中編
(4)
雨はあがり、山に静寂が戻った。遠く洪水の地鳴りが聞こえる。
海人と夏希は夜の山道を西へ向かっていた。
「何で西に」
海人は夏希の数歩後ろを歩いていた。得体の知れない夏希という少女に対する警戒心はあったが、結局ついていくしかなかった。
「水の生まれた場所に行くの」
「水の生まれた場所?」
「西にあるダムよ。あの水がどうして生まれたと思う?」
分かるわけないじゃないか。
「そんなことない。よく考えて」
また海人の心が読まれた。
「海人は、海の色は何色だと思う?」
海人は戸惑った。
「何色って、青、かな」
「じゃあ、空は何色?」
「同じ。それが何の関係が……」
「海の青さも、空の青さも、海人がそう望んだからでしょう。空も海も、海人があると思ったから存在するの」
そんな話、馬鹿げてる。
「あの水が、誰かの望んだモノだって言うのか。あんなもの誰が望むっていうんだ」
海人の言葉に夏希は暫く黙っていた。やがて手近な緑の葉をもぎとって海人に見せた。
「この葉っぱに表と裏があるでしょ。葉っぱの表が存在するには葉っぱの裏が必要なの。そして裏には表が必要なの。生きるっていう事には死ぬっていうことが絶対必要ってことよ。この世に海人があると思うものには、必ずもう一つ別の存在が必要になる。全ては他の何かのために存在してるって言ってもいいわ」
夏希は再び緑の葉を示した。
「あの水を元の葉っぱに戻すには、その反対にあるものが必要なの。裏と表が合わさればそれは裏、表とは言わないで葉っぱというでしょう」
「あの水の反対のモノって?」
「大丈夫。もう手に入ってるから」
そう言った夏希だが、海人には夏希が何かを持っているようには見えなかった。
「そして二つを元に戻すには水の生まれた場所に行く必要があるわ」
「具体的にはどうするの?」
夏希は緑の葉を捨て、海人の目を見た。
「昔どうやって洪水を治めたか知ってる?」
海人は首を横に振った。夏希は小さく笑い、同じくらい小さく息を吐いた。
「時間もないわ。急ぎましょう」
夏希はそれ以上答えず、歩みを速めた。
(5)
雲の間に微かに月明りが覗く。
道を急ぐ夏希が突然立ち止まった。
「どうしたの?」
「しっ」
夏希は道の先に目を凝らしている。
――死ね。
またあの声が頭の中に響く。一条の月明りの下にあの水が立
っていた。逃げようと反射的に後ろを振り返った海人の目に、もう一体の水の姿が見えた。
「囲まれた」
「え?」
夏希の言葉に海人は辺りに視線を飛ばした。
斜面の上にも、下にも、何十体という水が立っていた。
一体の水がゲラゲラと笑った。それにつられる様に別の一体が笑いだす。もう一体、さらに別の一体と笑いだし、終には全ての水がゲラゲラと笑い声をたてていた。
――死ね。死ね。死ね。死ね!
頭の中に響く声も、ますます酷くなってゆく。
潰れた笑い声と頭に響く声に、海人は思考が焼き切れる様な痛みを味わった。グルグル回る二つの声に、海人は平衡感覚を失って膝を着いた。吐き気を感じ、口を抑える。
やめてくれ!
意識が飛びそうになる。倒れかけた海人の腕が掴まれた。
「立って! 走るのよ!」
夏希の声で、正常な思考が幾分か、海人に戻った。
夏希は海人に肩を貸すと、一番手薄な前方へ走り出した。
道の前方にいる水は笑い声を上げたまま、たたずんでいる。海人と夏希はそこへ体当たりを喰らわせた。硬いゴムの様な感触だが、表面は血だまりの様にヌルリとした。
ビクともしなかった。
海人に向かってきた水に、夏希は再び体をぶつけた。バランスを失って夏希が倒れる。無数の水が夏希に群がった。それは結果的に水を海人から逸らした。
「夏希っ!」
夏希はしかし常人離れした身のこなしで、水の間を通り抜けて出てきた。
「走って!」
二人は走った。夜の闇の中を、先の見えない道を、懸命に走った。
雲が晴れて、月が完全に顔を覗かせたが、木々の茂る山の奥深くの闇はさほど変わらなかった。
はっ。はっ。はっ。はっ。
二人の吐く短い息の音が混ざり合う。
闇に立つ樹が、あっという間に視界の後方に消えてゆく。水の姿はもう後ろを振り返ればいないはずだ。だがまだ振り切っていないのは海人にも分かっていた。きっと耳を澄ませればあの笑い声が聞こえたことだろう。
夏希は海人の手をとって、視界の悪い夜の山道を、まるで問題にしないで駆けてゆく。夏希がいなければあっという間に水に追いつかれていた筈だ。
二人の進む先にやがて青白い月の光が見えた。
木々の闇が終わりを告げて、開けた場所に出た。
そこに橋があった。
山と山とを繋ぐ、古めかしい小さなつり橋だった。夏希は海人の手を離すと、つり橋に向かって走りだす。海人もそれに続いた。
ガタンッ。ガタンッ。ガタンッ!
山子しか利用しないのだろう。決して頑丈とは言えそうにないつり橋を二人は駆けた。
植物の繊維をより合わせただけの綱と、木製の橋げたが悲鳴をあげる。
吊り橋の下に目をやると、ぞっとするほど下に小さく川が見えた。いつ橋げた落ちるかと思ったが、無事に二人はつり橋を渡り終えた。ようやく足を止めて、今通り過ぎたばかりの、つり橋の向こう岸に目をやった。まだ水の姿は一体も見えない。
「早く、行きましょう」
喘ぐ様に夏希が言ったが、海人は動かなかった。つり橋に目をやる。つり橋を支える二本の綱のどちらかを落とせば、つり橋は機能を失いそうだ。
夏希の顔を見てから、海人は綱の結わえてある杭に取り付いた。この杭を引き抜き、つり橋を落とせれば、水の追跡を振り払うことができる。海人の意図を読み取った夏希も杭に取り付いた。
丸太をそのまま利用した簡素な杭を二人で懸命に押す。歯を食いしばり、足を踏ん張る。雨上がりでぬかるんだ地面に、時に足を滑らしながら必死に押した。
「くそっ!」
だが杭はビクともしなかった。つり橋は脆そうに見えたが、杭はしっかりと地面に打ちつけられていた。杭を引き抜けそうにない。二人は諦めて杭から離れた。
「どうする?」
海人は夏希の方を見た。つり橋を落とせない以上、このまま逃げるしかない。だが答えが分かっていても、それでも夏希に尋ねずにはいれなかった。自分で決めるのが怖かった。
「夏希?」
反応のない夏希に、海人は訝しげな目を向けた。夏希はどこか虚ろな目で海人を見ている。
「どうしたんだ」
海人が肩を掴むと、夏希はそのまま海人の方に倒れこんできた。慌てて海人が受け止めると、夏希の体から一気に力が抜けた。
「夏希。どうしたんだっ」
抱き起こそうと手を回すと、夏希が顔を歪め、悲鳴を上げた。
「……背中を怪我してるのか」
Tシャツの上からだが、血は出ていない。だが夏希の苦悶の表情をみればただ事でないのは明らかだ。いつ怪我をしたか。考えられるのは一つしかない。山の中で海人を助けようとして、水に囲まれた時だ。
「どうして黙ってたんだ!」
思わず出た言葉に、夏希がゴメンと小さく答えた。その言葉に海人はすぐに自分を罵った。
僕を助けようとしたんじゃないか。
――死ね。
またあの声が頭の中に響いた。はっとなってつり橋の向こうに目をやる。山の、木々の闇の中から次々と水が姿を現した。
「くそっ! こんな時に」
夏希を抱えたまま逃げることは出来ない。
どうするこのまま逃げるか? 夏希を置き去りにして。
そんな考えが頭をもたげた。
どうせ会ったばかりのやつじゃないか。
どうしようもないんだ。仕方ないじゃないか。
得体の知れないやつなんだ。水の仲間じゃないってどうして言える?
必死に理由をつけようとする自分がいた。海人は腰を浮かした。夏希を抱える手を離そうとした。
夏希が海人を見た。
「うん、いいよ」
夏希は小さく微笑んだ。
(6)
自分を置き去りにしようとしている海人に向かって、夏希は微笑んだ。
海人の顔から一気に血の気が引いた。
僕は何をしているんだ!
海人は一瞬でも置き去りにしようとした自分に絶望した。
最低だ! 僕は最低だ!
海人は両膝を地面に着いて、太腿を強く握り締めた。
「……だけど、どうしたらいいんだ」
水がつり橋を渡り始める。時間は確実になかった。どうしたらいいんだ。その言葉だけが頭の中に浮かんで、何も考えが浮かばない。
何かないのか。何か、何か、何か。
掴んだ太腿に固い感触があった。不思議に思って触りなおす。
「――あっ」
海人はそれが何かを思い出した。急いでポケットから掴み出す。
手の平に折りたたみ式の、小さなナイフが乗っていた。海人はそれを見たとき一つの方法しか思いつかなかった。
つり橋に駆け寄る。慌てるあまりに転びそうになった。震える手でナイフの刃を出す。
つり橋を支える綱と見比べれば、それはあまりに頼りなかった。
それでも構わずに、海人は比較的杭に近い部分の綱にナイフの刃を当てた。
刃を渾身の力を込めて前後に動かす。水はつり橋の中程まで来ていた。ナイフの刃が劣化した食物繊維の綱に少しずつ食い込んでゆく。
「早く、早く。頼むよ、おいっ」
ナイフと近づいてくる水の交互に目をやりながら、海人は必死で手を動かした。だが綱の三分の一もいかないところで、刃が動きを止めた。硬い繊維にはさまれて、ナイフの刃はぴくりとも動かなくなった。
「くそっ」
海人はナイフを全力で引っ張った。
パキンッ!
金属音がして、海人は後方にひっくり返った。手には折れて刃の無くなったナイフの柄だけがあった。
「畜生っ!」
海人は立ち上がると、やけっぱちになって、ナイフの柄を水に向かって投げつけた。ナイフは水にかすりもせずに谷底へと落ちていく。水はもうそこまできていた。海人はつり橋の上に飛び出す。そして綱を掴むと、無茶苦茶に体を上下に動かした。吊り橋が反動で揺れる。
「落ちろ! 落ちろっ!」
だが水は、その動きを緩めただけで、確実に近づいていた。
「畜生っ! 落ちろよっ!」
水は海人まで一m程の距離に近づいていた。透き通った水の体の向こう側に別の水の姿が見えた。
ブッ、ブツンッ。何かの引き千切れる音が響いた。
海人の目に、切れ目の入った綱が、海人と水の重み、揺さぶった事の負荷に負け、千切れ始めたの見えた。
あっという間に綱は千切れてゆく。最後に大きな音がして完全に綱が切れた。海人はもう一方の綱に全力で手を伸ばした。バランスを失ったつり橋の橋げたが一気に落ちる。海人は握った綱にぶら下がった。水は何の抵抗も見せず、橋げたとともに、ボトボトと落ちていく。海人は荒い息を繰り返しながら、それを見つめた。
海人が綱を何とか渡り終えた。夏希は海人がやってくるのを見ると笑顔を見せた。今までの疲れがでて、海人は夏希の側にへたり込んだ。
「僕は……僕は」
どうしてこんなに弱いんだ。
海人は置き去りにしようとした少女の顔を見ることが出来なかった。
「そうね。でも人間はみんなそう」
心を読んだ夏希が言った。そうだろうかと、海人は思う。どんな人間だって自分に比べればましだと思った。夏希は手を伸ばして、海人の掌を握り締めた。
「強いだけの人もいなければ、弱いだけの人もいないよ」
「でも僕には強さなんてない。僕は君を置き去りにしようとしたんだ。助けてくれた君をおいて逃げようとしたんだ」
口に出すとそれは一層自分を打ちのめした。
「でも、海人はそうしなかったじゃない」
山の頂上に朝日が覗き始めた。
「海人は私を助けてくれた。自分が正しいと思うことをやってのけたの。それってすごい強さじゃない?」
朝日が溢れだして二人を照らす。
「君は何者なんだ」
海人は幾どかした質問を、再び口にした。けれどその意味は以前と変わっていた。夏希が自分の心を読める事なんて気にならなかった。
「私は夏希。でも海人と水と、同じ存在」
夏希が前と同じ答えを返す。握った手に少しだけ力がこもった。
「そしてあなたのために生まれてきたの」