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二十八年分の記憶が駆けめぐる。
時間にして数分――
情報量の多さに脳が悲鳴をあげて、私は意識を失った。
ああ、私は、私は藤岡ちさとだった……
日本という小さな島国で、優しい両親のもと平凡ながら健やかに育った。
好きなものはゲームと本。料理は作るよりも食べるほうが好き。
そんな平穏な人生を送っていた私だが、就職を境に事態は一変した。
ホワイト企業と謳っていたそこは、入ってみれば見事なまでのブラック企業だったのだ。
残業なんて当たり前、休日の呼び出し当たり前。
忙しい月末は、会社で寝泊まり。
奇跡的に仕事を終えて帰ろうとしようものなら、すっかり会社に洗脳された上司が追いかけてくる始末。
『君が帰ったらみんな困るよ。もっと仕事を探してやって!』
ゾンビのような上司に、すがり憑かれた五年だった。
そんな職業、社畜を続けていたある日、私はあっさりと死んだ。
ええそれはもうあっさりと!
信号無視の車が、私に突っ込んできたのだ。
十六連勤明けで朦朧としていたからか、ひかれた傷みを感じなかったのは幸いだった。
ああ……それと。
仕事から解放されたのも嬉しいな~。
これでもう、あのクソな上司に会わなくてすむ!
死んじゃったのは悲しいけどさ。
はあ、最高。
あはは~♪ と夢の中で笑った、そのときだった。
ふいに、涼やかな声が聞こえた。
私はハッとして、無理矢理、意識を覚醒させる。
「ようやく起きたのね」
目の前には、嬉しそうな笑顔。
私は愕然とした。こ、この人は――
仕事に忙殺されていた私にも、息抜きはあった。
それが隙間時間にやるスマホの乙女ゲームである。
乙女ゲームというのは、プレイヤーが攻略対象の男の子と恋愛し、障害を乗り越えて、彼とのハッピーエンドを目指すというもの。
その中でも特に好きなゲームは、『薔薇の迷宮』という乙女ゲームだったのだけれど――
「フランソワ、いっしょにお茶にしましょう」
嬉しそうな笑顔で話しかけてくるのは、まごうことなく、その乙女ゲームの登場人物、アリア・ラピス・リシュールだった。
う、嘘でしょ! ここってもしかして、乙女ゲームの世界!!
小説で読んだことのある展開が、まさか我が身に起こるなんてっ。
正直とんでもなく困惑しているが、問題はそこではなかった。
『あああああ、今まで忘れてた!! アリア様って、アリア様って、悪役令嬢のアリアじゃないっ!』
そう。
目の前のアリアは、ゲームの中では悪役令嬢と呼ばれるポジションだった。
悪役令嬢というのは、正ヒロインに意地悪をして、そのことを元婚約者や弟に糾弾され、破滅してしまうという役柄で――
そんな未来にある彼女は、パニック状態の私の頭を優しく撫でてくれた。
癒やしのオーラでも出ているのか、ナデナデされると気持ちが落ち着いてゆく。
「邪魔者は追い払ったから、おびえなくていいわ。はい、美味しいクッキーよ?」
そして、香ばしいクッキーを自らの手で食べさせてくれる。
反射的にもぐもぐした私は、ヘニャリと笑顔になった。
『ああ、癒やされるぅぅ。大好きっ、アリア様!』
うっとりと三枚目のクッキーを食べようとしたところで、我に返った。ブンブン頭を振って、精一杯、訴えかける。
このままでは破滅してしまいます! と。
破滅エンドを回避しなければ、と。
しかし私の声は、彼女には届かない。
そりゃそうだ。なぜって……
『私の役柄、なんて無力。てか、こんな役柄ひどすぎるぅぅぅ』
たとえば、悪役令嬢の妹とか、メイドとかそういう役柄ならまだよかった。
てか、こんな役柄、ゲームにあったのかよ。ふざけんな! とゲーム制作者の胸ぐらつかんで、ガクガク揺さぶりたい。
私は己の手を見下ろす。
丸っこくて、モフモフしていた。
ちなみに胴体は太めで、お尻は食パンのようにモッチモチ! としている。
そして、引っ張って伸ばしたくなるくらい、短い足。
アリア様の後ろにある鏡に映る私の姿は、犬だった。
それも、よりにもよってコーギーだった!
「フランソワ、あなたは私の宝物だわ。誰がいなくなっても、あなたさえいてくれれば、私は幸せよ?」
破滅エンドまっしぐらなアリア様は、恍惚と笑っている。