第三話 巨大害虫大暴走!
なんだ!? 何が起こったんだ??
「ねぇ、アレってもしかしてトウガラシの粉じゃないの??」
とこわばった顔のミリアムがミルに向かって言う。
それを聞いたミルも真っ青な顔で、
「えっ!? クズ蟲に一番やっちゃいけないことを、、、」
と全身を震わせ始める。
「なになに? どういうこと??」
と能天気に僕が尋ねると、
「クズ蟲は本来おとなしい生き物だけど、激しい刺激を与えられると豹変するんだよ! 中でもトウガラシだけは御法度だって言われてる、しかも粉状であんな大量に、、、って、なんで知らないの??」
なんでって、今日初めてこの世界に来たからだよ。
だが、もちろんそうは言えないので、
「豹変って、どんな感じで変わるんだっけ?」
とトボケ気味に尋ねてみる。すると、ミリアムがイラついた顔で、
「ねぇアンタ、こんな時にふざけてんの?」
とニラみつけてくる。
いや、ふざけてないんですけども、知らないもんは知らないんで、、、
「あのクズ蟲、人を襲っちゃうかも、、、」
とミルが不安に満ちた顔で言う。
「え!? そうなの?? 聞いてたのと違うなぁ。ま、だけど、あれだけ厳重な檻に入ってるんだからさ、そう心配することもないよね、、、いやぁー、安心安心」
と僕があくび混じりに言うと、ミリアムは、
「アホなの? あんな凶悪なサイズのクズ蟲が本気で暴れたら、あの程度の檻なんかひとたまりもないと思うけど?」
と呆れ返った顔で蔑んでくる。
人を蔑まないと死んでしまう呪いにでもかかってるのかな?
「ハハハ、いくらなんでもそれは大袈裟だろ。だってあんなに頑丈そうな鉄の檻だよ? さすがに大丈夫っしょ、、、ねぇ?」
と同意を求めるように振り返ると、そこにはシリアスめの真顔で僕を見つめるミルの姿があった。
え、、、もしかして割とデンジャー?
実際、この時、ヒネクの悪意は状況をさらにひどいものへと導きつつあったのだが、僕たちは凶暴化したクズ蟲に気を取られていて、このちんけな外道のことなどまるで眼中に入っていなかったのだった。
影の中に潜んでいた悪意は僕たちの背後から突然に姿を現した。
「ぎゃああああああああ!!!」
唐突に空気を切り裂くような悲鳴が響き、直後、ガシャンという音と共に目の前にミリアムが持っていたご大層な銃が降り落ちてきた。
え、なんで? ミリアムが投げたのか?
振り返って状況を確認したかったが、それよりも先にに僕は銃を拾い上げた。
何が起こったにせよ、今最も頼れるのはこの銃であり、今最も敵に渡しちゃいけないのもこの銃だから。
手にしたその鉄の塊は思っていたよりもずっと冷たくて重かった。
銃を構え立ち上がった僕は改めて辺りを見渡した。
まず目に飛び込んできたのは3メートルほど向こうでミリアムが両方の目を押さえてのたうち回っている姿だった。続いて血の気の引いた顔でミリアムを見つめているミルの姿が。
「なんだ、アイツ一体どうしちゃったんだ??」
と困惑しながら僕が尋ねると、ミルは、
「ヒネクが! ヒネクがあの子にもトウガラシ爆弾をぶつけたんだ!」
と震える声で答える。
言われてみればレッドでホットな香りが漂ってきたような、、、わっ!! 目、痛っ!!
「あの野郎、女の子になんてひどいことを、、、」
僕はニヤニヤとゲスな笑いを浮かべているヒネクをニラみつけた。
一方、ミルはそんな僕を押しのけ、
「ねぇ! 大丈夫!?」
と、もがき苦しむミリアムに駆け寄る。
だが運悪く、両目を押さえながら両足をバタバタさせて痛みと闘っているミリアムに顔面を蹴り飛ばされてしまった。
鼻血を垂らしながらもまだミルは自分を蹴っ飛ばした少女の心配をしていた。
「もし今クズ蟲が襲ってきたら、あの子、逃げられないよ、、、」
うーん、、、改めてそう言われてみると、その可能性は低いように思えて仕方がない。
巨大ではあるけど、、、言っても蟲だよ?
鉄の檻を破壊するなんてやっぱりちょっと想像できないんだよなぁ。
だけど、まぁ、、、知らない世界の知らない生き物だしね、最悪の事態を想定しておいても損はないか。
そこで僕はミルの耳元に向かってこう言った。
「なぁ、ミル。ここは僕に任せて、今のうちに誰か大人を呼んできてくれないか。警察でも軍隊でも構わない。もしクズ蟲が檻を破って暴れたとしても制圧できるような強い大人たちをね!」
それからヒネクの注意を自分に向けさせる為にわざと煽るように声を張り上げ、
「おいヒネくれヒネク、おまえ、ほんっとサイッテーのヒネヒネ野郎だな。年下のしかも女の子相手にこんなことして恥ずかしくないのかよ!」
と言って銃口を向け、ミルに目配せしてここから去るようにうながした。
ミルは黙って小さくうなずき、ヒネクたちとは逆の方向へスッと走り出す。
ヒネクは一瞬、僕の挑発にイラついたように眉をしかめたが、この場から去ったミルのことはあまり気に留めていないようだった。うむ、思惑通り。
だが、煽り能力ではヒネクの方が何枚も上だ。
この性根の腐ったゲス男はめちゃくちゃイラつかせる顔をしっかり作って、さらにはわざと神経を逆撫でするような音域の声をひねり出して、
「おいおい、人のことをまるで女子供をいじめる極悪人みたいに言わないでくれよぉ~。あの醜いバケモノをやっつけようとして、ちょおっと手元が狂っちまっただけじゃないかぁ~。ひどいなぁ~」
と煽り返してきた。
さらに激痛にのたうち回るミリアムの前にしゃがみ込んでこう言った。
「年長者をうやまう美しい心の持ち主なら、神様もこぉんな目に遭わさなかっただろうにねぇ~」
コイツ、ホント、、、
「おい! あんまりはしゃいでると本当に撃つぞ?」
僕はミリアムの銃の引き金に人差し指をかけた。
ヒネクはハイハイとばかりゆっくり両手を上げて立ち上がり、能面のような顔でこう呟いた。
「・・・おまえのせいだ」
それから今度は血走った目をひん剥き、狂気じみた金切り声で、
「なにもかもぜんぶおまえのせいだからなァアア!!!」
と恫喝してきた。
「いやいや、おまえのせいだろ!!」
と言い返してみたものの、この卑劣漢は既にこちらを見てはおらず、デクの棒と化してオタついている子分たちの頬を引っ叩き始めた。
「オラァ、ボヤボヤしてんじゃねェ、さっさと逃げんゾォオオ!!」
ヒネクは子分たちの尻を叩いて追い立てた後、まだ動けないでいるミリアムと僕に向かって、
「それじゃあ、年長者はここらでドロンさせてもらいますぅ~。後は若いお二人でっ。うまくいったら式を挙げてやるよ、おまえらの葬式をな! ギャハーッハッハ!!」
と高笑いして去っていった。
逃走するヒネクたちを目で追いながらも僕の全身の毛は一本残らず逆立っていた。
この時の僕はまだ自分の背後で起こっている出来事について正確に理解できてはいなかったのだが、僕の本能は危機的状況をハッキリと察知していたのだ。
「うっるさいなぁー、、、」
と工事現場のような騒音に顔をしかめながら振り返った僕の目に飛び込んできたのは、鉄格子を破壊して暴れ狂うクズ蟲の姿だった。
・・・ハハハ、誰だよ、クズ蟲がおとなしい生き物だとか言ったのは、、、凶悪なバケモノじゃないか!!
瞬時にして辺りは騒然、怒涛のような混乱が訪れる。
鳥たちは一斉に飛び立ち、二匹の黒い馬は猛りいななき、人々は逃げ惑っていた。
本当になっちゃったじゃん、最悪の展開に、、、
「・・・」
檻を破壊したクズ蟲が上半身をもたげて無数の足を蠢かせ、黒い馬の一匹に襲いかかるそのおぞましい姿に背筋が凍る。
今までの僕ならこの時点で群衆に紛れて一目散にこの場から逃げ出していたかもしれない。
だけどね、父さん、ママ、、、僕はもう逃げないと決めたんだ。
生まれ変わった僕をちゃんと見ていてください。
ミリアムもこの街も僕が守ってやる!!
腹を括った僕は雄叫びを上げるクズ蟲に落ち着いて銃口を定めた。
それから、這いつくばってのたうち回るミリアムに向かってこう叫んだ。
「心配するな、僕がこの銃であのバケモノを撃ってやる!」
「ちょっと待っ×!! ××、×××××××!!」
ミリアムが粘膜の痛みと闘いながら懸命に何かを叫んでいたが、その声はクズ蟲の咆哮によってかき消されてしまった。どちらにしても今は会話している猶予などない。
「誰も死なせない!」
指先に力を込めて重い引き金を引く、、、、、、
「ぴゅーーーーーーーーー」
・・・えっ!?
その時点でようやくミリアムの声を聞き取ることができた。
「ねぇ待って!! それ “ウォーターガン” だから!!」
ウォーターガンって、、、水鉄砲のこと??
銃口から勢いよく放たれたのはなんとただの水だった。
結構な量の水を頭から浴びせられたクズ蟲は濡れてグロテスクな光沢を放っていた。
どう見ても与えたダメージはゼロ、それだけならまだ良かったが、不用意にクズ蟲を怒らせてしまったのは明白だった。
「いや、水鉄砲かーい!」
とせめて明るくツッコんでみたが、当然のことながら事態が好転する筈もなかった。
黒い馬に襲いかかって無数の爪を食い込ませていたクズ蟲は一瞬動きを止め、ゆっくりギギギギギとその頭部をこちらへ向ける。クズ蟲のヘイトが僕にロックオンした音が聞こえた気がした。
この世を呪うかのように燃え盛るその真紅の瞳がじっと僕だけを見つめている。
あーあ、とんでもないじゃじゃ馬に見初められてしまったみたいだ。
絶体絶命、冷汗が額を流れ落ち、まつ毛にせき止められてひっかかる。
両の手の平は汗でぐっしょりと濡れていた。
アイツが飛びかかってきたらどこへ逃げればいい?
どの方角へ逃げれば最も生存率が上がる?
子供の脚力でどこまで走れる??
逃げきれなかったら、どんな惨たらしい目に遭わされるんだろ?
あの気味の悪い無数の足で、爪が皮膚に食い込むほどガッチリ掴まれて頭から喰われてしまうんだろうか、、、
消化液のようなものを吐き出されて少しずつ溶かされながら喰われていくんだろうか、それとも鋭い歯でもって強引にバリバリと噛み砕かれて、、、
永遠とも思えるほどに長く感じた一瞬の後、フイにクズ蟲が僕から目を逸らせた。
それからズズズと体の向きを変え、フーッと全身をいからせて攻撃体勢に入った。
ん? コイツ、一体何を襲う気なんだ??
クズ蟲の視線の先を追うと・・・そこにはミリアムがうずくまっている姿があった。
どういうわけだかクズ蟲が最終的に標的に定めたのは僕ではなくミリアムだった。
もしかしたら彼女の服装や髪の毒々しい配色が不必要にこの巨大な節足動物の注意を引き付けてしまったのかもしれない。
「おい、ミリアム!! 逃げろっ!!」
と叫んでみたが、彼女はまだ両目を押さえ身をよじって悶え続けていた。
あそこにクズ蟲が突進したらどうなる?
喰われるとか喰われないとか以前の問題で、あんな小さな身体の女の子があんな巨大な甲虫の体当たりをまともに食らってしまったら、トラックに轢かれるようなものだ、無事で済むわけがない。
さらに言うなら、クズ蟲には棘のある殻や鋭い爪や尖ったアゴがある。
少女の柔らかい皮膚など簡単に引き裂かれてしまうだろう。
「おいっ、ミリアム!! 動けってば!!」
「そんなこと言われたって目が開けられなくて何も見えないのよっ!!」
ミリアムは押さえた両目から大量の涙を流し、必死で痛みと闘っていた。
とてもじゃないが、まだまだ目を開けられる状態ではないようだった。
だがクズ蟲がそんな彼女に恩情をかけてくれる筈もない。
荷台からズルリと這い降りた巨大な不快害虫は標的に向かって取り憑かれたように驀進を始めた。
もはや一刻の猶予もない。
・・・僕が守らなきゃ。
そのあまりにもおぞましい姿に怯みながらも僕は全身全霊でミリアムの元へと突っ走った。
クズ蟲よりもわずかに早くミリアムに到達した僕は未だもがき苦しんでいる彼女を強引に抱きかかえ、襲いかかってくるクズ蟲の軌道を避けるべく全力で前方へと跳躍した。
ミリアムの身体があと少し大きかったら間に合わなかっただろう。
ミリアムの体重があと少し重かったら間に合わなかっただろう。
すんでのところでクズ蟲の直撃をかわした僕は瞬時に次向かうべき場所を見極めた。
左斜め前方、建物と建物の隙間が視界に飛び込んでくる、、、あそこしかない。あの狭い空間へ逃げ込めばクズ蟲の巨体は侵入して来られないだろう、、、そこまで考えを巡らせた時、右腕から背中にかけての広範囲に強烈な衝撃を感じた。
「あれ、、、なんだこれ?」
・・・直後、僕は空中に吹っ飛ばされている自分を発見することとなった。
「!?」
空中に投げ出されている僕の目に飛び込んできたのはムチのように唸りを上げてしなっているクズ蟲の尻尾だった。そうか、アレに弾き飛ばされたのか、、、
吹っ飛ばされている飛距離から考えるに相当激しい一撃を喰らったのだと思う。
にも関わらず、ミリアムはまだ僕の腕の中にいた。
僕は彼女をしっかりと我が腕の中で護っている自分に感心した。
さらには地面に叩きつけられるまでのほんの一瞬の間に取った自分の行動についても我ながら誇りに思う。
小さき者を守る、、、その一心で僕は卵を守る母親のように両の手でミリアムの頭を守り、さらには自分がミリアムと地面の間のクッションの役割となるべく体勢を整えたのだった。
だが、誇りとは往々にして自己犠牲を伴うもの。
僕は石畳の上に嫌と言うほど後頭部や側頭部や背骨や腰骨を打ちつけることとなった。
ひんやりとした石畳の上に倒れ込みながら、僕は自分の頭部から生温かい血液が流れ出ているのを感じていた。
なんかけっこう大量に出てる気がする、、、わっ、血溜まりが地面を伝って顔にまで流れてきた!
意識が遠のく、、、まさかこれってまた転生しちゃう感じ?
しかしながら再転生は発動されず、少し遅れて全身に激痛が走る。
尻尾でぶん殴られた衝撃や地面に打ち付けられた打撲だけではない。僕の腕や背中や頭の皮膚は石畳によって激しく擦りおろされズルズルになってしまっていた。
これら全ての痛みは烈々たるもので、僕はしばらくの間、気を失うか失わないかの境界線上にいた。
いっそこのまま気を失ってしまいたいと願う自分に背中を押されて意識の崖から突き落とされそうになる寸前、「戦わんかい! 二度と逃げねぇと誓ったんだろーがぁ!」と熱く怒鳴りつけてくる劇画調の自分に意識の大地へと引き戻される。
「そうだ、そうだったよな、、、」
と小さくつぶやいた後、僕は激痛に顔を歪めながらもどうにかこうにか左手をついて上半身を起こし、次いで右手をついて立ち上がった。
ミリアムは僕から少し離れた場所で倒れていた。
動く気配はなく意識を失っているようだったが、生きているのは間違いない。
なぜそう断言できるかと言えば、僕には自分がミリアムを衝撃からしっかりと護ったという実感が残っていたからだ。
クズ蟲はというと、全身から怒りのオーラを放出しながら鎌首をもたげ、ターゲットであるミリアムへ再び襲いかかる体勢に入っていた。
──この時、とある閃きがあった。
「もしも、、、もしもクズ蟲が単にミリアムの髪や服装の毒々しい色に反応しているのだとしたら?」
僕は倒れているミリアムに近づき、自分が着ていた上着を脱いで小柄なミリアムの全身を覆い隠すように彼女の上に被せた。それから彼女のそばに落ちていた大きくて派手なオレンジ色のシルクハットを手に取った。
そうしてこちらを凝視している巨大な不快害虫をしっかりと見据え、
「おい、ムカデ野郎! 来るなら来やがれ!!」
と腹の底から声を出し、闘牛における赤いマントのように手に取った大きなオレンジのシルクハットを振ってそのバカデカい多足類を煽った。
クズ蟲は呪うような目で僕を凝視していた。
「来るっ!!」
クズ蟲が僕にターゲットを定めて走り出したのと同時に僕は先ほど目星をつけておいた建物と建物の隙間の安全圏を目指してスタートを切った。
加速、疾走しながら背後を振り返ると、クズ蟲が凄まじいスピードで僕を追いかけてくる姿が目に入る。
思惑通りミリアムから注意を逸らせることに成功したのは良かったが、怒り狂った巨大な節足動物が無数の脚を蠢かせて迫りくるその姿に心臓が止まりそうになる。
悪夢を含めても人生でこれほど恐ろしい光景を目にしたことはなかった。
だが、恐怖に怯えている暇なんてない。
僕にできることと言えば全力前進ただそれだけ。
クズ蟲のおぞましさは僕の潜在能力を十分に引き出してくれた。
過去三十年を含めてもこれほどのスピードで疾走できたことはなかったと断言できる。
にも関わらず、あれよあれよという間にクズ蟲に追いつかれてしまう。
すぐ背後にバケモノの息遣いを感じた直後、背中になにか尖ったものが当たる。
クズ蟲の前足の鉤爪が僕の背中を捉えたのだ。
爪が背中に食い込むのを感じる、、、だが、幸運にもそれは僕を捕獲するには至らず、カミソリのように僕の背中を斬り裂くだけに留まった。
クズ蟲の次の鉤爪が僕を引っ掛ける間際、本当にギリのギリで目指していた建物と建物の隙間へとすべり込むことに成功する。
「ドドーン!!」
亡者の如く僕を追ってきたクズ蟲はその巨体ゆえこの隙間に侵入することが出来ず、その体を壁に激突させることとなった。
ガラガラとレンガが崩れ落ちて砂煙が上がる。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、かのバケモノは物凄い執念でこの隙間へと頭部をねじ込んできた。そうして僕の目の前ほんの数センチのところでガチガチと鋭い牙と牙をぶつけた。
「はは、、、はははは」
あっぶねぇー、、、危機一髪すぎて笑ってしまう。
冷や汗を垂らしながらもイキリ狂うクズ蟲の頭に向かって、
「残念だけど、僕の勝ちだ。惜しかったねぇー」
語りかけてやった。すると、
「ガリガリガリ! バキッ! バキン!!」
この怒れるバケモノはその鋭いアゴと硬質な体で壁を破壊し始めた。
「そっ、そんなんアリ!?」
壁を破壊しながらグイグイ侵攻してくるクズ蟲からはなんとしてでもこの僕を喰いちぎってやるのだという明確な意思が伝わってくる。そっちがそのつもりならこっちだって執念で生き延びてやる!!
迫りくるクズ蟲と後ずさりして距離を保つ僕の攻防の結末は案外早く訪れた、、、僕の絶望という形で。
後ずさりする僕の背中が壁にぶち当たったのだ。
逃げ込んだ時には想定もしていなかったのだが、その空間は袋小路となっていたのだった。
退路を絶たれ、目前まで迫ったクズ蟲の顔が勝利を確信してニヤリと笑ったように見えたその時、
「バッシャアアアアアア!!!」
ソフトボール大の水の塊がクズ蟲の後頭部を直撃する。
ようやくありつけると思った食事(あるいは殺戮)の邪魔をされ忌々しそうに振り返るクズ蟲。
「ごきげんよう、クズ蟲さん。さっきはアナタのせいでひどい目に遭ったんですのよ? この責任、取っていただいてもよろしくて?」
そこに立っていたのは言葉遣いこそ丁寧だったが、空間が歪んで見えるほど怒り狂っているミリアムだった。
えーっと、、、一連の出来事をざっと思い返してみる。
・・・うん、公平に言ってミリアムの件に関してはクズ蟲は全く悪くない、悪いのはヒネクだ。
クズ蟲からしたら不当な言いがかりをつけられてる形だが、おかげでピンチを脱することができたんだから彼女を非難はするまい。
怒れるミリアムが手にしていたのはさきほどの水鉄砲だった。
「泣き虫毛虫くん、ウォーターガンはこうやって使うのよ!」
そう言ってまるで陸軍兵士のような手際の良さで水鉄砲のサイドレバーを引いて再び銃を構えるミリアム。
「プシュウウウゥ~」
という音と共に勢いよく蒸気が放出されて備え付けのゲージがぐんぐん上がっていく。
どうやら蒸気で水を圧縮することで威力を上げているようだ。
ゲージが一定値を超えるとミリアムは迷わず引き金を引いた。
「バシュッ!!」
再びクズ蟲の身体に水弾が勢いよく直撃する。
「ギギギギギ、、、」
おおー、クズ蟲がひるんでる!!
って、そんな機能があるなら言ってよ! 軟弱なおしっこみたいな放物線しか撃てなかった自分が恥ずかしいよ!
とはいえ、クズ蟲の装甲もなかなかのもので、今の攻撃ではダメージというほどのダメージを与えることはできなかったようだった。
「あらあら、お強いですこと、、、それじゃあ可哀想だけど最大出力で、、、」
彼女はもう一度、サイドレバーを引いた。
今度はゲージが最大値に達してからさらに数秒間 “溜め” を作った後、自信満々の笑顔で、
「さよならー」
と言って引き金を引いた。
「バッシュッウゥゥゥ!!!」
高圧縮された水弾がクズ蟲の眉間を撃ち抜く見事なヘッドショット!
クズ蟲の頭がぐらんと大きく揺れる。
・・・数秒後、クズ蟲は何事もなかったかのように体勢を立て直し、ギロリとミリアムをニラみつける。
与えたダメージは彼女が考えていたよりもずっとずっと少なかったようだった。
「・・・は? なんで?? 実験じゃ鉄の板も貫いたのに。私の発明が通用しないなんて、、、」
愕然とするミリアム。
ってか、それ、君の発明だったの!? すごくない?
しかしながら、計算通りに事が運ばなかった事実はこの小さな科学者を露骨に落ち込ませた。
がっくりと肩を落とし、瞳からはみるみる輝きが消えてゆく。
さっきまでの勢いが嘘のような落ち込みっぷりを見せるミリアムとは対照的に、クズ蟲は意気揚々と鎌首をもたげている。今や毒々しい配色の獲物についてもハッキリと思い出したようで、もう僕のことなどまるで眼中にないといった感じで隙間からズルズルと後退を始めていた。そうしてみるみるうちに僕との思い出の空間からあっさり這い出して、ミリアムをターゲットとして完全にロックオンしたのだった。
硬直して微動だにできないでいるミリアム。
今度こそ無事で済まないのは明らかだった。
これから目の前でひどいことが起こる。
血みどろの光景が映し出されたガラス板が割れて次々に僕の脳裏に突き刺さる。
足はすくみ、手汗はぐっしょり、心臓は縮み上がっていた。
こんな恐ろしいところからは今すぐに逃げ出したい。
・・・だが、ここで僕は誓いを思い出す。
===========================
今日から僕は人を助ける人間になります。
今日から僕は人に必要とされる人間になります。
誰かに迷惑をかける側ではなく、誰かの面倒をみる側になります。
自分の為ではなく誰かの為に生きます。
そして必ずや人に愛される〈人間〉になります!
===========================
「さぁ行こう、今とは違う場所へ、今とは違う景色へ。さぁ踏み出そう、新しい自分へ!」
僕は踏み出した。
頭から血を滴らせながら建物と建物の隙間から這い出した。
それから足元に落ちていた大きめの瓦礫を拾い上げてクズ蟲に向かって放り投げてやった。
瓦礫はクズ蟲の硬い装甲に弾かれ何のダメージも与えることが出来なかったが、クズ蟲の注意を引くには十分だった。
振り返ったクズ蟲に向かって僕は大声で叫んでやった。
「おい、デカムカデ野郎、よそ見してんじゃねーよ、おまえの相手はこっちだろーが! 一度決めたら最後まで一途に追いかけやがれ、僕はここにいるぞ!!!」
クズ蟲が再びヘイトを僕に向けてその巨体をこちらに向けるよりも早く、僕はさっき家の前で拾った鉄の杖をリュックから取り出した。
それから、黒いボタンを押して、警棒のようにシャキンと伸ばしてクズ蟲に向かってビシッと突き立てる。
「おまえはそんな棒っきれでこの俺様に勝てるとでも思っているのか?」
余裕の表情でそう言いたげなクズ蟲の眼前、僕は手元の黄色いボタンを押した。
「バチバチッ!!」
激しい放電に一瞬ビクッとするクズ蟲。
僕はその隙を見逃さなかった。
「なぁ、頭から水をかぶってビショビショに濡れたおまえにこのビリビリ棒で触ったら、一体どうなると思う?」
長い攻防の末、最後に笑ったのは僕だった。
「バチバチバチバチバチッ!!!」
閃光と共にクズ蟲の全身を電流が駆けめぐる。
我が物顔で街を荒らし子供達を襲ったその巨体は、大地を揺らし粉塵を上げながら石畳の上に沈んだのだった。
「やった、、、」
長い緊張状態から解き放たれた僕はゆっくり静かに息を吐き出した。
「ハァ、疲れた、、、」
ぐったりと放心虚脱している僕の元にミリアムが駆けつける。
「助けてくれてありがとう!」
と涙を流しながらミリアムが抱きついてくる、、、なんてことがあってもいいくらいだよね?
それくらい頑張ったよね、僕?
しかしながら、彼女は、
「なんでアンタが〈ユピテル・ロッド〉を持ってんのよ? それ私の発明品なんだけど? さっさと返してくんないかな?」
と言って、僕の手から強引に電流ビリビリ棒を奪い取った。
それから実に冷めた声と表情で、
「まったく、ウォーターガンも使えないとはねぇ、こんなに目立つところにレバーがついてんだから、普通引くでしょ」
と吐き捨てた。
一瞬でも太陽の女神かと思ったその人はどうやら冷めたスープの妖怪だったようだ。
「おまえさぁ、、、助けてもらっておいてそれはないだろう? そのユピテルなんとかいう棒だって僕が拾ってやらなかったら、今頃誰かに踏み潰されていたかもしれないんだぞ。少しは感謝してくれたっていいんじゃないのか?」
と諭すように言うと彼女は、
「あらあら、初対面のレディに向かっておまえ呼ばわりするなんて、お家柄に難がおありのようで、、、かわいそうですこと」
と言って僕の顔にピューっと水鉄砲の水をぶっかけやがった。
・・・命の恩人に対してひどくないですか?
全身びちゃびちゃになった僕に向かって追い打ちをかけるように彼女は、
「私の発明品で助かったんだから、アンタの方こそ感謝するべきじゃなくて? そもそも、アンタがバカ中学生に捕まったのが元凶なんだし、、、ってか、あんなザコ3人に捕まってメソメソ泣いちゃうとか男として恥ずかしくないのかな?」
と冷たい刃で僕のプライドをザクザクと斬りつけてくる。
「メソメソ泣いてなんかないし! 鼻とか殴られて意思とは関係なく涙が流れただけだし!」
と涙目・顔真っ赤の僕。
助けてやったのに、、、釈然としないっ。
言い返してやる、言い返してやるぞ!
「おまえ、口悪すぎるよ。お家柄に難があるのはそっちじゃないのか? アハハ、笑っちゃうよ。そんなんでよく “レディ” とか言ってるよな。だいたい、なーにが〈ユピテル・ロッド〉だよ、かっこつけやがって。こんなもんただの電流ビリビリ棒じゃないかよ!」
言ってやった、言ってやったぞ!
さぁ、どうする? 泣くか? 泣いちゃうのか?
泣いたら毛虫って言ってやるんだからな。
だが彼女は泣かなかった。言い返しもしなかった。
その代わりに黙って電流ビリビリ棒を僕に押し当てて無表情にスイッチを押したのだった。
「ビビビビビビビビ!!!」
「うわぁあ!!!!」
びちゃびちゃの僕の全身を網状に鋭い痛みが駆けめぐる。
そのショックで僕はクズ蟲のすぐ横にへたり込んで、うぞうぞと悶えるハメになってしまった。
行動不能状態の僕を見下してミリアムが呟く。
「毛虫みたい」
数分後、警官隊が乗った蒸気装甲車に同乗してミルが戻ってきた時もまだ僕はクズ蟲の横に倒れ込んでいた。
装甲車から降りたミルがそんな僕を見つけて叫びながら走り寄ってくる。そして、
「うわぁぁぁああ!! グレゴールが、グレゴールが死んじゃったぁああ!!!」
と僕を抱きかかえて噴水のような涙を流し始める。
いやいや、そんな簡単に殺さないでくれ、とばかりその手をグッと掴むと今度はギョッとした顔で、
「生きてる! グレゴールが生きてる!!」
と叫んで嬉し涙を流し始めたのだった。
心配してくれるのは嬉しいんけど、極端過ぎるってば。
ミリアムはというと、渋いアゴ髭を生やした警官隊長らしき人物に向かってハッキリと、
「ええ、私の発明でこの街を守らせていただきました。市民として当然の義務を果たしたまでですわ」
とかなんとかレディぶって手柄を独り占めしていた。
抗議しようかとも思ったが、もうなんかどうでもよくなってきてあきらめた。
警官隊は到着するなりまだ動けないでいるクズ蟲にぶっとい注射器で強力な鎮静剤を注射し始めた。
これを打たれると三日三晩全身が麻痺して動けなくなるとのこと。
これで安心、こんなのにまた暴れられたら今度こそ街の誰かが死んじゃってもおかしくないからね。
だが、ミルは何とも言えない憐れみの表情でそんなクズ蟲を見つめていた。
こんな醜い蟲にまで情をかけるとは、、、日本にいたらきっと偉いお坊さんになっていたに違いない。
そんなミルを眺めながらも僕は自分が何か非常に重要なことを忘れているような気がしていた。
なんだっけな、、、なんかやらなくちゃいけなかったことがあったような、、、
そして、ふいにそれがなんだったのかを思い出して叫んだ。
「遅刻しちゃう!!」
ヒネク一味とのいざこざ、クズ蟲との死闘、そしてミリアムからのビリビリ攻撃、、、朝から色々ありすぎて忘れていたが、本日の最重要ミッションは[遅刻せずに学校に行く]なのだ。
こんなシンプルなミッションがこなせないでどうする!
僕の叫び声を聞いてミルもそのことを思い出したようで、僕と顔を見合わせるなり、
「急がなきゃ!!」
と走り始めた。
頭からは血が流れてるし、腕も背中も擦りおろされてズルズルになってるし、電流ビリビリショックからもまだ完全に回復していなかったが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
僕は最後の気力を振り絞ってミルの後に続いたのだった。