赤い薔薇は憂鬱に咲く 14
このまま時が止まったらいいのに。そう思える愛しい時間だった。
細くて小さなエジェリーの手を握り、何かを語り合うでもなく木を背にして過ごした。そうして繋がっていられる今を噛み締めていた。手から伝わる息遣いや体温が心地いい。
でも、そんな時間は瞬くほどに速く通り過ぎて、気づけば暮れの鐘が鳴る。その音に僕もエジェリーも驚いて顔を見合わせた。ああ、クロードを待たせてるし、戻らなきゃなぁ……。
「帰ろうか」
僕はエジェリーに向けて苦笑した。
一瞬、エジェリーは何か物言いたげに唇を開いた。でも、その先を飲み込んだみたいだ。ちょっとだけ寂しそうにうなずいた。そういう仕草をされると僕も思わず抱き締めたくなるんだけど。
坂を昇りながらエジェリーはぽつりと言った。
「あの、アンリエッタ様にアンリ様のお話をしてもよろしいのでしょうか?」
「え、ああ、いいよ。でも、他の令嬢たちがいるようなところは駄目だ。二人きりかクロード王子だけしかいない時なら大丈夫だけど」
なんて思わず返しちゃったけど、大丈夫かな?
なんででしょう? って訊ね返されたら上手くかわせない。
僕はドキドキしながらエジェリーのリアクションを待った。エジェリーは嬉しそうに微笑んでうなずく。
「はい、わかりました」
その素直さに僕はほっとした。でも、それと同時に少しの疚しさも感じられるけれど、突き詰めて考えると苦しくなるのがわかってたから、僕はその気持ちにフタをした。
今はこの笑顔に酔っていたい。
ヴェイブル領の夕日は都よりも幾分赤く感じられた。その鮮やかさにエジェリーの髪は綺麗に染まる。僕はそれを目に焼きつけながら歩いた。
後少し。後少しで僕は帰らなくちゃ。
魔法が解けるのは御伽噺の『お姫さま』のはずなんだけどな、偽りの姿に戻るのは僕の方。
……気が滅入る。
僕たちがスカルディア家の敷地に戻るまでもなく、手前の道にクロードはいた。馬車の車体を背に、エラソーに腕を組んでる。いや、実際に偉いんだけど。
僕たちの姿を認めてクロードは車体から体を浮かせた。
「ちゃんと戻ったな」
からかうような響きの声だった。
「どうだった、町は?」
コイツ、僕たちが町なんてろくに回ってないことに気づいていながら訊ねて来てるな。エジェリーは少し困惑して恥ずかしそうにうつむいた。
「いいところだったよ」
僕は堂々とそう言ってやった。どうせ後で馬車に乗ったら詳しい報告をしろって言うんだ。
でもまあ、こうしてこの場に連れて来てくれたのはクロードだ。
それくらいは仕方ない。感謝もしてなくはない。
「そうか、それはよかった」
と、クロード様は完璧な微笑を浮かべた。そういう見透かした顔が腹立つけど。
「もう少し時間が取れたらよかったんだけどな、都までは遠いから早く出ないと今日中に帰れない。名残惜しいとは思うが」
「うん。エジェリーを屋敷まで送って来てもいいか?」
そう訊ねたら、エジェリーはとんでもないとばかりにかぶりを振った。
「ここはもう我が家の敷地ですから、何も危険はありません。どうぞお気になさらないで下さい」
王子のクロードを待たせてまでなんて、と言いたいんだろう。それと、見ず知らずの男が屋敷までついて来ると家族への説明に困るってことかも知れない。
うーん、あんまり無理矢理も駄目かな。
僕は渋々ここで別れることにした。でも、また次の社交場で会える。だから寂しくはない。
アンリエッタとしてだけど、それでも会えないよりはずっといい。
「そうか。でも、気をつけて。では、また――」
別れの言葉を僕が口にした時、エジェリーは一瞬澄んだ瞳を寂しそうに細めた。そんな気がした。
僕にはそれがすごく嬉しかった。
「はい。また……」
と、胸もとで手を握り締める。あの小さくて柔らかな手を。
クロードと馬車に乗り込み、車内のカーテンを開けて僕は精一杯手を振った。エジェリーも飛び跳ねるようにして大きく手を振り返してくれた。
少し凹凸のある石畳の上を車輪がガラガラと滑る。遠ざかる馬車をエジェリーは見えなくなるまで見送ってくれた。
随分長いこと僕は窓にかじりついていた。痺れを切らしたクロードが、低い声を漏らしたから我に返った。
「で?」
来た。来たよ……。
僕は大人しくクロードの向いに腰を下ろす。腕と脚を尊大に組んだクロードに、僕は照れつつつぶやく。
「ええと、その、まあ、まずまずの成果があったんじゃないかと思う」
「へぇ。それは頑張ったな」
クロードはちょっと驚いた風だった。ただ、その後でとんでもないことを言う。
「まあ、孕ませてもお前が疑われることはないよなぁ」
うん?
はら――!?
愕然とした僕に、クロードはにやりと笑う。
「で、どうだった?」
ニコニコと王子サマは下卑たことを訊く。僕はプルプルと震えながら怒鳴った。
「アホか! いきなり襲うわけないだろ!!」
あんな純粋な娘を!
そうしたら、クロードはケロリと言った。
「冗談に決まってるだろう? お前は兄上といい勝負だからな」
ルイと一緒にはされたくない。されたくない。
でも、クロードから見たらどっちも大差ないのか。心外だけど。
「そ、の、気持ちを伝えて、少しだけ待っていてくれないかって言った」
「まあ、妥当なところだな。で、彼女はなんて?」
「前向きに考えるって……」
クロードは小さくうなずいた。そこにからかうような表情がなかったことが意外だった。
「よかったじゃないか」
「う、うん」
あんまりにもあっさり祝福してくれるから、僕の方が驚いた。いや、クロードが僕をからかって遊んでばっかりいるっていうんじゃないんだけど、素直すぎる言葉だから。
そんな僕の戸惑いはすぐにクロードに伝わってしまったみたいだ。クロードは皮肉に笑った。
「それを言った以上、お前が心変わりするなよ」
「しない。僕はエジェリーがいいんだ」
それは本心だった。他の女性なんて比べようもないくらいに彼女が特別なんだ。
クロードは小さく嘆息した。
「そうか。けどな、もしかするとたった一人の女に心を奪われるのは、とんでもなく愚かなことかも知れないぞ」
「……なんだよ、それ」
僕がムッとしてクロードを睨むと、クロードは涼しげな目をスッと細めた。それは少し物憂げで、意外な表情だった。
「いや、私がそう感じる時があるというだけの話だ」
「へ?」
クロードにも想い人がいる?
ううん、恋に溺れた――例えばルイみたいなヤツを見てそう思うってことかな。
まあ、兄貴がああだと複雑は複雑だよな。元凶の僕が言うのもなんだけど。
なんとなく、馬車の中が微妙な空気になった。カラカラカラ、と無言の車内に車輪の音が虚しく響く。
そういえば、クロードってあんまり自分のことは話さないなって改めて思った。