって苦痛だった。


ハイラム・ウェイドが二万五千ドルの訴訟を起こした日の午後、油差しを持って事務所の回転椅子のまわりをうろうろして、軋む箇所を見つけ出そうとしていたとき、ギアリーは突然、名案がひらめいた。天才的な閃き、本物のインスピレーションだった。ウェイドの訴訟をヴァンドーヴァーに土地の売却を迫る手段にできないものだろうか? 


彼の最初の考えは、ヴァンドーヴァーが確実に負けるように精力的にこの訴訟を推し進めることだった。しかし、考え直したところ、この方針では満足いく結果を得られない気がした。ハイラム・ウェイドは二万五千ドルの訴訟を起こしたが、たとえ起こしたとしても、五千ドル以上は回収できないことをギアリーはよく知っていた。ギアリーはヴァンドーヴァーの資産状況を正確には知らなかったが、損害賠償の支払いをするために土地を売るとは思わなかった。財産の一部に二番抵当権を設定して五千ドルなり決定額なりを調達する可能性の方が、はるかに高かった。しかし、これはウェイドが五千ドルくらいの判決を勝ち取ることを前提にしている。しかし、ウェイドは実際に二万五千ドルを勝ち取ることができる、とヴァンドーヴァーが考えたとしたら! ギアリー自身がヴァンドーヴァーに会ってこういう話を信じ込ませて、法廷の外で和解させることができたらどうだろう! ヴァンドーヴァーはビジネス同様、法律についても無知だった。ギアリーが彼を脅して売らせてしまえばいいのだ。それでも、この計画はあまりにも実行不可能に思えた。第一、こういう状況でギアリーがヴァンドーヴァーと面会するのは職業倫理に反するし、この話はヴァンドーヴァーの信用を裏切るあまりにもひどい所行だった。おまけに、ギアリーはこの土地に二万五千ドルを払うつもりはないし、払えなかった。この最後が難問だった。ヴァンドーヴァーに売却させるには、ギアリーがこの街区に出す気でいる金額よりも大きな額、製靴工場がこれに支払うよう勧められるかもしれない金額よりももっとずっと大きな額が絡んでいるように、この損害賠償訴訟を説明しなければならないだろう。ここで行き詰まったようだった。ギアリーはこの考え全体が問題にならないことがわかり始めた。それでも、この欲望は何度も彼の心によみがえった。彼は仕事熱心な男の本能で、このごちゃごちゃしたもののどこかに「取引」のチャンスを探りながら、絶えずこれを考えた。ようやく解きほぐせたように思えた。和解案が頭に浮かんだ。もしヴァンドーヴァーとハイラム・ウェイドが八千ドルで和解できたらどうだろう? ギアリーは問題の土地に対してヴァンドーヴァーに八千ドルを支払うつもりだった。これは彼の最初の申し出だった。ウェイドは二万五千ドルで訴訟を起こしてはいたが、合理的に期待できるのは八千ドルがいいところだと簡単に理解させられるかもしれない。製靴業者がこの土地に一万五千ドル、もしかしたらそれ以上でも払う気でいることをギアリーは知っていた。


しかし、この扱いが難しい複雑な仕事をやってのけるには、ヴァンドーヴァーを弁護士に会わせないようにすることが絶対に必要だった。ギアリーはどんな弁護士も八千ドルでの和解案に反対すること知っていた。ウェイドが法廷で得られるのは五千ドルがいいところだった。もしこの金額の判決が下されたら、ヴァンドーヴァーの弁護士は、土地を売る代わりにどこかの所有地に抵当権を設定してその金額を調達するよう彼に助言をするだろう。


しかし、問題の解決にたどり着くとすぐに、この「取引」がうまくいくように思え始めるとすぐに、ギアリーは躊躇し始めた。この仕事が不正であるというよりも、自分の役割が控えめに言ってもプロらしくないというよりも、ヴァンドーヴァーが大学時代の古い友人であり、この問題を平たく言えば、ギアリーが自分の親友から一万二千六百ドル相当の財産をだまし取り、親友に同じ財産をもっと高額で売らせないようにしていた、からだった。彼は何度も、これがヴァンドーヴァー以外の誰かであってくれたらと願った。それなら、これっぽっちも良心の呵責を感じないで取りかかれるのに、と自分に言い聞かせた。ギアリーは一晩中、親友との友情と、自分の道を切り開いてひと山築くという貪欲で途方もない野心との間で引き裂かれる拷問台にいた。結局、ヴァンドーヴァーは犠牲になった……このチャンスはあまりにも良すぎたのだ。ギアリーはこの「取引」のチャンスに抗えなかった。ああ、確かに、考えればわかることだが、結局、ギアリーが自分のために必死で頑張ってくれているとヴァンドーヴァーが信じているだけではなくて、事務所は彼の最初の勝訴を喜ぶし、ウェイドからは多額の報酬を得るし、ギアリーはミッションの土地に投資した金を約二倍にすることになるからだ。この「取引」をやろうと決めるとすぐに、朝早いうちに彼の部屋でヴァンドーヴァーに会い、他の弁護士を雇わず、この件のすべてに沈黙を守るように大筋で約束させた。


その翌日、ギアリーとビール・ジュニアはハイラム・ウェイドと会う約束をしていた。しかし正午近くになってビール・ジュニアは、独占企業に対する大掛かりな訴訟の最終弁論を聞きに父親と法廷に行くとギアリーに言い残して姿を消した。これは事務所全体を巻き込んだ途方もない法廷闘争の最終決戦だった。ギアリーはウェイドの事件に自分の判断を用いることになった。ギアリーはその日の午後ずっとハイラム・ウェイドと話し合った。この老人は、若さと経験不足を理由にギアリーを信用せず、彼より年上の同僚の承認なしには一切確定的な結論にたどり着こうとしなかった。ずっと一万ドル以下には耳を貸さず、この白髪の名誉は傷つけられたんだと叫んで、手のひらで額を叩いた。何ものも彼を動かすことはできなかった。彼にも野心があった。今は四分の三の権利しか持っていないカーペット・クリーニングの会社を自分のものにするのが彼の夢だった。夏が近づいていた。人々が地方に出かけ、留守中にカーペットをクリーニングしてもらうために残していく季節だった。もし今月中に事業の完全な所有権を入手できれば、これまでのどの季節よりも多くのお金を稼げるチャンスだと考えていた。


「いいですか、ギアリーさん」彼は頭を振りながら憤慨して叫んだ。「もしこれより低い数字で和解したら、自分の娘の名誉を売るように思えるんです。私は父親なんです。私に……私にだって感情はあるんです、そうでしょ?」


「いや、そういうものではありません、ウェイドさん」ギアリーは両手をおろおろさせながら答えた。「先方からはそんなに得られませんよ。お金で、何百万ドルかで、アイダさんの死が補填できるんでしょうか? できないと思います。私たちが得られる金額はそのくらいです。もしこれが裁判になったら、私たちは先方から五千ドルしか得られないでしょう。今からあなたにそのことをご説明します。先方は抵当権の設定によってそれを簡単に調達できます。でも、もし和解すれば、私たちは先方から八千ドルを搾り取れるかもしれません。実は、弁護士を通さずに先方と直接交渉できれば事態はもっと簡単になるんです。言っておきますが、もちろん、これは法律的にやっていいことではありません。ですが、あなたのためでしたら、私は喜んでやらせていただきます。と言いますのも、私はあなたが不当に扱われて憤慨していると思うからです」


ウェイドは手で頭を叩いて「いいですか、あいつはこの白髪の名誉を傷つけたんだ」と叫んだ。


「まったく、そのとおりです、お気持ちはわかります」ギアリーは答えた。「でも、今はこの八千ドルの話をしませんか? 私がやろうとしていることをお話しましょう」ギアリーはこの最後の勝負にすべてを賭けようと決めていた。「ここなんですがね、ウェイドさん、八千ドルと一万ドルは、もちろん違いますが、お金を使うことは大事なことですよね? それに、現金、しかも即金っていうのは大事なことですよね? それでですね、もし三日以内にその八千ドルが現金で手に入るとしたら、どうでしょう?」


ハイラム・ウェイドは自尊心と名誉を傷つけられた髪のためにもう少し難色を示したが、来週末までにお金が全額支払われるなら甘んじて和解に応じると最終的に同意した。八千ドルあれば今ならまだパートナーの権利を買い取ることができた。それでもなお、一定の蒸気設備を改良する分が少し残るだろう。一周間以内に全額が支払われれば、夏の商機をすべてつかむのに間に合うように、清掃業務を管理できるかもしれなかった。


ギアリーは、この最後の議論は重要だと計算していた。今の大きな問題は、この低い金額で、即刻ヴァンドーヴァーに売却させることだった。彼はこっち側の成功をほぼあきらめていた。しかしながら、このすべては今、ヴァンドーヴァーにかかっていた。


翌日の早朝、ギアリーはヴァンドーヴァーの居間のドアを叩いて、返事を待たずに押し開けた。ヴァンドーヴァーはシャツ姿で、壁に賭けられた地味な色の絨毯の下にあるビロードの長椅子に横になっていた。ギアリーが入ってきても立ち上がらなかった。実際、ほとんど動かなかった。


「やあ!」ギアリーは後ろ足でドアを閉めながら叫んだ。「きみがこんなに早く起きているとは思わなかった。僕は六時半から起きていて、七時に朝食をとり、おいしいカツレツを食べ、それから八時二十分に事務所に着いたよ。どうだい、働き者だろ、えっ?」


「それで?」ヴァンドーヴァーは気のない返事をした。


「でもねえ」ギアリーは叫んだ。「いったいどうしたんだい? すっかり疲れ切って、顎のあたりが青ざめているように見えるぞ。また、調子づいてきたんだね。まったく、きみって奴は、ヴァン、話しても無駄だな! 一晩中、羽目を外してたのかい?」


「そうだと思う」ヴァンドーヴァーは全然動こうとしないで答えた。


「しかしなあ、疲れてるように見えるぞ……今朝は確かに」テーブルの端に座って帽子を後ろに押しながらギアリーは続けた。「僕はきみがこんなに調子悪そうにしてるのを見たことがない。もっと気をつけるべきだよ、ヴァン、いつか大変なことになるぞ。人は自分の健康に気をつけるべきなんだ。僕は毎朝、ダウンタウンを歩いて、週に三回、起きたらすぐに冷水シャワーを浴びるぞ。言っておくがな、こいつが体を引き締めるんだ。きみもやってみるべきだ。一ダースのカクテルよりいいぞ。きみがこの数日のペースで痩せ続けていくと、僕はまた昔のように、ろくに食わせてもらえないガリガリって呼ばないといけなくなるな。なあ、ほんとのこと言えよ、昨夜は何時に寝たんだ? ちゃんと寝たのか?」


「ああ」向かいの壁にあるパイプ立てをぼんやりと見ながらヴァンドーヴァーは大きく息をついた。


「そんなこったろうと思った」ギアリーは答えた。「まあ、きみらしいがな」少し間を置いて、同時に両手をそわそわ動かしながら続けた。「それでね、僕はウェイドと長い話をしてきたよ。言っておくがね、ヴァン、あの老人はロバのように頑固なんだ。自分が裁判に勝つってことを知ってるんだ。彼を説得しきれなかったよ。状況を説明するとね」もう一度地雷を爆発させる準備をしながらギアリーは続けた。「彼は、アイダが自殺する前日にきみに書いた手紙を見つけたんだ」ヴァンドーヴァーに与えた効果を見るためにいったん話をやめた。ヴァンドーヴァーは彼が続けるのを待ったが、彼が続けないのと、自分が何かを言うのを待っていることに気づいたので、一度うなずいて答えた。


「なるほど」


「アイダが、状況と、自分がどう進退窮まったかをきみに伝えるために書いた手紙なんだが、知らないか?」ヴァンドーヴァーの無関心に困惑してイライラしながら、ギアリーは繰り返した。


「知ってるよ」


「まあ、とにかく、向こうはそれを持っているんだ」ギアリーは続けた。「もちろん、それはきみに不利に働く。僕は昨日の午後、彼とじっくり話して妥協させたんだ。こういう訴訟で原告は自分が受け取れると期待するよりかなり多めの額をふっかけて訴えるのをもちろん知ってるよね。最初、彼が二万五千ドルと言ったのをきみは知ってるね。この数字は彼が最初に僕たちに相談したとき決められたんだ。もちろん、そんな金額で判決を勝ち取れるはずがない。しかし、彼は一万ドルを要求し続けた。もしそれ以下では娘を売ることになると言ってね。特にこんな厳しいご時世では、きみの持つどんな不動産でもそれだけの額は調達できないのを僕は知っている」ギアリーはほんの一瞬話を中断した。彼は、ヴァンドーヴァーが何を言うかを確かめるために、探りとして今の意見を投げかけたのだ。しかし友人は何も言わなかった。ぼんやりと向かいの壁を見つめ、理解したことを示すためにわずかに手を動かしただけで、目を閉じ、頭をうなだれた。「それで」相手は続けた。「僕は彼を説き伏せた。きみはどう思う? いいかい、僕はね、二万五千ドルから、何と、八千ドルまで引き下げたんだ。僕はね、彼にはすぐにでも実行に移したい計画があることと、それをやり遂げるための現金を手元に用意したがっていることを見抜いたんだ。ああ、僕はそれを見抜けるほど賢かったんだぜ。現金を、しかも即金で用意すると話し始めと、話は早かったよ。相手が歓声をあげるが早いか、僕は現金を突きつける、即金でな。相手はダチョウが砂に頭を突っ込むように現実から目をそむけたってわけさ。さて」ギアリーはいったん話をやめてから慎重に続けた。テーブルから立ち上がり、両手をポケットに入れたままヴァンドーヴァーの前に立った。「これが、僕がきみのためにできる最善のことだと思うよ、ヴァン。思ったよりもはるかにうまくいったよ。僕はきみのために最善のことをしたんだ。この提案を踏まえて彼に会うことを勧めるよ」


「わかった」ヴァンドーヴァーは言った。「続けてくれ」


ギアリーは困惑した。「で、きみはこれをいいことだと思うよね? きみは僕がきみのために最善を尽くしたと思うよね? きみはこれを僕と同じように見てるよね?」


ヴァンドーヴァーは向かいの壁から目をそらして、重いまぶたの下からギアリーを一瞥すると、頭と肩を少し動かして答えた。


「もちろんさ」


「そのお金はあるのかな?」ギアリーは気持ちをはやらせて尋ねた。自分の軽率さに苛立ち、急いで言葉をかぶせてさえぎった。「実は、彼はまだこの条件案を書面にしてはいないんだが、内容はこうだ。もしきみが来週末までに現金で八千ドルを彼に支払うなら、和解文書に署名する」


「お金がないんだ」ヴァンドーヴァーは静かに言った。


「そんなことじゃないかと心配してたんだ」ギアリーは言った。「でも、きみならこれをどこかで調達できるかもしれない。きみはできるだけ早くこの老人と話をまとめた方がいいぞ、ヴァン、相手がその気のうちにな。それで二千ドルは稼げる。僕がわかっているように、きみにもわかるはずだ。さて、どこで調達できるかだが……きみの財産はどうなってるんだ? 見てみようか! これは先日、きみが僕にした説明なんだが」ギアリーは書類鞄から速記メモを出しながら続けた。「カリフォルニア通りのこの物件、きみが賃貸してるこの家と土地はどうなのかな?」


「ああ、それならそこにあるよ」組んだ両手にのせた頭の位置を変えながらヴァンドーヴァーは答えた。


「しかし、こいつにはすでにたっぷり紙が貼られてる」ギアリーはメモを見ながら答えた。「これに新たに担保を設定したところで大した金額は調達できない」


「忘れてた」ヴァンドーヴァーは答えた。「ミッションの土地がある。向こうはそれを手に入れればいい」


ギアリーは興奮で震え始めた。最終的にこの交渉をまとめられるかもしれない。しかし次の瞬間、疑念が生じた。ヴァンドーヴァーの無関心は彼を困惑させた。彼は自分の勝負をしないのだろうか? 相手の賢さに自分の賢さを立ち向かわせるという考えは、一瞬で彼の神経を緊張させ、闘いが迫っているという考えは激励だった。競争相手に勝ちたがる彼の先天的な欲望は、たとえ相手が親友であろうが、刺激物のように知恵を湧かせて能力を鋭く高めた。彼は友人を犠牲にすることに何のためらいもなかった。これはもうビジネスであり、友情はこの問題に関係がなくなった。ああ、ヴァンはずる賢く立ち回るつもりでいるのだろう。こっちもそのくらいできるってことを相手に見せるとしよう。


「それを先方に渡してもいいのか?」ギアリーは繰り返した。「そっくりそのままの形で引き渡すつもりじゃないよな?」


「ああ、あれなら抵当に入れられると思うんだ」ヴァンドーヴァーは答えた。


「ああ、その手があるか」ギアリーは答えた。「こいつを計算してほしいか? 曲がりなりにもできるんだぜ。どれどれ、見てみよう」彼は机に腰を下ろして、ヴァンドーヴァーの切手が貼られた便箋の上で計算しながら続けた。「銀行は評価額の三分の二以上は決して出さない。これが期待できる最大額だ。となると……うーんとね……あの土地は六千ドルになる。これだと差額を補うために他の何かに抵当を設定すればいいな」


「六千以上になるんじゃないかな?」ヴァンドーヴァーは少し関心を示して尋ねた。「あの区画は一万二千以上で評価されてると思うんだが」


「ああ、そうだったね」ギアリーは顎を上げて答えた。「それは五年前のきみの代理人の評価だ。でもね、あそこの土地、実は街中のすべての土地が、いわゆる市内の土地が、この十年下落し続けているんだ。これは僕がいつもきみに言ってきたことだろ。今どき、あの区画じゃ九千ドル以上はおそらく取れないよ。あそこの鉄道が玉にキズなんだ」


「そうだよな」ヴァンドーヴァーは答えた。「親父が生きていた頃、そう言うのを聞いたことがある」


「そうだろ」ギアリーはこの予期せぬ展開を喜んで叫んだ。


「それじゃ、僕の債券を渡せばいいか」ヴァンドーヴァーは言った。「債券で八千九百ドルあるんだ。そいつを渡せばいい。欲しがるものを何でもやっちまえ」


「いや、債券には手をつけるな」ギアリーは答えた。「そいつはしっかりしまっとけ。債券はずっと好調だからな……米国債は。きみだってそいつを売りたくはないだろ、ヴァン。いいか、家と土地はすでに抵当に取られてる。それに、知ってのとおり、銀行は不動産の担保にものすごい金利を要求してるんだ。最近じゃ七・五パーセントだ。債券は売るな。理由を説明しよう。米国債はずっと好調だ。決して値下がりしない。不動産とは違うんだ。特に今のこの市内ではな。きみの父親の時代からずっと下がり続けてきたし、これからも下がり続けるだろう。もし何かを売りたいのなら、もっと値下がりする前に不動産を売っちまえ。今は自宅を売りたくはないだろ? 考えたくもあるまい。きみは長いことあそこに住んでたんだ。そんとき、家具はどうする? それに、家賃が」再びメモを一瞥して「月に百二十五ドルも入ってくるんだぞ。売らなきゃならないんなら、ミッションの土地を売ったらどうだ?」


「わかったよ」ヴァンドーヴァーは、まるでギアリーが騒ぎ立てるのにうんざりしたかのように言った。「それを先方に引き渡すよ」


「いや、そういうことじゃないんだ」ギアリーは強く言った。「先方は現金が欲しいんだ。価値が下がった不動産なんか欲しがってないよ。もしきみが短い期間でできるのであれば、来週中に買い手を見つけて、ウェイドにそのお金を渡さなくちゃいけないんだ。でも、その期間中に売ることができなければ、八千じゃなく一万ドルかき集めなきゃならなくなるんだよ。すると、きみは難しい立場に立たされるわけだ、ヴァン。こいつはただのチャンスだけどね。僕はこのチャンスを与えてきみを有利にしてやろうと思ったんだ。もしきみが僕に委任状をくれるんなら、僕はきみのためにこれを売ってみせるよ」


「そういうことはブラントがやってくれると思う」ヴァンドーヴァーは答えた。


「そうだね」ギアリーはオオヤマネコのように用心深く言い返した。「でも、多額の手数料を請求してくるよ。僕がやれば、もちろん、きみに実費以上のものを求めることはない。もしきみがそんな短期間でこれを現金化しなければならないことを知ったら、競売にかけちまうんじゃないかと僕は心配なんだ。そんときは二束三文にしかならないからね。状況はわかってるだろ」


「思ったんだけど」ヴァンドーヴァーは尋ねた。「きみはあの土地を欲しがってたよね」


「ああ」ギアリーはためらいながら答えた。「ぼっ……僕はあそこを一度きみから買いたかった、まあ、これについて言うと、今でもそうしたい。でも、きみは僕の状況を知ってるだろ」


「他の誰かに売るくらいなら、きみに売った方がいい」ヴァンドーヴァーは答えた。


「うん、今はね、こんな感じなんだ、ヴァン」ギアリーは言った。「僕はあの土地の価値が九千ドルだと知っている。僕はきみをだますつもりはない。でも、僕じゃこれに八千ドルしか出せない。これが僕の持ってるすべてのお金なんだ。でも、僕はきみの立場につけ込んで値切るつもりはないんだ。僕はあの土地が欲しい、それは認める。でもね、僕は自分のために、あるいは他の誰かのために、きみを犠牲にするつもりはない。僕はきみがあれで九千ドルは受け取れると思う。もう少し時間があればできるとわかってるけど、来週中にきみに九千ドルを出す買い手を見つけられるかとなると自信がない」


「なあ、僕は構わないよ、チャーリー。すべてにうんざりしてるんだ。八千でも九千でも何でもいいから、きみの言い値で引き取ってくれ」


ギアリーは再び震え始めた。今度の興奮はまともに話す自信がなくなるほど大きかった。呼吸は短くなり、ポケットに入れた手は神経質に痙攣して縮こまって拳になり、心臓が喉で高鳴っているように思えた。自分を落ち着かせる間、熟考するふりをしながら、しばらく逡巡した。


ヴァンドーヴァーは、両手を後頭部で組んだまま、何も見ていない目で向かいの壁を見つめて、黙っていた。小さな時計が十時を告げ始めた。


「僕にはわからないんだ、ヴァン」ギアリーは言った。「僕はこんなことをしたくない。でも、この混乱からはきみを助け出したいんだ。だってさ、もしこの先、僕がこの土地で利益を得ることにでもなったら、僕がこの機につけ込んできみをぺてんにかけたようにきみは感じてしまうだろ」


「じゃあ、それには気をつけるよ」ヴァンドーヴァーは答えた。


「いや、いや、これはさすがに気が引けるよ」首を振り、目を閉じながら、ギアリーは答えた。「競売で僕らに何ができるかを確認した方がいいって」


「なあ、わかんないか、きみは僕のためにしてくれているんだろ?」ヴァンドーヴァーはだるそうに言った。「僕がきみにその土地を買ってくれと頼んでるんだ。きみが出す金額がいくらでも僕は構わないよ!」


ギアリーはまたもや逡巡した。最後に頭の中ですべての取り引きを初めから終わりまで見直して、それを検証し、弱点を探した。ほぼ完璧だった。もし製靴会社が土地を買わなかったらどうなるだろう? あそこならたとえ評価額以下で他所で売っても、その取り引きで利益を得ることが可能だった。この土地は安ても一万ドルだ。一万二千ドルになるかもしれない。普通のまっとうな投機としても、そのくらいの数字が望めるものだった。製靴会社が完全に手を引いたとしたら、土地の別の買い手を見つけることができなかったとしたら、うーん、そのときは持ち続ければいい。ここの家賃収入は彼がこの土地に支払う金額の十パーセントもあった。


「それじゃ、ヴァン」すべての指を伸ばしたまま、左手をゆっくりとぎこちなく動かしながら、ようやく口を開いた。「きみの言うとおりにするけど……そうするべきではない気がするんだ……」突然、良心を爆発させて自分の言葉をさえぎって叫んだ。「もちろん、大将、僕がもし九千ドル持ってたなら、その土地に出してもいいんだ。あれは確かな物件だからね」彼はこれを言っておけば自分は誠実であると感じた。もし九千ドル持っていたら、それを出していただろうというのは本当だった。それどころか、一万でも一万二千でも出していたかもしれない。


「今日中にすべての問題を片付けられないかな?」ヴァンドーヴァーは言った。「今この場でさ。僕はこれにうんざりしてるんだ、すべてにうんざりしてるんだよ。こいつを片付けてしまおう」


ギアリーは座っているところから跳び上がらんばかりだった。これをどうやり遂げればいいかは考えてあった。「わかったよ」彼は元気よく言った。「待つ理由はないな」彼はヴァンドーヴァーが応じる気になった瞬間に取り引きを完了させる準備を整えてあった。ずっと前、最初にこの区画を購入しようと思いついたときに、彼は郡の登記係、税務官、査定官の事務所で一日過ごして、この権利の有効性を自分で確認済みだった。そしてつい二日前も、この期間中にこの土地に何もやっかいものが加えられていないことを確かめるために再調査したばかりだった。何も見つからなかった。権利は無傷だった。


「これはかなり急ぎすぎてるんじゃないか?」彼は尋ねた。「多分、きみは後でこれを後悔するかもしれないよ。二、三日かけてじっくり考えたいとは思わないのか?」


「思わない」


「じゃあ、いいんだな?」ギアリーは念を押した。


「だって、僕は三日以内に売らなきゃいけないんだ」ヴァンドーヴァーは答えた。「さもなきゃ、先方が一万ドル要求してくるよ」


「それはそうなんだが」相手は認めて続けた。「まあ、きみが決心したんなら、先に進められるよ。さっきも言ったように、待つ理由はないからね。ウェイドがその気のうちに話をつけた方がいい。ほら、先方はまだ何の提案にも署名してないし、撤回するかもしれないからな」ヴァンドーヴァーは大きく息を吸い込んで、ソファーからゆっくりと重い腰を上げて言った。


「いくらで売れようが僕に何の関係があるんだ? 僕がその金を手に入れるわけじゃあるまいし」


「では、公証人の事務所に行って、これをさっさと片付けてしまったらどうだろう」ギアリーは提案した。


「じゃあ、行こう」


「要約書はここにあるのかい、その区画の要約書だが?」ヴァンドーヴァーはうなずいた。「じゃあ、それを持ってきた方がいいな」ギアリーは言った。


公証人の事務所は、ビール&ストーリー法律事務所の隣だった。実は、この公証人は一応この大きな事務所の関係者で、事務所の膨大な法律業務をこなしていた。ヴァンドーヴァーとギアリーは手すきの時間に彼を訪ねた。男がひとり、控室の片隅にある冷却器の代わりを務める浄水器を調整しに来ていた。公証人は彼が仕事をする間、その後ろに立って、男をののしり、この装置の役立たずぶりを大声で嘆いていた。公証人はむくんだ紫色の顔をした中年の男で、両耳の後ろに爪楊枝をはさみ、両肩にほころびのある灰色のリネンの事務服を着ていた。


やげて名義変更が行われた。ものの三十分としないうちに、あっけなく、ほとんど駆け足で、すべてが完了した。形式上、ギアリーは、次にヴァンドーヴァーがハイラム・ウェイドに渡す八千ドルの小切手に署名した。公証人はヴァンドーヴァーとギアリーが署名を済ますとすぐに、譲渡証書、取引証書、売却証書の必要事項を記入し、承認証を貼り付けた。ギアリーはその要約書を取って、胸のポケットに押し込んだ。売れたはいいが、ヴァンドーヴァーにすれば、手もとには何もなくそれに相当する金銭もなかった。


「さてと」よくやくギアリーは宣言した。「これでやるべきことは全部済んだな。僕はウェイドの爺さんから和解書をもらって、明日か明後日にでもきみに送るよ。さあ、インペリアルに行って一杯飲もう」二人は出て行った。公証人は控室に戻って、浄水器の栓を左右に回し、疑わしそうに眉をひそめて、満足しようとしなかった。



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