表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
14/18

第十四章


オペラハウスは入口まで人であふれかえっていた。もはや立っている場所すらなく、通路の段々にさえ大勢が座っていた。ボックス席では、男性たちが派手な化粧をして宝石を身につけた大柄で不器量な女性たちの席の後ろに立っていた。ガス、豪華な内装、しおれた花束や匂い袋の匂いで空気はどんよりし、大勢の息が吐いた目に見える細かい蒸気が場内に充満して、薄暗い照明をぼんやりさせ、大きなガラスのシャンデリアの輝きをにぶらせていた。


息苦しいほど暑く、汗をかいても和らがない乾燥した苛立たしい暑さだった。空気そのものは、何度も繰り返される呼吸で汚れたのか、こもってむっとした。最上階の席は、見物人の顔が幾重にも並ぶのだから、その暑さも耐え難かったに違いない。


観衆全体で見受けられる唯一の動きは、とまろうとする蝶がバランスを取ろうとするのに似た、派手な色の扇子の小さな揺れだけだった。時々、リブレットを持つ人が一斉にページをめくるときに、森を吹き抜ける風の音のような大きなざわめきがあった。


オーケストラが轟いた。フレンチホルンがうなり、第一ヴァイオリンが一斉に物悲しい音を奏で、すべての弓が一緒に、よく整備された機械の部品のように上下に動いた。ケトルドラムのロールが正確な間隔で鳴り響き、時折、轟く音の合間に、雨だれのような、ハープをかき鳴らす音が聞こえた。指揮者はタクトと手と頭でリズムを刻みながら、自分の持ち場で左右に揺れた。


舞台では幕が閉じようとしていた。ちょうど決闘があって、バリトンが左中央の床に大の字に倒れ、彼の剣はその体から数歩離れたところに落ちていた。彼を殺したテノールは舞台の左側正面に立ち、最高音域で歌い、顔を真っ赤にして、しきりに手で胸を叩き、倒れた敵に剣を向けていた。彼の隣の左端には友人のバッソがいて、高い革靴を履き、長く続く和音の間に時々「私の名誉と私の信じるものが」とうなっていた。舞台中央では、ソプラノ、スター、プリマドンナがテノールに向かって、熱烈だが効果のない訴えを繰り返した。テノールは「やめろ、やめろ!」と叫び、胸を叩いて剣を突きつけた。プリマドンナは「ああ、神よ! 私を憐れみたまえ」と叫んだ。親友のメゾ・ソプラノが彼女を支え、感情を出さずに「この女を憐れみたまえ」と彼女の言葉を繰り返した。バッソが「私の名誉と私の信じるものが」とうなり声をあげた。男装のコントラルトが右端の観客に向かって、体と首をひねったりねじったりして、声を絞り出して歌った。「ああ、不幸な! 神よ、この女を憐れみたまえ」


警備隊の隊長に扮したコーラスのリーダーは、死んだバリトンを覆うようにかがんで歌った。「この者は死んだ、死んだのだ。神よ、この者を憐れみたまえ」警備兵たちは、彼の真後ろに群がった。彼らは大きすぎるブリキのヘルメットをかぶり、緑色のペプラムを着て、しきりに隊長の言葉を繰り返した。


このコーラスはこの町の市民で構成されたもので、舞台の後方で半円を作った……片側が男性で、もう片側は女性。みんなが一斉に同じ動作をして、休みなく唱えた。「ああ、恐ろしい、ああ、どうしたことか! あの方が死ぬとは。神よ、私たちを憐れみたまえ!」


「神よ!」プリマドンナが叫んだ。


テノールは胸を叩いて、剣を突きつけながら「やめろ、やめろ!」と叫んだ。


「ああ、どうしたことか!」コーラスが歌い、バッソがうなり声を上げながら、手で剣の柄を叩いた。「私の名誉と私の信じるものが」


オーケストラの演奏が一段と大きくなった。フィナーレが始まった。 オーケストラのすべての楽器が、舞台全員の声が、再び大音量で響き渡った。全員が一歩前に踏み出し、リズムはさらに速くなった。やがてクライマックスに達し、プリマドンナの声がアルトのCに跳ね上がり、バッソが「私の名誉と私の信じるものが」と二度轟かせる間それを持続した。そして、全員が最後の見せ場を飾る準備を整え、音楽の最後の盛り上がりで一斉に「神よ、私を憐れみたまえ」「この者を」「この女を」「私たちを」と歌った。それから、オーケストラがケトル・ドラムを長く打ち鳴らして終わり、プリマドンナは親友の腕の中で気を失った。幕が下りた。


割れんばかりの拍手があった。観客は口笛を吹き、感動した。誰もが姿勢をくずし、大きく息を吸って、辺りを見回した。全体がざわつき、大きなガラスのシャンデリアの照明がパチパチいって燃えるように明るくなり、小声の会話が始まった。フットライトが暗くなった。ビールを飲みに行った印象を強く観客に残しながら、オーケストラは持ち場を離れて舞台の下に消えた。場内のいたるところで、少年たちの甲高い声が「オペラの本、オペラのための本……オペラのセリフと音楽」と叫んでいるのが聞こえた。


ボックス席全体で、人の行き来が始まって出歩く人たちの交流が盛んになった。ロビーに出た男性たちは、グループになって立ち話をしたり、煙草を吸いながら行ったり来たりし、第四幕の見せ場の最後にプリマドンナに贈られる予定の大きな花束の前で頻繁に立ち止まった。


電鈴が小さく鳴った。もうすぐ幕が上がるので、大勢が席に向かって移動を始めた。オーケストラが戻ってきて、チューニングをしていた。団員たちは音の長いメドレーを奏でた。ヴァイオリンからは小さな目立たないさえずりと鳴き声が、オーボエとフルートと木管楽器からは液体の流れる音や滑らかな水流の音が、バス・ヴァイオリンからは時折、深い響きの低音が、出た。両翼の後ろで鐘がかすかに鳴って、場内の照明が落ち、フットライトが灯った。指揮者がタクトで叩くと、大きな静寂が場内に降り立ち、あちこちで盛んに「シーッ!シーッ!」と声があがった。第四幕が始まろうとしていた。


第四幕が上がると、プリマドンナが、寝室か会議室か謁見の間と思われる広い部屋の真ん中で、ひどく落胆したポーズをとって立っているのが見えた。彼女はひとりだった。腰のあたりで結んだ、ゆったりしたクリーム色のガウンを着ていて、腕は素肌で、髪は束ねられておらず肩からガードルまでゆるやかに流れていた。彼女はこの幕で死ぬことになっていて、悲惨な展開が約束されていた。彼女が発した最初の数音は、後の「名場面」の有名なカルテットのモチーフとして再び繰り返された。


しかし、この間に、音楽は少しずつヴァンドーヴァーを虜にしていた。彼は少しずつ周囲の状況を、場内の息苦しい空気、舞台のまばゆい輝き、狭いオーケストラチェアに押し込まれた手足の不快感を、忘れていた。彼にとっては、すべての音楽が音楽だった。理屈抜きの、無批判な愛で音楽を愛し、街頭の大道芸の手回しオルガンやアコーディオンさえも楽しんでいた。今もオペラのメロディーのゆったりとしたテンポとリズムが、彼のすべての感覚を揺さぶって、一種の高揚した夢の中に彼を連れ去った。カルテットが始まった。彼にとってそれは素晴らしく甘美だった。まるで躍動する大海原の上を長いため息となって通り過ぎる甘い南風のように、長く続く和音が抑えたオーケストラの伴奏全体に息づいていた。彼にはそれが限りなく美しくて、限りなく悲しい、控えめのささやか嘆きのように聞こえた。別れのため息のように何度も執拗に繰り返されてはいるが、二度と戻るはずのないものを嘆き悲しむ声のように、抑えられないものだった。あるいは、それは哀愁であり、善良なすべてのものの中の歓喜であり、大きな優しさだった。言葉で表すことができないほど甘美で、神聖なほど純粋であり、涙でしかその表し方を見出せなかったほど、偉大で、深かった。彼を襲ったのは、理解できないほど美しいもの、高貴なもの、忘我、不滅で永遠の愛と優しさ、すべての善、すべての慈悲、罪に向けるすべての憐れみ、不幸に向けるすべての悲しみ、真実と正しさと純粋さに向けるすべての歓喜、の漠然とした感覚だった。


もっと善良になるために、誠実で正しく純粋であるために、役立つのはこれだけであり、これらは彼が音楽の中に感じたように思えたものだった。このときはまるで再び小さな子供に戻ったかのようだった。無邪気であることを恥じず、悪を知らず、まだ自分の幻想をすべて信じていて、人生の偉大な白い門のすぐ近くにいたかのようだった。


この訴えは、ヴァンドーヴァーの中の最も善良で、最も強い部分に直接向けられていた。その反応は素早く、圧倒的だった。彼の中でまだ生き残っていたすべての善は、瞬時に息を吹き返し、気づいてほしいと騒ぎ出し、存在していることを訴えた。この別のヴァンドーヴァー、善良な方のヴァンドーヴァーは、かつてないほど強く、かつてないほど執拗に、再び自分の中の獣と戦った。彼はまだ自分の中のすべての善良なものを破壊し尽くしてはいなかった。今、善は再び反旗を翻し、彼に異議を唱え、善の堕落と破滅を阻止せんとして最後の抗議を行った。ヴァンドーヴァーは自分が人生の大きな危機に直面しているのを感じた。


すべてが終わると、彼は歩いて帰宅した。静かな通りをゆっくりと進み、両手をポケットに入れ、頭を垂れ、思考で大忙しだった。部屋に入ると、着ている物を脱ぎ捨てて、タイルのストーブの居眠りしていた火を起こし、上着を脱いだ状態で、ぱんぱんのワイシャツの胸をベストからはみ出させてストーブの前に座り、ときどき長い呼吸をするときにかすかにきしるような音を出していた。ヴァンドーヴァーはある気分に誘い込まれていた。彼はここで最高の状態の自分でいたが、別のヴァンドーヴァー、善良な方のヴァンドーヴァーは、自分自身の性格の内面と下の方の深淵をのぞき込み、身震いし、怯えながら、不信の目を向けて退いた。遥か下の最も暗く、最も深い場所で、彼はその(けだもの)を見たことがあった。うずくまり、醜悪で、おぞましかった。獣が這うように行ったり来たりするのを、ぼんやりと見たことがあった。暗い影を通して、獣がうなるのを聞いたことがあった。獣は少しでも抑え込もうとすると苛立ち、自由になろうとしてじっとしていなかった。今や、ついに、それは巨大に、力強く、貪欲で、途方もない大きさに膨れ上がってゆがみ、怪物へと成長した。満腹でも強欲は飽くことを知らない、かなり恐ろしい野獣サテュロスは、卑屈で、天邪鬼で、言葉にならないほどおぞましかった。


そして、ヴァンドーヴァーはこの善良な方の自分の目で、少しずつ自分がたどった全生涯を再び振り返り、幼い頃から自分の中で続いていた善と悪との永遠の闘争を再び目の当たりにした。最初は、善が最も強いと信じていた。獣は少しずつ成長していた。彼は快楽を愛し、環境のあらゆる変化に自分を適応させ、贅沢に、わがままになり、感覚の鋭い芸術家気質の縮小に伴って、退屈で不愉快なものすべてを避け、危険を警告する叫び声に耳を貸さず、獣が成長し大きくなるのを許していた。この獣のひどい飢えは、彼が最も純粋で、最も清らかで、最も善良だと感じた自分の中の蓄えをむさぼり食った。その巨体は、善だったすべてものの腐敗と堕落を糧に太って、日増しに大きくなり、悪臭を放ち、膨れ上がり、人の手で育てられ、(きたな)らしい、異常な、食屍鬼となり、死んだ善良だったものをむさぼることによって、満たされ、肥大化した。


この他にも彼は、自分のすべての善良である方の部分を育てて伸ばそうとしていたすべての影響から、自分がどんなふうにひとつずつ自分自身を引き離してしまったかを目の当たりにした。


まず最初に、今では遠い昔のことに思えるが、彼はあの最初の本能的な純粋さが、あのもろい繊細な無邪気さが、ほぼすべての人間の中で若いうちに死んでそれが最初の悪に汚されて消失していくのを、人が多少の軽蔑と多少の哀れみと多少の本物の後悔からなる笑みを浮かべて見るというものが、壊されるのを許していた。


次は彼の父親だった。老紳士はヴァンドーヴァーに大きな影響を及ぼしていた。アイダ・ウェイドの自殺における彼の責任の大きさについて語り、茫然自失の最初のショックから立ち直らせて、それから許し、心配し、また一からやり直してこれを克服して正しく善良で正直な行動をとるように励ましたあの翌朝の場面を、彼は一度も忘れたことがなかった。ヴァンドーヴァーはこの声に耳を貸すのをやめただけでなく、この声を永遠に黙らせるためにたくさんのことをしたのではなかっただろうか。老紳士は一見不屈の精神を持っていたが、この衝撃は相当こたえたに違いなかった。ヴァンドーヴァーがいなくなったあの長かった数週間、老紳士が苦しまなかったはずはなかった。誰もいない家の中でどれほど孤独に思い悩んだだろう。それから遭難の知らせがあって、安否不明の日々が続いたのだ! 


これですべての説明がついたに違いない。老紳士は強くなかったのだ。ヴァンドーヴァーは、自分が父親の死を早めてしまい、そうする中で、自分の良心を育て伸ばし、獣の攻撃に抵抗する力を強めてくれたはずの別の影響力を破壊してしまった、と感じずにいられなかった。


ヴァンドーヴァーの最高の善を引き出すのを助けたもう一人の人物は、ターナー・レイヴィスだった。初めて彼女を知ったときに彼が心から彼女を愛していたことは、否定の余地がなかった。ターナーと交際していたときの彼はいろいろな事が大きく違っていた。そのときは、ふさわしくないものや、下劣なものや、不純で邪悪なものは、価値があるように思えなかった。こういうものは彼にとって魅力がないだけはなく、敬遠、回避さえしていた。ヴァンドーヴァーは彼女を愛することで、自分が善良な人間であることを知った。もっと良くなりたい、と彼女はいつも彼に思わせた。しかし、アイダ・ウェイド、グレース・アーヴィング、フロッシーのような少女たちとの交際が増えるにつれて、ターナーへの愛情は少しずつ薄れた。情熱的で不健全な興奮の習慣が身につくうちに、彼はまず落ち着いた純粋なものを味わう感覚を失い、それから能力そのものを失った。彼は彼女へ向けるべき愛情を、尻軽の少女やふしだらな女たちを相手に浪費し、いかがわしい店の淀んだ麝香のぷんぷんする空気の中で窒息させ、インペリアルの酒粕に引きずり込んで汚した。挙句の果てに彼は、それを完全に滅ぼし、故意に、理不尽に殺してしまった。ターナー自身が言っていたように、彼女は愛されていることに夢中になれただけだった。そのうえヴァンドーヴァーに対する彼女の愛情は小さくなっていた。終いには互い無関心になり、もはや彼女はもっと善良になろうという気を彼に起こさせなかった。こうして彼はこのいい影響までも振り払ってしまった。


世間の評判と、スキャンダルの懸念と、自分が知っている世界に気に入られたいという願望は、ヴァンドーヴァーに対する大きな抑止力だった。彼はそれをささいなことだと感じたが、人が何を言うかを恐れることは、ヴァンドーヴァーをかなり引き止めたに違いなかった。彼には、守るべき地位と、彼が受け入れられる客間や晩餐の席で保たねばならない評判があった。社交がヴァンドーヴァーにいい影響を与えていたことは否定できなかった。しかし彼は、他のすべてのものと同じように、これも自分から捨ててしまった。今、彼は追放され、社交界はもはや彼が何をしようと気にかけず、地位は失われて、評判は失墜した。もう彼の前に立ちはだかるものは何もなかった。


ヴァンドーヴァーはいかなる宗教の影響力にもすがることができなかった。宗教が彼に大きな影響を与えたことは一度もなかった。彼が洗礼を受け、堅信礼を行い、かなり定期的に教会に通っていたのは事実だった。もし、あなたはキリスト教徒で神を信じているかと尋ねられたら、彼は「もちろんです」と答えただろう。父親が死ぬまでは、毎晩、ガスを消す直前に、寝間着姿でベッドの端に座って、両手で頭を支えて祈りを捧げてさえいた。彼は主の祈りに、悩みや悲しみや貧困や他のことに困っている人たちへの別の祈りを加えて、父親と自分自身に祝福を求め、父親の健康と繁栄を祈り、自分のためには、偉大な芸術家になれますように、『最後の敵』を描き終えたらそれがサロンに認められますように、それが自分を有名にしてくれますように、と祈った。しかし基本的にヴァンドーヴァーは宗教的な事柄をほとんど考えなかった。そして考えるときも、自分はインテリなので、文字通りの天国、文字通りの地獄、ジュピターやオーディンのように人間の問題に個人的に干渉してくる人格神は信じられないと自分に言い聞かせた。しかし、はっきり宗教を否定した瞬間に、ヴァンドーヴァーはほとんど無力になった。彼は記号やシンボルに意味を見いだすほど神秘家ではなかったし、漠然とした壮大な抽象概念を理解できるほど哲学者でもなかった。無限も存在も力も、彼が誘惑に耐える助けにも、獣に抗えるほど彼を強くすることもできなかった。いずれどこかで悪行には罰が下ると感じたが、アイダ・ウェイドのときのように、こういう考えへのこだわりは、彼を悩ませ恐怖に陥れた。彼はいつまでも振り返ってばかりはいなかった。良心の呵責、自責の念、後悔、このどれも最初は十分に身にしみたが、あまりにも執拗にその傷を責め立てたため、彼は徐々にそれらを全然感じなくなってしまった。


やがて、計り知れない圧倒的な恐怖がヴァンドーヴァーを襲った。もう何もないのだろうか……僕が自分を救うために手に入れられるものは何も残されていないのだろうか? ヴァンドーヴァーは自分の努力だけでは自分を救えないことを知っていた。宗教は彼を救えなかった。彼は父親を殺し、自分が愛していたかもしれない女の子を遠ざけ、世間を激怒させ、いっぺんに幼い頃の素晴らしい天性の純粋さをなくしてしまった。彼は、まるで広大な迷路に入り込むように、この世界の自分の人生に入り込んだ。目的もなくさまよい、自分を再び安全な出口に導いてくれるかもしれない命綱や手がかりをひとつずつ放り出して、どんどん深く降りていった。やがて中心の近くで、突然、獣の存在を感じ、獣の忌まわしいぶつぶつ不満をもらすうなり声を耳にした。ついにその姿がずっと奥の通路の行き止まりで、かすかに、そして暗い影となって見えた。恐怖に駆られてヴァンドーヴァーは後ずさりした。逃げ道はないかと必死にあたりを見回し、うかつにも自ら投げてしまった手がかりのひとつでも何かないかと狂ったように慌ててふためいて懸命に探しながら、そういうものが導いてくれないことには、自分は再び獣の巣窟があるあの破滅の中心地にまっしぐらになるのは避けられないだろうと悟った。


何もない、何もなかった。ヴァンドーヴァーは自分が急いで向かっている運命をはっきり理解していた。もし助けを見つけられさえすれば、自分を救うのも手遅れではなかったが、全然助けを見つけられなかった。彼の恐怖はほとんどヒステリーの領域まで増大した。これは人間が時々経験し、ひとりで向き合わねばらならず、過ぎ去ってもずっと記憶に残るに違いない、恐ろしい瞬間のひとつだった。命の泉や輪廻のはるか下をちらっとのぞき込むようなもの。恐ろしい裂け目の縁に連れてこられた理性が、見て目眩(めまい)を起こし、よろめいて、頭から転倒してはいけないから、そうたびたびお目にかかれないものだった。


しかし突然、ヴァンドーヴァーは立ち上がった。涙が目に浮かび、長い息をついて「神さま、ありがとう!」と叫んだ。一瞬で落ち着きを取り戻した。危機は去った。手探りの指の下に手がかりが見つかった。


ヴァンドーヴァーは自分の芸術を思い出した。大きく心を動かされたときに、いつもそうしたように、彼は本能的にこれに目を向けた。これは、まだ残っている唯一の善良なものだった。これは彼の最も強い部分であり、最後の砦になるだろう。彼はまだこれがそこにあるのを感じた。これは彼を救える唯一のものだった。


あまりにも突然に、しかも驚くほどはっきりとこの考えが浮かんだので、それは今の高揚した精神状態にいる彼を、漠然とした畏敬の念で満たした。それはまるで顕現、壁に書かれた文字のようだった。何らかの奇跡ではないだろうか? 彼は人がほぼ一瞬で自分の生き方を変え、変身したというのを耳にして、その考えをあざ笑ったことがあったが、結局それは本当だったのではないだろうか? 僕の身に起こったこの素晴らしいものは何だろう? これは奇跡ほど奇妙ではないし、神業でもないのではないか? 


翌日、ヴァンドーヴァーはアトリエを借りた。それは、以前部屋を探したときに却下した、硬材の床でたっぷり北日が差し込む天井の高い部屋だった。自分の部屋があるアパートの管理人には、月の初めに退去するつもりでいることを通告した。部屋が魅力的なことはわかっていたが、ほとんど悔やむこともなく、今後そこで暮らすことをあきらめた。一か月もすれば夏なので、パリへ向かうつもりだった。


しかし、今は仕事がしたくてたまらず、『最後の敵』に着手したくてたまらず、自分を揺り動かす新しいエネルギーがとても強烈だったので、ヴァンドーヴァーは夏まで待てずに作業を再開した。今は自分をイーゼルから遠ざけるすべてのものが恨めしかった。


彼はいつもの仲間の視界から姿を消し、ギアリーやヘイトとも付き合おうとさえしなかった。『最後の敵』のために描いたすべてのスケッチを、イーゼル、使われていないパレット、絵の具箱、チューブ、筆、作業用の他のすべての画材道具ごと一緒に新しいアトリエに運んでもらった。この他にも、最高の綾織のキャンバスを張った長さ四フィート高さ二フィート半のフレームを作ってもらった。これは絵の大きなスケッチのためのものだったが、彼の計算では、完成した作品には八x五のフレームが必要だった。


部屋を飾るとか、壁に装飾品を置くことは考えなかった。このときはあまりにも真剣で、本気になりすぎていたので、そこまで考えが及ばなかった。アトリエは彼の(いこい)いの場になるのではなく仕事場だった。彼の芸術は今や彼の仕事、厳しい真剣な仕事だった。彼を再び正常な状態にするのに必要なのは、何よりも「仕事」だった。規則的な仕事、地道で真剣な仕事であり、かわいいものを作って満足するアマチュアの(つう)ぶった気まぐれではなかった。


ヴァンドーヴァーは人生でこれほど幸せだったことはなかった。偉そうに街中を闊歩し、ひとりで口笛を吹き、たくましく、得意になって、元気、活力、野心に満ちた態度で、自分の部屋とアトリエと画商の間を絶えず行き来した。ある時は土壇場のこの救いに心が感謝の気持ちでいっぱいになり、またある時は絵の詳細、構成や配色に忙殺された。彼が作りたかった主な効果は孤独と灼熱だった。砂の上の影は青、地平線はキャンバスの上の方、空は明るい色調で、地面近くはほとんど白だった。


彼が初めて仕事を始めた朝は素晴らしかった。新しいアトリエは五階建てビルの最上階にあった。そこに着くと、長い階段をのぼって息を切らしていたヴァンドーヴァーは窓を開け放ち、仕事を始める前にちょっと景色を楽しみながら眼下の街を見下ろした。


じきに貿易風が海から力強く勢いよく吹いてきて、小やみなくゴールデンゲートを通り抜け、街を塩のにおいで満たすだろう。しかし今は空気は穏やかで、ある種の軽やかさ、沸き立つ興奮、爽快さ、高揚を感じさせた。


まだ九時にならない午前中の早い時刻のこと、夜明けの直前に街にかかった霧が日差しを浴びて蒸発し、遠くのすべてをとても薄っすらと繊細に淡い青の平坦な色調に変えていた。いくつもの家の屋根の向こうに、遠くの山々が垣間見えた。ほのかな紫色をしたいくつもの塊の背後には青白い空の境目があって、繊細な色の細長い帯で地平線を縁取っていた。しかし、それ以上の景色は、通りを挟んだ真向かいにある近所の数少ない住宅のひとつである、スレート葺きのサンマード屋根の巨大な木造家屋にさえぎられた。それは新しく白で塗装されていて、空の紺とその家が立つ大きな庭の赤みがかった緑を背景にして勇ましく華やかに見えた。ヴァンドーヴァーは窓から時々、湿った草と塗りたてのペンキの混ざったにおいの強いそよ風にのって自分のところに届くユーカリの木の香りをかいだ。どこかでハチドリが、小さく細々とキーキー歌を歌っているのが聞こえた。さらに遠くでは二羽の雄鶏が、張り詰めた騒々しいトランペットを吹き鳴らすように、互いに鳴き合っていた。


ヴァンドーヴァーは自分の仕事に戻った。豊富な北側の光の下にイーゼルがあった。そこに、真っ白い、手つかずのフレームが固定されていた。重たいクリーム系ホワイトの綾織を見ただけで、インスピレーションがわいた。すでにヴァンドーヴァーはその上に偉大な絵を見ていた。突然、感情の大きな波が自分の中でわき上がると、彼は熱中して叫んだ。


「そうだ! こういう気分のときこそ、傑作ができるんだ」


部屋の幅木のまわりに、作品の下絵が並んでいた。小さな風景画用のフレームに、パレットナイフと大きな筆で、ただの色の斑点がつけられただけのものであり、ヴァンドーヴァー以外の者は誰もほとんど理解できなかった。その中から二、三枚を選んで、いつでも目に入るように、大きなフレームの上のイーゼルに固定した。パイプに火をつけ、シャツの袖をまくりあげ、イーゼルの前に立ち、棒の先が折れないように刃を手前に引いて、古いカミソリで木炭の棒を削り始めた。それから、ようやく満足して深くひと息つき、絵の最初の大きな構造線を描き始めた。


気づいたときには一時を回っていた。彼はダウンタウンに行き、絵に費やさなかったすべての時間をおしみながら、急いで昼食をとった。改めて部屋に入るときに絵を見ると、全身がゾクゾクした。予想していた以上の出来栄えで、思ったよりもうまくいっていた。今度はいい作品になると確信した。絵の進捗のどの段階も次の段階のインスピレーションになった。この時点では、人物が「配置」され、大まかな線で大雑把にスケッチ、彼の言い方だと「図取り」されただけだった。次のステップは、大幅に完成に近づく二回目のデッサンだった。


ヴァンドーヴァーは拳骨でフレームを強く叩いた。すると、振動がトレースから木炭をふるい落とし、空気を細かい粉塵だらけにしながら、太鼓の皮のように響いて答えた。輪郭が薄れて、二回目のもっと詳細なデッサンで、かろうじてたどれるくらいになった。


ヴァンドーヴァーは木炭の棒をとても鋭く尖らせて、慎重に作業を始めた。すぐに手をとめて、セーム革の布で、描いたものをはらい落とした。彼は出だしを間違えた。着手したものの、線がどう走るべきかを思い出せなかった。指はちゃんと動いていた。彼のイメージの中では輪郭がどうあるべきかがわかっていたが、どういうわけか頭の中にあるものを手に読み取らせることができなかった。ひとつの表現がもうひとつの表現上で効果が出るときに使われる第三者的な中間の表現が機能せず、平凡だった。それより悪いのはそれが存在していないようだった。「うーん」彼はつぶやいた。「これをうまく出せないものかな?」それからもっと慎重にやってみた。彼のイメージは絵をいつもよりはっきりとわかっていて、手はいつもより自信を持って動いたが、この二つは互いに独立して行動しているようだった。キャンバスに描いた形は、彼の頭の中のものを全然適切に反映していなかった。他の二つを連係させて、彼の思考の指図に確実に瞬時に反応させる、第三の繊細で微妙な機能が欠けていた。キャンバスに描かれた線は、描くことを学び始めたばかりの子供が描いた線のようだった。線が何をめざしているかはわかったが、雑で、命も意味もなかった。線を理解可能に、解釈可能にしたはずのものが、線を芸術にしたはずのものが、欠けていた。ヴァンドーヴァーは三回、四回、五回とやってみたが、無駄だった。長い間使っていなかったために、手がうまく動かなくなったわけではないことを知っていた。一般には信じられているが、そういうことは芸術家には絶対に起こらなかった……優れた芸術家は五年や十年作業をやめても……専門的技術をまったく失わずに、きっちり中断した箇所から再開することができた。いや、これはもっと微妙な問題のようだ。あまりにも微妙だったので、最初は彼にもほとんどわからなかった。しかし、突然、大きな恐怖が彼を襲った。永遠に脱却したものと信じていたあの激しいヒステリックな恐怖が一瞬よみがえった。


「あれは終わったはずでは?」彼は叫んだ。「僕から消え失せたんじゃないのか? 僕の芸術は? 落ち着け」ヴァンドーヴァーは強がる笑みを浮かべた顔を手でさすりながら続けた。「落ち着くんだ、大将、もうこんなのは御免だぞ……しかもこんなに早く! こんなふうに二度も怖気づくもんじゃない。これはただ神経質になってるだけだ、興奮のしすぎなんだ。まったく! 僕に何の問題があるんだ? 仕事にかかるとしよう」


彼は再度、描いたものをはらい落とし、並々ならぬ覚悟で腹をくくって、全神経を集中させてやり直した。木炭の下に、異様で意味のない形状、彼がイメージの中で見たものを真似て馬鹿にしているものが現れた。一方、頭の中では奇妙な麻痺した感覚が立ちのぼる霧のように、ゆっくり、ゆっくり広がった。あの理屈の通らない恐怖の気配が舞い戻った。今度はもっと強く、もっと持続性があって、以前よりももっと執拗だった。


ヴァンドーヴァーはこれに屈することなく、これが本当に意味することを知るのを恐れながらも、勇敢に立ち向かった。片手を頬に当てて、頭の横をなで、指を踊らせた。「うーん」彼はぼんやりと周囲を見回しながらつぶやいた。「これじゃ駄目だ。こんなことでへこたれちゃいけない。今日は終わりにして、少し休んで、また明日始めるとしよう」


十分後、ヴァンドーヴァーは再びイーゼルのところに戻った。木炭はキャンバス上の空虚な線をなぞりながらさまよった。頭の中でまた奇妙な麻痺が広がった。目に映るすべての物体が後退して同一平面上に立っているようだった。ヴァンドーヴァーは少しめまいがした。


「煙草のせいだ」と叫んだ。「あのパイプはいつも強すぎたからな」気晴らしか娯楽がどうしても必要だと感じながら、開けてある窓まで下がった。耳を傾け、目を凝らし、集中しようとしながら、肘をついてそこで休憩した。


午後も中盤に差し掛かろうとしていた。明け方の霧はとっくに消え、いつもの貿易風の弱い第一波が、通りの向こうのユーカリの葉をちょうど揺らしていた。白い家の音楽室で、その家族の若い女性がピアノを開けて指づかいを練習していた。途切れることなく次から次へと続く音階とアルペジオが、心地よい単調な音になって彼の耳に届いた。白いリネンの硬い野良着姿の中国人の「少年」が、バケツの水と庭のホースを使って玄関の階段を洗い流す間に、派手な水しぶきをあげた。食料雑貨と配達用の荷馬車が、石畳と車道の上をガタガタと音を立てながら行き来した。時折、ずっと遠くで笛を吹く音がした。厩舎近くの街角で、平らな革の帽子をかぶった小さな男の子が、口笛を吹き、膝を叩きながら、見えない犬か何かをしきりに呼んでいた。至急便の荷馬車が白い家の下の戸口で二、三回とまり、運転手がガチャガチャと鎖の耳障りな音をたてて、後ろの板を引き下ろした。車両が通りを行き来して、鐘を鳴らして発進と停止を繰り返し、押されたガラス窓がずっと振動音を立てている間、溝の中でもケーブルが、絶えずガタガタ、ギシギシと音を立て続けた。これらのすべての音は、すべての方角から同時に聞こえてくるように思える、あの安定しているくぐもった轟音にかぶさって軽やかに響いた。これは、巨大な物体から、山々から、海から、森から、眠っている大勢からいつも自由でいる、あの深みのあるざわめき、あの偉大な副旋律だ。


行動でも、気晴らしでも、何でもいいから考えないでいたいという欲求に逆らえなかった。ヴァンドーヴァーは帽子をとると、イーゼルを見ようともしないで、部屋から逃げ出した。外に出ると、どこへともなく、まっすぐ前へ歩き始め、大股で、頭を上げて進み続けた。


チャーリー・ギアリーを見つけると、夕食に連れて行った。ヴァンドーヴァーは、あらゆる話題を、とても早口で、ずっと喋り続けた。夕方、ギアリーを強引に誘って一緒に劇場に行った。劇に細心の注意を払って、自分の心を完全に占領させた。劇が終わり、二人が別れの挨拶をするときになって、ヴァンドーヴァーは夜は自分の部屋に泊まるようギアリーに促し始めた。反対を無視して、話をさえぎり、腕をつかみ、連れ去ろうとした。しかし、彼の態度に少し驚いたギアリーは断った。その日の午後オフィスから自宅に持ち帰ったある法律の書類があって、朝のうちに戻る必要があったからだ。仕事が始まって、もしビール老人が真っ先にその宣誓証書を手にしていなかったら、自分がひどくしかられるのは確実だった。彼はそこに欠かせない存在になりつつあった。フィッシャーの後任になってこのときで一年だった。フィッシャーは一度も復帰しなかったし、ビール・ジュニアがビール老人の共同経営者になればすぐに事務長になる約束を取り付けていた。「僕はいずれこの町で自分の道を切り開くんだ」彼は宣言した。「いつの日か僕もその共同経営者の中に自分の名前を連ねてやる。見ていてくれよ。大将、きっとやるからな!」


ひとりで夜を過ごすかと思うとヴァンドーヴァーは怖くなった。ポケットに手を突っ込んでサッター通りを歩いてゆっくりと進み、自宅へ向けて出発した。 理由もわからないまま突然立ち止まった。気を取り直してあたりを見回した。空気はユーカリの香りがした。通りの向こうに巨大な白い家があった。最上階に自分のアトリエがあるビルの入口の真ん前に、自分が立っていたことに気がついた。ヴァンドーヴァーの心は一日中、動揺しっぱなしだった。鳥かごの中の怯えた小鳥のように、考えがあっちへこっちへ飛び跳ねていた。ちょうどこのとき、突然の反動が起こった。すべては思い過ごしで、神経過敏以外の何物でもなかったのだ。しばらく絵を描いていなかった。長い間使っていなかったから、手が感覚を失っていたのだ。強烈な仕事への欲求が再び彼を襲った。昔のように、精密かつ自由に描けなくなったのかどうかを、改めて確認したくなった。いや、朝まで待ってはいられない。すぐに、今すぐにもう一度自分を試さなくてはならない。これは女性によくある突発的な気まぐれで、間違いなく、高揚し、緊張した、神経の不自然な状態、理屈では説明できない、逆うことができない気まぐれによって引き起こされたものだった。彼は鍵を持っていた。外のドアを開けて、アトリエに続く四つの長い階段を手探りでのぼった。


アトリエには、傾斜した屋根にある大きな北側の明かり取りから下向きに広がっている、霧のような、陰気な薄明かりが満ちていた。窓はまだ開けっ放しで、フレームが薄い灰色のぼんやりとしたものを見せてくれた。ヴァンドーヴァーはガスを灯そうとしたときに、手を頭上にあげたままの状態で思い直した。いや、やめておこう。彼はその日の仕事の結果を見ようとしなかった。最初からやり直したほうがいい。イーゼルのトレイにのったセーム革を見つけて、キャンバスに描かれていたものをすべてこすり落とした。それからガスを灯した。


再び作業に戻ると、喜びと安堵が小さな震えとなって全身を駆け抜けた。今度は手応えが確実で、安定していた。頭ははっきりしていた。結局、神経のせいだったのだ。木炭を手にするときに、自分に向かって叫びさえした。「それにしても、今日の午後は変な体験をしたっけな」


しかし、彼が作業にかかろうとした途端に、あの変な体験が今夜また繰り返された。再びキャンバス上に特定の形や人物が生まれたが、それらはもはや彼の想像力の真の子供たちではなかった。もはや彼自身のものではなかった。すり替えられた子供たち、異様な堕胎児だった。まるで彼の中の獣が、意地の悪い魔女のように、彼の心が本当に生み出したものを奪って、代わりにこの醜い小びと、獣自身の忌まわしい産物を置いたかのようだった。


有毒な暗闇のように徐々に頭の中に入り込んだ麻痺とめまいを通して、彼はひとつのことがはっきりとわかった。あれがなくなったのだ……絵の才能が消失したのだ。彼を救うことができた唯一のものだったのに。人生の他のすべての善良なものと同じように、彼はそれまでも破壊してしまった。放蕩に明け暮れたこの数年の間に、いつの間にか、死んでしまった。花のように繊細な、あの微妙で、とらえどころのないものを彼は破滅させてしまった。それは少しずつ発散して、歯止めのない放蕩の空気の中でしおれていき、売春宿の温かい麝香がかおる雰囲気の中で枯れていき、あばすれの女たちの息に汚され、踏みにじられて〈インペリアル〉のこぼれた酒粕まみれになり、よごれと冒涜の限りをつくされて大都市の悪徳のどん底の泥沼を引きずり回されたのだ。


一瞬、ヴァンドーヴァーは理性を保てなくなっているように感じた。あの病的な興奮がよみがえって乾いた軽い葉っぱのように彼を揺さぶった。突然、部屋が小さすぎてここにはいられないと感じた。ヴァンドーヴァーは走った。ほとんどよろめくように窓まで行き、深くはやく息を吸い、冷たい夜の空気を取り込み、盛んに目をきょろきょろさせた。


夜だった。彼は、点滅している明かりと、間断なくゆっくり燃え続ける星々などの光が点在する、広大な青灰色の空間に見入った。彼の眼下にはこの眠っている街があった。その日の小さな断片的な雑音のすべては、とっくに沈黙し、そこには、すべての方向から同時に聞こえる長くて陰気な音しか残らなかった。何かの際限なく大きな怪物の息づかいのようだった。何かの巨大な心臓の収縮と拡張のように生き生きと脈打っていた。活動を停止している大都市全体が、ひとつの長い音の波となって、静かな夜の空気を通り抜けて彼の前に姿を見せた。


それは生き物だった。自然の車輪を回転させて、巨大な機関車のように、抵抗をものともせずに、容赦なく前進を続けさせる、偉大で神秘的な力のつぶやきだった。人の群れを際限なくその前に追い立て、息つく間もない速さで永遠を駆け抜けながら、直進する機関車だった。誰もその行方を知らないが、群れに遅れをとった者や、疲れて倒れた者を容赦なく押し潰し、無数の鉄の車輪の下で粉砕し、それを乗り越え、それでもなお残る群れを、気にせず、目もくれずに、どこか遠いかなたのゴールに、漠然とした未知の終点に、厚い闇に永遠に隠された謎の恐ろしい目的地に、向かって突き進むのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ