夏のエラー
最悪の結論に至った、君の話。
「ねえ、ナツ。脱いだ服、ほったらかしにしないでって言ったよね。脱いだら洗濯かごに入れて。」
ナツはこっちも見ないで「うん」とうわ言のように呟いた。
空は澄み切って雲が高い。入道雲が迫りくるように空に壁を作っていた。
ナツはこんなに暑いというのに、小さな出窓を開け放して窓近くのテーブルに頬杖をついている。短い癖毛の髪がふわふわと時折揺れる。
私は「聞いてないか」とため息を吐き、エアコンから出る冷気が外に逃げ出していくのを感じながら、ソファに腰掛けた。
ナツは不思議な人だった。
大学生になって上京し、ひとり暮らしを始めた私の元にナツが転がり込んできてから約2年。こんなにずっと一緒にいるのに、ナツが何を考えているのかわからないときが多い。今もこうやって窓の外を眺めて、ただボーッとしている。こんなときに話しかけてもしっかりとした応えが返ってこないのは、一緒に住み始めてから一週間でわかった。
近くの木から聞こえる蝉の鳴き声が五月蝿い。ナツはそれが好きだと言うが、私にはあまり理解できなかった。なんだか生命が消える最期の音みたいだから。
蝉の音に混じって、近所の子どもたちの声が微かに聞こえる。キャッチボールをしているようで、規則的な球を取る音が心地良い。時折「ごめ〜ん!そっち行ったー!」と大きな声も聞こえる。
突然ナツが「あ、」と声を上げた。ナツが椅子からゆっくりと、立ち上がる。
「やっと、わかった。」
ナツは軽い足取りで玄関に向かうと、若葉色のサンダルを履いた。1年前に一緒に選んで買った、ナツのお気に入りのサンダルだった。去年の夏も今年の夏も、外出する際は、ナツは必ずこのサンダルを履いている。
私もナツについて行き、一年前一緒に買った色違いの柿色のサンダルを履いた。二人で色違いのサンダルを履く。
これは大学での揶揄いの格好の餌食だった。大学の同級生達は「よっ、お似合いだね〜!」と囃すのだ。彼らの私達に対する十八番の野次だ。しょうもない。君らには何もわかるまい。というか、一生わからないでいい。これは、ナツの私に対する信頼の証だ。
ナツは一足先に玄関から外に出る。夏特有のムワッとした空気がひんやりとした玄関に舞い込んできた。
私もナツの後に続いて、外に出る。
見慣れたアパートの廊下を進み、錆びれた階段を降りる。足を下ろすたびにギッギッと鳴る。二人分の重みを受けて、一段と悲鳴を上げている。
そんなことお構いなしに、なんだかナツの後ろ姿は嬉しそうだった。
何が「わかった」のだろうか。
私たちは川のほとりを歩いた。小川はチョロチョロと音を立てながら、太陽の光を反射して絶え間なく流れている。初夏の夜には蛍が舞う、美しい川。都会の中では珍しいスポットだ。
少し歩いて、ナツがやっと後ろを振り向き、私の目を見た。ナツの透き通ったブラウンの目が私を射抜く。
「生物は、種を残すことを天から期待されて生まれてくる。どんな動物も、虫も植物だって、種を残そうとする。それが当然のことのようにね。」
突然、流れるように始まったナツの演説に私は当惑した。しかしながら、ナツが突然脈絡もなく自分の考えを口に出すのは今に始まった話ではなく、私は聞き逃すまいと、ナツの言葉に耳を傾けた。
ナツは私が話を聞いているとわかると、私の目から横を流れる川に視線を移した。
「じゃあ、人間はどうだい?…多くの人は、崇高な意味を持って自分が生まれてきたと思っている。まあ、生まれた意味までは考えないかもだけど、生きる意味はきっとそれぞれ持ってるよね。人の役に立つため、とかやりたいことをやるため、とか。でもさ、そんなの後付けの理由でしかないんだよ。」
ナツはいつもの遠くを見る目で川を見つめる。やがてしゃがみ込んだ。私も隣に並ぶようにしゃがんだ。色違いのサンダルが、青々とした草の中でやけに映えた。
「人間だって子孫を残すために生まれてきてるんだよ。そこに大層な意味なんてない。ただ、大きな生命の流れにのって、生まれてきただけなんだよ。
だから、生まれてきた僕達に与えられた役目は、ただ『子孫を残す』こと。」
私はナツの言う事に賛同することができず、思わず口を挟んだ。
「ただ子孫を残す?そんなの寂しいよ。私達には考える、ってことができるだけの知能を持ってる。そんなことだけのために生きているとは思えないよ。」
ナツは僅かながら頷いた。
「そうかもしれない。そう考えるだけの知能を持っている。考えることをやめなかったから、今の人間社会はここまで技術も発展して、原始時代と比較すると大きく変わった。けど、それがより良く種を残すためとしか思えないんだよ。知能はただ種を残すための手段に過ぎないんだ。」
ナツは立ち上がってまた川辺を歩き始めた。栗毛がナツが動く度に川のようにキラキラと光った。
ナツの演説が続く。
「そして、子孫を残すためには愛が必要さ。社会的同意を得られない子どもはいずれ淘汰されるから、愛は子孫を残すためには重要。そして社会的同意を表すために結婚という制度がある。」
ナツがいきなり立ち止まる。
「さあ、ここで問題。」
「なんで僕は生まれたんだと思う?」
私は言葉を失った。
ナツは、無性愛者だった。
「僕はその答えをずっと考えてたんだ。本当に、今まで何もわからなかった。…どうして、種を残せない僕が、この世界に生まれ落ちたのか。恋愛ができない劣等種なのに、僕が生まれた意味はどこにあるんだろう、って。」
ナツは良い意味でも悪い意味でも、純粋無垢だった。恋愛を、あたかも絶対正義かのように信じている。
「僕は考えたさ。これから、きっと僕も愛を見い出せる時が来るとか。いやいや、そもそも生まれる意味が種を残すこと、という前提が間違ってるとか。他に僕の役目があるんじゃないか、とか。」
川が側溝に移り変わる。側溝の蓋の隙間からチロチロと音が聞こえた。
「でも、そんなことじゃなかった。多分、僕の前提は間違っていない。人間は種を残すために生まれてくるんだ。その証拠に、この世界は恋愛至上主義社会だろう?」
蝉がナツの声をかき消さんばかりに鳴く。けれど私の耳にはナツの声がはっきりと聞えた。
ナツは側溝をそのまま辿っていく。やがて大きな道に出た。車も忙しなく走っている。
私は蝉の声を振り払うように少し声を張り上げた。
喉がカラカラだった。
「確かにこの世は恋愛至上主義の思想が蔓延ってる。結婚が人生キャリアの中に当然のように食い込んでるとことか。年齢イコールなんて言葉も聞き飽きた。でも、それが必ずしも正義なんてことはないよ。私達は運良く人間だったんだ。いろんな考え方ができる種で、いろんな考え方も存在するべきなんだよ。マイノリティが悪だなんてことはない。ナツは劣等種なんかじゃない。」
私はどうしてもナツが最悪な結論に辿り着く気がしてならなかった。どうにか軌道修正したい。ナツがこっちを、私を向いて欲しい。
けれどナツは側溝から車に視線を走らせる。
「いや、マジョリティは大きな力だ。社会において、力は大きな流れとなり、権力や権利にもなり得るんだよ。これを正と言わずになんと言うの?」
私は言葉に詰まる。ナツの手を取れない。
「長年の"どうして僕が生まれたのか"、という疑問に対する答えは簡単だ。
僕は"エラー"だったんだ。」
蝉が一際大きく鳴いた。最期の声を振り絞って、ナツの声を掻き消そうとするようだった。
焦燥感で胸が苦しくなる。
「物事にはミスが付き物だ。失敗は成功のもと、と言うよね。成功が存在するってことは失敗も幾らか存在するのが自然の摂理だ。キャッチボールだって、何回も失敗しながら、だんだんと上手くなっていくだろう?その"失敗"の役目を負ったのが僕だったのさ。」
ナツは誇らしげに自らの胸に手を当てた。
「失敗には意味がある。ってことは、僕にも意味があったんだよ。だから、僕は生まれてきて正解だったってことになる。…でも、あれ、失敗って正解なのかな……?」
ナツは少し頭をかしげてビルの天辺を見ようとした。
けれどすぐに目を閉じた。ナツのそばかすが夜空の星のように一段ときらめく。
「いや、そう、失敗は存在していいんだ。だけど、それは無かったものにされる。すぐに"成功"で上書きしないといけないってことなんだ。それがあるべき正解だ。」
ナツがこちらを向いた。世紀の大発見でもしたかのように、晴れやかな顔をしていた。
蝉がもっと大きく、鳴く。頭がガンガンする。ああ、五月蝿い。
「ナツ、成功って?それはなんのこと」
「ってことで僕は人生そこそこで、エラーとしての役目を十分果たしただろうから、去ろうと思う。」
ナツは私の質問に答えない。最悪の結論に納得したようだった。
「ナツは失敗なんかじゃない。私はナツに沢山のものを貰った。それは絶対にナツの存在した意味で、これからも存在する意味だ。」
ナツが一瞬目を見開いた。しかし、すぐに私に微笑みかけた。
「それは一時的なものだよ。大きな流れの中では大きな意味を持たないさ。」
嫌な予感がする。息ができない。
私はナツの手首を掴もうとするが、空を切った。
「大きな流れがそんなに重要?私達は全てその流れに流されなきゃいけないの?」
ナツはケタケタと愉快そうに笑う。
「だって、大きな流れには抗えないもの。そうだろう?」
蝉も共鳴するように一層大きく鳴いた。
「とにかく、僕はもう大きな流れにのることのできないつっかえ棒になってしまったわけだ。僕が君の"失敗"に、なっているといいなぁ。」
蝉がナツを祝福するように手招きする。
私はもう何も言葉が出てこなかった。
「答えがわかってすっきりした。僕はこの世界での僕の存在を肯定できたんだ。そして、君は僕とは違う。きっと、"君は成功する"よ。」
「じゃあね。」
そう言うと、ナツは赤信号の横断歩道に飛び出した。
一瞬振り向いたナツはとても満足そうに笑っていた。
誰かの叫び声。鳴り響く車の急ブレーキ音。
私は、足に根っこが生えたように動けない。
下を向くと、私の足元に、蝉が1匹腹を上にして転がっていた。
今年も夏が来た。緑が青々して、空は高い。入道雲は今年も青空に真っ白な壁を作る。蝉時雨は相変わらず五月蝿い。
君は知らないと思うけど、失敗はずっと心に残るものらしい。
君の好きだった夏が、今年も変わらずやって来る。
けれど、私のナツはもう来ない。
ナツは正しかったのか?