赤い薔薇は憂鬱に咲く 22
「ア、アンリエッタ様?」
エジェリーが僕に抱きすくめられて体を強張らせた。僕はそんな彼女の耳もとでささやく。甘い香りが脳を痺れさせるみたいな感覚がした。
「……アンリの代わりに。アンリが堂々とあなたを迎えに来れる日はすぐそこだから、もう少しだけ待って」
ギュ、と腕に力を込めると、エジェリーが体を強張らせたのがわかった。
アンリの代わりにって、妹がソレおかしいだろ。自分で言っておいて冷や汗をかきながら心で突っ込んだ。
あー、どうしよ。考えなしに行動しちゃった。頭が冷えてくると冷や汗が滲む。
エジェリーはびっくりしていたけど、少し慣れたのか冷静になったみたいだ。体の緊張が解れて行く。
早く離さなくちゃと思いながらも、僕の手は願望に正直でいうことを利かない。そうしていると、エジェリーが僕の腕の中でポツリとつぶやいた。
「あの、アンリエッタ様」
「な、何かしら?」
動揺が声に出る。エジェリーはやっと体を離しかけた僕の胸にそっと手を添えた。
「アンリエッタ様とアンリ様、どちらが真実のあなたなのでしょうか?」
ギク。
エジェリーは少し睨むようにして僕を見上げた。
「抱き締められた感覚がまったく同じです。一体あなたは――」
僕は深々とため息をついてその先を遮った。コツリ、とエジェリーの肩に額を預ける。
「それを聞いたら後には引けないよ。それだけの覚悟をしてくれるなら話すけれど」
偽りの令嬢としてじゃない、僕の言葉としてエジェリーに言った。エジェリーはわかりましたって答えた。
あんまりにもあっさりと答えるから、僕の方がびっくりして顔を上げた。エジェリーは意外なほど晴れやかに笑ってる。
「どうかお話し下さい。私を必要だと感じて下さるのなら」
嬉しいんだけどさ、その天使みたいな笑顔に僕はやっぱり疚しい気持ちも抱えた。
ため息と一緒に正直な気持ちが零れて行く。
「エジェリーは優しいね。僕は自分が気を回せなかったくせに、君がロランと一緒のところを見ては、僕のことなんてもうどうでもいいんだって僻んで君に意地悪なことも言ったし、嫌な思いをたくさんさせたのに……」
語尾が滲んで夜気に溶けた。
エジェリーはクスクスと声を立てて笑う。その笑い声はどこか弾むように楽しげだった。
「そんなことを考えていらしたのですか?」
「うん……」
僕は情けないほどにしょんぼりとうなずく。そんな僕にエジェリーはどこまでも優しかった。
「そうですね、もし先にロラン様と知り合っていたらわかりません。でも、私はアンリ様に先に出会ってしまったのです。だから私はアンリ様に惹かれるように定められていたのかも知れません」
「エジェリー……」
その言葉が嬉しくて、僕はエジェリーの細い体をもう一度抱き締め直した。息が詰まったのかエジェリーが少しもがいたから、僕は慌てて力をゆるめた。
そして、やっとポチポチとこのナリの事情を説明するのだった。
いやそんなゴタイソウな理由じゃないって言われたらそれまでなんだけど。
エジェリーは涙の跡の残る目を瞬かせた。
「まあ、王子殿下が……そういえば、そうでしたね」
「でもそれは解決したから。ちゃんと話してわかってもらった。だから僕はもう男に戻る」
すると、エジェリーはちょっとだけ考え込むような仕草をした。なんだろう?
僕が言葉を待つと、エジェリーはとんでもないことを言った。
「そんなにもドレスがお似合いなんですもの。ちょっと勿体ないですね」
うん?
ちょ、母様みたいなこと言わないでよ……。
僕のショックが顔に出たのか、エジェリーは悪戯っ子みたいに笑った。本当に表情がクルクルと変わって、見ていて飽きない。
「冗談ですって。男性の格好のアンリ様の方がずっと素敵です」
その笑顔が可愛くて、僕は思わず滑らかな頬に手を伸ばして――。
軽く唇が触れ合った。エジェリーは驚いて固まってしまう。僕はエジェリーの顔が認識できるギリギリの至近距離で彼女に笑顔を見せた。
「この格好じゃ倒錯もいいところだからな。この先はもうちょっと待っててよ」
え、あ、はい、と赤くなってつぶやいたエジェリーの可愛かったこと。
待たなきゃいけないのは僕も同じで、むしろ僕の方がつらい……。
最後にもう一度ぎゅうぅっとエジェリーを抱き締めて、そして僕は体を離した。
ロランのことはちゃんと断るって約束してくれた。でも、きっとロランはエジェリーを簡単に諦めないと思うから、僕はなんとかしてロランに勝てるようにならなくちゃいけない。
これから色々と大変かも知れないけど、僕が望むことに向けての努力だから少しもイヤじゃない。
ああ、幸せだなって心の底から思った。
そうして僕たちは何食わぬ顔をしてホールに戻った。そういえば扇を拾って来るの忘れたけどもういいや。
ホールでは疲れた顔をしたロランにクロードが結構しつこく話しかけてたみたいだ。クロードも、僕らがなかなか帰って来ないから内心ではイライラしてたかな。ルイはちょっと意外なことに壁際から令嬢たちに目を向けてた。
今までは僕にしか興味を持たなかったから他の令嬢なんて見向きもしてなかったけど、それじゃいけないって思ったんだろう。ルイはいずれ王様になるのかも知れない。それなら余計に伴侶は重要だから。
ジョゼたちは興味津々に僕とエジェリーを遠巻きに見てた。でも、僕たちは喧嘩どころか仲睦まじい様子で笑い合う。これじゃあ拍子抜けだろう。
でもさ、アンリエッタがいなくなったら令嬢たちのパワーバランスが崩れる。エジェリーはどう立ち回ると安全なのかな。
僕がそんなことを考えていると、ルイが僕の方へやって来た。僕はなんとなくエジェリーを背中に庇うようにして立った。いや、エジェリーに鞍替えされたら困るんだって。
でも、その心配は要らなかったみたいだ。ルイは僕をまっすぐに見据えると、真面目腐った顔をして言ったんだ。
「最初で最後と思って、一曲だけ踊ってくれないか?」
そうしたら、気持ちの整理もつくから、なんてゴニョゴニョつぶやいてる。僕は思わず苦笑した。
ルイのはっきりしない位置にある手に自分の手を添えると、ルイにだけ聞こえるように小さくささやく。
「わかった。でも友情のしるしにだからな」
「あ、ああ」
だから、頬を染めるな。
最初で最後。なっがいこと僕に恋してた間抜けな王子。
男に純粋っていうのが褒め言葉なのかはちょっと怪しいけど、嫌なヤツじゃないから。
できることなら幸せになってほしい。
僕はぎこちないルイとワルツを踊りながらそんなことを思った。ルイの動きはぎくしゃくしてて、僕の方がなんとかしてリードした。足を踏まなかったから、まあ及第点だな。
手を離す時、お互いがんばろうなとエールを送る気持ちだった。