1. 始まりのための始まり
「大きくなったら、香久耶ちゃんは、何になりたいのかしら」
母に言われて、香久耶と呼ばれた女の子は、鼻に指を当てて悩んでいた。
実は、なりたいものは一杯あるのだ。けれど、何を捨ててでもなりたいものがあった。誰にも言ってない夢。多分、言ったら、笑われる。それに、きっとお母さんが困ることも。
それでも、香久耶は言った。
「あたし、神様になりたいの」
母は驚いた。
「か、神様になって、何するのかしら?」
その問いに、香久耶は胸を張って言った。
「お父さんを探すの。神様なら、すぐにみつけられるでしょ。そして、みんなで一緒に暮らすの。あたし、お父さんに会いたい」
言葉を無くす母親だった。
時は流れる。
あの子の夢は、叶ったのだろうか。
改札を抜けると、小さな像が迎えてくれます。
ここは、待ち合わせによく使った場所。
いつから、ここに有ったのか、もう憶えていませんが。
顔の皺が増えるはずですよね。
駅裏に行くとお城があります。お城に近い駅は、あまりないそうです。
日々の暮らしの中で、それが当たり前ですから、そうなんだ、くらいにしか思ったことはありませんが。どうやら、珍しいようです。
表には、タクシー乗り場とバスターミナル。他には、目立ったものは、ほとんどありません。昔は、それなりに、大型店舗があったのですが、今はマンションやホテルに変わってしまいました。
こんな寂しい街だったですかね。
「おばあちゃん、そっちじゃないよ。左に行くんだよ」
孫の有栖の声に、時間旅行から引き戻されます。懐かしい景色が脳裏から消えていくと、ガランとした、今の街の景色が戻って来ます。
「わかってますよ」
今日は、リバイバルの映画を観に来ました。
あの人と、一度だけ、一緒に観に行った映画です。ふふ。
付き合っていたわけではありませんでした。誘われて、何となく、行った感じ、だったと思います。2回デートをした内の1度目のデートです。その辺りの記憶は、かなり曖昧です。歳を重ね過ぎましたかな。
もう、何十年も前に、流行った映画です。
最後は、ふたりして、泣いてました。暗闇の中だから、向こうは気づいていないかもしれませんね。
「全てが、懐かしいな」
あれ、あの角に白く動くものが見えます。ウサギ?
こんな街中にウサギ?有り得ませんよね。
目の錯覚でしょうか。歳には勝てませんね。
銀行のある角を曲がると、映画館が見えて来ます。
先ほど見えたウサギは、何処にもいません。目の錯覚でしょうか。
不思議の国に連れて行って貰えないかと、楽しみにしたのは内緒です。
ここは、何も変わっていません。昔の記憶のまま。何ひとつ、変わっていませんね。正確には、銀行の名前が変わりました。それくらいですね。
「観に来る人、多いんだね。私みたいな年配の人が、多いね」
「みんなも懐かしいんだね」
あの頃、凄く流行ってたものね。
「はぐれるといけないから、手をつないでてね、おばあちゃん」
「はいはい」
はぐれるのは、あなたの方だと思うけど。言ったら、怒られそうです。
リバイバル上映の初日のせいか、凄い人。
「ほら、前売りチケット買っといて良かったでしょ」
「うちの孫は、気が利くねえ」
頭をポンポンと、撫でる。孫はこんなに大きくなりましたよ。何処かで見ていてくれるといいけど。
大きくなったせいか、もうすぐ、手が届かなくなりそうです。
歳を取るはずですよね。
「ん?」
今、知ってる人が見えたような気がします。錯覚かしら。
見知らぬ人でなく、確かに貴方だったような気がするのですが。最近は目も悪くなってきましたからね。ウサギも見えたくらいだものね。
人と人の間を目で探します。見間違いだったのでしょうか。もう、何十年も会ってないし、顔も変わっているかもしれませんが。でも、間違いなく、あの人、だったような気がします。歳を取って、どれくらい変わったのか。それでも、あの人を間違えるわけがありません。さっきの人は絶対に、私の先輩だったと思います。
今頃、どうしているのかしら。娘には合わせることが出来ませんでしたが、孫の姿はひとめでも見せたいですね。
生きている間に、もう一度、会いたいですね。
「ん?」
何だか、周りが騒がしいようです。
「そこよ、そこにいたのよ」
「今、脚に当たったわよ」
皆んなが、脚元で、何かを探しているみたいです。
狭い所で、そんなに騒ぐと、危ないのですが。
「おばあちゃん、気をつけてよ。何かが、いるみたいだから、急に動いたりすると、危ないからね。でも、何がいるんだだろう」
「きゃあ」
女性が大きい声を上げました。
「ほら、言ってるそばから、これだもん。皆んなも、慌てなければ、いいのに」
「壁の方に、行きましょうか」
「そうだね、それがいいよ」
孫が手を繋いで、引っ張ってくれます。母親は、この子を産んですぐ亡くなったというのに、良い娘に育ってくれましたよ。
今回の映画のポスターの貼ってある壁まで、辿り着けました。一緒に観た、最初で最後の映画ですね。
一生懸命に観る貴方の横顔は、よく覚えています。
「兎だ。兎がいるよ」
「何でこんな所に兎がいるの」
「何処からか、逃げ出したんじゃないの」
「あっ、また脚に当たったわよ。危ないからね、早く、誰か、捕まえてくれないかしら」
周りが動くせいで、どんどん押し流されていきます。摑まるものもないので、どうしようもありません。
急に、目の前が開けました。
どうやら、兎を見つけて、皆んなが端に寄ったようです。
モーゼの海割れみたいです。
そこには、兎が一匹。
兎は、こっちを向いたかと思うと、ダッシュして、向かってきます。何で、急に?
兎が跳ねました。
こっちに飛んで来ます。
えっ、何で。
孫が引っ張って、位置を変えようとしてくれるけど、間に合いそうにありません。しかも、少しずつ押されて、階段の前にいます。下りの階段の前。そうでした、この映画館は、地下にあるのです。
すっかり、忘れてましたね。
「あっ」
兎が胸に飛び込んで来ました。
何故だか、ウサギが嬉しそうです。
押されて、階段から、落ちそうになります。
まずいですね。このまま落ちたら、ヤバいかな。もう若くありませんからね。
でもね、ヒーローって、いるのですよ。
私を庇って、その人が代わりに落ちて行きました。その顔は、笑ってる?
落ちそうになる私を支えて、その代わりにあの人が落ちていきました。
(あの時、逃げて、ごめん)
口元が、そう動いているように見えました。
あの人は、地下一階のフロアに落ちて、一瞬跳ね上がりました。
頭を打ったのか、すぐに目を閉じてしまった。
同時に、フロア上に文字が浮かび上がって来ました。キラキラした文字です。文字が一段と光った時、フロア上に穴が開きました。
漆黒の闇のような、底の無い穴です。
あの人は、その穴に落ちると、漆黒の闇に沈んで行きました。
一瞬の出来事でした。
そこは、元のフロアが戻っていました。
あっという間の出来事で、何かが起こった形跡はありません。
「おばあちゃん、大丈夫?」
孫が抱きついて来ました。
「ふらっとして、階段から下に落ちそうになった時は、ビックリしたよ。よく落ちずに、踏ん張れたね。もう、ドキッとさせないでよ」
「あの人が助けてくれたから」
「何のこと?おばあちゃんしか、いなかったでしょ」
階段下と、孫の顔を交互に見直します。
さっきまで、そこに、あの人はいたよね。私を助けて身代わりに落ちていったよね。見てないの?
「今、私、助けてもらったよね?」
「誰に?ずっとひとりだったでしょ。誰もいなかったし、見なかったよ」
「えっ・・・」
どういうことかしら。
私は、幻を見たのですか?
私は、力なくしゃがみこんで、顔を覆っていました。
やっと会えたのに。
やっと、昔話が出来ると思ったのに。
なんで・・・
なんで・・・
神様がいるなら、どうか、あの人を助けておくれ・・・
お願い・・・