最初で最後の―― 第3話
泣きつかれ、そのまま眠ってしまった彼女を、ぼくは大通りまで背負って行き、タクシーを拾った。背負った彼女の身体は信じられないほど軽くて、その軽さに、ああ、と声をだして泣きたくなったけれど、ぼくは泣く代わりに前を睨んで歩きつづけた。
タクシーのなかで、ぼくはミケランジェロが彫った、大理石像のような彼女の手をにぎりつづけた。そうすることで、すこしでも彼女の命を、ぼくのそばに、繋ぎとめていられるように……。
ふたりで暮らす安いマンションに戻ったぼくは、眠りつづける彼女をベッドに寝かせあと、つい、習慣でお湯を沸かし、二人分の紅茶を淹れてしまった。街灯の光がカーテン越しにはいってくる薄暗い部屋に、彼女の好きなダージリンの香りが満ちてゆく。
彼女の好きな香りが、いまは、かなしい……。
まるでアリウムの花言葉だ。
なにかできることはないかと考えながらも、頭の悪いぼくは、けっきょくなにもできなかった。ベッドそばに坐って、ぼくはまた、彼女と過ごした一年間を思い返し、張り裂けそうな胸の痛みに襲われた。どうせならほんとうに裂けてしまえばいいのに。
ぼくは紅茶を飲む気にはなれず、眠りつづける彼女のきれいなPlofil(横顔)を悄然と見つめつづけた。
彼女の小さな息遣いの音だけが部屋に響く。
時計を見ると日付が変わっていた。
二十四日、午前三時十四分。
二十四日。
今日、彼女は死んでしまう。
信じられない。
信じたく、ない。
――信じられるわけないだろ!
くぐもった声がぼくの口からこぼれた。
運命の三女神よ!
クローソよ!
その手に持つ鋏で彼女の糸を断ち切らないでくれ!
絶望の重さに、うなだれたぼくは、薄暗い部屋を見回した。
眸に止まったのは彼女のキーボード。
ぼくは立ちあがって蹌踉とキーボードに歩み寄る。
電源を入れ、ふたりで作ったばかりの曲を、ちいさな、ちいさな音でぼくは奏でた。
それは胸を締めつけるほど、せつなくて、かなしくて、はかない。
けれど、どこか凛として、深くてあたたかい、やさしさを感じさせるメロディー。
言葉では伝えきれない、おもいがこめられた、スケールの大きな曲。
いつか、彼女のいった言葉をおもいだす。
「だからメロディーにするの」
そういって彼女はきれいにほほ笑んだ。
彼女はどんなおもいで曲を作りつづけていたのだろうか?
……ぼくにはわからない。わかるはずがない……。
まだ、詞のできていない曲を弾き終え、彼女のそばへ戻ると、彼女が目を覚ましていた。
ベッドから身体を起こした彼女は、
「わたしといっしょに死んでくれる?」
ぼくを視ていった。貌はよく視えなかった。
もしかしたら、ぼくはずっと、その言葉を欲していたのかもしれない。
だからぼくは躊躇うことなく肯いた。
彼女と出逢ってぼくは生まれた。
彼女がぼくに居場所をくれた。
彼女は暗闇のなか、独りで彷徨っていたぼくに射した、唯一の光。
彼女はぼくの、世界そのものだ。彼女とこの世界なんて比べるまでもない。この世界と引き換えてもでも、ぼくは彼女に生きていてほしい。誰かを殺すことで彼女が助かるなら、ぼくは躊躇なく殺す。なんだってできる。彼女を失ったらぼくは生きる意味がない。生きてる意味がない。ぼくは彼女に出逢うまで、死んだように生きてきた。彼女がぼくに命をくれたんだ。その彼女がいっしょに死んでくれというのなら、ぼくは迷わず、彼女と死のう。
ぼくが肯くと彼女はうれしそうに、そして、さびしそうに、ほほ笑んだ。
彼女はそっと吐息をこぼし、
「冗談よ」
さっきとはちがう笑みをみせた。
彼女はベッドから足を出し、ぼくに歩み寄ると、やわらかい硝子の翼でぼくをつつんだ。
逆にぼくは、なぜ、と彼女を強く抱きしめた。
どうしていっしょに死なせてくれないのか、と。
彼女はぼくの額に軽く口づけをし、
「……生きて……」
一言だけ耳もとでささやいた。
「わたしの分まで生きてほしいなんていわないけれど、あなたにはまだ、時間がある。だから最期までその時間を、せいいっぱい、生きてほしいの……生きていて、ほしいの……。これは、わたしとの最後の約束……」
ぼくが抗議しようと口を開くと、彼女は自分の唇でそれをふさいだ。
そして、全てをいい終えたかのように彼女はほほ笑むと――服を、脱ぎ始めた。
透けるような白い肌が薄闇のなか、蒼い燐光をまとったようにあわく浮かび上がる。それはまるで、月の光をうけて光る、雪のようだった。絹のように、なめらかな髪が鎖骨の下までかかり、ちいさな乳房や、柳のような腰が、ぼくのまえに惜しげもなくさらされている。
そこには永遠に失われることのない純潔が、枯れることのない、一輪の花が咲いていた。
だけど、ぼくは躊躇う。
彼女を抱くことによって、時間の針を速めてしまうのではないか、と。
一分でも一秒でも長く、いっしょにいたいとおもうぼくは、彼女を抱くことができなかった。
けれど、彼女はそんなぼくにうるんだ眸を向け、唇を、深くかさねてきた。彼女の舌が蛇のように絡んでくる。唇をはなすと彼女は乱れた息遣いで、ぼくの上着を脱がし、首から下へと舌を這わせてゆく。蟲惑的な刺激が頭の奥を痺れさせる。
縛られたように動けなくなったぼくは理性が遠のき、生命のもつ本能に支配されていった。
気がつけば互いに激しく求めあい、何度も口づけかわし、何度も身体をかさねた。叶わぬとしりながらも、永遠を求め、ふたりの命をひとつにするかのように。そして――
ぼくらは抱き合いながら、泣いていた。




