あたしは猫だった
私は猫だ。名前はコップという。プラチナブロンドの美しい毛並みと、輝く金色と澄んだ翠色のオッドアイが自慢だ。趣味は家を抜け出して自由気ままに散歩すること。
世界は私が考えていたものよりもずっと広い。歩いても歩いても果てなく先に道は続いている。このままずっと歩き続けてみようか、とも思ったけれど、家を去るというのも少し勿体無いのでやめた。
家の中では人間の家族と共に暮らしている。その中でもミサキという少女は私の飼い主という立ち位置にいる。ご主人様というわけだ。まぁ、私としては別に彼女のことを主人と仰いでいるわけではない。何せ人間というのは、私が時間をかけて美しく整えた毛並みをいきなりぐしゃぐしゃにしたり、体が私より遥かに大きいからと持ち上げてきたり、挙げ句の果てには私のお腹に顔を当てて匂いを嗅いできたりする。
ここ最近は流石に飽きてきたのか、あまりそういことはしてこなくなったが、人間というのはとにかく私の気分なんてお構いなしなのだ。
だからたまのこの散歩で、精神衛生を保っている。
その日も実に良い天気で、歩いて体を動かしているというのにあくびが止まらない。心地よい夢現な状態――猫としてあるまじき油断。だから反応が遅れてしまった。
風を切り、地面を揺らしながらこちらに向かって突撃してくる巨大な何か。外の世界に出てから何度も見てきた。車という、人間が乗る鉄の塊だ。体が硬直して動かない。全く毎日堕落した生活を続けてきたツケがここで回ってきたか。
あぁ、こんなにも早く死んでしまうなら、もっとミサキにも構ってやればよかったのかもしれない。あぁ…今さらになって、こんな私らしくもない後悔をするなんて――
「――逃げて!」
その叫び声に私は我に返る。見覚えのある顔だ。目がよく見えるようにするためのメガネというものをかけているというのに、前髪で目が隠れてしまっている、出かける時のミサキと同じ服を纏った少女。何度か家に来たこともある、名前は確か…
頭に浮かびかけた言葉は、しかしながら途中で消えてしまった。重い何かが破裂するような鈍い音に満たされて――
『目覚メよ』
また誰かの声が聞こえたような気がして、目が覚めると…私は真っ赤な血の中にいた。
朧げな思考はすぐに直前の記憶を思い起こす。そうだ、私は車に轢かれて――いや、違う。私はその時、ミサキの友であるニナという少女を見た。
私の足元は一面の赤色で染まっている。そしてぐたりと下半身にかかる体重…私自身に、ここまでの血を流すほどの痛みは感じられない。せいぜい体の複数箇所を打撲した程度だ。なら、この血の主は。
私はするりと体を滑らせるようにして――いや、実際に大量の血浴びているので、体はヌメヌメする。
案の定私の側にはニナという少女が事切れて横たわっていた。少し前方には、私達を襲った車が壁に衝突して停止している。前半分はほとんど潰れている。
『目覚めタか…小サき、果てノ子よ』
さっきも聞いた気がする声…頭の中に直接響いてくる。私はひとしきり周囲を確認した後、最後に頭上を見上げた。
空には白い招き猫の像が、背後に光輪を輝かせて浮かんでいた。私は思わず一度目を閉じて、心を落ち着かせてから再度瞼を持ち上げる。状況は何も変わっていなかった。
私は世界というものを知らない。せいぜい家の中と、その周囲の少しだけの、人間に比べれば狭い世界だ。それでも目の前光景が異常であることは分かる。怪しいことこの上ないが、なぜか先ほどから本能が何の警鐘も鳴らさない。むしろ安堵感さえ感じる。
『それハそうだろう。我は、お前にとってノ神となるのダから』
頭に響く招き猫の声は、当然のように私の思考に対して返答する。不思議とそこに驚きはなかった。疑う気もなぜか起きない。目の前の神を名乗る招き猫の言葉はきっと真実だろう。
神という存在は知っている。でも目の前にそれが現れたのは、生まれてこの方初めてのことだ。どうして現れてきたのだろう?
『そうダな…あまりこうしてイられる時間も少ない。我はお前ニ選択肢を与えにキたのだ』
選択肢…?
『今、ここに天命を全うしタ命が二つある。まぁあの車に乗っテいる男はもはヤ覆りはしなイが、お前の下にある命にハまだ運命を覆ス可能性がある。今、ここデお前という猫ガいなくなル代わりに、小夜島ニナといウ人間としテの人生を、お前に与えルことができる』
私が、ニナになる? ミサキの友人の少女に?
「どういうことだそれは。どうして私がそんなことする必要がある」
『強制ではなイ。こレはこの先何百年、何千年とかケた人類の浄化計画。その条件がタまたま揃っただケだ。全く人の神ハ面倒くさイ…とにかク、選択肢はお前ニある。断るもよし、受ケるもよし…さて、どうする?』
神様はおざなりに問いかけるが、私は必ずどちらかの答えを今ここではっきりさせなかればならない気がした。
私は猫だ。自由気ままに勝手に生きる猫。居心地の良い場所で、世界の大半のことなんて知る必要もなく、ただ生きていくのだと思っていた。猫であることに矜持なんてものはない。ただ、私がニナという人間の皮を被ってそれらしく生きていくことはきっと道理には反することだろう。
それでも、今私の目の前には私の世界を広げる機会がある。しかもミサキから友の死を隠すことができる。このままコップとして生きても、ミサキが変わってしまえば、あの居場所はきっと私にとっても最良ではなくなる。だったら――
「…分かった。その話、引き受ける」
『そうカ。では、お前は今こコから人として生きてゆク。猫としテの生を歩むことはなイ。くれぐれもソのことを肝ニ命じておケ。猫に再ビ戻ろウなどと考えなイようにな』
「言われなくても、もう覚悟はできたさ」
次の瞬間、私の視界は光に包まれた。意識がどんどん朧げになっていく中で、もう後戻りはできないんだなという確信が、ほんの少しだけ尾を掴んでいるような気がした。
§§§
私は私のままに生きていくことに変わりはない。小夜島ニナという人間になっても、それだけは一貫していこうと決めていた。
とはいっても、人には人として生きていく上でのルールがある。小夜島ニナの身体を譲り受けてから、その辺りの常識は彼女の記憶の中から引き出すことができた。
小夜島ニナは、人間界では女子高校生という立場にあり、毎日学校に行かなければならないそうだ。しかしこのニナ、1週間は学校に行っていない。でも学校にはミサキもいるし、様子は見たい。
私はたまに2、3日家に戻らない時もあったので、今はまだ問題にもなっていないだろう。ゆくゆくは気がつくだろうが、今の私ならニナとしてミサキの側にいることができる。
…考えていて、少しだけ私は自分の精神状態に変化が起きていることを自覚する。元のニナという人間から影響を受けているのか。
いずれニナが私の人格を押し除けて呑み込まれてしまうのだろうか…いや、考えるのはよそう
それよりも今は学校へ行かなければならない。私は鏡を見ながら準備を進める。
「それにしても、酷いな」
ニナの姿を見て思わず言ってしまう。私は長い前髪をヘアピンで止めて、手入れさえされていなかったメガネを洗う。猫の頃から私は毛並みを整えるのにも強いこだわりがあった。そんな私の美的感覚からすると、ニナの容姿はありえない。
「ま、今はこんなものだろう」
それでも私にとって美しさとは武器。ゆくゆくは納得の行くまで変えるとして、私はせめて今できる最大限を施して、学校へと向かった。
学校へはスムーズに辿り着くことができた。どうやらコップとしての意識を確立させつつ、ニナとしての記憶も都合よく混ざってくれているようだ。
しかし何事もなかったのは教室に着くまでだった。教室に入ると好奇の視線が私に集中する。事情は把握していたが、こうも露骨な反応をされるとは。
小夜島ニナはこの1週間学校に行かずに家に引きこもっていた。理由はこのクラスを支配する篠岡ルミにいじめの標的とされたからだ。
始まりは些細な偶然の連鎖からだった。ニナはルミと同じ班になり、その班に割り当てられた昼掃除の担当が女子トイレだった。我儘なルミらトイレ掃除は汚いからやりたくないと言い始め、じゃんけんをして負けた人が掃除をするというゲームを始めた。ニナはそのじゃんけんに負けてしまった。でもそのたった一回の負けが最終的にクラス内でニナを排斥する流れを作ったのだ。
誰も逆らうことなんて誰もできなかった――ただ一人だけを除いて。
そう、ミサキだ。ミサキだけがルミを助けようとした。ミサキは昔から正義感の強い人だった。でもそのせいで、今度はミサキが標的になってしまった。
ニナは自分を守ってくれた友人がいじめられている状況に耐えられなかった。でも頭の中にはずっとミサキへの罪悪感があって、昨日は勇気を振り絞って登校しようとしてた。結局私のせいで、その勇気が報われることはなかったのだが。
私は私のまま生きていくと決めている。ただ小夜島ニナには命を救われた恩義もある。義理堅い、なんて柄じゃあないが、こうして身体までもらったからには、心残りも、燻る思いも全部ひっくるめて背負うつもりだ。
「――ミサキ、おはよう」
だから私は不自然に周囲に空きができているミサキの席に向かう。本を読んでいたミサキはどうやら私に気付いていなかったようで、声をかけてようやくその顔を上げる。今にも泣きそうなのと、驚きを混ぜたように瞳を大きく見開いて、
「…ニナ、良かった…っ 学校、来てくれたんだね」
「ちょっと長い間体の調子を崩してただけだから」
ニナの記憶はどこか俯瞰的なもの。だから他人事というか、当時感じていたであろうニナの辛さであったり怒りであったり、そういったものを私にはない。でもどうやらそんな私の様子が、ミサキにはどうも私が強がっているように見えているみたいだ。
「あれ〜? 小夜島じゃん。 ていうか、めちゃ久しぶりじゃん?」
心配そうな眼差しで何かを言いかけるミサキを遮って、一人のクラスメートが後ろに取り巻きを連れて私に話しかけてくる。小夜島ニナをいじめていた篠岡ルミだ。
「ていうか、何それ? 1週間越しの再登校デビュー? ウケるんだけど」
ルミは髪留めをして、軽く化粧も施している私の顔を見て、取り巻き達とクスクス笑う。まぁ、実際はデビューなんてものじゃなくて、生まれ変わりみたいなものだが。
「まぁ、本当は髪ももっとバッサリしたところだけど、それはまた今度だな」
「…ふ〜ん、そうなんだ」
ルミは顔こそ笑っているものの、目尻の先がぴくりと動くのを私は見逃さなかった。彼女の皮肉がまるで響かない私の反応が少し気にでも障ったか。
「それで、篠岡さんらは私に何か用? それともただ再登校デビューを無事果たすことができた私を笑いに来ただけ?」
「何その言い方〜ちょっと酷くない? ただ話しかけたかっただけじゃん。向こうでうちらとおしゃべりしようよ。なんならおすすめの美容院とか紹介するからさ」
「話ならここで聞くが」
「…うちは向こうで話したいって言ってるんだけど?」
「そんなの知るか」
「ちょっとニナ…っ!?」
ニナは慌てていたが、私は誰かに強制されるつもりはない
「ふーん、そっか…なら――」
目を細めたルミはおもむろに私の横を通り過ぎ、席に座るミサキの机にそっと手を置いた。
「ミサキぃ、そこ代わってくれない? うち、小夜島とお話ししたいからさぁ」
「…っ」
ミサキの肩がびくりと震える。あのミサキが硬直して何も言えなくなっている。この1週間で、相当な仕打ちを受けていたのか。
「ミサキが退く必要はない。去るべきはそっちだ篠岡ルミ。私は元よりお前の話を聞く気はないから」
私はニヤついていたルミの手首を掴んだ。
「…はぁ? つーか離せよ。汚い菌が感染るだろうが」
小声で、周りに聞かれない声量だったが、ルミの声はドス黒く染まっていた。
「汚いのはお前の性根だ。もうミサキにも私にも構うな」
「キモ… ッチ」
舌打ちと共に睨みつけてくるルミ。しかしふと思いついたように、邪悪な笑みを浮かべ、
「きゃああああっ!痛い!離してええっ!!」
「はぁ?」
大した力で握ってなどいないというのに、ルミは突然叫び暴れ出す。ただそれはがむしゃらに暴れているのではなく、前に前に私のことを押しながら、最後に手を振り解き、力一杯私を突き放した。私はバランスを崩し、背中から倒れそうになる。ルミの邪悪な顔が目に焼き付く。
なるほど、正当防衛とでも言い訳して私に怪我をさせるつもりか。背中から倒れて頭でも打ちつけようものなら、最悪死ぬ可能性もあるだろうに。
まぁ、暴力で打って出てくるのであれば、それはそれで私としても楽だが。
私は身体を捻り、倒れる方向を体の前面にする。私は猫だったのだ。どのような体勢でも手足から着地するのは本能に刷り込まれた技能。私は素早く両手を前に出して両脇にあった机に着き、加えて右足を前に出すことで身体を支える。そして間髪入れずに浮いた左足を曲げて、強く後ろに蹴り上げた。
「……ぇ?」
小さく声を漏らしたルミの頬を掠めるように、私の後ろ足が貫く。間も無くしてルミは腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「…そっちがその気なら、こっちも容赦はしない。最後にもう一度だけ言う。金輪際、ミサキにも私にも関わるな。次はもうないからな」
私がルミを見下ろしながらそう告げたところで、予鈴も鳴り事態は幕を閉じた。
そして昼休み――
教室にいるのも気まずい私とミサキは学校外のベンチで昼食を共にした。あれからルミは絡んではこない。一部始終を野次馬が撮影されていたし、無様な姿を晒したのだ。もう大丈夫だとは思いたい。
「ニナ、なんというか…すごい逞しくなったね。1週間の間に何があったの?」
昼食を食べ終えて一息落ち着いたところで、ミサキがついにそう切り出した。ニナという人物と親しいミサキには、今の私にはさぞ強い違和感があるだろう。
「…そんなに変わった?」
一度すっとぼけてみるけど、ミサキの視線はこちらをジッと見つめて離れない。
「変わったよ。喋り方とかも、まるで別人みたい。それに見た目だって」
「まぁ、ちょっとしたきっかけがあって。見た目は正直、もっと色々変えてみたいと思ってる…髪型もそうだし、今まできたことない服装にもしてみたい」
「あ、それなら明日土曜日だし、一緒にショッピングとかどう? そういえばニナとはそういうことしてなかったし」
「それはいい」
私も元はただの猫だし、ニナも外見には無頓着だったから、人間のオシャレというものを未だ理解し切れていないところはあった。その点、ミサキは家にも多くの服を持っていたし、参考になる。
「それじゃ、決定だね!」
「楽しみだ…ふぁあ〜…」
ひと段落して、私の口から大きなあくびが出た。今日は天気も良く、外の空気が心地よい。いつもなら昼寝をしている時間か。それを思い出した途端、抗えない眠気が押し寄せて、瞬く間に私の意識が夢現になっていく。力が抜けて、ぽすんと頭が懐かしい匂いに包まれた。
「ニナ? えっと…結局さっきの話がまだ…」
「ごめん。少し、このまま寝させて…」
私は微かに残る意識を振り絞って、それだけを伝えると、ミサキの膝の上で寝息を立てた。
「…なんか、ウチのコップみたい」
微笑むミサキの穏やかな声が溶けて消えて、私は夢の中に落ちていく。懐かしい夢を見た。私がまだ子猫で、世界を知らず、ただ怯えながら目の前にあったコップの中に顔を埋めとうとしていた頃。
――そこに顔を入れちゃダメ。もし怖いなら、私が側にいるから。私は味方。怖くないよー
――こら、また入ってる。そんなにコップが好きなの? なら、おまえの名前は今日からコップだね! さぁ、お菓子あげるからおいで。
心地よく、柔らかな風が頬を撫でた。
§§§
ミサキに連れられたショッピングモールと言う場所は、見たこともないくらいの大勢の人間で賑わっていた。
これが世界か。
「――さぁ、行こう、行こう!」
私はこのショッピングで大きく変わった。
乱雑に伸びていた髪は思い切って短めに整え、軽くウェーブをかけて、髪色も少し明るくする。服装にはトレンドを取り入れ、化粧もしてみた。まぁ、今日は8割型ミサキの趣味に影響を受けてしまったが。
人間の自由さというのが濃縮されたかのような時間だった。着飾るものも自由に変えられるというのは素晴らしいものだ。
「はぁー…! 歩き疲れたぁ」
ショッピングを終えた私とミサキは、近くにある公園広場のベンチで休憩をとっていた。先ほど自販機で買った飲み物で喉を鳴らし、ミサキが気持ちよさそうに空を仰ぐ。
「それにしても買ったねぇ〜。あ、そうだ早速あれカバンにつけよ」
ミサキが取り出したのは、最後に訪れた店で買った黒猫のキーホルダー。ちなみに私も同じものを買った。
「でもどうして、黒猫?」
私の毛並みはこれとは正反対だったが。
「いやね、ネットの猫好きの知り合いが猫は多頭飼いがいいよって言ってたんだ。うちの猫…コップはすごくやんちゃな仔だけど、もう一匹気の置けない仔がいたら、落ち着くのかなーなんて思ったりして…黒猫もいいよね」
「必要ないと思うけどなぁ」
「え? どうして?」
「あっ、あぁ、いや…ほら、私が見たコップはとても大人びて見えてたからさ」
「そんなことないよー。いたずらっ子だし、落ち着きもないし。今も家出中で…」
ミサキはスマホでいつの間にか撮影していた猫だった私の寝顔を見つめながら、どこか困ったような笑みを浮かべた。いつの間に…
と、私がミサキのスマホを細目で睨んでいると、突然ミサキが立ち上がる。
「ど、どうした?」
「あ、ごめん…今、そこにコップに似た猫がいてつい…こんなところにいるわけないのにね」
視線で追うと、確かにそこには明るい毛並みの猫がいた。ミサキは肩を落としてため息を吐く。ずっと元気だったミサキの表情に陰りがさした。
「気分が悪いのか」
「ううん、そんなことないよ。さぁ、次はどうする? お腹空かない?」
その元気な振る舞いは、嘘だと分かった。ミサキは私に対してとても心を開いてくれているようで、実は本当に重要な領域には誰も踏み込ませないようにしている。
でも私が猫の時は、よくミサキは私を抱きながら日々の鬱憤や弱音を口にしては私に頬擦りされてたたっけ。もしも今、私が猫のコップだったら――
「…ごめん。ちょっとお手洗い」
私は席を立って、トイレに向かった。胸がぞわぞわする。何だこれは。
「――っ痛」
口の中で何か鋭いものが刺さる痛みがあった。私は鏡の前で口を開ける。
「何、これ」
そこには、まるで猫のように鋭くなった牙が並んでいた。
『ふム…やはりこうなってしまうか。まだまだ試験は必要なようだ』
そして突然頭の中に鳴り響くように聞こえてくる声――
鏡の後ろには、招き猫が浮かんで、鏡越しの私を無機質に見つめていた。
「あんたは…いや、それよりもこれは一体どういうことだ。私は人間になったんじゃないのか」
『言ったデあろう…もう二度ト猫に戻りタいと思うナと。元より一度生まれた魂を途中で変容させてしまうことは、本来の理に背くことだ。神であろウと、魂が本来の性質ニ戻ろうとすル作用までも完全にとメることはでキん』
「元に戻るのか? もちろん、人間としての姿に」
『悪いガ、それをしたとこロで無駄だ。もう、お前ハ自分の本当の望みニ逆らうことはできヌだろう。しかし完全ナ猫に戻ることも、まタ不可能だ。器は既に人間ノ法則が強く刻ミ込まれていルからな』
「だったらどうなる」
『こうなってシまえば、選択肢は二ツ…元の人間にソの身体を返すか、そノまま猫の化け物に成リ果てるか。後者ノ場合は、我が責任ヲ以て、神界へト連れてゆくが』
提示された条件は、どちらも到底受け入れ難いものではあった。
「…元の人間に身体を返すと、どうなる?」
『その時は、器の魂からお前の…猫のコップとしての部分だけが昇天する。その結果、その少女の命は救われルことだろう』
つまり、私は死に、ニナは助かる、ということか。それは、あまりにも理不尽な結末ではないか。
「どうして私が死ななければならない!」
『初めに提示しタはずだ。お前という猫がいなくナる代わりに、人の生を与エると。もう、猫としてのお前は死んデいるのだ。まぁ、お前が強く戻りたイと思わなければ、まだ少しは保つだろウ。せいゼい考えておけ』
猫の神はそう言うだけ言って、私の訴えを聞くことなくその場から消えてしまった。
「私が、いなくなる…?」
私が望んだ結果だみたいなことを言っていたが、そんなこと望むはずがない。私は自由に、ミサキと生きていくと――
混乱する最中、ポケットに入れていたスマホが震える。誰かからの連絡だ。私は慣れた手つきでスマホを操作し、連絡の確認をする。メッセージの送り主はミサキだ。
”ごめん。ちょっと用事ができたから、先に帰ってて”
そのメッセージを見た途端、私は急いで手洗いから飛び出して、公園のベンチへと向かったが、もうそこにはミサキの姿はなかった。
私にはもう時間がないというのに――
せめてもう一度ミサキと話したい。でも手元にあるメッセージ1つだけじゃ何も分からない。
こんな時、猫の姿であれば、あるいは嗅ぎ慣れたミサキの匂いや、ミサキの足音のクセを聞き分けて、探し出せるかもしれない。少なくとも人間の体よりは、人探しに秀でていたはずだ。
鼓動が跳ねる。
次の瞬間、私の知覚する感覚が急に広がった。人の身では強い違和感でしかなかったが、同時にそこには強い懐かしさがあった。
直感的に、猫としての嗅覚と、聴覚が戻ってきたのだと理解した。しかし、なんとなく猫だった頃よりもずっと鋭くなっている気がする。
その場にはまだミサキの残した匂いが残っていた。離れてからまだそこまで時間は経っていない。それなのにミサキの足音は、聞き分け可能な知覚範囲内にはない。よほど急いで移動したのか。
それでも匂いの感じから、おおよその方角は分かった。気配が消える前に追いつかなければ、完全に手がかりが失せてしまう。
もう、本当に時間が残されていない気がした。
私は走った。人の身は――いや、特に小夜島ニナという少女は足が遅い。体力もない。昨日のような瞬間的な立ち回りならまだしも、持久力はごまかしが効かないようだ。
本当の私ならもっと速く走れる。
本当の私なら、走りながらでも周囲の人の顔の一人一人区別ができる。
鼻も耳も、もっともっと研ぎ澄ませれば…
「――約束通り、一人で来た。早くその動画を消して」
「えー…別に消すなんて約束してないよね? でも、ウチのお願い聞いてくれるなら、ねぇ?」
元の猫の姿よりも遥かに発達した聴覚が、ふと聴き馴染みのある声を捉える。話し相手は篠岡ルミだ。聴き間違えようもない、嫌みたらしく、人を蔑む不快な声音。私は群衆の間をすり抜けて、声が聞こえる路地の裏通路へと入った。
いたのはミサキと、ルミ。そして見覚えのある取り巻き二人が後ろでニヤニヤと優越感に浸っている。
「…は?」
ルミが私に気付く。プラチナブランドの毛に覆われ、頭の上には大きな三角耳が二つ。鋭く覗かせる牙と、翠色と金色で左右異なるオッドアイ――そんな化け猫のような姿の私の登場に、その場は硬直した。
でも、まだギリギリ小夜島ニナとしての面影があったせいか、どうやらルミは私のことをニナと認識できたようで、スマホのカメラをこちらに向けながら、
「何それ、猫娘のコスプレ? ははっ超ウケるんですけど! 暴力女の趣味はコスプレでしたー!」
「ニナ…?どうしてここに」
ルミのスマホが何度か点滅を繰り返す。写真を撮って、今は動画でも回しているのか。
「つーか、ミサキ1人じゃねーじゃん。はは、ついでにこの画像もつけちゃおうかな。ほら、小夜島も見てよこの動画、昨日のやついい角度で撮れてない? 暴力女子高生!SNSでバズりそうじゃない?」
そういえば昨日の大立ち回りを動画撮影していたやつもいたっけ。
「あはは、ねぇこれ投稿してもいい? いい?」
「――くだらない」
私はルミの持っていたスマホを奪い取って、そのまま地面に叩きつけた。今の私の俊敏さなら、ルミが反応するよりも速く動くことができる。
「ちょッ…何やってくれてんだよ! 弁償――」
ヒュン、と風の切る音がルミの言葉を止めた。状況は大体分かった。つまりは、目の前のルミという奴は、どうやら生半可な脅しでは懲りてくれないらしい。
鮮やかな赤い血が線となってルミの頬を伝う。
「ひっ…」
それはまるで昨日の再現のようで、しかしルミの瞳にはずっと色濃い恐怖が染み付いているように見えた。そしてその感情を明確に表す一言がルミの口から漏れ落ちる。
――化け物
「…二度はないと言った」
化け物か。でもこの鋭くなった爪は丁度いい。なんなら、この牙だって、本来は命を奪い、喰らうためのものだ。そうだ、これこそが私の本来の姿だった。そう思うと、途端に私の思考は冷たくなっていく。
そんな私にルミは本気で怯え出したようで、ガクガクと身体が震えている。
「もう、やめて」
ミサキが私の前に立ちふさがった。
「言葉で理解できないなら、力で分からせるしかないだろう」
「それじゃ、本当に人でなしだよ」
何を今更なことを言っているのだろう。
「今の私がただの人間だとでも?」
「ニナ…ううん、多分あなたはニナではないんだよね。でも、もしあなたが私のために怒ってくれているのだとしたら、それはあなたの優しさ。そんな心を持つあなたを人じゃないなんて私は思わない。でも、暴力で何かを遂げようするのは人として間違ってる」
脆弱でぬるい、平和ボケした人間特有の思考。現実はそんな甘くない。実際に目の前でうずくまる人間の形をした非道こそ、その証左なのではないか。そう言って笑うことは簡単だろう。
でもミサキのその言葉を否定するのが、私が掲げた私らしく自由に生きるということなのだろうか…
自分の正義を持ち、それを貫き、理想を追い続ける今のミサキこそが、あるいは――
私手を下ろした。するとすかさず、ルミも取り巻き立ちも情けない声を上げながら逃げていく。
いろいろな感情から解放されたせいか、ルミ達が消えるとその場で脱力してへたり込んでしまった。
これで終わりか――
「…コップ?」
すっかり猫の化け物になってしまった私が終わりを悟っていると、ミサキがふと私の――本当の私を呼んだ。
「どうして…」
「あれ、どうしてだろう…どうして、私今あなたのことをコップって…でも、あなたの目を見て、なんとなくそう思ったんだ。金色と、翠色のその目が」
そこで私はやっと、なんとなく分かったような気がした。
私は私らしく自由に生きることをずっと求めていた。
人間として生きればそれができると思っていた。人間の世界だって自由じゃない。学校もあれば、人間関係にだってしがらみがある。わかりやすく描かられた自由はなかった。ただ、この短い間ニナとして生きて分かったこともある。
孤独であることは不自由なことだ。
世界の広さに怯え、ずっとコップの中に隠れようとしていたあの時の私こそ、不自由だった。でもミサキに名前をもらい、世界の広さを知り、そして今、道を外れ孤独になりそうになった私を引っ張り戻してくれた。私が私として、ミサキと共に生きることこそが、私の自由だった。
だからきっと私の本当の望みというのは――
「ずっとミサキにありがとうと言いたかったんだ。私に名前をつけてくれて、世界を教えてくれて――ありがとう」
ミサキの抱擁が私を優しく包む。
「本当に、コップなの?」
「驚いたか? でも、時期終わる。他社の席を奪おうとした当然の報いか。私はコップとしてミサキと共に生きたかった。だから、終わりも私として終わるのが道理だろう」
「そんな…」
「私がこのままだと、それはそれで困るだろう? この身体は持ち主に戻さないとな。でも…ニナについては少し心残りだ」
短い間ではあったが、小夜島ニナという少女として生きて、情が湧いてしまったらしい。
「…ま、ミサキがいるなら問題はないだろう」
「待って――」
終わりが来る。私は目を瞑った。きっとそれで、私という存在は終わったのだ。でも、不思議とそれを受け入れることに後悔は一片たりともなかった。
§§§
何もない場所でうずくまっている少女がいた。
少女は言った。「あたしはあなたのように生きる自信はない」と。
少女の目の前にいたのは一匹の猫だった。金色と翠色のオッドアイの猫。
猫は言った。「私のように生きる必要はない。お前がお前として、自由に生きればいい」
少女の世界には絶望しかなかった。そしてその絶望に親友を巻き込んでしまった。
「だからあたしに、彼女といる資格なんてない」
「だったらその時は私のことを思い出せ」
そうして少女を光が包み込んだ。猫の姿は薄くなって、消えていた。
§§§
あたしには少し変わった記憶がある。
親友のペットの猫として生きてきた記憶だ。どうしてそんな記憶があるのかはよく思い出せない。でも、親友のミサキ飼っていたその猫は今も行方知れずで、捜索が打ち切られた時は、初めてミサキが大声で泣く姿を見た。
でもたまに夢で見ることがある。夢の中のあたしは、車に轢かれそうになっていたコップを助けようとしていた。
助けられたかどうかわかる前に覚めてしまうのだけれど。
そして朝がくれば、今日も学校が始まる。身なりをよく整える。あたしは自分で自分を可愛いとは思わないけれど、可愛くあるよう心がけている。前まではそんなこと思いもしなかった。
周囲からは変わったと言われた。でも、結局あたしはあたし。未だ学校に行くために家の扉を開くのが怖くなる時がある。
「――え?」
誰かがあたしの背中を押した。その瞬間、ふと思い出すのだ。
あたしは猫だった――