聖都へ!
シルヴァンが戻ると、ベレニスは既に眠っていた。窓から差し込んでいる月明かりが、整った鼻梁の陰影を作り出す。頬に残った涙の痕に、驚かせてしまったかと、我が身を振り返る。
ベレニスは、ナディーヌと共に居た自分をどう思ったのだろうか。
すぐに否定しなくては、そう思い、急ぎ戻ってくるつもりが、実際はそれとは真逆な結果になってしまった事を、呪わしく思う。
若気の至りが、ここまで厭わしく追いかけてくる。短慮はつつしまなくてはならない。
理性ではそう思っているのに、ベレニスの実体を見てしまうと、心が迷いだす。
このまま、その身の純潔をも奪いたくなる。
それは、ベレニスに、一生消えない傷をつける事に等しい。
無垢な魂を、踏み荒らし、蹂躙する事を、躊躇う以上に、そうして傷を着ける事で、ベレニスの生涯における、ただ一人の男になりたいという欲望が疼きだす。
そうして、どうなるのだろう。
自分の身分を明かし、一時の気の迷いだと、一時の劣情だと彼女に伝えるのだろうか。
彼女の苦しみすらも、我が身に向けられるのであれば愛おしいと思うのだろうか。
……否。
今以上の罪科をこの身にしくだけでなく、ベレニスにまで背負わせるのは間違いだ。許されない事だ。
目の前にある、清浄な泉。乾きをいやす為に差し入れたいとうずく手を、貪りたいと思う唇を、今は留める他に無い。
「ベレニス……、俺は……お前を……」
声にならない言葉が、床に落ちて散らばり、砕けてあわいに消えていった。
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早朝、夜が明けきらない内に、シルヴァンとベレニスは市長邸を後にした。礼を失するのでは? と、しきりに不安がるベレニスに、シルヴァンは気にするな、と、言う。
王に対してのこの態度はどういう事だろう、やはりシルヴァンは無頼の徒なのか、とも。
いつもならば並んで歩くところを、シルヴァンに着いてベレニスはゆっくり、少し遅れて着いて行く。
シルヴァンが進み、立ち止まって振り返るとベレニスも立ち止まる。
シルヴァンが進むと、ベレニスもまた進む。
一定間隔を開けて、近づき過ぎないよう距離をとっているのだと気づいて、シルヴァンはひどく寂しい気持ちになった。
自らが招いた事だと理解はしていたが、かつての思い人の嫌がらせが身にしみる。
ナディーヌ。
しかし、兄はあれが彼女の素だと言った。
では、ベレニスもそうなのだろうか。清らかだと思っているのはシルヴァンの思い込みにすぎず、実際は、注目されていなくては気がすまないような女なのだろうか。
シルヴァンが歩く速度をあげるとベレニスも速度をあげる。
シルヴァンが立ち止まるとベレニスも立ち止まる。
シルヴァンがぱっと振り向くと、驚いてベレニスも立ち止まった。あわてて立ち止まって、よそけそうになるのを、足を踏ん張ってこらえる様がなんとも愛らしかった。
すたすたすたすたすた。
すたすたすたすたすたたっ!
思い切り勢いをつけていたシルヴァンが急に立ち止まると失速したベレニスが思い切り背中にぶつかった。
「……ひどい」
思わずベレニスが言うと、シルヴァンが声をあげて笑った。
「ひどいッ!」
ベレニスは、怒りをあらわにしたけれど笑っているシルヴァンを見てつられて笑ってしまった。
二人揃って笑いあったものの、気まずさでベレニスがまた口をつぐんだ。
「俺を、怒っているか? ベレニス」
シルヴァンが言うと、ベレニスは驚いた表情を作った。
「いや、そういうわけでは……」
急停止の後ベレニスがシルヴァンに激突したのはともかくとして、昨夜の王妃とのただならぬ様子に、ベレニスが怒りをあらわにする理由は無い。
「ナぜ、私が怒らなくちゃならないんだ」
声を裏返らせたベレニスを愛おしそうに見つめるシルヴァンに気づいてベレニスは視線をそらした。
「……いや、その、嫉妬してくれたのかと、……思って」
言いかけてから、自分の言葉の意味に気づいたのか、シルヴァンが語尾を濁す。
「なんで私が! どうして」
文句を言おうと拳を振り上げたベレニスだったが、どこかうれしそうなシルヴァンに驚いて赤面する。
「……どうして、うれしそうなんだ、シルヴァン」
「いや、別に……」
含み笑いを噛み殺すようにしているシルヴァンをベレニスは追い抜いて早足で歩き始めた。
「さあ、隊に戻らなくては! 出発に遅参してはまずいぞ」
シルヴァンを追い抜きながら言うベレニスを追って、シルヴァンも足を速めた。
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「あー、二人仲良く朝帰りですかー」
戻ってきた二人を見てアメデが微笑ましそうに声をかける。
「「違う!」」
ベレニスとシルヴァンが声を揃えると、アメデは大げさにため息をついてやれやれという顔を見せた。
やっぱり仲良しじゃないか、という言葉を発する事なく、態度がそれを告げていた。
リュジオンプリで充分な休息と補給を行ったデジレ商隊は、再び聖都ビルドラペを目指して出発した。
シルヴァンにとっては最後の旅。
ベレニスにとっては、己の自由をかけた旅。
シルヴァンは、ベレニスの事を守り、悔いを残すまいと考え、ベレニスの方は、シルヴァンに対しての距離をつかみかねていた。
素性は追求しないと明言したものの、シルヴァンのこれまでの人生を、王妃といったいどんな関係であったのかを、尋ねたいと願っているものの、自分がどうしてそこまでシルヴァンを知りたいと思うかという事については、判断がつきかねていた。
相談をするにも、そんな話ができそうなのはシルヴァンしかいないというのが、なんとも皮肉だった。




