前編
原稿用紙50枚という条件で書きました。
生命は水より生まれた。
遠くは始原の海、今は母の羊水から。
生を司るものが時に死を司るように、この年町を襲った大洪水は、町の全てを破壊して、多くの人の命を奪っていった。
原因は諸説囁かれたが、結局後年になってもはっきりした事は分かっていない。ただ一つ確かなことは、町を洪水が襲ったという事。
それは確かな事実だ。
海人はその時、中学三年生だった。
(1)
僕は誰なんだろう。
教室前の水道。
流れ落ちる水を見つめながら、もう随分とそんなことを考えている。
放課後の薄暗い廊下には、海人以外の誰の姿もない。
どうして僕は僕なんだろう。
勉強も運動もできない。ユーモアのセンスも、社交性もない。何の特徴もない自分。
海人にだって人が能力や境遇を同じくして生まれるなんて事がないのは分かっている。でもそれなら生まれながらの差は誰が与えたものなんだ。それとも意味なんてないんだろうか。花に与える水が少しまばらになった程度のことなんだろうか。なら生きなきゃいけない理由なんてきっとない。
海人は学生ズボンのポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出した。刃を出して手首に押し当てる。けれどそれ以上の事なんてできはしないことは海人自身が分かっている。
海人はため息をついてナイフを閉まった。どこかでまだ自分を信じているのだろうか。そんな事はないと、自分にも意味があると思っているのだろうか。
ふと気がつくと、水道の水は止まっていた。いつ間に止めただろうか。カタカタと窓ガラスが震えだす。
「なんだ?」
海人が顔を上げた瞬間。窓ガラスがまるで爆発が起きたかの様に砕け散って、海人を後方へ吹き飛ばした。
(2)
闇の中から浮き上がってくる感覚の後、何かが口の中に流れ込んできて、海人は目を覚ました。
「ゲホッゲホッ」
大量の水を飲んでむせ返る。
海人は浸水した廊下に倒れていた。立ち上がると大量の水が制服から滴り落ちた。
浸水した水は、膝の辺りまで達している。汚水の混ざった不快な匂いが。海人には何があったのか分からないが、体に目立った怪我はなかった。
ここが学校の廊下なのは間違いない。気を失ったなっていたのもそんなに長い時間ではないはずだ。
「……とにかく、そうだここから出よう」
ザブザブと水を掻き分けながら、通用口へと向かう。天井の電灯が切れているせいで、外からの光が妙に明るく感じられた。
「何だ?」
地鳴りを感じて海人は耳を澄ませた。
台風の後の河川敷でよく聞いた音だ。校舎から水が引いているのだろうか。少し不安になって、海人は歩みを速めた。
通用口からの光がどんどん強くなってゆく。地鳴りは外から聞こえた。片側だけ開いた扉に手をかけて、水の抵抗をり切るように通用口から体をせり出した。
湖があった。
いや正確には巨大な河があった。
土砂を含んだ濁流が、大蛇の様にのたうっいた。あったはずの民家が無い。
土色の流れの間に見覚えのある雑居ビルが見えた。
乳白色の空。その下に学校と山を残すように、巨大な河ができていた。
「町が……何だよこれ、何だよ、何が……」
言葉が出てこなかった。何も考えが浮かんでこない。
ふらふらと外に出る。
まるで世界の終末を描いた絵画を見ているような、現実味のない光景。
どれくらいそこに立っていただろうか。
何をすればいいのか。何も考えられないまま、ただ町を覆った巨大な河を見ていた。
洪水が町を飲み込んだ。目の前にあっても、それを理解できなかった。
「あ……!」
人影が見えた。運動場の真中に誰かは分からなかったが、人の立っているのが見えた。
反射的に駆け出す。
グラウンドに浸水した水は足首程の水位で、それほど動きを妨げない。
だが、いくら近づいても人影ははっきりしてこない。やがて間近に迫った時、それが人ではない事が分かった。
「なんだよ」
海人は落胆の呟きを漏らした。それはただの水柱だった。きっと地下水だか下水だかが噴出しているのに違いない。
「どうして誰もいないんだ!」
誰かがその言葉を嘲る様にゲラゲラと笑い声をたてた。
「……笑った?」
海人は信じられない思いで水柱を見つめた。そして気がついた。下水が噴出すような穴なんてどこにも無いことに。
再び水柱が笑い声をたてた。
水が笑った。
それは有得ない事だ。何の力もなしに水が直立している。それも有得ない事だ。水は人でないのだから。しかし全て海人の前で起こっている事だ。
水柱は深く、蒼い色をしている。グラウンドに浸水した水が土砂を含んだ濁った色をしている事を考えれば、それも異常だった。
海人はあとずさった。
水の跳ねる音が酷く大きく響いた気がする。水柱の表面は緩やかにうねっていた。観察されているような気がしてそれ以上動けない。だが頭の中では警鐘が鳴っていた。そうじゃない。今すべきなのはそうじゃないと。
――死ね。
今度は声が聞こえた。
聞こえたというのは正しくない。実際は、水柱はまたゲラゲラと笑い声を立てただけなのだから。
――死ね。
それでも海人の頭の中には、はっきりと水柱の声が聞こえた。
水柱がゆっくりと動き出す。それでも海人は動けずにいた。必死に自分に命令を下す。
動け。動け。動け動け動け動け!
初めは指が動いた。握りこぶしを作って力いっぱい握り締める。
動け!
太腿が、踵が、恐怖から解放される。水柱は、一足一刀の間まで近づいていた。
動け!
後方に倒れる様な、不恰好な動きでやっと体が動いた。
倒れ込みそうになるのを、手を突いて支える。跳ねた泥が顔にかかった。まだぎこちない足の動きがひどくもどかしい。それでも校舎に向かって海人は必死に走った。
海人の走り去った後の水面は、軌跡を示す波紋を作った。腰と背中に水柱の迫る気配がして、叫び声をあげそうになるのを懸命に堪えて走った。やっとの思いで通用口に辿り着く。ドアノブに手をかけて振り返える。顔のすぐ前に水柱が立っていた。
「ひっ」
足を滑らし、尻餅をつく。次の瞬間には水柱は鉄製の扉を破壊していた。
だめだ。
校舎には入れない。そう悟って、海人は次に目に入ったものに向かって走り出した。
海人には苔に覆われたような裏山が見えていた。
校舎を抜け、テニスコート横から坂道へとはいる。
坂の頂上に山の木々が見えた。砂利の引き詰められた坂道を駆け上がる。すぐに太腿が鉛の様に重くなった。
後ろを振り返る余裕なんてない。呼吸が苦しくなって、顎を突き出す。坂を上がりきって木々の間に飛び込むと、一転して下り坂になった。黒土がボロボロと崩れる。踏ん張りの利かない斜面をそれでも全力で下った。急な坂道を駆け上がった足は、もう力が入らない。
何でこんな目に。
息があがって、頭の中が酸欠で白くなってゆく。斜面を下るスピードもそれに合わせるように速くなってゆく。
誰か助けてくれ。
足がもつれた。バランスを失った体が跳ね飛ばされた様に宙に浮いた。すぐに地面に叩きつけられる。木々や、石や、花草に体をぶつけながら、海人は斜面を転げ落ちた。
誰か助けて。
意識を失うその前に、木々の間に灰色の空が見えた。
それだけがはっきりと見えた。
(3)
それは幼い頃の記憶。
自分の事を褒めてくれた人がいた。優しいとか、いい子だとか、それはそんな他愛のない言葉だったと思う。今になってその人がどんな人だったかを思い出そうとしても、顔が霧にかかった様に、あやふやなままだ。誰だったかという事がとても大切な事のように思えた。何故だろうって考えてみたが、今になっても理由は解らない。
雨の音が聞こえた。
パラパラという音が、葉に水滴の当たる音だと気がつくまで随分時間がかかった様に思える。
海人の頬にも雨の雫があたっていた。
水で薄めた様な紺色が空に広がっている。すぐに山は闇に包まれるだろう。
海人はゆっくりと体を起こした。体中に痛みが走って顔を顰める。
骨は折れていない様だが、手や足は服が破れて、血が滲んでいた。洪水やあの水柱が嘘だったかの様に、山は静まりかえっていた。
助かったのか。
「海人」
突然の声に海人は驚いて振り返った。見覚えのない少女が立っていた。
誰だ?
「私は夏希」
少女はそう名乗った。
雨はますます強くなってゆく。
山は夜の闇に包まれていた。
夏希と名のった少女は、両手を回し、海人を面白そうに見ている。
見た感じ、年は海人と変わらない。Tシャツにストレッチパンツのどこにでも見かける少女だ。
ただ黒めがちの勝気な瞳は、黒曜石の様な光を宿していた。
「……あの……会ったこと……?」
同級生や知り合いの中に彼女がいないのは確かだ。だが少女は海人の名前を知っていた。
「君のことなら何でも知ってる。君が気がついてないことでもね。ところでそんなところにいつまでも立ってたら風邪ひくわよ」
夏希は木陰に立っていた。
海人は今更気にしても仕方がないほど濡れていたが、夏希の言うとおり、これ以上体を冷やすと風邪を引きそうだ。夏希が腰を下ろしたのにならって、海人も隣に腰を下ろした。
「それで、どうして僕を知ってるんですか?」
「タメ口でいいよ。夏希ってよんで」
「あ、うん。じゃあ夏希はどうして僕を知ってるの」
「どうして?」
夏希は肩をすくめた。
「そうね。私は海人でもあるし、あれと同じでもあるからかな」
何だよこいつ。
せっかく出会った生存者が少しおかしな少女だった事に、海人は内心いらだった。だが、すぐに重要な事に気がつく。そう夏希は生存者なのだ。
「君は、夏希はあの化物を見たかいっ。それに洪水も。町の人はどうなったんだ」
勢い込んで尋ねた海人を夏希は手で制す。
「一度に聞かれても答えられない」
「あ……ごめん」
まるで言葉自体に何か特別な力があるように、海人の興奮が鎮まった。
乗り出した上体を再び樹の幹に押し付ける。山に降る雨が湿った風を運んできた。
「いったい町に何があったんだ」
「洪水が襲ったの。それは分かるでしょ?」
「うん。でもあの化物は……」
「あはは、化物か。なるほどね」
夏希が可笑しそうに笑い声をたてた。
「何がおかしいんだ!」
殺されそうになったんだぞ!
「ごめん、ごめん。あれはそうね、死神みたいなものかな」
「死神?」
「海人はあれの声を聞いたでしょう?」
海人は頷いた。
『――死ね』
頭の中に直接響いた水柱の声。憎悪の塊の様な声を思い出し、海人は背筋に寒気を感じた。
「あれは海人の死だけを望んでいるの」
「僕の死? 何で僕の!?」
「さっき言ったじゃない。あれは死神みたいなものだって。死神が死を望むのは自然だと思うけど?」
「どうして僕なんだっ。他のやつじゃなくてどうして僕だけなんだ!」
「どうしてって、ここには海人しかいないから」
「何だって?」
夏希の言葉が虚をついた。
「……町の人達は?」
夏希は黙って首を横に振った。海人の体から力が抜ける。
嘘だ。こんなの嘘に決まってる。
顔を歪め、頭を抱えた。
何でこんな目にあうんだ。
「もうそうやって考えるのはやめたら?」
夏希の声。
君に分かるもんか。
「ええ。海人のいじけた、独りよがりの気持ちなんて知りたくない」
海人はギョっとして顔をあげた。
「どうして……」
疑問がどっと噴出してくる。
――どうして考えが分かるんだ。
――何故夏希は助かったんだ。
――どうして水について知ってるんだ。
「……君は何者だ」
口の中がカラカラに渇いていた。
「言ったでしょ。私は夏希。でも海人でも、水と同じでもあるって。雨やんだね」
夏希は立ち上がって、一点を指差した。
「西へ。さあ、行きましょうか」