最初で最後の―― 第2話
はじめて彼女に逢ったとき、
〝わたし、あと一年で死んじゃうの〟
笑えないアメリカンジョークでもいうように軽い調子で不治の病だと告げられた。
だけど、ぼくは彼女の言葉を信じた。他人を信じられないこのぼくが、なぜか、その言葉を、彼女を信じた。そして彼女も、こんなぼくを、信じてくれたんだ……。
彼女がぼくの胸から、すっと、頭を離した。
「ねえ、どうして?」
うつむく彼女の唇から、しずかに、こぼれた落ちた言葉。それは一つの問いかけ。
「どうして、わたしなの?」
面をあげた彼女の眸には、
涙。
そこには彼女がぼくに見せる、はじめての涙が、頼りない街灯の光を宿して輝いていた。
彼女の涙は夜空を横切る星のように、眸から溢れ、白い頬を流れ落ちてゆく。
いくつも。
いくつも。
流れ、落ちてゆく。
いのちのかけらが、流れ、落ちていってしまう……。
出逢ってから、彼女は一度も、ぼくに涙を見せたことはなかった。いや。きっと、ぼくがしらないだけで、彼女は何度も泣いていたのだろう……。ぼくのまえでは、彼女はいつも笑っていた。でもそれは、ぼくに気を遣わせないよう、必死に、死に対する恐怖を押し殺して笑っていたのだと、彼女が見せたはじめての涙を見て、いま、ほんとうの意味でぼくは理解した。
流れ落ちてゆく涙をぼくは止めることができない。
止める術をしらない。
彼女は森のなかの湖のようにほほ笑み、涙を流しつづける。涙が、流星群のように蒼い光を放ちながら流れ落ちてゆく。それはまるで、ふたご座のカストルとポルックスが互いの半身と離れるのをかなしみ、泣いているようだった。
彼女が少し、ぼくから離れた。
両手を翼のように大きく広げ、くるりと回り、
「こんなにたくさん人がいるのに、どうしてわたしなの?」
弱々しい声でぼくにいった。
「どうして、わたしなの……?」
ぼくのコートをつかみ、
「死ぬのはいや……」
うつむき、いった。
小さな声だった。けれども、残酷な運命に抗うような響きがあった。
「死ぬのはいや」
「死ぬのはいやっ」
「……死ぬのは、いやだよう……!」
何度も繰り返される言葉。
だけど、それもすぐに言葉にならない、感情の叫びに変わった。
慟哭。
理不尽な運命に抗うように、彼女は生きたいと、言葉の代わりに哭きつづけた。
海辺の砂城のように、彼女は運命という波に弄ばれ、膝から崩れ落ちてゆく。
彼女はぼくの膝にすがりつき、細い――ほそすぎる肩をふるわせながら、咽喉が張り裂けるほど声をあげ、鼻水を、涎をたらし、涙を流す。
そんな彼女をぼくは助けることができない。
ぼくは膝のあたりに、彼女の涙の熱さを感じながら、自分の無力さを憎んだ。
「……どうして……どうして、わたしなの……?」
とぎれとぎれにこぼれる彼女の小さな声が、ぼくに突き刺さる。
ぼくがなにもできないまま立ちつくしていると夜の空気をふるわせる鐘の音が聞こえてきた。
針葉樹の林の向こうにある教会の鐘の音だ。
それは鎮魂歌を奏でるように、彼女の声にかなしくかさなった。
散りゆく花を哀しむように、永遠の別れを歌うように、教会がLa campanella(鐘の音)を奏でる。
ぼくは宗教が嫌いだ。
神様が嫌いだ。
どれだけ涙を流しても、どれだけ必死に祈っても、奇蹟を、おこしてはくれないから。
彼女を、助けてはくれないから。
でも、それでも、ぼくは……願ってしまう。祈ってしまう。神様ではない、なにかに……。
なんの慰めにもならない鐘の音を聞きながら、ぼくが彼女を抱きしめると、彼女はぼくの腕を振り払い、ぼくの胸を叩いた。強く、強く、ぼくの胸を叩いた。けれど、それはしだいに弱まり、酷く、脆弱なものへと変わっていった。
抱きしめる。
強く、強く、彼女を抱きしめる。
「……どうして? どうして、わたしなの……?」
ぼくの腕のなかで、彼女はすすり泣きながらいった。
「あなたと、もっと、いっしょにいたかった。いっしょに歳をとって、おじいちゃんとおばあちゃんになりたかった……。あなたと生きていたい。あなたといっしょにいたい。……なのにどうして……? どうしてわたしが……! 神様でも悪魔でもいいから、わたしを助けて……。誰か……誰か、わたしを助けてよ……お願い……!」
お願いします、という彼女の声が小さくかき消えてゆく。
ぼくはなにもいえずに、彼女を抱きしめることしかできなかった。
この一年、ぼくは彼女になにができたのだろう? ろくに笑うことすらできなかったぼくは、彼女から笑うことを教えてもらった。いろいろな――たくさんの、あたたかいものを彼女からもらった。なのにぼくは、死と向かい合わざるをえなかった彼女にたいして、なにもできなかった。無力だった。いま、この瞬間でさえも。
こんな理不尽な世界など滅んでしまえばいい。消えてしまえばいい……。
ぼくはこの世界を呪った。
けれど、呪ったところで彼女が助かるわけでもない。
変えられない現実に、無力な自分に、目の前が赤く燃え上がるほどの怒りを覚える。
奥歯を噛みしめる音がきこえた。
いつのまにか鐘の音が止んでいる。あたりはふたたび静寂につつまれていた。
押し潰されそうな静寂のなか、ふと彼女の髪を見る。
白い花が咲いていた。ちいさくて、白い花が、いくつも咲いていた。
曇天の空を見上げれば、穢れのない、まっしろな雪が降り始めていた。
ほのかに光る雪はとてもきれいで、はかなくて、まるで――
彼女のような雪だった。
雪は音もなく舞い降りて、積もることなく、溶けては消えてゆく。
彼の悪魔はこの雪のように降りしきるバラの花びらに、胸を、頬を、掌を灼き焦がされ死んでいったが、彼女はこの舞い降る雪の花びらに、命を、奪われてゆくのだろうか……。
声をだす力もなくなった彼女は、ぼくの腕のなかで枯れることのない涙を流しつづけている。
こんなとき、ぼくは彼女に、なんていえばいいのかわからない。ぼくは無知で残酷な子供ではないし、信じてもいない奇麗事を小賢しくいう大人でもない。
誰か教えてくれないか。
ぼくは彼女になんていえばいい?




