第一話 「大きな後悔を背負って」
気付けばそこにいた。
何か大きな後悔を背負って。
何も覚えていない。自分が何者であったか、どうやって生きてきたのか、自分の名前はなんだったか。何も覚えてはいない。
だけど、何か止めようとして、失敗して、そして何か眩しいものに巻き込まれた。そして僕は何か大きな後悔をした。それだけは覚えている。逆にそれだけしか分からない。
そんな僕だけれど、一つだけ言えることがある。
「おんぎゃぁああああ!」
「##############......」
白髪混じりの金髪の男が近づいてくる。幾らかの皺が刻み込まれているその顔はいつにも増してシワクチャだ。何を言っているのかは分からないけれど、ため息混じりのその言葉は明らかに呆れた感情を含んでいる。そしてお尻あたりに感じられる蒸れとネッチョリとした感触。導き出される答えはあれしかない。
「#############################」
男はすごい嫌そうな顔をしつつ、汚物を持つ時のあの二本指を駆使して、僕から何かによって黄色く染色されたオムツを取り上げた。茶色ではない。茶色ではないのだけれど......
___なんて生き地獄だ、と言いたい。
言えないけど。言えないんだけどさ!
そんな感じで葛藤している僕の隣で、その男の人は僕から生産されたそれとオムツを摘んで窓際まで行き、チラチラと雪が見える森の方に恐ろしい勢いでそれを放り投げた。そして冷気の侵入してくる窓をピシャリと閉めて、一刻を争う事態に巻き込まれた兵士が物陰に隠れるみたいに素早く近くの桶に手を突っ込んだ。ピチャという音がして、次にその手が桶から出てきた時には手は真っ赤になっていた。
きっと季節は冬、なんだろう。僕の知識がそう告げている。僕は何も覚えてはいないようだけれど、常識的な知識は覚えている。
そして、そんな僕の常識的な知識はこう告げている。
僕はおかしな状況に置かれていると。
試しに手を寝そべっている僕の顔の正面に持ってくる。重い、とにかく重い。だけど頑張ってやってみた。苦戦の果てに上げられたその手はぷにぷにとした丸いフォルムで、短い指が五本ついていた。それは赤ん坊の手。正真正銘僕の手だ。
___僕は赤ん坊なのだ。
ひたすらに重くて持ち上がらない頭。うまく言葉が出せない口。体を起き上がらせることのできない貧弱な腹筋。すぐに眠りの世界に誘われてしまうこの体。口に出すのに抵抗のある事象を引き起こす下半身。全ての要素が一つの結論に結びつく。
だけど、僕の常識的な知識はこうも告げている。
赤ん坊は僕みたいに高度な思考はしないし、複雑な感情である後悔というものを生まれつき背負ってくる事もない。それは大人というものがすることである。
つまり、僕は赤ん坊で大人というおかしな状況に置かれている。
「アウアウアッア......」
___一体どういうことなんだ......
僕の広げた手はもう疲れたよ、というふうに力無くバタンと落ちた。
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幾許かの雪の日と晴れの日が過ぎていった。
正確な月日の経過はわからない。この体は随分と睡眠を欲しているらしく、起きている時間というのがまるで本を飛ばし飛ばし読んでいるみたいに過ぎていくからである。こうも細切れの時を過ごしていると、自分が実は過去に向かって進んでいるのではないかと思ってしまう。いつも起きてみれば大きな木製の檻の中で、変化するのは窓の外の景色くらいだし。
そんな環境に置かれた僕は哲学めいたこと、例えば何故僕はここにいるのだとかそういったことを考え始めた。おかげで随分と自分自身について整理がついた、と思う。まあ最近は流石に考えることもなくなってきたので、自分の身の回りの人や物を観察することにしている。
例えば今僕の頬を執拗に突いているこの金髪のおじさん。幾つかの皺が顔に刻まれていて、ところどころシワではない傷痕も見えたりする。見た目は初老の男と言ったところなのだけれど、それにしては随分と活気に溢れている人だ。昔は戦場にでもいたのだろうか?
「################################」
相変わらず喋っている言葉は分からない。どこかで聞いた言語のような気もするし、そうでないような気もする。ただ、繰り返しランゲルと呼ばれるから、それが自分の名前じゃないかとは予測がつく。他にも、そのおじさんは僕の頬を突く回数と同じくらい、自分の顔を指してガウルと呼んでいるから彼の名前はガウルなんだと思う。
「あうう、あうう、あんえう、あんえう」
「#########!」
試しにそれらの言葉を口に出してみたけれど、うまく発音することができない。けれど、ガウルさんには伝わったらしく、一瞬驚いた表情を見せた後にとても素敵な笑顔を見せてくれた。直後に喋った言葉にも驚きのニュアンスが含まれていたように思う。
「あうう、あんえう」
せっかくなのでもう一度口にしてみる。今度もやはりガウルさんは笑ってくれた。まだ複雑な発音はできないけれど、これから少しずつ学んでいこうと思った。
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細切れだった時間はいつしか随分と長くなり、森の木々は様々な色に変わっては元の緑色に戻った。3回目の冬が過ぎ去りチラチラと窓から見えていた雪がなくなった頃、陽は段々と高くなり木々は青々と葉をつけ始めた。新緑の季節の到来だ。
この頃になると僕は普通に歩けるようになった。言葉も拙いながら喋れるし、それなりに聞き取れるようにもなった。僕の知識は知らない言語を学習するのにはそれなりに時間がかかると告げていたけれど、案外なんとかなるもんである。
もしかしたら自分は天才なのかもしれない。ふっふっふ......
まあでも過ぎた自信は身を滅ぼすと強く心に刻まれていたから、その考えをぐっと心に押し込めた。そもそも周りには比較対象になる子供がいないのだから、勝手に自分が優れていると考えるのは愚かなことだ。
「おいおい、ランゲル。いつまでも窓の外ばっか見てんじゃねえよ」
声の聞こえた方を振り返ってみると腕を組んでこちらをじっと見つめているガウルさんがいた。話的に随分と前からこの部屋にいたらしい。全く気づかなかった。
「いいじゃん、外は綺麗だよ?」
「なんだそりゃ、中は汚ねえってのか?」
その言葉に一瞬、部屋の隅の方に視線がいく。そこにはきちんと整頓されたおもちゃが床に並べられていた。しかし、そのおもちゃは全て埃をかぶっている。唯一積み木のおもちゃは綺麗に見えたが、よく見るとやはりそれもうっすらと埃をかぶっていた。まあなんというか、自分には子供用のおもちゃは合わなかった。それよりも、台に登ってやっと見える窓の外をずっと見ていた方がずっとましなのだ。
視線を戻すと、先ほどまでの無表情と打って変わって嬉しそうな、だけど少し面倒くさそうな表情のガウルさんになっていた。
「まあ、お前にはこの部屋は小さ過ぎるんだろうなぁ……うーむ」
暫しの間、ガウルさんは頭に手を置いて天井を見つめていた。そしてある時ハッと思いついたような顔をしていきなり部屋を飛び出した。開かれた扉が壁にぶつかって、ガンッと大きな音を立てた。部屋に残されたのは呆気に取られた僕だけだった。
「あ、扉開いたまま」
珍しいこともあるもんだ。いつもならきちんと扉を閉めていくのに、今日はそんな事気にせずに走って行ってしまった。一体何を思いついたんだろう。
まあ、扉くらい閉めますか。
などと思って壁伝いに近づき、扉に手をかけた。そしてゆっくりと力をかけて扉を閉めようとした時、ふと手を止めた。
よく考えてみると、自分は今までこの部屋から出たことがない。最近までずっと木の檻のようなベビーベッドの中、そして今は木の格子のついた窓といつも閉まっているドアのある小さな部屋の中が僕の生きる世界だ。
知りたい。
格子の間から見てきた世界が見てみたい。
この部屋じゃないどこかに行ってみたい。
僕は今開かれた扉の前に立っている。せっかくなら、少しくらい外に出てみてもいいんじゃないだろうか。そんな思いが僕の背中を押した。
キィーと扉がゆっくり開かれる。その扉の縁を掴んで部屋の外に顔を出してみる。そこには一本の薄暗い廊下があった。左を向けば見慣れた森の見える窓が、右を向けば光の差し込む薄暗い居間らしきものが見えた。光に照らされた埃がチラチラ輝く。
廊下にはいくつかのオブジェクトが壁に飾られていた。乾燥したサンフラワー。渦を巻いた何かの植物の根。切り取られた複数の円が重なる模様の紙。立方体が重なったような結晶を形成している翡翠のような色の水晶。全てが一定の法則に従って作られた幾何学的なものたち。なんというか幻想的で、不思議と安心感を得た。
「うわぁ、すごい」
行き止まりだった左の通路から右側の方へ進んでいくと、壁に飾られているものの中で一際目立つ炭で描かれた絵を見つけた。六芒星を中心として、内部に三角形や四角形、最外部に円と内接する正六角形が精密に描画されている。ただの図形といえばそこまでだが、そこで終わらないようなポテンシャルをそれは持っていた。見ているだけでその図形がどのような思いで作成されたのか、それを通して何がしたかったのか、そんなことがなんとなくわかるような気がする。それはある種の傑作と言われる絵画に類する特徴と相違ないと思う。
(この図形は何かを守るために描かれたものだ、きっと)
無造作に鉄の釘で打ち付けられてはいるけれど。無機質な幾何学模様に見えるけど。そこには確かな優しさがある。
(もっと近くで見てみたい)
部屋からいつも窓の外を見るときに使う台を引きずって持ってくる。上に乗ってみると、先ほどよりもよりしっかりと見えるようになった。その美しさに思わず手を伸ばす。絵と手が触れる。
その瞬間、絵が光った。
眩しい。
思わず目を瞑る。
しかし、すぐに感じた火に炙られたような感覚にすぐに目を開くことになった。
「う、うわあああああああ」
図形の描かれていた紙が真ん中から燃えていた。急いで消そうとしたけれど、体勢を崩して床に転がり落ちた。刹那、タイミングを見計らったように壁の至る所から光り輝く図形が現れ、通路一杯に紫色の線のようなものが広がった。
(雷ッ!)
数多の図形から放たれた雷は対となる反対側の壁の図形へと向かい、接触するとともにその効力を失った。次の瞬間には廊下は何事もなかったかのように静まり返った。
「おい、何があったッ!」
上の階からダンダンダンと音が鳴って、息を切らしたガウルさんが通路の向こうから走ってきた。そして床に転がっている僕と先ほどの壁の絵の図形が壁に焼きついているところに視線をやり、壁に未だ微かに光る図形の上に手を当てた。
「ッかぁ、お前もう少しで死ぬところだったじゃねえかよ。何で部屋から出たんだ、お前」
「え、いや......見てみたかったんだもん、この家」
叩かれるのかと思い頭を手で守る体勢を解き、恐る恐るガウルさんの目を見た。視線が合う。声の雰囲気とは違い、顔には現れない静かな怒りを感じる。
「扉空いてたし......家にこんなものがるとは思わなかったし、、、」
「ん?」
僕の言葉にガウルさんの威圧が少し弱まる。ガウルさんの顔の方向が僕の背後の開かれた扉に向く。僅かながらその目が開かれた。
「だがよ、俺はいつも扉を閉めてたぞ。その意図くらいお前にも分かるだろ?」
「知らないよ! ただ勝手に動き回られるのが嫌だと思ってただけ。ガウルが戻ってきたら部屋に帰ろうと思ってたよ!」
んーという感じの唸り声が響く。
「……ああそうだな。まだ三歳、数え年じゃ四歳の世界も知らんガキに言わなかった俺が悪かった」
暫く沈黙が続く。僕はこんな時なんて言い出せばいいかと言葉を探しているし、ガウルさんは多分子供の相手に慣れていない。どちらも慣れていないから続く言葉が出てこない。だけど、最後は年長者のガウルさんがその沈黙を破った。
「まあ、一旦部屋に戻れ。俺が今からこいつについての話をしてやる。もちろん興味あるだろ?」
ガウルさんは右手に握っていた分厚い紙の束を振った。内容は分からないけど、逆に分からないからこそ興味を惹かれた。
「うん」
「じゃあ部屋に入れ。こいつはお前が目の当たりにした《魔導式》ってやつの物語さ。どうせお前のことだ、今日か明日あたりに真似して事故っちまうだろうからな?」
「ああ、うん......」
何というか、何なんだろう、この気持ち。
形容し難いこのモヤモヤした気持ちを抱きつつ、僕は部屋に入っていくガウルさんの背中について行った。