王妃からのいやがらせ
通されたのは、薄暗い部屋だった。窓があって、外の松明の明かりで照らされてはいたが、部屋の中には照明が見当たらない。
こんなところで、兄は何の用事だろうか。シルヴァンは思いながら、待つように言われたその場所で、ぼんやりと窓の外を見ていた。
城を出奔したころは、ナディーヌの事ばかり考えて、荒れていた事もあった。他の女で気を紛らわせようとしたが、女の肌を知る事で、夢に出てくるナディーヌの姿がより具体的になっただけだった。
己の身を傷めつけるように修行に励み、命をなくしても構わないという捨鉢な気持ちで、荒れに荒れた時代、シルヴァンには黒鷲などという不名誉な二つ名もついた。
このまま殺し屋稼業まで身を落とすか、そう思い送ってきた日々であっても、時間の経過は、ゆっくりと痛みをやわらげる。
劣情が去れば、その先には、驚くほど凪いだ日々があった。
静な湖のように、さざなみ一つ立たない静謐な心境に達しても、どこか人恋しく思い、きまぐれに街へ出ても、誰もが遠巻きにして近寄っては来ない。
全ては己のせいだとあきらめて、少々の寂しさと共に、送ってきた日々に、唐突に日がさした。
ベレニスは、世間知らずゆえか、自分を怖いと思っていないようだった。
真っ直ぐに、聖都を目指すあの娘を、無事に送り届けたいと思ってしまったのは、寂しさがあったせいだろうか。
ベレニスの事を思い出すと、心が暖かくなる。
ナディーヌに対して感じるのとは全く別の、おだやかな、春のような暖かさ。
「……シルヴァン」
闇のわだかまりから、ふいに自分を呼ぶ声がして、シルヴァンは驚いた。近づいてくる気配に気づかないおどに、自分は呆けていたという事か、と、ベレニスの事を考えていると、集中力を欠いてしまう事に、わずかではあるが畏れを覚えた。
「……王妃様、義姉上とお呼びすべきか、兄の名を語って俺を呼び出すとは、いったいどういう了見だ」
窓に近づくと、薄物をまとったナディーヌの姿があった。王妃というには妖艶すぎるその衣装に、シルヴァンは鼻しらむ。城を出たばかりの頃に、このようなしどけないナディーヌを見たならば、そのまま押し倒していただろうな、と、苦笑できるほどに、シルヴァンは枯れていた。もちろん、ベレニスに対してはその限りでは無いのだが。
「昔のように、ナディーヌとは呼んでくれないの? シルヴァン」
甘えるような声が、今は不快ですらあった。これが、本当に、自分があれほど焦がれた女だろうか。
「俺は今、兄の臣下では無いが、ウーティアの民の一人として、貴方を崇敬しなくてはならない、……と、思っている」
だから、王妃としてふさわしい振る舞いをして欲しい、というそれはシルヴァンの皮肉でもあった。
「久しぶりにあなたに会えて、うれしかったのよ、私、あなたの事を……」
しなだれかかってくるナディーヌから身をかわしながら、シルヴァンは続ける。
「義姉上、どうか、俺を失望させないでくれ」
「だって、知らなかったのだもの、あなたが、私にあんな……、うれしかったのよ、私」
「昔の事だ、俺は若かった」
「今は違うというの?」
しゅるり、と、紐を解く音がして、ナディーヌの薄物が一枚はがれて床に落ちた。白い肌と、豊かな乳房が暗い中でも、明かりを反射して妖しく輝く。
「ああ、違う、頼むから、それ以上近寄らないでくれ、俺は姦通罪に落されたくない」
忌々しく言ったシルヴァンの言葉の意味を、ナディーヌは別の意味にとったようだ。
「何故、王妃には許されないのかしら、王は愛人を持って、子まで成したというのに」
兄に愛人がいて、さらに子供までいる事を知らなかったシルヴァンは返答に窮した。父にも愛人はおり、異母兄弟はシルヴァンにもいる。血族で代を繋ごうとしていくと、どうしても多く血縁を残す必要が出てくる。それは、血統で王者になる者に課さられた責務なのだとうと、自分は納得してきたし、おそらく兄もそうなのだろう。
けれど、ナディーヌには、それが許しがたい事のように思えるのだろう。
「義姉上が、今、どういうお立場にあって、何を必要としているか、俺にはわからない、だが、俺は兄を裏切りたくない」
「城を出て、好き勝手しているあなたに言われたくはない!」
ナディーヌは泣いていた。大粒の涙が頬を伝って溢れている。
「……シルヴァン、私、ずっと、あなたを……」
ナディーヌの腕が、シルヴァンの方に伸びていく、あわててそれをはねのけようとした時に、扉が開く音がした。
廊下の明かりを背負って、影になっていたが、それは、ベレニスだった。
「あ、あの、わた、僕、シルヴァンが呼んでいると聞いて、……その」
ナディーヌのしどけない姿を見て、頬を赤く染めたベレニスが、叫ぶようにして逃げていっった。
「申し訳ないッ!」
一瞬、何が起きたのかわからないといった様子のシルヴァンを、おもしろそうに見上げて、ナディーヌが笑い出した。
先ほどの涙など、どこへ消えたかのような、酷薄な笑顔だった。
「あら、見られてしまったわ」
シルヴァンの方に、くるりと背を向けて、床に落とした薄物をナディーヌが再び羽織りなおした。
「どういう事だ、これは貴女の謀か」
怒っている様子のシルヴァンを見るのが楽しくて仕方ないという様子のナディーヌは言った。
「謀? そんな大げさなものではないわ、暇つぶしよ」
背もたれの大きな椅子に、女王然として座るナディーヌは、シルヴァンの知らないナディーヌだった。
「久しぶりにあなたに会って、おあずけをくったあなたの顔をみてやろうと思ってたのに、あなたときたらあの子ばかり見ているんだもの、私をあきらめて、少年愛に走ったの?」
無言でいるシルヴァンが反応してこないので、おもしろくないのか、ナディーヌはさらに言葉を続ける。
「私が欲しいという顔をしている貴方をからかってやりたかったのに、すっかり私の事など眼中にないのだもの、だから、ちょっといじわるしてやろうと思って」
「そんな事に、どんな意味があるんだ」
絞りだすようなシルヴァンの言葉に、満足したようにナディーヌは答えた。
「意味なんてないわ、おもしろくなかっただけよ、あなたが、私を無視するから」
「正気なのか? 俺は、貴女が何を言っているのかわからない」
「私、あなたの気持ちに気づいていたわ」
「では、あの日、俺が求めたなら、貴女は俺と逃げてくれたというのか」
無意味な、何度も思い描いた問を、今シルヴァンはナディーヌに向けて尋ねた。
「そんな事、するわけないじゃない、私は王妃になりたかったんだもの」
「だったら、どうして」
「王妃になって、王妃でありながら、ジェラールと褥を共にする私を見て、劣情をだきらせるであろう貴方を近くで見ていたかったのよ、シルヴァン、貴方気づいていないでしょう、劣情に耐えている貴方は、とてもイイ顔をしているの」
一方的にまくしあげて、ナディーヌは見せつけるように足を組み直した。
「そんなあなたに劣情を向けられている、そう思うだけで……」
ナディーヌは、頬を紅潮させて、両膝をこすり合わせる。シルヴァンも見たことのないような淫らな顔だった。
「場合によっては、貴方と肌を合わせてもいいと思っていたけれど……」
「やめてくれ、もう、うんざりだ」
吐き捨てるようにシルヴァンが言うと、ナディーヌの顔から表情が消えた。
「まるで、汚いものでも見るような瞳ね」
「貴女は、自分が汚れていると思っているのか」
「ああ、そうだ、あの子、もう一度呼んできましょうか、そして、三人で」
「ナディーヌ!!」
シルヴァンが声を荒げると、ナディーヌは白けた様子で立ち上がった。
「興が覚めたわ、下がりなさい」
冷ややかにそう言うナディーヌの声と顔が、偽り無い彼女の今の素直な表情なのだろうか、と、シルヴァンは思ったが、振り返らずにその場を立ち去ろうとした。
シルヴァンの背に、ナディーヌの声がかかる。
「陛下に愛人がいるなんて、嘘よ」
少なくとも、兄が妻をないがしろにしているわけでは無い。その一点のみは、シルヴァンを安堵させた。




