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第一話 脱3Mライフ

『ある朝、グレゴール・ザムザが奇妙な夢から目を覚ますと

自分がベッドの上で一匹の大きな毒虫に変身しているのを発見した』


これはあの有名な古典小説『変身』の最初の一文だ。

この本を読んだ誰もが思うだろう。


この主人公にだけはなりたくないと・・・


===========================


昨日、両親が死んだ。

事件性はなかったが、引きこもり生活十五年の僕にとっては大事件だった。


犯人は食用きのこと見分けるのが極めて難しいことから「メイジンナカセ」と名付けられた毒きのこだった。


子供の頃、毒きのこの見分け方について大人たちが話すのを聞いて震え上がったことがある。

「縦に裂けるモノは基本的には食べられるが、縦に裂ける毒きのこもある」

「地味な色のモノは基本的には食べられるが、地味な色の毒きのこもある」

「虫に食われているモノは基本的には食べられるが、虫に食われている毒きのこもある」

・・・っていや、見分けんの無理じゃん!!!


幼き日の僕がそのことについて一晩じゅう悩み抜いてたどりついた結論は「一生きのこを食べない」というものだった。

以来、えのきが入っている鍋も、マッシュルームが入っているホワイトシチューも、しいたけ出汁が入っているかもしれない蕎麦すらも口にしないまま今に至る。悪気のない大人のちょっとした会話が一生引きずるようなトラウマになることだってあるのだ。


そんな僕に対して「きのこが食べられないなんてもったいない人生だな」といったマウントを幾度となく取り続けてきたのが父さんだった。僕は棺桶に横たわる父さんを見下ろしてつぶやいた。

「きのこを食べて死んじゃうなんてもったいない人生だね」

だが、そんなことを言ったところで少しも気は晴れず、それどころか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

僕は首をがっくりとうなだれて棺の中の両親に謝った。

「親孝行できなくてごめん、、、」

一度そう口にしてしまうと、涙が溢れてきた。

あふれてきたのは涙だけではなかった。

「うわぁあああああああああああああ!!」

とめどなくあふれ出る想い、そして後悔の念。

僕は膝を付いて心の底から我が人生を悔いた。

三十歳になるまで引きこもってしまった。

両親に迷惑ばかりかけてしまった。

心配ばかりさせてしまった。

何より僕は両親が一番大切にしていたモノをダメにしてしまった──それは僕自身の人生だった。


親友の一人も作れなかった。

愛する人の一人も作れなかった。

誰の役にも立てず、誰からも必要とされない人生を歩んでしまった。

こんな歳になるまでありとあらゆる物事から逃げ続けてしまった。

なんという無駄で無意味で虚しい人生、、、


両親の死によってようやく焦点が合った現実の輪郭は正視に耐えないほどひどいものだった。

わずかな年金で僕を養ってくれていた両親、、、もう我が家には金が無い。

ありとあらゆる人間関係を放棄し続けた十五年間、、、人脈と呼べるものがまるで無い。

そして当然のことながら、そんな僕には将来の展望など微塵たりともなかったのである。


両親の葬式までの三日三晩、心の中の森の奥、その最奥にある疫病まみれの深い沼の底で僕はのたうち回り続けた。

だが、どれだけ必死でうめき声を上げようが、それがどこかに届くことはなかった。

重厚な闇が僕を閉じ込める。

後悔、後悔、後悔、、、、、、、、、


どん底でもがき、神経がむき出しになった魂に追い込みをかけるかのように窓の外では嫌な雨が降り続いていた。

打ちのめされ、打ちひしがれ、生ける屍となりながらもどうにかこうにか両親の葬式を終える。


火葬場からの帰り道、どこをどう歩いたのかも覚えていないが、ふと気がつくと僕は歩道橋の上で呆然と立ちつくしている自分自身を発見した。

あれだけ降り続いていた雨はいつの間にか上がっており、見上げた空には大きな虹がかかっていた。

見渡す限り欠けるところのないクッキリとした綺麗な半円、、、それほどまでに完璧な虹を見たのは生まれて初めてのことだった。


その時その場所で唐突に一つの揺るぎない事実が僕の肩を叩いてこう言う。

『あのさ、おまえまだ生きてるよ?』

雨上がりの匂いと共に湿気を帯びた空気をゆっくりと肺いっぱいに吸い込みながらその言葉の意味を考える。

『なぁ聞いてんの? おまえまだ生きてるよ?』

・・・そうだ、僕はまだ生きている。

死者は絶望することすら出来ないが僕はまだ生きている。

この先、死ぬ気で生きればこんな僕にだってささやかな幸せくらい掴むことが出来る筈、、、


あたりまえ過ぎて見失っていたその事実に気づいた時、僕は自分の魂が沼の底から浮かび上がるのを感じた。うちのめされうちひしがれ瀕死状態となっていた魂が水面の上へと顔を出し、ようやく息が出来るようになったのを感じたのだ。


僕はまだ生きている。そして生きている者にのみ与えられた多くの特権を保持している。

生者の特権──それは食べること、眠ること、未来を描くこと、そしてそこに向かって歩くこと!


これまでの僕は地中生活を耐え続けた幼虫だった。

だが、ついに機は熟した。

今こそ新しい世界へと踏み出すその時だ。

地上へ這い出て一生懸命木に登り、自分の殻を破って生まれ変わるんだ。

背中から羽根を生やしてあの大空へと羽ばたいてやる。

世界よ、この僕に要注目だ!

冴えない三十男が輝かしい未来を掴む感動の物語を見せてやる!!


雨上がりの歩道橋の上、僕は両手を虹に掲げて誓った。



三十年もの間、


無駄(Muda)で

無意味(Muimi)で

虚しい(Munashii)人生


『3Mライフ』を送ってしまったけど──


今日から僕は、

人の役に立つことで人から必要とされる人間になります。

誰かに守られる側ではなく誰かを守る側になります。

そしていつか必ず人から愛される人間になります!!

この世界の役に立つことでこの世界から必要とされる人間になるんです。

父さん、ママ、しっかり見ていてね。

この僕が見事〈変身〉するその様を!!!


変身するぞ、変身するぞ、変身するぞ、変身するぞ、変身するぞっ!

変身するぞ、変身するぞ、変身するぞ、変身するぞ、変身するぞっ!


そう強く誓い、僕は歩道橋の上から意気揚々と地上現実世界への階段を降り始めた。

その最上段に張り付いていた雨に濡れたポテチの空袋にも気付かずに、、、


つるりんっ!


足をすべらせ、顔面や側頭部や後頭部なんかを激しく階段に打ち付けながら地上まで転がり落ちた僕の脳裏に浮かんでいたのは走馬灯なんかじゃなかった。

落下のスローモーションの中、僕が見ていた光景は、ある晴れた夏の日、長い長い地中生活からやっと地上に這い出て意気揚々と大空を見上げたその刹那、舞い降りてきた鳥のくちばしに攫われ、ブチュっと噛み潰されて絶命する哀れな幼虫の姿だった。そうか、アレが僕か。なんて冴えない生命、、、


===========================


階段から激しく転がり落ちた僕がなにやら奇妙な夢から目を覚ますと自分がベッドの上で一人の小さな金髪美少年に変身しているのを発見した──


目が覚めてまずは体のどこにも痛みがないことを不思議に思う。

「あれだけ激しく転がり落ちて無傷?」

それどころかここ数十年感じたことがないほどの爽快な目覚めだった。

「あれれ、腰も肩も首も痛くないぞ?」

次に見覚えのないアンティーク調の部屋に戸惑う。

「ここどこ? 病院じゃないよね、、、」

それから布団を払いのけようとして自分の手がすごく小さくなっていることに気づいてギョッとする。

「待って待って何これ、、、」

動揺しながらベッドから這い出した僕はテーブルの上の鏡を覗き込んで声を上げた。

「は!? 誰これ???」


鏡の中に映っていたのは見たことのない金髪美少年だった。

厳密に言うと白髪に近いプラチナブロンドで、光の具合によっては薄いグリーンのメッシュが入っているような輝き方をする。思わず頭に触れると細くて繊細な髪がサラサラと指先にまとわりついてきて、間違いなくそれが自分のモノだという感触があった。

瞳の色も薄いグリーン、透き通るようなその美しさはまるで宝石のようで、我が瞳ながらしばし見入ってしまう。

年の頃は小学校高学年くらいか。

両の手で我が顔に触れると、鏡の中の少年も同じポーズで自分の顔を触っていた。

「変身、、、してる、、、」

確かに雨上がりの歩道橋の上で「変身するぞ」とは誓ったけど、あれは比喩的な意味であって、こんなまったくの別人に〈変身〉するって意味じゃなかったんだけどなぁ、、、


コレって輪廻転生したってこと?

いやでも、アレって赤ちゃんからスタートするものなんじゃないの?

なんでいきなりこんな中途半端に成長しとるんだ!?

パニクってる僕の耳になにやら聞き慣れぬ音が飛び込んでくる。

「プシュウ~、シュッシュッ、シュッシュッ、カチャン、シュッシュッ、シュッシュッ、、、」

音の正体を突き止めるべく窓の外へと視線を移した僕は大きく目を見開くことになった。


三階窓の外に広がっていたのは中世を思わせる西欧風の美しい街並みだった。

「プシュウ~」という音を発していたのは機関車と馬車を足したような乗り物で、アンティーク調のゴンドラ部分を馬ではなく小型の蒸気機関が引いている。そんな奇妙な乗り物が石畳の路上を行き来していたのだ。

僕をさらに驚愕させたのは、クジラのような形をした巨大な鉄の船が大空を悠々と横切っている姿だった。

あれって・・・飛行船??

あんなの見たことないんだけど。

ここ一体どこの国? 

ってか、いつの時代??


街中を見渡してみても見慣れた近代的な乗り物はどこにも走っていない。車もバイクも自転車さえも。

乗り物だけではない、行き交う人々は皆一様にゴシック調の服を身にまとっており、誰一人としてスマホのながら歩きをしている者などいない、、、つまり眼下に広がる光景のどこを見渡しても2020年代を思わせるモノは何一つ見当たらなかったのである。


うーむ、、、19世紀末あたりのヨーロッパの風景に見えるんだけど、、、輪廻転生って未来から過去へ行くパターンもある?? 


──そういえば子供の頃、そんなことを考えたことがある。

一つの魂は現在・過去・未来を問わず、地球上の全ての生命体を順に巡るのかもしれないって。

人に嫌なことをしたら全部自分に返ってくるっていうけど、それってつまり、例えば誰かに拷問したとすると、いつかその拷問された側の人間にも転生しちゃうよってことなんじゃないかっていう説。

そうやって全ての魂が全ての生命体を時間軸ランダムで順に巡っていくのだとしたら、それはそれで面白いよね?


自分を育てた親にも転生するし、自分が好きになった人にも転生する。自分が殺虫剤をかけた害虫にも転生するし、その害虫がかじった果実にも転生する。「人を騙してでも楽に金儲けがしてぇ」と貧乏ゆすりをしながら朝からパチンコ屋に並ぶパサついた汚い金髪の小太り男にも転生するし、コンビニで振り込め詐欺を阻止する清廉な女学生にも転生する。それどころか、マリー・アントワネットにも切り裂きジャックにもイエス・キリストにもユダにも転生する。そうして全ての魂は全ての生命を永遠に巡り続ける、、、この世界がそんな風に出来ていたらって、、、そんなことを考えたのはきっと僕だけじゃない筈。


いや、でもその場合、やっぱり新章の始まりは赤ちゃんとして生まれるところからだと思うんだよなぁ。


・・・いや、待てよ?


ひょっとしてこれって輪廻転生じゃなくて異世界転生だったりする!?

冴えない中年男がファンタジー世界へ転生してチート能力で活躍しちゃう例のアレ!

アレだと確か赤ちゃんスタートでない場合もけっこうあるよね??

そうだ、そうに違いない!

おそらく多分きっといや絶対、僕は異世界転生したんだ!!


きっとこの中世ヨーロッパ調の世界には魔法や伝説の剣やドラゴンやなんかが存在しているに違いない。

そんで僕はそんな世界を恐怖のどん底に陥れている〈魔王〉を倒す〈勇者〉に転生したんじゃない??

人類の唯一の希望の光、そんな存在に転生しちゃったんじゃないの!?

それって、、、最高じゃん!!


これから始まる大冒険を想い心地よい武者震いが全身を走ったその時──

「コンコンコンッ」

ノックの音と共に扉の向こうから女の子の声が聞こえた。

「ねぇ、グレゴール兄ちゃん、早く降りてこないとごはん冷めちゃうよ?」


・・・グレゴール兄ちゃん?

それってもしや僕のこと?


「ガチャッ!」

次の瞬間、唐突に開いた扉の向こうから顔を出したのは、それはもう天使としか喩えようのないような愛くるしい少女だった。

年の頃は小学校三、四年生くらい。僕と同じプラチナブロンドの髪ときめ細やかな白い肌、魔をはじき飛ばすほどの無垢で愛らしい表情、そんな全てが朝の清潔な光に包まれて聖なる光を放っている。

背中に大きな白い羽根が生えていないことに違和感を感じるほどの天使感、、、これが妹だって??

思わずひざまずいて祈りを捧げてしまいそうなホーリー感、、、

だがひるんでいる場合ではない。

君が僕の妹だとするのなら聞きたいことが──


「あのさ、ちょっとキミに聞きたいんだけど、この世界に魔法ってある!? あるよね!! 魔法ッ!!!」

僕のその言葉を聞いた妹らしきその生物は不審そうな顔でしばし僕をニラみつけた。

それから、クルリと背を向け、腰まで伸びたキラキラと輝く髪を振り乱して階段を駆け降りていった。

「ねぇキミ、ちょっと!」

数秒後、階下から、

「ママー、お兄ちゃんがなんか変!!」

という声が響いてくる。


そこで僕はある一つの事実に気づいてしまう。

そうか、僕がこのグレゴールという少年の中に入ったことで、元々グレゴール少年の中に入っていた魂はどこかに消えてしまったのだ。

どこに行ってしまったのかは僕には想像もつかない。

だが、一つ言えることは、もしも自分の息子や自分の兄の中身が得体の知れない無職の三十男と入れ替わってるなんていう事実を突きつけられたら、ご家族はさぞかし動揺するだろう。そして、突然起こった理不尽な事態を前に深く嘆き悲しむことになるだろう。


それだったら、グレゴールくんの魂がこの身体に戻ってくるまでの間(戻ってくるかどうかはわからないけど)、僕がグレゴールくんを演じ続けてあげるべきなんじゃないだろうか?

うん、それが差し当たって僕にできる最善の行動のように思える。

今後、ご家族の前ではなるべく怪しまれるような発言は慎むとしよう。

発言、、、あれ? そういえば、聞いたことがない言語なのに言葉が理解できて、しかも話せてる。

なんか不思議な感覚だなぁ、、、そんなことを考えながら、僕はパジャマを脱いで椅子の上に綺麗に畳んで置いてあった服に着替え、しっかりと三度深呼吸をしてから階段を降りていった。


三階から二階へと足を踏み入れると、そこは品の良いダイニングルームだった。

白いレースのカーテンからは朝の気持ちの良い光が差し込んでいて、食卓には湯気の立ったティーポットといくつかの料理が並んでいた。


テーブルに着いて新聞を広げている男がどうやら父親のようだ。

こざっぱりと短めに刈り込んだ茶色の髪にパリッとしたスーツ姿でティーカップを傾けている。

「おはよう、グレゴール」

一瞬、僕をチラッと見てそう言うと彼は再び新聞の続きを読み始めた。

三十代半ばといった感じだ、、、ふふん、なんだ、僕とさほど変わらないじゃないか。

なのにこの落ち着きっぷり、、、こっちはまるで地に足が着いてなかったというのに。

「お、おはよう」

初めて出会う父親を目の前にして内心動揺しながらも、なんとか自然体を装って自分の席らしきところに座る。


続いて僕の前に現れたのはゆるふわキャラメルブロンド髪のやたらスタイルが良い女性だった。

なんだかもう朝から色気が半端ないんだけど、もしかして、コレが僕のお姉ちゃん?

「グレゴール、もぉー何してたの? いつもは一番に起きてくるくせにぃー。ママのこと嫌いになっちゃったぁ?」

え? 待って、この人、母親なの? 

「まさか、アナタ、好きな子でもできちゃったんじゃないでしょうね?」

そう言って色っぽい瞳で僕を覗き込んでくる。

甘ったるぃぃぃいい良い!!

なんかもぉ~、ぐるぐる回って溶けてバターになっちゃいそうだ。

物凄く若くは見えるが、僕の年齢が12歳だとするとこの人もきっと父親と同じく三十代なのだろう。

これが異世界モノってヤツか、、、設定の都合が良すぎて笑える。

だがその恩恵、甘んじて受けようぞ!


「さぁ、早く食べちゃいなさーい。新学期から遅刻しちゃうわけにはいかないでしょ?」

そう言って彼女が僕の前に出したのはビーフシチューの中にもっちりとした輪切りのパンらしきモノが浸かっている食べ物だった。名前もわからない食べ物ではあるが、それが間違いなくおいしい物であるということは瞬時にわかった。

色ツヤも素晴らしいが、なんと言っても匂いがたまらない。

促されるまでもなくパクリとかじりつくと、これが想像していたよりも遥かに美味で息を呑む。

後に知ることになるのだが、これはグラーシュという牛肉のシチューで、添えられていたパンは “茹でパン” なのだそうだ。このグラーシュなるものともっちりとした食感のこの茹でパンの相性ときたら抜群で、蕎麦と天ぷらや明太子とスパゲッティやイチゴと大福以上のカップルと言っても過言ではないほど。

異世界ってば、朝からこんなうまいもの食べれんの?


「こら、グレーテ、いつまでお兄ちゃんのことニラんでんの!」

ゆるふわ母親が少し声のトーンを上げて言う。

ほぉー、この天使系妹は “グレーテ” っていうのか。

ん? なーんかどっかで聞いたような名前、、、アニメかなんかのキャラクターだっけ?

「だってお兄ちゃんってばすっごく変なんだもん! この世界に魔法はあるかーとか聞いてくるんだよぉ?」

そう言って彼女が作ったふくれっ面たるや地上全ての男を腰砕けにするほどの破壊力、、、きっとおまえは生涯に渡って男を振り回し続けるんだろーな。

そんな彼女の声を聞いた父が新聞から顔を離してこちらを見る。

「アッハッハ、これはけっさくだ。鉄の船が蒸気で空を飛ぶこの大産業革命時代に魔法とはねぇ。グレゴール、おまえ空想小説家にでもなったらどうだ?」

えっ、あの飛行艇、蒸気で飛んでたの!?

蒸気科学ってそれもうじゅーぶん空想科学小説だよ、、、父さん。


テキパキと台所仕事をしながら一連の話を聞いていた母親がこちらを向いて、

「優しいグレゴールは夢で見た面白い世界の話をアナタにしてくれたのよ、グレーテ」

とフォローしてくれる。

納得出来ないご様子のグレーテは、

「だって私のこと “キミ” とか言ってくるんだよ? 絶対ヘン!」

と食い下がる。鋭い、君が正しい。

「ハイハイ、そこの “キミ” 、、、それ以上、お兄ちゃんのこと悪く言わない」

と再び僕をかばってくれる母親。

ふっはっはっは、この人はいつだって僕の味方みたいだ、嬉しいなぁ。

「ママまで “キミ” とか言ってくるのヤメてよぉー!!」

「でもね、グレーテ、そんな風にニラまれたお兄ちゃんはもっと嫌な気持ちになってると思うわよ?」

そう言われたこの心優しき生物は、自分のせいで兄に嫌な思いをさせてしまっているかもしれないという可能性についてしばし考えを巡らせた後、実にしおらしい顔で、

「・・・グレゴール兄ちゃん、ごめんなさーい」

と素直に謝った。

ぐぅ、かわいい。今すぐ世界中のお菓子を買ってあげたいくらいだ。

妹がいるっていいもんだなぁ、、、前世(?)では一人っ子だったんだよなー。

思えばこうして家族で食卓を囲むなんていつぶりだろ?

ごはんってのは自室で一人で食すものだって思い込んでたけど、誰かと一緒に食べるごはんって、ううっ、こんなにも楽しいものなのか、、、

なにやら胸がジーンと熱いです、なんだか涙があふれてきそうです。

って、いかんいかん、朝の食卓でいきなり泣き出すとか不自然すぎる、ここはなんとか我慢しなければ。


こんな時、僕はいつも漫☆画太郎先生の描くババアを思い出すようにしている。

微笑みながら激怒しているババア、楽しそうに斧を振りかざすババア、裸で暴れ狂うババア。

彼女たちはどんな感動も一瞬で吹き飛ばしてくれるのだ。

今回だって────はぁー、耐えたぁー。涙蒸発したぁー。

画太郎先生ありがとうございます! 

貴方には何度助けられたことか。


僕がほっと胸を撫で下ろしたちょうどその時、唐突にグレーテが叫びだす。

「いやぁあああああああああああ!!!」

一瞬、画太郎発狂ババアの影響で自分が気持ち悪い顔で微笑んでしまっているのかとも思ったが、どうやらそうではないようだった。

グレーテが恐怖に歪んだ顔で指差していたのは窓の外。

ああ、なんて良い天気、、、フフフッ、いやいやこぉーんな平和で気持ちの良い朝にそぉーんな大声上げるほどのモノがあるわけ、、、

「は!!?」

僕はガタンと席を立ち、その場で何度も目をこすった。

「なんだ、、、アレ、、、」

窓の外に見えたもの、それは黒い鉄の檻に入れられた体長2メートルほどもあろうかという巨大な〈蟲〉だった。

かなり大きな雄々しい二匹の黒い馬が頑丈そうな鉄の檻をゆっくりと引いているのだが、、、馬より〈蟲〉の方がデカい。

さらにはその〈蟲〉の頭部では真っ赤な目がこの世を呪うかのように不気味な光を放っている。

全体の形状を表現するなら、ムカデを太短くしたような、三葉虫を細長くしたような、、、確かボルネオだかパラオだかの島にああいった形状の昆虫がいたような、、、

サンヨウベニボタルとかいったかな?

サンヨウウミホタルだっけ? 

スマホさえあればすぐに調べられるんだが、、、

いや、そんなことよりアレ、マジでなんなの?

もしかしてモンスターってヤツ??

そういえばドラクエにああいった感じのモンスターがいたような、、、

よろいムカデとかいったかな?

かぶとムカデだっけ?

スマホさえあればすぐに調べられるんだが、、、


「なんだ、グレゴールまで何を騒いでる?」

子供達の反応を見て一瞬父親が新聞から目を離して外を見たが、すぐにまた新聞に視線を戻す。

「何をってホラ、アレ!!!」

僕はサンヨウよろいムカデを指差して叫んだ。

すると父親は呆れたような顔で、

「ただのクズ蟲じゃないか。別に騒ぎ立てるほどのもんじゃないだろう?」

クズ蟲? アレ、クズ蟲っていうの?

青ざめて怯えるグレーテを見かねた母親がやってきて優しく抱きしめる。

「あらあら、グレーテはまだあんなのが怖いの? 何度も言うけどクズ蟲が人を襲うなんてことはまずないのよ。見た目は確かにまぁ、ちょおーっとアレだけどねー」

「そうだぞ、グレーテ。いつまでも子供じゃないんだからクズ蟲ごときでいちいち騒ぐのはやめなさい」

「だって、だって、怖いんだもんっ!」

いや、、、怖いよ。むしろ怖がらない両親が異常に思える。

ってかアレ、この世界じゃ日常的な光景なの?

「あ、、、の、、、」

「ん?」

思わず声を発した僕を両親が同時に見る。

アレは一体ナニ?? そう尋ねそうになって踏みとどまる。

あのクズ蟲とかいう生物はきっとこの世界の住人なら誰でも知っていて当然の存在なのだろう。

もしも令和の日本でニンテンドーSwitchを指差して、

「アレは一体ナニ??」

とか尋ねる者がいたらどうだろうか。

面白くない冗談を言っていると思われるか、どこかで頭でも打ったのかと心配されるだろう。

そんなわけで僕は質問をグッと飲み込んでこう言った。

「まだ学校とか行かなくていいのかな?」

すると母親が、

「あらっ、もうこんな時間! アンタたち、遅刻しちゃうわよ!」

と言いながら慌ただしく僕達一人一人の前に一つずつ布の袋を置いた。

「ハイ、お弁当」

この人、食卓にも着かずずっと動き続けてるなぁって思っていたら、お弁当作ってくれてたのか!

目の前に置かれた布の袋をありがたそうに手に取った父親は、

「今日もコイツを楽しみに頑張りますか」

と新聞をたたんで席を立つ。

だがグレーテは、

「アレの横通りたくなぁーいぃぃ!!」

と悲痛な声を張り上げて泣き始めた。

それを見た母親が、

「グレーテ、泣いてる場合じゃないでしょ。新学期から遅刻なんかしたら退学になっちゃうわよ!」

とヒステリックな声で叱りつける。

え? 新学期から遅刻って退学なの!?

だが、グレーテは、

「行きたくない、行きたくないよぉ~」

と机を掴んで、世界の終わりを告げられたかのような悲痛な声でむせび泣き始めた。


朝から修羅場じゃん、、、なんか大変だなぁ。

人がこんなに泣いてるのを見たのはいつぶりだろう。

はぁー、自分の部屋に帰りたい、、、僕しかいなかったあの部屋に。

──だが、彼女の涙を見ているうち、ふいに僕は前世の誓いを思い出した。


そうだ、今度こそ僕は生まれ変わるんだ。

姿カタチだけじゃない。

誰かに迷惑をかける側ではなく、誰かの面倒をみる側に。

守られる側でなく守る側にならなくちゃ。

もう二度と逃げないとここに誓おう。

今度こそ、人から必要とされる人間になろう。

大切な人たちが笑顔で暮らせるように。

そのためならどんな困難だって乗り越えてみせる。


僕は嗚咽する妹の手を握ってこう言った。

「大丈夫、グレーテ、大丈夫だよ、僕がついてるから。そんなに嫌なら遠回りしていこう。あんなの見たくないよな。もう少し大きくなったら自然と怖くなくなるよ。それまで僕が守ってやるから心配しないで」

するとグレーテはひととき泣くのをやめて、

「ホント?」

と上目遣いに尋ねてくる。

「本当だよ、おまえは何も心配しなくていい。ほら、僕についておいで」

そう言って僕が彼女の頭を撫でると、グレーテは突然笑顔になり、

「お兄ちゃん大好き!」

と言って抱きついてきた。

「お姫様、貴女を守るためならどんな危険も恐れはしません! さぁ、行きましょうぞ!」

新しい両親を見ると少し安心した表情になっていた。


ちょっとした行動一つで周りの人たちを嬉しい気持ちにも悲しい気持ちにもさせることが出来る。

こんなのあたりまえのことだ。

だが、そんなあたりまえのことをずっと忘れていた気がする。

前世の僕は誰の役にも立てなかった。

前世の僕は誰のことも幸せに出来なかった。

だけど今度こそ、、、


父さん、ママ、僕はもう逃げません。

必ず生まれ変わります。

僕が立派に〈変身〉するその様をちゃんと見ていてください!!



──グレゴールが蟲になるまであと6年と4ヶ月──

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