赤い薔薇は憂鬱に咲く 9
屋敷に戻ってすぐに令嬢の扮装を解き、浴室で急いですべてを洗い流した。その間もずっと脳裏からエジェリーのことが消えない。ルイと対面したあの光景もちらつく。
いきなり叫び出したいような心境だった。それを押し込めてガウンを羽織った。
濡れた髪も丁寧に拭かないで僕は自室へと駆け込む。このモヤモヤした気持ちをルミアに聞いてほしかった。
バン、と扉を勢いよく開くと、そこにいたのはルミアだけじゃなかった。むしろルミアは銀トレイを胸に抱き、壁際に控えている。困った顔をしているのも当然だった。ソファーでふんぞり返ってるのはクロードだ。
「クロード!? なんだこんな時間に!!」
素直に帰れよ!
ルイは城にいるんだと思う。ここにはいない。
クロードはふぅ、とため息をつくと脚を組み直した。
「少し作戦会議でもしておこうかと思ってな」
「作戦会議だぁ?」
僕が無遠慮な声を出したせいかルミアが壁際で焦ってた。でもクロードは気にしない。
「兄上とエジェリー嬢の顔合わせは済んだ。次のステップだ」
ぐぐぐ、やっぱりそれか。
僕が疲れ果てて部屋に入ると、ルミアが扉を閉めてくれた。仕方がないからクロードのそばへ行くと、クロードはソファーから僕をじっと見上げた。
「……なんだよ」
不機嫌にそう返すと、クロードはぽつりと零した。
「アンリ、お前、背が伸びたんじゃないか?」
「え?」
「まあ、伸びて当然だけどな」
……。
そうだよ。そりゃあ男だから伸びるよ。育ち盛りだし。
今の僕は女性にしては長身のルミアと目線が同じくらいだ。そのうち抜かすんだろうな。
「やっぱり、急がないとな」
なんてことをクロードはつぶやいた。僕の女装に無理が出るのも時間の問題って?
それまでにルイが僕のことを諦めるように仕向けなくちゃいけない。
わかっちゃいるんだ。でも、そのためにエジェリーを使いたくない。
僕は正直な気持ちを伝えるしかないと思った。覚悟を決めて口を開く。
「僕、嫌なんだ」
「は?」
クロードは身を起こして僕を見据えた。眉根が少し寄って難しい顔つきになる。
その顔怖い。でも、言うしかないって僕は覚悟を決めた。
「その、僕はエジェリーを道具みたいに使いたくないんだ」
すると、クロードはそんな僕を鼻で笑った。
「上手く行けば彼女は王族の仲間入りだぞ。それのどこがいけないんだ?」
反論しづらい。
そう、例え側室だろうと名誉なこと。彼女にとっては悪い話じゃない。僕が嫌だっていうだけの話だから。
言いよどんだらクロードに手首をつかまれてソファーに押しつけられた。クロードは僕に顔を寄せて凄む。
「なあ、何が問題なんだ?」
「や、あの、そのっ」
「それくらいになさって下さいませ!」
ヘビに睨まれたカエル状態の僕をルミアが助けに入ってくれた。僕とクロードの間に銀トレイを差し込んだのは慌てたからだろうか。
「アンリ様はあのご令嬢をお気に召されたのですわ。いくら女性のように振舞ったところで男性なのですから仕方のないことです」
うわぁ、バラした!
こんな時間じゃなければ僕は間違いなく叫んで暴れてた。ただ、暴れなくても顔には出てたのかも知れない。クロードは銀トレイを押しのけると僕の顔をじぃっと見つめた。
「ほぅ」
そこで薄ら寒くなる微笑が来るのはなんでなんだろ。
「じゃあ、兄上にとってエジェリー嬢は恋敵か。面白い」
面白くないし!
「面白くなどございません! 心惹かれた女性を差し出せなどは惨いことです。どうかアンリ様のお気持ちも察して下さいませ」
僕が言いたいことを代弁するかのようにルミアがクロードに言ってくれた。彼女は裕福な商家の出で、幼少期から少なくとも孤児院にいた時の僕よりもちゃんとした教育を受けてる。王子のクロードに身分を逸脱した物言いをすることは珍しい。それほどに僕を心配してくれてるってことなんだ。
クロードもちょっと驚いたような顔をした。ルミアの本心を探るような目を向ける。でも、ルミアはそれを真っ向から受けてた。
「麗しい忠誠心だね」
にこり、と微笑む。その笑顔、怖いよ。
でもクロードはそこから僕に言ったんだ。
「まあ、彼女に免じて他の方法も考えてみるか」
あれ? あっさり。
僕は恐る恐るクロードに訊ねてみた。
「どうしてクロードは僕に協力しようとするんだ?」
「協力しなかったらお前は私の義姉上だ。それを回避するのはそんなにも不自然か?」
「不自然……じゃないけど、それなら僕の正体を正直にルイに伝えた方が手っ取り早いじゃないか。どうして手の込んだ方法を取ろうとするんだ?」
ルイとクロードは正反対の性格だけど仲は悪くない。兄の心配をしてのことかも知れないけど、クロードがそう甘い考えを持ってるとも思えないんだ。何かありそうで。
「それはお前に恩を売るためだ」
「はいぃ?」
あんまりにも堂々と言うから耳を疑った。でも、クロードは平然と言う。
「お前に恩を売っておいて損はない」
何それー。やっぱ怖いし、コイツ。
僕がドン引きしたのがわかったくせに、クロードは楽しげにクスクスと笑った。ルミアが困ったようにため息をついた。
「まあ、エジェリー嬢をお前が気に入ったのなら、兄上にあてがうのは止めておこう。ただ、あんなに無防備な娘ではすぐに誰かの手がつくだろうよ。そこも少し考えておかなければな」
とんでもなく不吉な言葉だ。
僕が固まってしまったのがわかったのか、クロードはああ、とつぶやいた。
「エジェリー嬢は三日間だけ領地に帰るそうじゃないか。よし、手を打ちに行くか」
「え!」
どこで手に入れた、その情報!
驚いて声を上げると、クロードはにやりと笑った。
「兄上のことはひとまず置いておこう。先にエジェリー嬢を押えておいてからでもいい」
ほんとに、なんでクロードは協力してくれるんだろ。そこがはっきりしないのに頼るのはマズいのかな? そうは思うけど、僕には他に頼れる人もいないんだ。
「……あの、さ」
「なんだ?」
「ありがとう」
素直に礼を言うと、クロードは苦笑した。
「礼なんて言って、後で怒るなよ」
どういうことだ、それ。
「……あの、どうかアンリ様をよろしくお願い致します」
ルミアもクロードにペコリと頭を下げてくれた。
「ああ。それじゃあ明後日に出発しようか。心構えだけはしておけよ」
エジェリーの故郷はどんなところだろうか。彼女みたいに爽やかでいいところなんだろうなぁ。
そうして僕はクロードとスカルディア男爵の領地へ向かうことにしたんだ。
クロードが帰って、寝る前に僕は少しだけ本を開いた。
婦女子の間で人気のあるような流行の小説とかじゃない。むしろ女性が興味を示し難い政治の本。
僕はいつか男に戻る。そうした時、知識や言動で劣っているとは思われたくない。
男に戻りたいと思うなら、僕も喚くだけじゃなくて身につけなくちゃいけないことがある。そのための努力は必要なんだ。
その時、この家にいてもいいのかわからないけど、それでも僕は――。