赤い薔薇は憂鬱に咲く 10
――で、僕はスカルディア男爵家の田舎屋敷のあるウェイブル領へと向かうことになったんだけど、早朝に窓の外までやって来たクロードは遠慮なく言った。
「ドレスで行くつもりだったのか?」
「は?」
早朝過ぎて支度もままならない。ボサボサ頭の僕を外から見上げている。王子の癖に自由すぎるヤツだ。
「これに着替えろ」
いきなりそんなことを言うと、クロードは自分のものなのか上質の衣装を僕の部屋に放り込んだ。シルクのシャツに金ボタンの煌くベスト。それから黒いパンツ。靴下と編み上げブーツまで最後に投げ込まれた。
僕はなんとも言えずドキドキしてしまう。
この家に引き取られてからは毎日スカートで過ごした。久し振りすぎる男物の服。
い、違和感があったらどうしよう。オカマっぽく見えたら立ち直れない。
そんな僕の怯えを背後にいたルミアは察してくれたようで、優しく僕の両肩を押すとささやいた。
「さあ、お召替えを」
「う、うん」
戸惑いながらうなずくと、クロードは意地悪く笑った。
「愛しい娘に会いに行くのにドレスじゃマヌケだろう?」
そりゃあそうなんだけど、男の格好で会いに行っても正体はバラせない。アンリエッタのそっくりさんで通すのか?
考えがまとまらない。でも僕がぼんやりしているうちにルミアが僕にシャツとベストを着させてくれていた。パンツと靴下くらいは自分で履く。……裾が余ってるけどブーツの中に入れてしまえばわからない。ルミアはいつも僕の着替えなんて平然としてる。弟がいるって言ってたし、それと同じ感覚なのかも。
ああ、ブーツもでかい。でも少しくらいは仕方ないか。
「さあ、一度鏡台の前にお座り下さい」
ルミアに言われるがままに僕は他の家具とおそろいの白い鏡台の前に座った。化粧はなし。素顔の自分。
……それでも十分女顔だ。
ルミアは僕の長い髪を丁寧に梳かしてくれる。そして、最後に控えめな黒のリボンでひとつに束ねた。
そうして鏡越しのルミアはにこりと優しく笑った。
「これでいかがですか? どこからどう見ても今のアンリ様は素敵な貴公子ですわ」
そうかな? おかしくないかな?
恐る恐る窓辺のクロードを見遣ると、そこからクロードもうなずいた。
「普通にそうしていられたら令嬢たちが大騒ぎしてただろうに、その顔も宝の持ち腐れだな」
それは褒め言葉なんだろうか。深く考えるのはよくないな、止めておこう。
「じゃあ、お前は今日、風邪をこじらせて寝込んでいるということで。ルミア、後はうまくやってくれ」
なんてことをクロードに言われて、ルミアは畏まりましたと頭を下げる。
「風邪? クロードと一緒にウェイブル領に行くのは秘密か?」
僕が素直にそう訊ねると、クロードは鼻で笑った。嫌味な笑い方だ。
「兄上の思い人と二人で旅行なんていい醜聞だ。私はいいが、兄上が落ち込む」
確かに……。
「その格好のお前となら学友で済ませられるからな」
なるほど。
僕のこの格好はお互いのためだな。
「父様と母様にも内緒か?」
「いや、そこはすでに話してある。気にするな」
一見ほのぼの夫婦だけど、あの二人、本気出したらすごいと思う。僕が急にいなくなったら話をすごく大事にしてしまうから、そこはちゃんと知らせたんだ。抜かりないな。
クロードは窓辺から指先で軽く僕を誘う。
「さて、じゃあ来いよ」
「窓から?」
「窓から」
行儀が悪いなんて、男なら気にしなくていい。
孤児院にいた時、終始そんなだった。より近いところを突き進んで、乗り越えて。
懐かしいな。なんて思ったからか、僕の顔は自然と綻んだ。足取りは軽く、窓の縁を飛び越える。
ただ、思った以上に着地点が低くてちょっとバランスを崩した。クロードがすかさず僕の腕をつかんで支える。
「ああ、悪い」
ちょっとバツが悪くて苦笑いした僕にクロードはうなずいた。
「よし、じゃあ行くぞ」
僕たちは庭を突っきり、クロードが乗って来た馬車へと急ぐ。御者にはすでに事情を説明してあるのか、何も訊ねられなかった。僕が誰なのか、この御者は訊ねる権限を持たない。恭しく頭を下げるだけだ。
そうして僕たちは美しく艶めく二頭の馬と、ひと目で特級とわかる黒塗りの車体の馬車に乗り込んだ。御者が振るう鞭の音が甲高く響くと、馬は車体を引いて動き出す。車輪が滑らかに動き出したのを感じながら、クロードと向かい合った。柔らかな車内の椅子は長旅にも疲れないでいられるだろう。
クロードは僕の顔の中にかすかな緊張を感じ取ったのかな。嫌な笑みを浮かべた。
「あんまり期待しすぎるなよ」
「へ?」
素の間抜けな声が漏れた。どういう意味だ、それ。
「お前だって、赤薔薇の君だの社交界の華だの言われてる癖に、ひと皮剥けば正体はソレだ。エジェリー嬢だって清楚可憐な顔の裏に何を潜ませているのかわかったもんじゃないからな」
……。
「エジェリーが男かも知れないって?」
だったらどうしよう。僕はその可能性はまるで考えていなかった。
クロードが呆れたような目を僕に向ける。
「いや、彼女は女性だ。間違いなく。ただ、自分がよく見えるように演技をするのは当然のことで、その演技を間に受けて目に見えるものだけが彼女の本質だと思うなってことだ」
演技か。僕も全力で演技してるから、クロードの言うこともわからなくはない。
でも、それが上手くできる娘ならもっと上手く立ち回れるんじゃないのかな?
カラカラカラ、と車輪が石畳の上を滑る音が車内に響く。僕の沈黙にクロードは嘆息した。
「まあいい。結局のところ、女は男次第だからな」
「うん?」
「意中の相手の心を繋ぎ止めるためなら最後まで演じきれる。それを本質だと自分自身を騙すほどに変わるんだ。お前次第だってことだよ」
……コイツ、裏で一体何してるんだろうな?
なんてことを少し思ったけど口に出さなかった。
そんな僕にクロードはニヤリと笑う。
「もちろん、お前が彼女を射止めることが前提での話だからな。見向きもされなかったら意味がない」
い、言い返せない。
もっと男性的で逞しい大人が好みだとか言われたらどうにもならない。そうじゃないことを祈りたい。
顔を引きつらせていただろう僕に、クロードは何か含みのある微笑を見せた。思わずぞくりとするような色香のある笑みだ。そうしていると、そんなに歳が離れてるわけじゃないのに、何かすごく遠い存在に思える。
「いくら外見を偽ったところで中身は偽れないんだからな。お前もあれじゃあストレスが溜まるだろうから、こうして連れ出してやったんだ。そうそうない機会を無駄にするなよ」
「うん……」
男として彼女に会える。それは僕にとってはとても大きなことのはずなんだ。