6.行きたいところ
「昨日は、歌えなくてごめんなさい。
デューアにいさまに、素敵な歌、聞いて欲しかったのにな」
翌朝になると浮かない顔ながらも一応復活したフィルローゼ。
「じゃあ、今聞かせてくれる?」
聞いて欲しい、というからそう言って見たけれど、フィルローゼはあまり乗り気では無い様子。
「んー……どうしても、聞きたい?」
「いいや、全然。フィルローゼが歌いたい時に聞かせてくれたら十分だよ」
「なんだろうね、なんでだろうね……。
あんまり、歌いたくないの」
あんなに生き生きと歌っていて、誰が聞いても歌そのものが大好きだと感じられる声だったのに、それが嫌になってしまうなんて。
「したくないならしなくてもいいんじゃないか?
ちなみに、今日俺は休みで特に予定はないんだけど、フィルローゼは行きたい所とかある?」
心の底から歌が嫌いになってしまわないように、今は出来るだけ違うものに興味を持ってほしい。
そうしたら、いつかまた歌えるようになると思うから。
「行きたいところ……。
あの、アナスイ湖って知ってる?」
「ああ、知ってるよ。行きたいなら、今から連れて行ってあげられる」
季節も夏前で、軽いお出かけにはちょうどいい気候だ。
「本当に!?」
単に連れて行ってあげると言っただけなのに、それまでの浮かない表情が一変して明るい笑顔に変わった。
「うん。馬車と馬の二人乗りどっちがいい?」
「わたしは、馬車しか乗ったことないからよく分からないの」
子どものようにこてんと首を傾げると、薄金色の髪がさらりと流れた。
「じゃあ、今日は馬で出かけてみるか。一人で乗るのは難しいから練習が必要だけど、俺の前に乗るだけなら大丈夫だ」
「分かった。じゃあ、馬で行ってみたい!」
新しいものに興味津々な様子も可愛いし、さっきまでよりもずっと表情が明るくなって、それだけでも俺はほっとした。
☆。.:*・゜
「すごい、すごーい! とっても楽しいよ!」
俺の愛馬ジャンクスは大人しくて賢いから、初めて見るフィルローゼに怯えることも威嚇することもなく、至って普通に言うことを聞いてくれている。
大きな馬にとっては、背中の上でフィルローゼがはしゃいでも大したことではないらしい。
「風が気持ちいいだろう?」
「うん! それに高いとこから見たら、景色も全然違う気がする!
あんまり外にも行かないし、とっても楽しいの!
デューアにいさま、連れて来てくれてありがとう」
まだ目的地に着いてもいないのに、これ以上なく楽しそうで何よりだ。
「フィルローゼが楽しいならよかったよ。ほら、あの森が見えるかい?」
「うん」
「あれがアナスイ湖の周りの森だよ。
もう少し近づけば湖も見えるようになる」
俺がそう言うと、紅い瞳でじぃっと前を見つめている。
「あっ、見えた!」
興奮からか、ぐっと身を乗り出すフィルローゼ。
「おっと、危ないよ」
さすがのジャンクスもぐっと踏ん張っているし、馬上での急な動きは危ない。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫だけど、次からは辞めて欲しいな。俺の心臓に悪い」
危ないよ、という意味を込めてフィルローゼの身体を支える腕に力を込める。
「はい! わかりました!」
子どもがするような元気いっぱいの返事が貰えたけど、それ以上に何か楽しそうなのは何故だろうか。
そう暑くはないのに、頬は瞳と同じくらいに赤くなっているし。
☆。.:*・゜
「ふーっ、やっぱり、ここはすてきね」
湖畔に着いてしばらくしたら、湖からの風に吹き飛ばされてしまいそうなくらにい小さな声でそうつぶやいた。
さっきまではしゃいでいたのに、今度は一転して噛み締めるように景色を眺めている。
初夏の爽やかな風は心地よいのに、その風を浴びるフィルローゼの顔が不意に歪んだ。
「どうしたんだ?」
紅い瞳を閉じて、眉間に皺を寄せる。
「んぅ、だいじょうぶ」
棒立ちのまま震えはじめたフィルローゼに何か出来ることをしてあげたくて、後ろからそっと抱き寄せてみる。
少しでもリフレッシュできれば、と思っていたのに。
こんな顔をさせるはずじゃなかったのに。
「あのね、にいさま。聞いてくれる?」
本格的に涙で濡れ始めた声でそうつぶやく。
「うん、もちろん」
フィルローゼが言いたいことなら、俺は何だって聞くよ。
「お母さんが動けなくなるちょっと前にね、二人でここに来たの。
まだ冬になる前だったから、ちょっと寒かったけど楽しかったの。
何もしなかったけどね、とってもとっても楽しかったの……」
身体を強ばらせてそう訴える様は見ていて本当に苦しくなるほどで、今まで彼女がどれだけ我慢してきたのだろう、と思った。
「お母さんーー! うわあああん!
会いたいよ、あいたいよおおぉ!!!」
どこへ行きたい、と言われてすぐに思い出の場所が思い浮かぶほど、母に会いたいんだ。
それはそうだろう、誰だって、親しい人に会いたいに決まってる。
もう二度と会えないとあれば、なおさら。
「会いたいの、会いたい!!」
フィルローゼが真っ赤な瞳からぼろぼろと大粒の涙を流して泣き叫ぶ。
それは、見ている俺が苦しくなるほどに強い衝動を感じさせた。
「そうだな、会いたいな」
あまりにも辛そうで、湖に向かって泣き叫ぶ彼女の前に周りこんで抱きしめなおす。
フィルローゼにとっては思い出の強い湖で、見ていたいのだろうけれど、衝撃が強すぎるようだから。
「ふわぁあああん、にいさま、にいさまぁ!
お母さんに、会いたいの!」
まだ泣き叫び続けるフィルローゼの気が済むまで泣いてもらうことにした。
泣き止ませようとはしないけれど、代わりにゆっくりと頭を撫でる。
そうしているうちに、ゆっくりと落ち着いてきたようで、衝動のままに叫ぶことはなくなった。
「ふぇっ、ひっぐ、ふぇっ」
しゃくり上げる彼女をゆっくりと撫でているうちに、俺の至らなさにようやく気づけた。
フィルローゼと最初に出会った伯爵家のがらんどうの部屋で、泣くことすらできないフィルローゼが可哀想だと思って家に連れ帰ったのではなかったか。
それなのに、彼女は俺の家で泣けたのか?
母に会いたいと口にすることすら出来ずに、頑張って笑顔を浮かべて、頑張って歌うことしかしない日々。
誰だって心を壊して当たり前だ。
「フィルローゼ、ごめんな」
その言葉が口をついて出た。
「ううん、違うの。にいさまが悪いから泣いてるんじゃないもん。
神さまが悪いんだよ。お母さんを、連れて行っちゃったから」
「そうじゃなくて。
俺の家にきてもらったのに、フィルローゼに無理ばかりさせていたな、と思って」
ぎゅ、と彼女を抱く腕に力を込める。
「フィルローゼの兄になりたいと思っているのに、全然なれてないな。ごめん」
「ちがうの、ちがう。にいさまのこと、大好きなの。
大事にしてくれてるの。わたしが、何にもできないのに、歌も出来なくなって、ダメだから」
ぎゅう、と強く俺のシャツを握るフィルローゼの指先は細く小さくて。
そんなにか弱い彼女に無理をさせて壊してしまった自分が本当に情けなかった。
「フィルローゼはダメじゃないよ。可愛くて素敵な俺の自慢の妹だ。
大事に出来てなかった俺のせいで、自分がダメだって思っちゃっただけだ。
だから、一つお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな」
「うん、なに?」
「これからフィルローゼがお母さんのことを思い出した時には、俺を呼んで欲しいんだ。
話を聞くし、泣きたい時は泣いてほしい」
「ううん、大丈夫だよ? にいさまに、迷惑はかけない」
「違うんだ、俺がフィルローゼの横に居たいんだよ。どうしても俺が一緒に居たいから、呼んで欲しい。フィルローゼは、嫌?」
「ううん、嫌じゃない。にいさまが一緒に居てくれるなら、とっても嬉しいな」
涙の跡は痛々しいけれど、抱きしめた腕の中からまっすぐに見上げてくれるルビーの瞳は陽の光を受けてきらきらと輝いていて。
母の面影でも思い出の湖でもなく、今目の前に居る俺を見てくれたことが嬉しかった。