その3-6
ふ、と意識が浮上して目を開ける。どうやら眠ってしまったらしい。寝起き直後の気怠さが身体にまとわりつき、頭に靄がかかったように意識がぼやけていた。
私、何してたんだっけ…?
ぼんやりと、部屋にある窓の外を眺める。外はすっかり暗くなっていた。
そうだ、確か刹那さんの部屋に入って、ノートパソコンを開いて…。
寝てしまう前のことを思い出そうと思考を巡らせていたけれど、耳に吹き込まれた声で一瞬に意識が覚醒した。
「私の部屋で何か欲しいものは見つかりましたか?」
言葉の意味を理解すると同時に、皮膚が粟立ち、氷を飲み込んだように体の内側から指先まで冷たくなっていくのがわかった。ゆっくり、声がした方は顔を向けると、今日も白黒で構成された、刹那さんがいた。薄暗い部屋の中、明かりもつけずしゃがみ込んでわたしを楽しそうに見ている。
「な、んで…」
何で、わたしが部屋に入ったことを知っているの?
いつの間に帰ってきたの?
なんでここにいるの?
音にならない言葉が口の中で転がった。それを拾って刹那さんが口を開く。
「ノートパソコンを開けたでしょう?私以外の人間が使おうとすると分かるようになってるんですよ」
静かで、凪いだ湖面のような冷たい瞳がわたしを写す。
体が石のように硬直して指一つ動かせなかった。熱くもないのに汗が出て、髪が額に張り付く。
頭の奥で警戒の鐘が鳴ってるのに、体を起こすことも逃げ出すこともできず、身体は凍りついたように固まって刹那さんの一挙一動を目で追うことしかできなかった。
怖い。
人間はどんなことにもすぐ慣れる生き物だ、と誰か偉人がが言っていたらしい。
この数日間、刹那さんにちょっとした悪戯をされる事はあっても、それ以外は何事もなく生活できていた。
だから、わたしも刹那さんとの歪な毎日に慣れてしまっていた。忘れてかけていた恐怖心が、命を奪われる恐怖心が、全身を支配する。
「美優さん、あなたは誰の『物』ですか?」
初日の刹那さんとの会話を思い出す。『刹那さんの物』になったこと。そのおかげでわたしは殺されずに済んだ事。
震える口で何とか言葉を絞り出す。
「刹那さんの、」
「そう、『私の物』です。持ち主の部屋に入るなんて悪いことをした、お仕置きをしないとですね」
何が起きたのか分からなかった。
視界に広がる刹那さんの顔。唇には柔らかな感触。微かに鼻を掠める香り。甘い、爽やかな、けれど隠しきれない鉄錆の臭い。艶やかな長い黒髪が頬を滑った。
キスされている。
ベッドの上に仰向けに転がされて、その上に刹那さんが覆い被さって、キスをされている。
何で?どうして?
何が起きてるの?
重なった唇の隙間から、ぬるりと湿った何か柔らかなものが私の口腔内に入り込む。
咄嗟に刹那さんの身体を押し除けようと手で押すが、びくともしない。頭を振って逃れようとしたけれど、気づかないうちに後頭部と腰を手で押さえ込まれていて動くことが出来なかった。
「んんっ……!」
侵入してきたその何かは、蠢いて無遠慮に口腔内を蹂躙する。
知識として知っていた。そういうキスもあるんだと。
友達同士で咲かせる恋バナで、きゃーきゃー言っていたこともある。けれど、その時想像していたような甘酸っぱいものではない。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
他人の舌が、自分の口の中で動いている。
「うー!」
わたしの舌に絡みついて、上顎をくすぐってくる。
「ふ、ぁ…!」
ゾワゾワと鳥肌がたつ。
重なる唇の隙間から湿った粘ついた音が耳朶を打ち、涙がこぼれた。
どのくらいそうされていたのか分からない。
呼吸の仕方も分からなくて、離れた時には酸欠のせいもあって、ぐにゃりと力が入らずベッドに手足を投げ出していた。
「もしかして、キスは初めてでしたか?」
頭上から降ってきた声にゆっくりと頭を持ち上げれば、涙で滲んだ視界の中で、刹那さんが微笑んでいた。ぺろり、と唇を舐める。
「あぁ、本当に」
思っていたより泣いていたらしい。
涙でぐちゃぐちゃになっているだろうわたしの顔に触れて、
「真優さんは可愛いですね」
刹那さんは狂気を孕んだ瞳を細めて、それはそれは綺麗に微笑んだ。




