雨の名前を教えてほしい
「犬がいなくなった」
山小屋に戻ってきたジャックソンは、着ていたコートを折り目のつかないように綺麗に伸ばして壁のフックにかけてから、そう小さな声で呟いた。その時に山小屋にいたのは羊飼いの師匠であり相方のフランツだけだったから、もしフランツが暇を持て余してレコードの一つでもかけていたら、ジャックソンの声は小さな唸りか何かと思われて(例えば物を持ち上げる時の「よいしょ」という掛け声のような)気にも留められなかっただろう。でもその時フランツは老朽化した蓄音機を休ませてやろうと思ってレコードをかけていなかったし、ちょうど山間を駆け抜ける激しい風も吹いていなかったから、その消え入りそうな呟きはしっかりとフランツの耳に入ることになった。
「いなくなったって? どういうことだ?」
フランツがそう聞き返したことで、ジャックソンはその問いに答えざるを得なくなった。ジャックソンが小さな声でその失態を明かしたのは、信頼しているフランツにそのことを知られたくないと思う一方で、その逃げてしまった牧羊犬をこの牧場に連れて来たフランツに対して申し訳なく思う気持ちがあったからなのだ。だからジャックソンはびくびくと怯えながらも(それこそ群れる羊のように)、安心してもいた。
「今日のお昼にさ、最後に見たんだよ。犬はいつもと同じように見えたし、羊たちも犬を信頼していた。狼の声だってしなかった。だからさ、僕は切り株の上に座って練習をしていたんだよ」
「ギターのか?」
ジャックソンはまず最初に驚いて、次に気まずそうにゆっくりと頷いた。フランツはジャックソンに対して、放牧している間はしっかりと羊を見ているようにと何度も口酸っぱく言っていたからだ。
しかしフランツにしたって、ジャックソンが牧場の隅っこでよくギターを弾いていることは知っていた。そしてジャックソンが街に降りて大勢の前でギターを弾きたがっていることも。中年のフランツには、そうしたジャックソンの若々しさがとてもまぶしく思えたのだ。だからあえて、彼の行為をとがめようとはしなかった。今回の事件は、山小屋に住む二人の人間が、互いが互いを気づかいあって招いた結果だった。
「とりあえず、今日は羊を小屋に戻そう。そうしてから犬を探すんだ」
フランツは机の抽斗やクローゼットの中から、何かいろいろなものを引っ張り出しては上着のポケットの中に詰め込んでいった。ジャックソンはフランツが犬を探すための準備をしていることは理解できたが、いなくなってしまった犬を探すためにどんな道具が必要なのか想像もできなかった。仕方なくジャックソンは壁にかけたばかりのコートを着直して、自分用の犬笛を握り締めて、フランツの準備を終えるのを待った。
牧羊犬がいなくなってしまうと、羊を小屋に戻すのは骨の折れる作業だった。人間には犬のように鋭い眼光も、牧場を素早く駆け回れるだけの足腰もなかったからだ。フランツは長年培ってきた技術と羊たちとの信頼で、ジャックソンは充実した体力と失態を犯してしまった引け目で、どうにか一匹残らず羊たちを小屋に戻すことができた。だがすべてを終えた時には、もう太陽は山の稜線の向こうに沈みかけていた。辺りを夜の暗闇が支配しかけていた。
「探すのは明日にしようか」
フランツはジャックソンにそう提案した。手練れのフランツは、夜の山の怖さをよく知っていたからだ。それに今フランツが身に着けている道具は、急ごしらえの簡単なものでしかない。探し始めるのを明日にすれば、もっときちんとした道具を揃えることができると思ったのだ。
でもそれは、牧羊犬を逃がしてしまったのを自分のミスだと考えているジャックソンにとっては素直に頷けるものではなかった。ジャックソンは、表向きこそはフランツの言葉に「うん」と言った。たぶんそれが、明るい昼間での出来事で、何の問題も起きていない平時の出来事だったなら、すぐにフランツに嘘を吐いていると看破されていただろう。その時のジャックソンは、既に牧羊犬をどうやって暗闇から探し出すのかということで心がいっぱいになっていたのだ。
◆
フランツは夜遅くまで準備をしていた。蝋燭の灯りを頼りに、山小屋中の抽斗をひっくり返しては役に立ちそうな道具をテーブルの上に並べていった。一通り小屋の中を洗ってしまうと、次に本棚にあった本を片っ端から読み進めていった。『羊飼いの掟』『山の心得』『牧草境地』……そして、フランツたちの前にこの山小屋に住んでいた羊飼いたちの日記。フランツにしてみても、逃げてしまった牧羊犬を探し出すというのは初めてのことだったので、何か使えそうなことが書かれていないかと必死になってページをめくった。
ただこのとき、フランツは自分の力を過信していた。加齢による体力の衰え、久々の激しい運動、高山の気圧が身体に与えるダメージを考えていなかったのだ。フランツは紙に書かれた文字を読んでいるうちに、うとうとと眠り込んでしまった。
フランツの目が覚めたとき、ジャックソンの姿はどこにもなかった。着古したコートも、街に降りたときに買ったお気に入りの靴も、一人前の羊飼いと認められたときにもらえる犬笛も、綺麗になくなっていた。そして乱雑に散らかった毛布と、ジャックソンの身体の窪みが残ったベッドが、ジャックソンが夜の森へと出かけてしまったことを物語っていた。
「……馬鹿野郎」
軍隊を辞めて羊飼いになってから二十年、フランツはなるべく乱暴な物言いをやめるように意識していた。気難しい羊飼いの末路が物悲しいことをよく知っていたこともあるし、なにより大事な羊たちが怯えてしまうからだ。羊に信頼されない羊飼いほど、哀れなものはないと、フランツは前任の羊飼いからよく教わっていた。
だが、今回ばかりはフランツも思わず毒づいてしまった。夜の山に出るというのは、羊飼い云々以前の問題だったからだ。窓の外の空はまだ暗く、夜明けは遠かった。それでもフランツは、ジャックソンの後を追わないわけにはいかなかった。フランツは万が一のために山小屋に書置きを残して、リュックサックに荷物を詰め込んで夜の森へと繰り出した。
◆
ジャックソンは技術面や学問で秀でた面はなかったが、責任感の強い青年だった。ジャックソンの両親はそうした彼の人間性を誇りに思っていたし、また学校の先生もそのことをよく理解していたから、彼を羊飼いに推薦した。人よりも臆病な羊を取りまとめる仕事は、確かに堅実で誠実なジャックソンに相応しく思えた。ジャックソンにしてみても、人間を相手にするよりも言葉を喋らない羊と付き合っていく方が気楽に思えたのだ。
ところが、学校を出て、フランツというベテランの羊飼いと出会い、一日の大半を羊達と過ごすようになっていくうちに、ジャックソンの中に一つの願望が生まれ始めた。
「他人のために何かをしたい」
それはいわゆる聖者のような、無償の愛の発露とは違った。どちらかといえば他人に対して自分の能力をアピールしてみたいといった、ある種の人間に宿る上昇志向のようなものであった。
それだけなら、特に問題はない――むしろ、ジャックソンくらいの年代の人間にとっては、健全ともいえるだろう。だが、ジャックソンはそうした自らの心境の変化に戸惑った。今までと同じように、のんびりと過ごしていても、心が満たされる感覚がなくなってしまったのだ。それどころか、今までほとんど興味がなかった街に対して、憧れめいた感情を抱くようになった。それは心境の変化だけでなく、ホームシックのような症状も混ざっていたのかもしれない。ともかく、ジャックソンは天職に思えた羊飼いの仕事をきちんとこなすことができなくなってしまった。燻る気持ちを抑えるために、山小屋の倉庫に眠っていたギターを引っ張りだして修理して、空いた時間に練習をするようにもなった。
そんなジャックソンだったが、責任感の強さが薄れてしまったわけではなかった。ジャックソンが夜の森に一人で出て行ってしまったのは、生来の責任感の強さと、自分の衝動を抑えておくことができない精神的燻りが原因であった。
◆
フランツが大木の下にへたり込むジャックソンの姿を見つけたのは、朝の陽光が木々の隙間から漏れ出した頃のことだった。
「おい、大丈夫か」
フランツは枝葉を掻き分けながら、ジャックソンの元へと歩み寄った。ジャックソンはフランツの方を見やって僅かに口角を上げたが、声を上げることはなかった。ジャックソンは大きな傷は負っていなかったが、ひどく疲れてやつれていた。そんな弱弱しいジャックソンの姿を見ていると、フランツが最初に彼の独断に対して抱いていた苛立ちのようなものはすぐに消え去ってしまった。
「歩けるか」
フランツは座り込んだままのジャックソンの腕を引っ張り上げた。ジャックソンが立ち上がるまでにはかなりの力が必要だったが、一度体勢を整えてしまえば、ジャックソンは自立することができた。
「小屋までの道はわかるか」
ジャックソンはうつむいたまま首を横に振った。確かにこの場所は、二人の住んでいる山小屋からはとても入り組んで離れている。フランツはきちんと方位磁石を持ってきていたが、着の身着のままのジャックソンがそんな用意をしているとは思えなかった。
「一度戻ろう。犬を探すのはそれからだ」
フランツはジャックソンに言った。疲弊したジャックソンを連れて歩き回れるほど、山の森は優しくはない。それにフランツは、犬を探すには、ジャックソンの存在が不可欠だと思っていた(牧羊犬はジャックソンによく懐いていた)。フランツはジャックソンの体調が回復するのを待って、犬を探しに出かけるつもりだった。
だが、フランツのその言葉は――もちろんフランツには、もうジャックソンを責めたてる気持ちはない。自分の親切からジャックソンにそう話しかけたのだ――ジャックソンには、自分を責めているように聞こえてしまった。ジャックソンにとって、信頼もすれば尊敬もしているフランツからかけられるその言葉は、まさに身が引き裂かれるような思いだった。
精神的に追い込まれてしまった(と感じた)ジャックソンは、腹を抱えてしゃがみ込んだ。そして数度の嗚咽の後、嘔吐を繰り返した。胃の中のものを全て吐き出してしまった後にも、ジャックソンはえづき続けた。熱い胃液がジャックソンの喉を焼いて通った。体の中のものがすべて口から出てしまいそうだった。ジャックソンは涙を流しながら、それならそれでもいいなと思った。胃も、肺も、肝臓も、腎臓も、心臓も、骨でさえも、何もかもをすべて吐き出してしまえばいい。脳味噌だっていらない。そうやって後に残るのは僕の形をした皮だけだ。それでも僕は構わない。
フランツはジャックソンが突然吐き始めたことに驚きながらも、一緒に座り込んで背中をさすり続けた。ジャックソンの嘔吐は高山病のそれとは違い、とても静かなものだった。身体が痙攣することなく、何度も何度も、地面に向かって嘔吐を繰り返した。
◆
「落ち着いたか?」
ジャックソンが次に目を覚ましたのは、見慣れた山小屋のベッドの上だった。フランツは、繰り返す嘔吐で体力を使い果たしたジャックソンを一人でこの小屋まで運んできたのだ。
「腹減っただろう? パンとスープがあるよ」
ベッドの脇のテーブルには、お盆に乗ったかりかりのパンと湯気の立つグヤーシュ・スープが置かれていた。ジャックソンは身体を起こして、パンを手にとって小さくちぎりながら口に入れた。確かに、ひどくお腹が空いていた。
ジャックソンがむしゃむしゃと食事を続ける間、フランツは椅子に座ってジャックソンの姿をじっと眺めていた。フランツには、森の中で体を丸めて何度も嘔吐するジャックソンは、なんだかとても悲しく見えたのだ。もちろん、楽しそうに嘔吐する人間なんていない。しかしジャックソンは、体調不良だとかストレスではなく、もっと別の理由でえづいていたように思えた。その証拠に、ジャックソンは一眠りしただけで普通に食事が摂れるほどすっかり回復していた。普通なら、いくら腹が減っているといっても、嘔吐を繰り返した後の人間がすんなりと食事が喉を通るわけがないのだ。それも、あんなに固いパンを……。
「俺はこれから森に行く」
食器を片付けた後で、フランツはジャックソンに言った。
「さっきお前を探しに行く途中で、犬がションベンを引っ掛けた跡を見つけた。たぶんまだ森の中にいるだろう。見つけるなら今日中だからな」
ジャックソンは時計を見た。昼の十一時――まだ、日没には時間がある。
「お前はどうする? 気分が悪いなら小屋で待っててもいい。さっきみたいに倒れられても困るからな」
「……名前」
ジャックソンはそう呟いた。ジャクソン自身が話の流れを決めるとき、小さな声で呟くのはジャックソンのクセだった。
「名前?」
「犬……名前を、つけてなかった」
「……ああ」
確かにそうだ。牧羊犬を連れて来たのはフランツだったが、そのときから今まで名前をつけていなかった。改めて考えてみれば、それはひどく不適当なことのように思えた。だいいち、今まで犬の名前を呼ぶことになる事態が一度もなかったなんてことがあるのだろうか? フランツはそのことについて記憶を手繰ってみたが、よく思い出すことができなかった。犬と一番仲が良かったのはジャックソンの方なのだ。
「何か案があるのか?」とフランツはジャックソンに聞いた。
「……リンゴ」
リンゴ、リンゴか。あんまり犬っぽくない響きのようだが、案外そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
「いい名前じゃないか」
フランツはそう言った。本当にそう思っているのだ。
二人は今つけたばかりの名前を何度も呼んだ。山びこになって帰ってくるくらい大きな声で、何度も犬を呼んだ。今つけたばかりの名前……犬がその事実を知っているはずがない。訓練もしていないのだから、その音の響きが自身を呼んでいると気付くはずがない。
気付くはずがないのだ――。