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ヴァンドーヴァーと獣性  作者: フランク・ノリスの翻訳作品です
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第十章


ヴァンドーヴァーは十時頃ヨール船で上陸して、十一月初旬の文字通り完璧な日に街に降り立った。ここにいたのが何年も前のことに思えた。サンタ・ローザ号が出航した霧雨の朝はすでに思い出せないほどはるか昔だった。カーニー通りに向かってマーケット通りを歩いていると、街そのものが見慣れない外観を帯びているように思えた。


その日は日曜日。ケーブルカーと時々見かける新聞配達の少年を除くと、ダウンタウンの街並みにはひと気がなかった。店は閉まっていて、その軒先には、平日には決してそこにいない行商人、籐の杖売りとか、修理した陶器の皿にたっぷり重みを付ける(にかわ)をひそかに売る者がいた。


ヴァンドーヴァーは朝食をとっておらず、どうしようもないほどの空腹を感じていた。朝食には遅く昼食には早すぎる時刻に帰宅することになるので、ダウンタウンで朝食をとることに決めた。


所持金はほとんどすべてマザトラン号と一緒になくなって、手持ちが一ドルしかないことに気がついた。グリルルームで朝食をとりたいところだったが、外見がみすぼらしすぎると判断した。それに、この金額ならインペリアルの方が食べられる量が多いことを知っていた。


彼が到着したとき、インペリアルは完全に静まり返っていた。一人しかいないバーテンダーは新聞を読み、個室と個室の間の通路では、きれいな手ぬぐいを頭に巻いた中国人が真鍮と木造部分を磨いていた。廊下で、赤目のウェイターのトビーに出会った。ちょうど夜勤明けで、いつものエプロンと白衣はつけていないが、とてもきちんとした身なりをして、茶色のフェルト帽をかぶっていた。


「おや、どうしました、ヴァンドーヴァーさん?」トビーは叫んだ。「しばらくこの辺でお見かけしませんでしたね」ヴァンドーヴァーが答えようとすると、相手はさえぎった。


「いったい、あなたの身に何があったんですか? まるで地獄中を引きずりまわされて、猫で殴られたように見えますよ!」


実際、ヴァンドーヴァーの外観は尋常ではなかった。帽子は破れてボロボロで、服はタールと泥で汚れ、海水で縮んでしわくちゃだった。靴はタールのついた半端なロープで留められていた。水先案内船の船長がくれた骨のボタンが付いた赤いフランネルのシャツを着て、絹紬(けんちゅう)の紫色のハンカチを首に結び、髪は長く、唇と頬には一週間分の髭があった。


「そうなんだ」ヴァンドーヴァーは険しい顔で答えた。「様子が変だろ。沿岸で難破したんだ」急いで付け加えた。


「マザトラン号ですか!」トビーが叫んだ。「そうでしたか、新聞はそのことでもちきりですよ。そうですか、あなたは生存者の一人だったんですね」


「生存者がいたんだね!」ヴァンドーヴァーは知りたそうに繰り返した。「教えてくれ……僕はまだ一言も聞いてないんだ……大勢の命が失われたのか?」ヴァンドーヴァーは、このバーのウェイターが、乗っていた自分よりもこの海難事故について詳しく知っているという、この変な状況に驚いた。


「そりゃ死にましたよ!」トビーが答えた。「全部で二十三名。ボートが一隻転覆。ケリーが、バグ・ケリーというクリスタルグロットの経営者の息子が溺死。それとホチマーの店の者が一人……宝石商のホチマーですよ……そこの巡回セールスマンが一人溺死。ブランという小さなユダヤ人のダイヤモンドの専門家が海に飛び込みました、それから……」


「やめてくれ!」ヴァンドーヴァーは鋭く手を動かして言った。「僕は彼が溺れるのを見たんだ……あれは胸糞悪かったよ」


「あなたはそのボートに乗ってたんですか?」トビーは叫んだ。「待ってくださいよ、私が言い終わるまで。彼を乗せなかったというんで、ここの当局が厳しい態度でその一等機関士を追ってるんです。それと乗客の何人かのこともね。他のボートに乗っていた女性がその一部始終を見ていて、すべてを明かしたんですよ。そういうのは普通の殺人でしょ」ヴァンドーヴァーは口をつぐんで答えるのを控えた。少ししてからトビーが進んで話を続けた。「実は、ここには今、日勤の新人がいるんですよ……もうジョージはここにいません。いえ、あいつは数か月のうちに救貧院通りでロードハウスを始めるんです。いい場所ですからね。開店の案内状を送らせますよ」


ヴァンドーヴァーは、日勤務めの新人ウェイターに、牡蠣とオムレツ、クラレットを一パイント注文した……コロナドを出てから味わったことのないような食事を美味しく楽んで飲み食いした。


彼はそれに長い時間をかけて、自分の動物的要求を満たすことに大きな喜びを感じていた。ワインは彼の動きを重くし、体を温め、感覚を鈍らせた。落ち着き、癒されて、完全な満足を感じたので、今いる場所で眠りたいという欲求と闘わなくてはならなかった。インペリアルの雰囲気は暖かく、空気には過去の放蕩の痕跡のような生ぬるい気だるさと、甘いウィスキーや麝香のムッとする臭いがあった。先週の波乱と苦難の後だけに、静かで、のんびりできて、無気力でいられるのを心地よく感じた。フロッシーが来ればいいのに、とさえ願い始めた。これを機に彼は立ち上がった。体を揺すって、最後の五セントで交通費を払って家に向かった。


車両の外の席に座って、誰か知り合いが自分を見ないだろうかと考えていた。そういうことが起こるかもしれないと半分期待を寄せて、難破船の生存者たる今の自分に集まりそうな、芝居見物的な関心に気づいていた。すぐにこの考えがとても気に入り、車両がノブ・ヒルを登り始めたところで、知り合いがいないか探し始めた。


ポーク通りの交差点で、喪服姿のアイダ・ウェイドの母親が、小さなピンクの包みを持って食料品の店の近くに立っているのを見かけた。


これは眉間に一撃をくらったようなものだった。ヴァンドーヴァーは息を呑んで愕然とし、アイダの死の翌朝、彼を打ちのめしそうになった感情を抑えきれなくなるほどの恐怖が、冷たくつかむのをまた一瞬感じた。しかし、緊張はゆっくりとほぐれ、カリフォルニア通りの自宅につく頃には、また元の自分に戻った。


ヴァンドーヴァーが再び家に着いたのは教会に行く時間帯だった。空気には日曜日ならではの静けさがあった。鐘が鳴り響き、あちらこちらに教会に行く途中の家族連れがいた。子供が最高の服に身を包んで先頭を歩き、特権を与えられて、祈祷書を慎重に運んでいた。


執事は庭で作業をしていた。日曜日の朝、時々するように、スイートピーの咲く決まった花壇のまわりをぶらぶらしていた。呼び鈴に出たのは家政婦だった。ヴァンドーヴァーだとわかると、家政婦は長い感嘆の叫び声を発して、両手を天にあげた。


「まあ、あなた、ヴァンドーヴァーさんじゃありませんか? ああ、どれほどあなたやみなさんのことを心配したでしょう。こうしてあなたがお戻りになったのを見れば、お父さまはさぞかし喜びますわ。ああ、難破の話を聞いて、あなたが乗船してらしたことを知って、私たちが何度心配したことか! ええ、お父さまはかなりお元気ですわ。昨日の朝は大層お加減が悪うございましたが、今は良くなりました。今なら喫煙室でお目にかかれるでしょう」


ヴァンドーヴァーは喫煙室のドアを静かに開けた。父親は暖炉の前の大きな革張りの椅子に何もしないで座っていた。死んでいた。すでに冷たくなっていたので、かなり前に亡くなったに違いない。痛みはなかったかもしれない。筋肉はほとんど動いていなかった。姿勢はごく自然で、足を組み、右手に新聞を持っていた。しかし、ヴァンドーヴァーが体に触れたとたんに、体が崩れ、どさっと椅子の奥にずり落ちた。顎が垂れて口が開き、頭が横に転がって肩の上にのった。


ヴァンドーヴァーは腕を振りながら廊下に飛び出して、使用人を呼んだ。「ああ、どうして言ってくれなかったんだ?」ヴァンドーヴァーは家政婦に叫んだ。「どうしてあんな姿を僕に見つけさせたんです? いつ死んだんですか?」家政婦は取り乱した。信じられなかったのだ。父親はほんの少し前に、家政婦を呼んで、小さな真鍮のマッチ入れにもうマッチがないと言ったばかりだった。彼女は追い詰められた雌鳥のように長い叫び声をあげて嘆き、両手を天にあげた。突然、二人は誰かが階段を駆け上がる音を聞いた。執事だった。ワイシャツに、丈夫な綿布の巨大なエプロンをつけ、まだ(こて)を手に持ったままだった。困惑し、目をむいた。そして周囲に新鮮な土の匂いを撒き散らし、矢継ぎ早に叫んだ。


「どうしました? 何事です? いったいどうなさいました?」


「ああ、僕の大切な親父が……誰にも看取られずに!」ヴァンドーヴァーは歯を食いしばって叫んだ。


「ああ、ああ、神さま!」家政婦は十字を切り、目をきょろきょろさせて叫んだ。「小さな真鍮の箱にマッチを補充するように言われてほんの一分しか経ってないのに。ああ、おいたわしや、旦那さま!」


ヴァンドーヴァーは突然、階段を駆け下りて玄関ホールを通り抜けるや、通り過ぎるときに帽子掛けから帽子をひったくった。同じ通りの二ブロック先に住んでいるかかりつけ医を呼びに走った。教会に行こうとして、ちょうど家族と一緒に馬車に乗り込むところをつかまえた。


ヴァンドーヴァーと医師は一緒にその馬車に乗り込んだ。灰色の馬二頭は小走りで急な坂を上っていった。医師は教会に行く服装だった。太い白の継ぎ目のある赤い手袋をして、襟にはスズランが一輪挿してあった。


「残念ながら、我々にできることはないかもしれませんよ」彼は警告した。「そうなったのはお父さんの持病のせいだと思います。これは……遅かれ早かれ確実に起こることでした。何にしても突然のショックが引き金でね」


ヴァンドーヴァーはほとんど聞いてなかった。片手で馬車のドアを開けたまま、もう片方の手で膝を叩いていつでも飛び出せる準備をしていた。


「戻って、他の者を教会に連れて行ってくれ」馬車がヴァンドーヴァーの家の前に止まると、医師は御者に向かって言った。


その後一日中、家全体がごたごたした。カーテンが引かれ、玄関の呼び鈴がひっきりなしに鳴り、見知らぬ人の顔が窓を通り過ぎ、見知らぬ人の足音が絶えず階段を上り下りした。食事の時間はまちまちで、食卓は一日中ずっと出しっぱなしで、隙を見て食事をとった。電話は鳴りっぱなしで、四六時中、弔電の配達人が出入りし、人は小声で会話し、足音を立てないで歩いた。花屋のワゴンが何度も玄関にきて、家中にチュベローズが香り始めた。記者が詰めかけ、辛抱強く取材に応じるのを待ち、食堂の革張りの椅子に座って、テーブルクロスを押しやり、テーブルの片隅で記事を書いていた。葬儀屋の下働きがワイシャツ姿で懸命に働き、午後の半分が過ぎる頃に、葬儀屋自身が鐘の柄に黒い喪章を結びつけた。


静かな興奮が少しずつ近所全体に広がった。近所の住人は窓辺に出て通りを見下ろし、事の成り行き見守っていた。これはまさに大事件であり、ブロック全体の話題と関心を集めた。女性たちは互いを訪問する口実を見つけて、客間の窓際に座って何が起きたのかを話し、互いに首を振ると、レースのカーテンの間から外の様子をうかがった。ケーブルカーの乗客や歩行者が、通り過ぎざまに振り向いては首を伸ばし、鐘の柄の喪章やカーテンの閉められた窓を何度も見返した。近所の子供たちは、家の近くの歩道に小さくかたまって、見たり指をさしたりして、体を寄せ合い、小声で話をしていた。ついに警官が現れ、これみよがしに歩いて、空き地を囲むフェンスに大きなお腹の影を投げかけ、子供たちにしかめっ面を向けて追い払った。しかし突然、知人を発見した。スミレを飾った巨大な錨をちょうど運んで来た至急便の運転手だった。警官は立ち止まって叫んだ。


「こんにちは、コナーズ!」


「こんにちは、ブロードヘッドさん!」


それから長話が始まった。警官は縁石の上に立って、片足を車輪の(こしき)に乗せて休め、配達員の方は前かがみになって膝に肘をついて、両手の間で鞭をひねくり回していた。配達員は肘で家の方角を差しながら、何かの話をしたが、相手は信じられない様子で、重々しく首を振って、顎を上げて目を閉じた。


家では特定の部屋を中心にした、静かで抑えの効いたせわしげな動きがあった。葬儀屋の下働きと床屋が、廊下越しに低い声で水を入れた洗面器とタオルを求めた。老紳士に着せる一番いい服と清潔なリネン探しが始まった。タンスの引き出しが開け閉めされ、クローゼットの扉がそっと閉められた。親類や友人たちが訪ねて来ては帰り、あるいは残って手伝いをした。どことなくざわざわした。ささやき声、静かな足音、シルクの擦れる音、抑えた泣き声の入り混じった音がして、やがて静かになった。夜はみんながいなくなり、ガス灯ひとつが燃え続け、ヴァンドーヴァーはひとり取り残された。


事態の急変は彼を茫然自失に追い込んだ。その日のさまざまな出来事をすべて終えて、自分の冷静さと精神的強さに驚いていた。しかし、最後の数時間の抑圧された興奮がさめて、十一時近くに寝ようとすると、深い悲しみと喪失感が突然、初めて本格的な力で彼を襲った。ヴァンドーヴァーはベッドに飛び込んで、泣いたり、うめいたりした。夜通し、いろいろな機会に見た父親の場面がよみがえった。特に三つの場面が脳裏を去来した。


ひとつは、老紳士が手にデカンターを持ち、まさにこの部屋に立っていて、かなり気分が悪いのかと優しく問いかける場面で、もうひとつは、桟橋でハンカチを結びつけた杖を持ち、海の向こうのヴァンドーヴァーにまるで信号を送るかのように振っている場面だった。しかし、三つ目は、喫煙室で革張りの椅子に倒れ込んで、テーブルに腕を置き、その上に頭をうなだれている場面だった。


その家で行われた葬儀の後、ヴァンドーヴァーは借りた馬車に乗って自分の家に戻った。金を払おうとしたら、御者は、代金は葬儀屋持ちであることを告げた。ヴァンドーヴァーは、御者が馬に坂道をくだらせる間、しばらく見送った。ブレーキがかかると、タイヤは犬の鳴き声のような音を立てた。それから振り返って家の方を向いた。午後四時に近かったので、家のまわりはすべてがとても静かだった。二階の一部屋を除いて、カーテンはすべて引かれていた。執事はすでに窓を開けて部屋の換気にとりかかっていた。彼が動き回り、掃除し、家具を並べ替え、ベッドを整え直している物音がヴァンドーヴァーに聞こえた。前方では、馬乗り台と玄関のドアの間に、スミラックスの葉がまだ一、二枚落ちていて、チューベローズはすでに黄色くなっていた。通りの彼の後ろに、縁石までバックしていた霊柩車の車輪の跡があることに気がついた。


鐘の柄には喪章がまだついていた。それは忘れものなのか、それとももっと長くそこにつけたままにしておくのが適切なのか、ヴァンドーヴァーにはわからなかった。とにかく、それを外して家の中に持ち込んだ。


父親の帽子、硬い茶色の山高帽が帽子掛けにかかっていた。これはヴァンドーヴァーにとって、父親が家にいるという印だった。この光景はあまりにも見慣れたものであり、あまりにも自然だったので、このときも無意識に同じ考えが頭に浮かんだ。一瞬、親父が死んだ夢を見たのではないか、と。僕を打ちのめしたこのひどい悲しみは何だったのだ、親父のところへ行ってこのことを話さないといけないな、と思いさえした。帽子を手に取って、そっと回しながら、それについていた老紳士のヘアオイルのかすかな匂いを嗅いだ。これは写真でもできないほど、彼に父親を思い出させた。つばの広いカールの下に、優しい老人の顔をありありと見ることができた。再び悲しみがこれまで以上に鋭くヴァンドーヴァーを襲った。古い帽子をぎこちなく抱きかかえて、めそめそしながら独り言をつぶやいた。


「ああ、かわいそうな愛するお父さん……僕はもう二度とあなたには会えないんですね、絶対に、絶対に! ああ、愛する親切な親父!」


彼はその帽子を自分の部屋に持って行き、大事にしまった。それから家の裏にある小さな庭を見下ろす窓の前に座って、何も見ていない目で外をながめていた。


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