暁色をしたタートルネックの恋人
「もっといい人が見つかるよ」
そう優しく諭されて藤崎愛梨が恋人の一ノ瀬和馬に振られたのは、2ヶ月前のことだ。2週間は毛布を頭から被って、それこそ立ち直れなかった愛梨だが、徐々にもとの精気を取り戻し、和馬との想い出を整理し始める。
二人が肩を寄せ合い、仲良く写った写真の飾られた写真立て。和馬から誕生日プレゼントに貰った木工細工の小物入れ。出雲大社に旅行に行った時に買った縁結びの夫婦石。クリスマスに貰った両開きの小振りな鏡。どれもこれも大切な時間が閉じ込められたものばかりだ。
特に夫婦石は愛梨にとって泣ける小品だ。これを買った時は「二人でいい家庭が築ければイイね」なんて二人で話し合ったものだった。
「嘘つき」とつい愛梨の口をついて出る恨み節。だかだがこんな気持ちにとらわれてる場合ではないのだ。想い出を振り切って、新しい人生、新しい恋人探しに出向かねば。
そう愛梨が考えていると、夫婦石からコツコツという音が鳴り響く。まるで石の中から誰かがノックしてくるようだった。
「どういうこと?」
そう言って夫婦石を手に持ち、石に耳をそばだてると、「お困りかな? お嬢さん」と低く艶のある声が響いてくる。「何これ!?」と愛梨が叫んだ瞬間、石から激しい光が迸り、朱色の煙が立ち込める。
「わっ!」
愛梨が後ろに倒れ込んで軽い尻もちをつくと、煙が晴れたその先に、一人の紳士服姿の男がスラリと立っている。男は胸元の赤いネクタイを正すと、仰々しく愛梨に礼をしてみせる。
「お呼びですか? お嬢さん。どうやらお困りのようですね」
愛梨は何とか状況を整理しようとして、神妙な面持ちで、人差し指を紳士服姿の男に差す。
「ちょっと一つ訊いていい?」
「どうぞ」
男は物腰柔らかく応じる。男の微笑は仄かな色気があって美しい。愛梨は少し息を飲む。
「あなたは、誰? ひょっとして夫婦石の中から現れたとか、そういうこと?」
男は快活に笑う。
「ご明察。お嬢さん。いや、愛梨さん。随分と察しがいいな。いつも私が守護する人間には、状況を説明するのに手間が掛かってね。私自身煩わしくも思っていたんだ」
意外に饒舌で、スマートな男の振る舞いに、愛梨はややたじろぐ。
「もう一つ。訊いていい?」
「どうぞ」
男は繰り返すように愛梨へ勧める。
「あなたが出雲大社のお土産、夫婦石から出て来た、ということは、あなた出雲大社の神様か何か?」
「これも理解が早いな。私としては助かることばかりだよ。出雲大社では年に一度、八百万の神々が集まって縁結びの話し合いをするのをご存知かな?」
愛梨は、スラスラと自分の要件を並べ立てる男に戸惑いながらも頷く。
「それは知ってるけど……」
そう答える愛梨に、男は目を細める。
「なら話は早い。大体の話は掴めただろう。私はその八百万の神の一人、阿出須尊と言ってね。出雲大社を訪れながらも、結ばれなかったカップルの寄り戻しを請け負っているんだよ」
愛梨は、「さて」と一言零して事態が掴めたのはいいが、どうにも信じられない。この男、ただの変質者という可能性もある。突然には信じられないことばかりだ。そう思った愛梨は両手を広げる。
「そんないっぺんに説明されても、『はい、そうですか』とは受け入れられないわ。証拠はあるの? あなたが八百万の神という証拠。そして縁結びの神様だという証拠が」
それを聞いた阿出須尊はこう言ってアルバムを差し出す。そこには幸せそうなカップルの写真が幾千も収められていた。
「さぁ、これがこれまで私が縁結びをしてきたカップルの数々だ。私がこの地方担当になったのは昭和後期だから、まだ数千名程度に収まっているがね」
加えて阿出須尊は、胸元の紋章を見せる。
「そしてこれが八百万の神である証拠だ。書いてあるだろう。『八百万の神、阿出須尊』と」
「ホ、ホントだ。随分ざっくりしてアバウトな団体なのね。神様達も。でも紋章といい、アルバムといい、どうして西洋風なの? もちっと土着の文化に誇りを持ちなさい。おまけに紳士服姿だし」
そう不満を口にされた阿出須尊は、特段気にする様子もなく言ってのける。
「八百万の神と言えども近代化が必要でね。ファッションにも気を使わないといけないんだよ。何よりも紳士服の方がフットワークが軽い」
「それも、そうだけど。やけに効率重視の神様なのね。神様と言えば、もっとこう……」
その愛梨の言葉を遮って、阿出須尊は愛梨に手を差し伸べる。
「さぁ、こんなところで長々とお喋りしてる暇はないんだよ。何しろ予約客が一杯でね。スケジュールは分刻みなんだ」
「ちょっ。そんなこと言われても!」
阿出須尊はエスコートするように、愛梨の手を引く。
「私のことは、そうだな。アデスとでも呼んでくれ」
「アデス? ギリシア神話のハーデスみたいね」
眉をしかめる愛梨を連れて、アデスは颯爽と窓の外へと飛び出す。
「ちょっ、ここ二階よ!」
だがアデスは愛梨を抱き抱えて、宙を滑空してみせる。抱き抱えられた愛梨は「とっ!」と驚きの声をあげる。だがよくよく考えればロマンティックで余り悪くもない状況だ。紳士服姿の神様、アデスとやらは顔を、覗きこんでみると結構な男前だし、その目的が元カレと寄りを戻させることだなんて。
しばらくはこの男神、アデスに身を委ねてみるか。そう思った愛梨はこのシチュエーションを楽しむことにした。空を飛び、白い雲を突き抜ける感覚は爽快だ。
愛梨を抱き抱えたアデスは、愛梨が和馬とよく手を繋いで渡った歩道橋の近くまで来ると、地面にふわりと舞い降りる。見ると歩道橋には、手に白い息を吹きつけながら、ゆったりとしたペースで歩く和馬の姿が見える。
「和馬」
そう吐息混じりに漏らす愛梨に、アデスは呼び掛ける。
「これから三つの想い出を使って、一ノ瀬和馬。彼に君への恋心を呼び覚まさせる。何、簡単だ。彼の心の世界へ行くだけで全ては事足りるのだから」
そう言うとアデスは、いつの間に、部屋から持ち出していたのだろう、愛梨の部屋にあった和馬との想い出の品、三点セット。鏡と写真立て、そして木工細工の小物入れを取り出す。愛梨は三品を見つめる。
「心の世界? どうするの? アデス」
愛梨が訊くとアデスは優しく微笑む。
「彼の時間を一時的に止めて、私は彼の心の世界へ、君と一緒に飛び込む。そこで愛梨、君が彼の気持ちを今一度射止めることが出来れば、全てが元の鞘に収まる」
「面白そう。分かったわ。和馬の心の世界。そこへ行くのね」
そう身を乗り出して、白い息を吐き出す愛梨は、鼓動を弾ませる。アデスは両開きの鏡を宙に浮かべると、鏡の扉を開く。
「そう。さぁ、この鏡の中へと飛び込めば、そこは彼の心の世界であり、彼と君との想い出の場所でもある。行こう。彼の心の中へ」
そう言うとアデスは愛梨を連れて、鏡の中へと吸い込まれていく。そこは真っ白な空に、砂丘が広がる世界だった。あれだけ情感豊かだったはずの和馬の心の中にしては、やけに寂寞としている。思わず愛梨は零す。
「ここが和馬の心の中? それにしては何だか物寂しいわ」
「多分、君と別れた心の痛手が残っているのだろう。だからこそ、こうも寂しげな世界が広がっているのかもしれない。それじゃあ、まずは」
そう言ってアデスは、愛梨と和馬の想い出の品、木工細工の小物入れを取り出し、その引き出しを一つ一つ開ける。すると数々の愛梨と和馬の想い出のシーンが、泡に包まれて空へと浮かび上がる。
学祭に出掛けた想い出、修学旅行先で、こっそり二人で一晩中話しあった想い出、そして夏の海に二人で出かけた想い出などなどが。そしてその内の一つ。夜景を臨むカフェでの想い出が、愛梨の胸にチクリと刺さる。
「あ、痛い」
思わず愛梨は、片目を閉じて左胸を抑える。その夜は折角の二人きりの夜デートだったのに、愛梨は和馬を傷つけてしまった。和馬が着ている暁色をしたタートルネックのセーターを、彼には似合わないと愛梨は口にしてしまったのだ。
そのセーターは結構高価な品で、愛梨の好みを考えて和馬が着てきた服だったのに。愛梨は胸を抑えて泡の中、想い出の世界にいる和馬に呼び掛ける。
「ゴメンね。和馬。あなたの気持ちなんて少しも知らないで傷つけちゃって。私、口が軽いからさ。それに気遣い出来ないからさ。ザクッと言っちゃたの。ホントにゴメンね」
愛梨の瞳から涙が一粒一粒、ポロリポロリと零れ落ちる。涙の粒は宙に浮かび上がり、泡の中の和馬に染み渡って行く。すると和馬の体から黒い塊のようなものがドロリと零れ落ちて、砂丘へとへばりつく。愛梨は驚いて思わず声をあげる
「何? 乙女の涙一つで問題解決とは行かないの? 何なの? この黒い奴!? アデス!」
そう呼び掛けられたアデスは落ち着いたものだ。懐から短刀を取り出す。
「何、よくあることさ。心の傷は膿のようにしこりとなって残る。それがこんなモンスターを生み出すこともあるのさ」
黒い塊は次々と姿を変容させていき、黒い獅子のような姿になった。牙を剥きだす獅子を前にして、愛梨はアデスの背中に隠れる。優しく余裕をもってアデスは、愛梨に囁きかける。
「さがっていなさい。こんな化け物、私の相手ではない」
そう言うとアデスは獅子に襲い掛かる。獅子はアデスに噛みつこうとするも、ヒラリと体を翻すアデスを捕えることが出来ない。アデスが悠々と、獅子の喉元に短刀を突き立てようとした瞬間、愛梨は不気味な影が、アデスの背中に忍び寄っているのを見た。それはあらかじめ黒い塊が、わけ隔て、創っておいたもう一頭の獅子だった。
「アデス! 後ろ!」
愛梨の呼び掛ける声に気付いたアデスは、体を宙に舞わせる。するとアデスに襲い掛かろうとした二頭の獅子は、標的を見失い一瞬戸惑う。その隙をついてアデスは、二頭のたてがみ猛々しい獅子の喉元に短刀を突きつけた。
慟哭の声をあげて消失していく二頭の獅子。すると小物入れから出てきた数々の想い出の泡が、解放されるように弾けて消えて行く。愛梨は吐息を漏らす。
「想い出が。私達の想い出が」
すると愛梨のもとに戻ったアデスが、短刀を懐に仕舞うと愛梨に呼び掛ける。
「過去の想い出は、涙と傷とともに消えて行く。あとは彼と新しい想い出を作る未来が待っているだけだ」
「未来……」
その言葉の美しい響きに魅入られた愛梨は、駆け出していく。彼女の視線の先には写真立ての奥で笑う、和馬と愛梨の姿があった。
「新しい未来、作ってみせるから! 和馬!」
そう力強く呟いて、写真に触れる愛梨。その瞬間、砂丘で占められていた和馬の心の世界に、花々や植物が生い繁り、一瞬にして緑豊かな草原へと成り変わる。
そして写真に写る和馬に、愛梨が淡く唇をあてると、和馬の心の世界は見る影もなく消えて行く。アデスはその様子を見て微笑んでいた。
気が付くと、愛梨とアデスは、元いた歩道橋の前に立っていた。歩道橋にはまだ、手に息を吐く和馬が歩いている。時間はゆっくりとだがまた動き出したようだ。
和馬は、「あの時」と同じ暁色をしたタートルネックのセーターを着ている。涙で霞んで、和馬の姿をしっかりと確かめられない愛梨の背中を、アデスは優しく押す。
「行きなさい。愛梨」
そう促されて愛梨は、走り出して、歩道橋を駆け上ると和馬に呼び掛ける。
「和馬!」
和馬はゆっくりと振り返る。彼の口から聞き慣れた優しい声が届く。
「愛梨」
「和馬、和馬。あのね。私ね。やっぱりあなたのこと……」
そう言い掛けた瞬間、和馬の背中からひょっこり姿を現す小柄な女性。彼女は短めの髪の毛をかき上げると、和馬に訊く。
「和馬。この人誰?」
「あ、ああ、彼女は、前の僕の彼女、藤崎愛梨さん。言ってなかったっけ?」
「げげんっ!」そう胸の内で叫ぶ愛梨に、更に女性の声が追い打ちをかける。
「初めまして。愛梨さん、私、『今』の和馬君のガールフレンド篠崎涼花です! どうぞよろしく!」
「な、な、何と!」愛梨は驚愕の声をあげるとがっくりと膝を落とす。は、敗北だ。そう思い至る愛梨に和馬が留めをさす。
「ゴメンね。愛梨。これから俺、涼花と出掛けるんだ。それじゃあね。ゴメン」
そう言い残して彼、一ノ瀬和馬、暁色をしたタートルネックの恋人は、涼花とともに愛梨のもとを去って行く。メラメラと愛梨の背中で炎が燃え盛る。その愛梨の背中を軽くポンッと、アデスが叩く。
「まぁ、恋は気紛れ。私達八百万の神と言えども、上手く縁結びが出来ない場合もあるのさ。これはその一例さ」
ハッハッハと軽快に笑うアデスに愛梨は、呻くように呟く。
「責任、取ってよね」
「責任? 何のことだ。私達神々にはそんな概念は存在しない」
そう飄々と返すアデスを、完璧な失恋から立ち直った愛梨は指さす。
「あなた色男! 優しいし、おまけに強い! 私の彼氏になってよね! 神様ならそれくらい叶えられるでしょう!」
「はて」と困り果てた様子のアデス。だが悪い気はしていないらしい。愛梨はアデス、いや阿出須尊の腕を組んで、大股で街中を闊歩していく。こうリズミカルな言葉を添えて。
「八百万の神は私の新しい恋人。なんてね」
腕を強引に引っ張られながらも亜出須尊は、こう愛梨を諭すのだった。
「分かった。但し次の恋人が出来るまでの期間限定だ。そして私が仕事で出掛ける時は、私を煩わせないように」
「結構! 上等! 大上等!」
そう勢いよく叫ぶ愛梨の瞳に、涙が滲んでいるのを、阿出須尊は見てとった。亜出須尊は愛梨の瞳にそっと触れて、彼女の涙を拭うと「仕方ない」と一言零して、雪の降る街へと二人して出向いて行く。最後に愛梨がこう寂しげに呟くのを、阿出須尊は確かに聞いた気がした。
「さようなら。私の暁色をしたタートルネックの恋人よ」