孤独な剣士の事情
シルヴァンには兄がいた。出来がよく、明るい、誰からも好かれる兄が。
そして、兄には婚約者が居た。
幼い頃から将来を決められた、家柄もよい娘だと知ったのは、シルヴァンが成長してからの事。
物心ついたころ、兄のジェラール、シルヴァン、そしてナディ―ヌは、三人兄弟のように転げまわって遊んだものだった。
ジェラールとナディーヌが結婚すると決まっていると知らなかった頃。シルヴァンは、無邪気にナディーヌに恋をしていた。
金色の髪、白い肌。くるくると表情を変える顔。
魅惑的なナディーヌ。
しかし、彼女が恋したのはシルヴァンではなく兄のジェラールだった。
ジェラールもまた、明るく、誰をも惹きつける魅力的な、上に立つ者の器を持った男だった。
自慢の兄に対して、シルヴァンは剣や武術などに長けてはいたが、口数が少なく、愛想がよいとは言えない。
あれは、家を出て、修行の旅に出る日の朝だった。
ナディーヌは、一人で見送りにやってきた。
厩舎で、馬に荷を積んでいるところに、ナディーヌはやって来た。
「やはり、残る事はできないの?」
ふいに声をかけられて、シルヴァンは驚いた。
「ああ」
言葉少なく、シルヴァンが答えると、ナディーヌがさらに近づいてきて言った。
「残って、ジェラールを助けてあげて」
涙を浮かべて懇願するナディーヌに、シルヴァンは少しだけいらだちを覚えた。
兄とナディーヌは、すでに婚約していたが、すでに妻であるかのような言い方がほんの少しだけしゃくに触ったのだ。
自分が家を出て行く理由を、ナディーヌは少しも考えた事が無いのだろうか。
「シル……」
いいかけたナディーヌの腕をとり、シルヴァンは自分の唇を乱暴にナディーヌの唇に重ねた。唇というよりは、歯が一瞬ぶつかり合うような無骨な口づけに、ナディーヌは驚いて飛び退り、シルヴァンの横顔を平手で撃った。
「シルヴァン、どうして、こんな……ッ」
ナディーヌの顔には、驚きと怒りと戸惑いが同居していた。感情を制御する事ができないのか、頬を涙が伝い落ちていく。
「俺は、ここにいるべきじゃないからですよ、義姉上、ジェラールと、兄と、どうかお幸せに」
そう言って、シルヴァンは振り返る事なく、馬を引いていった。そのまま家を出て、何年経過しただろう。風の噂で、ジェラールとナディーヌは睦まじく、子供にも恵まれたと聞いている。
兄には、時折近況を手紙で知らせる事はあったが、ナディーヌとは言葉を交わすどころか、手紙ひとつ書いた事は無い。
思い出すのは、幼い日、共に野山を駆け回っていたナディーヌの笑顔ではなく、旅立ちの日に見た泣き顔ばかり。
何故もっと、別の別れ方ができなかったのだろうと、シルヴァンは悔いている。しかし、だからといって、自分が家に残っていたら、さらなる悲劇が三人に降りかかったに違いない。
どれほど剣の道を極めても、シルヴァンの迷いはいまだに晴れる事が無かった。
夢の中で、何度ナディーヌを犯し続けただろう。
あってはならないと己を戒めれば戒めるほどに、夢の悪魔はそれと知って、惑わすような夢ばかりを見せるのだ。
あの厩で、兄の名を呼びながら、シルヴァンによってよがり狂う姿を。
しどけない姿で、シルヴァンを求めるナディーヌを。
幼なじみを大切にしたいという気持ちと、美しいと思っている女を組み伏せたいという獣じみた欲望の間で、シルヴァンは理性を保つために相手の前から姿を消した。
兄を尊敬し続けたかったし、兄の妻となる幼なじみを守りたかった。自分の劣情から。
けれど、それをナディーヌに伝えてどうしたかったのだろう。
自分の向けた好意に気づいて欲しかったのだろうか。
最後の最後にしでかしてしまったヘマを、延々と悔いながら、シルヴァンは生きてきた。
誰も身近に置かず、距離をとっていたというのに、そんなシルヴァンの敷いた結界を、ベレニスはやすやすと飛び越えて来た。
ナディーヌとは似ても似つかない、少年のような女。
けれど、シルヴァンはベレニスから目が離せなくなっていた。
ビルドラペへ一人向かうのだと、男の格好をして。
初めて会った時、シルヴァンはベレニスを少年だとばかり思っていた。しかし、疲れて眠ってしまったベレニスを部屋へ運び、襟元を緩めようとした時に、見てしまった。
キツく締め付けられた胸元。男性の特徴を持たないがゆえに隠されていた喉から、ゆるめた襟元へ繋がるなめらかな肌。
運び上げた時に、その軽さに驚き、尻の柔らかさに戸惑った。
ベルナールと名乗った男は、ベレニスという女だった。女の身でどうして、と、思っているが、ベレニス自身が語ろうとするまでは待つべきだとシルヴァンは考えている。
並の事情があるとも思えない。
だが、もしベレニス一人で隊商に加わったとしたらどうだろうか。遠からず女だとがわかった時に、彼女がどう遇されるか。
もちろん、そのまま旅の仲間として受け入れられ、無事にビルドラペまで行く事もあるだろう。しかし、シルヴァンは自分がそうであるように、男が女に対して抱く感情が一つでは無いことを知っている。
それは制御しなくてはならないし、するべきだとも思う。しかし、制御が聞かない事は起こりうるのだ。かつて、旅立ちの日に、無理やり唇を重ねたあの時のように。
守りたいと思った。
かつて自分が守れなかったように。
シルヴァンは起き上がり、既に寝入っている様子のベレニスをうかがった。規則正しい寝息が聞こえてくる。少なくとも、今はまだ、自分は信頼されているだろうと思う。
その信頼を裏切りたくは無かった。
シルヴァンはため息をついてから、自分自身も眠る為に横になった。