青空ブランコ・夏
じっとりと世界を包む湿気が、きつい陽光に浄化され、ついに夏の盛りを迎えた。連日燦々と降り注ぐのは、うだるような暑さの陽射しと、蝉の声だ。
ここ数日、太陽の機嫌が悪かったせいか、今日はまたいちだんと暑い。数日出し惜しみしていたぶんを発散させるように、雨ののちの快晴はぎらぎらとしていて、容赦がなかった。
太陽が天頂に昇るにはまだ早いかというころ、二人の少年が、公園のブランコにできた大きな水たまりの前で、じっとしゃがみこんでいる姿があった。
「ねえ、こんなところにいないで、川に行こうよお」
したたり落ちる汗を手の甲で拭いながら、登はあえぐように言った。すると、かたわらにいた尋也が、目元の少しつり上がった目で登をにらみつける。
「ここのほうが安全だろう。それに、舟だって見ていられるし」
「それはそうだけど……」
それきり、登は口を閉ざした。
登と尋也は、この夏休みの間じゅうのほとんどを一緒に過ごしていた。小学校のプールに行ったり、家のなかでゲームをしたり、今のように、こうして近所の公園に遊びに来たりと、長い休みを、一日一日、存分に満喫している。
「いいじゃん。空飛ぶ舟だぜ。かっけえ」
尋也はふうふうと水面に浮かんでいる舟に息を吹きかけ、水たまりのまんなかへと懸命に送りだしている。
今日は、二人で、近所の家の玄関先に生えている笹の葉を失敬して、舟を作って遊んでいた。もちろん、ここ数日続いていた雨のおかげで、公園に大きな水たまりができることを見越してのことだった。
公園に来てみると、案の定ブランコの周りには、四本の支柱をぐるりと囲むほどの大きな水たまりができていた。近所の子どもたちの間では、ちょっとした名所でもあるこの公園のブランコは、通称『青空ブランコ』と呼ばれている。名前の通り、雨上がり、いっぱいの水面に、青空が鏡のように映りこむのだ。
登は、水たまりの中心に進んでいく尋也の笹舟を、膝の上で頬杖をつきながら眺めていた。
確かに、尋也の言うとおり、笹舟はまるで空を航行しているように見える。面白くないといえば、うそになる。夏の空は冴えるほどの青で、足元に広がっている空は、まるでどこまでも続いているようだ。尋也の笹舟は、さながら空のまんなかを優雅に漂っているようだった。
けれど、登は、何かが違う、と思っていた。
面白いのだ。面白いのだけれど――わくわくしないのだ。
無風の公園の水たまりには、さざ波さえ起こらない。尋也がしたように、こちらが送りだしてやらねば、笹舟は、ぴくりとも動きはしないのだ。
登は、自分の手のひらの上にある笹舟をころころ転がしてみる。
「ぼくは、舟が流れていくのを見たい」
ぽそりと、つぶやいた。
途端、登のなかで、何かが弾けた。自分の笹舟を、そっと握りこむ。つと顔を上げると、大きく息を吸いこみ、熱い空気で肺を膨らませる。
「ヒロ、川に行こう」
登は、力強く、はっきりと言った。
尋也は笹舟に風を送るのをやめ、登に顔を向ける。登も尋也に向き直ると、視線がまともにぶつかりあった。そうしたまま、しばしにらみあいになる。
「おれたちだけでか?」
沈黙を破ったのは、尋也だった。登は視線を外さぬまま首肯する。
「うん」
「それはだめだろう」
わかっている。夏休みが始まる前の日に、担任の先生から、川遊びは危険だからやめるように言われたような気がする。夏休みのしおりにも、書いてあったかもしれない。
けれど、登は譲れなかった。
先刻、登のなかで、刹那的に弾けた鮮烈なイメージ。とうとうと流れる川に、自分の作った笹舟が浮かび、堂々たるさまで進んでいく。流れはだんだん緩やかになり、大きく広がっていく。やがて笹舟は、いつか、川から大海原へと旅立つのだ。
登の真剣な表情を映しこむ水面には、尋也の笹舟が、水たまりのまんなかで、心許なげにぷかぷか浮かんでいる。まるで、指針を失ってしまい、だだっ広い青空のなかで、前へも後ろへも進むことができずにいる迷子のようだ。
登のイメージしていたことが、尋也にも伝わったのだろうか。しばらくぼうっと焦点の合わない視線を漂わせていた尋也が、ふいに登を真正面から見つめる。そして、にやっと笑った。
「しょうがねえなあ。それじゃ、行くか」
やれやれと息をつきながら、尋也が立ちあがる。登も慌ててあとに倣った。
尋也はじゃぶじゃぶとサンダルをつっかけたまま水たまりのなかに入っていった。尋也の足元から、じわじわと泥が湧きあがる。不安定に波立ち、曇りかけた水たまりから笹舟をすくい上げると、尋也は公園の出入り口へと歩きだす。
登は、そっと、笹舟を握った。
たちまち、胸がわくわくしてくる。
「言っておくけど、安全第一だからな」
振り返った尋也が、人さし指を立てて、登に忠告する。登は、しきりにうんうんと頷いた。
「わかってる。舟を、川の流れにのせるだけでいいんだ」
そうだ、それだけでいい。
笹舟が、どういう冒険を経て海へ出るのかまでは、知らなくてもいい。今はただ、やがて大きくなっていくだろう流れへ送りだしてやるだけで、十分だ。
真夏の陽射しは、肌をじりじりと照りつけ、体の芯まで焦がすようだ。手のひらをかざすと、すうっと熱が染みこんでくる。体じゅうをめぐっている血潮の色が見える。血潮は、鼓動を――このわくわくする胸を、鳴らしているのだ。
「川まで競争な」
公園の出入り口を出ようかというところで、尋也が言った。近くの川までは、走って五分もかからない。登は軽く伸びをしながら尋也に応じる。
「いいよ。それじゃ、ようい……どん!」
登と尋也は、いっせいに地面を蹴る。
小さな舟を携えた二人は、水たまりよりももっと大きな流れを求めて、夏のなかを駆けだした。
〈了〉