第五章 春の運動会と、弁当と
第五章 春の運動会と、弁当と
生徒会とその補佐委員会のメンバーは、皆揃って大あわてである。
是岩高校の、春の運動会。来賓の受付に小道具の用意、ひとつの種目が終われば次の種目の道具の用意。メインになるのは生徒会だけれど、補佐委員会もその手伝いで大わらわだ。
「ねぇ、フラフープって、どこに置いた?」
「俺は見てないぞ!」
「じゃあ、いったいどこにあるのよ!」
「フラフープなら、さっき倉庫で見ましたよ?」
「倉庫!? なんでまだそんなところに置いてあるの!」
校庭の隅、生徒会の幕屋の中は大騒ぎだ。悠翔ももちろんさまざまな仕事に駆り出されて、運動会の見学どころではない。
少しだけ息をつけたのは、昼食の時間の前、ほんのひとときだ。悠翔は地面に座り込んでペットボトルの水を飲んでおり、その横に座ったのは優心だった。
「お疲れさま」
「おお、碇野さんもお疲れ」
ほかの皆は名で呼んでいるのに、優心だけはどうしても苗字でしか呼べない。それはもちろん優心が名で呼ばれるのをいやがっているからなのだけれど、それだけではなく、どうにも優心の持っている雰囲気が「優心ちゃん」ではない、「碇野さん」なのだ。
「芦馬くんも、大活躍ね。芦馬くんがいてくれてよかったって、生徒会の先輩たちも言ってるよ」
「いやぁ……、ただ、なんか裏方が好きなんだよ。こういう仕事、向いてると思う」
そして優心も、相手を名字で呼ぶ。彼女が人を「ちゃん」づけや呼び捨てでで呼ぶのも似合わないように思うので、誰も違和感を持ってはいないようだ。
「でも、こんなに忙しいなんて思わなかった。競技見る時間もないよね」
「まぁ、それはちょっと残念だけど……」
ひょいと、グラウンドのほうを見る。午前中の最後の競技、短距離走が行なわれている。視界の向こうにずらりと並んだ選手たちの中、きりりとはちまきをつけてスタートのポーズを取っているのは。
「瑠音……」
瑠音の隣には、愛菜が構えている。さすが、中学生のときは陸上少女だと言っていただけあって、スタートの構えも胴に入っていた。
しかし先日のことを思い出すと、つい愛菜から目を逸らせてしまう。愛菜は悠翔と瑠音が『つきあっている』ということを言いふらすようなことはなかったらしく、誰にも冷やかされるようなことはない。しかし彼女の瑠音を妬んでの言葉はいまだ耳から消えず、彼女を視線に入れるのが辛くなる。
一方の瑠音は、一応しゃがんでポーズは取っているものの、完全に自己流だ。なんとなく、高いところにいる虫に狙いを定めている猫のように見える。
声がかかり、笛が鳴り響く。選手たちはいっせいにスタートを切り、まわりでわっと歓声が沸く。
「わぁ……楠城さん、早いね」
優心がしみじみと言うまでもない。スタートから、瑠音は違った。どんどんまわりを引き離し、あっという間にゴールテープを切った。
「はや……」
瑠音の姿は見慣れているとはいえ、こうやってそのすごさを見せつけられると新たな感嘆がある。悠翔は、固唾を呑んだ。
取り囲む歓声も、驚愕のものに変わっている。またインターハイ記録でも出してしまったのだろう。
悠翔の隣で、優心は驚いたように瑠音と彼女を取り囲む者たちを見ている。瑠音のスピードを見たのは初めてではないだろうに、悠翔と同じく新たな感慨に囚われたのだろう。いつもの沈着冷静な表情からは遠く、珍しいものを見たと悠翔は彼女に見とれた。
「あ、悠翔!」
瑠音が、ぱっと顔を輝かせた。長い足でこちらに駆けてくる。満面の笑みを浮かべて走り寄ってくる姿は、子猫がはしゃいでいるかのようだ。
「見ててくれた? わたし、一番だったの!」
「ああ、見てた……」
「すごい? 褒めて褒めて!」
全力疾走したのであろう疲れなど微塵も感じさせず、瑠音は海翔の目の前でくるりとまわった。同時に、ツインテールも艶やかな波を描く。そんな彼女の眩しさに、思わず悠翔は目をすがめてしまう。
「すごいすごい、本当にすごいな」
「でしょ、でしょー!?」
悠翔の言葉に、瑠音はこぼれて弾けそうな笑みを見せた。その笑顔は輝いていて、眩しくて、悠翔はまっすぐに彼女を見ることができない。
思わず、悠翔は視線を逸らせる。
(……あ)
こちらを見ている愛菜と、目が合った。彼女はくちびるを噛みしめ、悲しそうな、辛そうな表情をしている。その顔に、悠翔はどきりとした。
(瑠音の走りに、まだこだわってるのかなぁ……)
そう思うと、自分は瑠音ではないのになにやら申し訳ない気持ちになった。愛菜はすっと去ってしまい、その間も瑠音は人に囲まれ、褒められては嬉しそうだ。
「ねぇ、悠翔! お弁当! 今日はお弁当だって言ってたよね!」
「あー、はいはい」
召し使いたるもの、ご主人さまのお食事を整えるのは当然である。弁当を置いてある天幕に向かう悠翔に、優心が声をかけてきた。
「まだ、ご主人さまだの召使いだの、やってるの?」
「まぁ、な」
改めて他人の口から聞くのは恥ずかしかった。悠翔は肩をすくめ、そんな悠翔の耳もとに、優心は口を寄せた。
「前にも言ったけれど、そういうの不健全だよ。やめなさいよ」
不健全、と言う優心は、心底いやそうに顔を歪めている。先日、トイレ前の手洗いでしきりに手を洗っている優心を見たこと思い出す。潔癖性の気があるのかもしれない。
「不健全って、変なことするわけじゃないし……」
指先でぽりぽりと頬を掻きながらそう言うと、なぜか優心は真っ赤になる。
「あああ、あたりまえですっ!」
悠翔は冷やかしたつもりはないのだけれど、優心はムキになったような声をあげた。
「そんなこと言ってるんじゃないわよ。ただ高校生で、召使いだのご主人さまだのいうのがおかしいって言ってるだけ」
「でも俺、そんなにいやじゃないし」
そう言うと、優心はますます目をつり上げた。
「そこがまた不健全だって言ってるの! ふたりとも、おかしいよ……」
呆れたような優心は、友達らしき女子生徒に呼び止められた。昼食を一緒に摂る予定だったらしい。優心はまだなにか言いたげだったけれど、早く早くと急かされている。彼女は後ろ髪を引かれるような表情で悠翔を見ると、去っていった。
(不健全とか、なんとか……言われたって、なぁ……)
優心の後ろ姿を見やりながら、悠翔はまた頬を掻いた。首をかしげながら、生徒会の天幕の中に入る。そこには、用意した弁当が置いてあるのだ。
置いておいた弁当を取りあげる悠翔の後ろ姿に、声をかけてきた者があった。顔をあげるまでもない、生徒会長の恭一だ。
「や、ご苦労さん」
同じことを瑠音に言われても何とも思わないのに、恭一に言われるとむかっ腹が立つ。悠翔は小さく返事をして、早く天幕から出ていこうとした。
「ずいぶんと大荷物だねぇ」
瑠音だけではない、那奈も莉奈も、またほかにも食べる者があるかも知れない、と思うと、ついつい五重の弁当を作ってしまったのだ。
「別に……ついでですから」
「お母さんが頑張ってくれたの? ずいぶん時間、かかったんじゃない?」
「俺が作りました」
そう言うと、恭一は少しだけ驚いた顔をした。そんな顔をさせられたことにはしてやったりという気持ちではあったが、恭一はすぐにいつもの苛立つアルカイックスマイルを浮かべる。
「ふぅん、すごいんだね。いつも作ってるの?」
「いいえ、いつもは購買ですけど。今日は、お祭りだから」
悠翔は、早く天幕から出ていきたい。しかし恭一は、悠翔の弁当にやたら興味があるようだ。
「それにしたって、豪華だね。悠翔くんにそんな特技があるとは思わなかった」
「母子家庭が長いですからね。料理くらい、できますよ」
あまりに恭一がじっと見ているものだから、悠翔は弁当を持ちあげて少し振る。
「先輩も食べます?」
あくまでも社交辞令としてそう尋ねたのだけれど、恭一があっさりと首を横に振ったことにまたむっとした。
「僕は、遠慮しておくよ。クラスのやつらと食べる約束なんだ」
「へぇ……仲いいんですね」
春の運動会ということで、一年生はまだ互いの顔を覚えきっていない。しかし二年生の恭一には、すでに昼食をともにする仲間がいるのだろう。
「そういうんじゃないけど、つきあいは大切にしないと」
「え」
恭一の妙に人間くさい台詞に、悠翔は思わず首をかしげた。
仙人の世界でも、つきあいが大事だとかそういうことがあるのだろうか。人づきあいと仙人とは、なんだか不釣りあいのような気がするのだけれど。
そんな悠翔の心を読んだかのように、恭一は笑う。
「まぁ、いろいろあるんだよ。君は君で、行っておいで。午後はまた忙しくなるから」
「はぁ……、じゃ」
恭一も同席するはめにならなくてよかったと、悠翔は天幕を出る。出たところでは瑠音が、ほかの女子生徒ときゃっきゃと騒いでいた。
「あ、悠翔遅いよー。お腹空いたー」
「はいはい、持ってきたから」
その中には那奈と莉奈もいて、好奇心いっぱいに悠翔の持った弁当を見つめている。悠翔は苦笑して弁当を振ってみせ、すると通りがかった人物と目が合った。
「あ、もも先輩」
三つものバレーボールを抱えて歩いているのは、ももだ。彼女は悠翔たちに目だけ向けると、にっこりと微笑んできた。
「先輩も、弁当食べますー?」
悠翔の声に、ももはぱっと顔を輝かせた。いつも穏やかに微笑んでいる人のそのような笑顔には驚かされると同時に、見ていて心安らぐものがある。先ほどまで恭一と話していたから、なおさらだ。
「いいの?」
「もちろんです!」
「先輩も、来ていいよー!」
いつの間にか隣に立っていた瑠音が、ぶんぶんと手を振る。するとももは「じゃあ、あとで」極上の笑顔を見せてくれた
「いっぱいあるんだよね、先輩のぶんも!」
「ああ、いっぱい作ってきたから」
きゃー、と喜びの声をあげるのは、瑠音だ。那奈に莉奈もいて、みんなが期待のまなざしを向けていた。
「いや……、大したものは、ないぞ」
彼女たちの期待が恐ろしくて、悠翔は思わず萎縮した。しかし瑠音は、弁当を楽しみに輝く目を、悠翔に向ける。
「きっと美味しいよ、だって悠翔、コーヒー淹れるのもうまいもん!」
「コーヒーなんて、豆をセットするだけじゃない。まさか、喫茶店みたいに本格的に淹れるわけじゃないんでしょう?」
那奈の言葉に、ううん、と瑠音は首を振る。その間に悠翔は食事の支度をした。
「普通に淹れても美味しいの! コーヒーメーカーも普通のやつなのに、自分で淹れるのとは全然違うの!」
「へぇ……、どんなのだろう。飲んでみたいな」
「今日のお弁当は、手づくりだって言ってたから。那奈も莉奈も、悠翔の実力のほどがわかると思うよ」
まるでそれが自分の手柄であるかのようなもの言いで、瑠音は腰に手をやった。
「いいから、食うぞ」
五段重ねの弁当のふたを取り、一段一段、レジャーシートの上に広げていく。一段が披露されるたびに、少女たちが大きな歓声をあげた。
いただきます、と皆が箸を動かした。
「私も、お相伴していい?」
そう言ってももが現われたとき、瑠音もふたごたちも感嘆の声とともに一生懸命箸を動かしていた。
「すごいわね、これ全部、悠翔くんが作ったの?」
「まぁ、そうです」
少女たちの褒めちぎる声に、ももの落ち着いたそれが重なった。
「量もすごいけど、盛りつけも……すっごく、おいしそう!」
「うん、そうなんだ。すごいでしょ! もも先輩も、早く食べたらいいよ!」
ここでもなぜか、瑠音が威張る。ももは苦笑し、唐揚げに箸を伸ばした。
「……うわぁ」
瑠音たちに気に入ってもらうのももちろん嬉しいけれど、ももの控え目なリアクションも悪くない。彼女は唐揚げを囓りながら、顔を輝かせた。
「これ……どうやってるの? 外がぱりぱりで、中はすごく柔らかいんだけど」
「ああ、それは、二度揚げです」
二度揚げ? と、瑠音が首をかしげる。
「そのまんま。二回揚げるんだよ。そしたら中までしっかり火は通って、外側はぱりぱりになるんだ」
「へぇ……」
よほど気に入ったのか、ももはひとつをあっという間に平らげてしまう。ももが食事をするなんて、ましてや唐揚げを食べるももなんて想像できなかったけれど、彼女はなかなかの健啖っぷりを見せて、ポテトサラダにもトマトにも浅漬けにも、どんどん箸を進めていく。
「もも先輩、よく食べるねぇ……」
瑠音も同じことを思ったらしく、驚きの声を揚げる。
「あら、ごめんなさい」
ももは咀嚼のスピードも早く、口に食べ物が入ったまましゃべるというようなことはしなかった。
「こんな素敵なお食事いただくのは、初めてだったから……」
「初めて?」
悠翔も瑠音も、ふたごも揃って声をあげた。
「じゃあ、先輩はどうやって生きてるんですか?」
この場には、仙人しかいない(悠翔除く)であることを確認して、恐る恐る悠翔はそう尋ねた。
「だって私は、仙人だもの」
ももからは、気持ちいいくらいにあっさりとした返事が返ってきた。
「でも、瑠音は不老不死でも霊仙薬が必要だし……」
驚いた声をあげたことから、ふたごも生きていくうえでのなんらかの食事が必要なのだろう。ちらりとふたりを見ると、確かに彼女たちも不思議そうな顔をしている。
「先輩は、普段はどうやって……」
「ひみつ」
おにぎりをひとつ手にしながら微笑む彼女は、しかし微笑みで質問を拒否するバリアを張ってしまい、それ以上尋ねることをためらわせた。
「それにしても、美味しいわね。悠翔くん、いいお嫁さんになれそう」
「なんで、嫁なんですか……」
悠翔は脱力し、うなだれる彼にまわりの女子生徒たちは、それぞれの笑い声をあげている。上品な手つきでおにぎりを最後まで口に入れたももは、言った。
「こんな美味しいお弁当をご馳走になったんだもの、ぜひとも今度、お礼させてちょうだいね」
「そんな、いいですよ。礼なんて」
悠翔は手を振って、笑って答えた。しかしももは、微笑みの中にも真面目な表情を見せている。
「だって、本当に美味しかったんだもの……」
今度は野菜の肉巻きに箸を延ばしながら、ももは言う。肉巻きもたちまちももの口の中に消えてしまった。
(美人って、食べ方もきれいなんだなぁ……)
いつも昼食をともにする瑠音は、くちびるにソースや餡をつけていて、それはそれでかわいらしいのだけれど。ももの食べかけは大人の雰囲気を醸し出していて、それを悠翔は見つめてしまう。
「悠翔、見すぎ」
箸でミニハンバーグをつまみながら、瑠音がくちびるを尖らせる。悠翔は慌て、ももから視線を逸らせた。
「見てない、別に見てない」
「ふぅん……」
瑠音は不満げな口をしたまま、そこにハンバーグを押し込んだ。
「あー、瑠音。瑠音はぁ、召使いさんが、もも先輩みたいな美人に見とれてるのが気に入らないんだ」
「気に入らないんだー」
那奈莉奈のふたごが、瑠音を囃し立てるように声をあげる。瑠音は、そんなふたりを睨みつけた。
「うるさいわよ、ふたりとも!」
「わー、怒ったー」
「怒った怒ったー」
ふたごはなおのこと瑠音を囃し、つんと顔を逸らせてしまう瑠音は悠翔の目にあまりにかわいらしく映る。朝早く起きて弁当づくりに励んだ甲斐もあった、と悠翔は感じ入ってしまった。
(……あ)
そんな少女たちを、ももが微笑ましげに見ている。そういう表情を見ていると、彼女が高位の仙女であるということがわかる気がして。
「あ、これ、すごく美味しい」
瑠音が、別の一品をひと口食べて、目を丸くした。
「ハンバーグだけど、ただのハンバーグじゃない。しっかり挽肉に味がついていて、塩味が風味になっていて。ソースは……二種類とケチャップを混ぜてあるわね。それが肉を包んで、得も言われぬハーモニーが……」
「おまえ、本当にグルメリポーターになったほうがいいんじゃないか?」
悠翔のツッコミも意に介さず、ぱくぱくとハンバーグを瑠音は食べる。悠翔と目が合うといちご大福を食べたときのように、幸せそうな顔で、笑った。
第六章 季節はずれの桃
桃が、たわわに実っていた。
登校してきた悠翔は、校門の前で唖然とする。驚きに立ち尽くしている彼の後ろから、声をかけてくる者があった。
「悠翔、これ、なに?」
「俺が聞きたいよ……」
人のごった返す登校時間、皆が校庭の異常に驚いている。声をかけてきた瑠音も目を丸くして、きょろきょろとまわりを見まわしていた。
「この木って、桃の木……だったっけ?」
「違うと思う」
悠翔が見てわかる樹木など桜くらいだけれど、少なくとも桜ではなかったというのは知っている。そして校庭にずらりと並んだ木がなんであれ、今の状態があり得ないことだというのも理解できた。
「桃……?」
校庭中の樹木には、桃の実がなっている。どれもこれも、丸くていかにも美味そうなピンクで、それがすぐ手の届くところにあった。
「桃が、何でここに……」
校庭中の者が、驚きの声をあげている。悠翔は手近なひとつに触れて、鼻を近づけてみた。
「本当に桃だ……」
「ねぇね、食べてみよう!?」
瑠音がとんでもないことを言い出したので、悠翔は仰天した。
「なに言ってんだ、こんな、得体の知れないもの!」
「大丈夫よ、おかしなものではないから」
聞こえた声に、振り返った。そこにいたのはバッグをさげたももだった。彼女も登校中なのだろう、いつもの優しい笑みを浮かべている。
「これ……もしかして、先輩の術とかなにかなんですか?」
「まぁ、そのようなもの」
また「ひみつ」などと言ってはぐらかされるのかと思ったけれど、穏やかに桃はうなずいた。もっとも、どういう術なのかまでは笑顔のバリアで遮られて、訊くことができなかったけれど。
「そうなんだ……じゃあ、大丈夫ですね」
仙人の術、というところで納得してしまった自分が、すっかり慣らされてしまっていると悠翔は苦笑した。ももは優しい笑みのまま、言う。
「この間、悠翔くんにご馳走になったから。お礼に、と思って」
「お礼って……」
それにしては、豪勢にも大規模だ。学校中の者が大騒ぎをしている。
「ねぇ、もも先輩。食べてみてもいい?」
遠慮もなにもなく、そう言ったのは瑠音だった。なおもくんくんと匂いをかぎ、桃の実の甘さを確かめているいるようだ。
「すっごく美味しそう。めちゃくちゃ甘いよ!」
「いいわよ、どうぞ」
たおやかな笑みとともに、ももは言った。
「悠翔くんも、ぜひ。あなたに捧げたい贈りものなのだから」
「あ、はい……ありがとうございます」
悠翔は、瑠音が匂いをかいでいる実の隣に手を伸ばす。片手を大きく広げてやっと掴めるくらいの大きさのそれは、もいだ瞬間甘い匂いと果汁がぱっとあたりに広がり、本当に熟して甘いのだということがわかる。
「でも、皮剥くナイフとか……」
「皮なんて、剥かなくていいのよ。そのままで充分」
悠翔は少したじろいだが、ももの笑顔に、うんとうなずく。
「じゃ……いただきます」
はいどうぞ、とにこやかに言うももの前、かぷりとひと囓り。すると瑞々しい桃のすっきりとした甘さが口中に広がって、そのあまりの美味に悠翔は目を丸くしてしまった。皮までもが、それだけでもいいというくらいに柔らかくて甘いのだ。
桃のあまりの美味さに、食べるのをやめられない。気づけばあれほど大きかった桃は、芯だけになっていた。
思わずもうひとつ、もうひとつと平らげてしまい、ひとしきり腹もいっぱいになったところで、悠翔はやっと大きく息をついた。
「美味しい?」
「はい……めちゃくちゃ」
瑠音も、小さめの実を囓っている。いちご大福を食べているときと同じように、恍惚の表情を浮かべていた。
「なんか、これ……蟠桃みたい……」
うっとりと、瑠音がつぶやく。ももは肩をすくめて、笑った。
「蟠桃は、崑崙山でしか実らないのに。もも先輩、先輩には、人間界で蟠桃を実らせる力があるの?」
「いいえ」
にっこりと微笑んで、ももは答える。
「この桃には、蟠桃のような力があるわけじゃないの。けれど、味だけなら同じくらい美味しい桃を実らせるのは、そう難しいことではないわ」
桃に囓りつくふたりを、まるで姉のように見つめるももは言う。
「でも、瑠音ちゃんあんまり食べ過ぎちゃだめよ? いちご以外でも副作用があるかもしれないっていうんだから」
「ふぁーい」
瑠音は、桃に囓りつきながら返事をした。釘は刺したものの、ももは少し心配そうだ。
「瑠音、先輩のいうこと、聞けよ」
「はー、……む、むっ」
副作用の話に怖じ気づくと思っていたのに、自分が追われるはめになった桃を食べるのに夢中で、瑠音にはももの言葉を聞いているのか否か。
そんな瑠音に優しい笑みを見せ、ももは「じゃあね」と去っていってしまった。
「あ、ありがとうございます!」
ももに頭を下げ、あげて見たまわりの者たちは「食えるのか?」「あいつら、食ってるぞ?」と声高に話している。そして真似をして食べ始める者まで現われたのだ。
「な、なぁ……瑠音」
それよりも、次々に桃を平らげる瑠音のほうが心配だ。気がつけば、もう三つも桃の芯が足もとに落ちている。
「おまえ、本当に猫耳……副作用が出たらどうするんだ」
しかし瑠音には、悠翔の言葉は届いていないようだ。マタタビを前にした猫――確かに美味な桃ではあるが、我も忘れて食べる続けるのはどうなのか。
「瑠音、おいって!」
悠翔は瑠音の肩を置き、こちらを向かせようとする。と――。
ぴょこん。
悠翔は、目を見開いた。今、確かに何かがうごめいた。
「わぁ、瑠音、瑠音っ!」
それは、瑠音の頭の上にぴょこんと生えた、猫耳だ。ついで、スカートの下からは長くてすらりとした、猫のしっぽ。
「瑠音っ!」
新たな桃をもうひとつ、あーん、と口を開けていた瑠音をとっさにお姫さま抱っこにして、悠翔は地面を蹴った。腕の中では瑠音がきょとんとした顔で、囓りかけの桃を握りしめている。
一気に階段を駆けあがり、いつも昼食を摂る屋上に向かう。始業前のそこには誰もおらず、悠翔はほっとした。
「ね、もう……離して……」
ずっと抱きあげられていた瑠音が、か細い声でそう言った。悠翔は慌てて、瑠音を地面に座らせる。
「すごいねぇ、悠翔」
手には半分食べた桃を持って、瑠音は感心した顔をする。
「わたしを抱えて、ここまで走ってくるなんて。それに全然、そんなにしんどそうじゃないし」
「あ……そうだな」
鍛えているというわけではないのに、いくら軽いとはいえ女の子ひとりを抱えて走って、階段をあがって。それなのに、悠翔は息ひとつ乱してないのだ。
「なんでだろ?」
「もも先輩の桃食べたから、元気になっちゃったんじゃない? 蟠桃じゃないけど蟠桃みたいな味するし、麻姑は霊芝を醸したお酒造りの名人だし」
「酒かぁ……」
もちろん悠翔に飲酒の経験はないが、ももの力で実った果実の味は、話に聞く酒の酔いの快感にも似ているようにも思う。
「俺、あれ食べて未成年飲酒とかにならないのかな」
「そのときには、みんな同罪だから。大丈夫」
残りの桃を食べ尽くしてしまった瑠音は、それでもまだ足りないというように、指を舐めている。その猫耳と猫しっぽは健在なのに、それ以外はいつもの瑠音と変わらないのだ。
「おまえこそ、平気なのか。そんな……副作用、出てて」
「え、副作用!?」
瑠音は桃を取り落とし、頭の上を押さえた。ツインテールの結び目より少し内側に、ふたつの丸い、黒と金色の縞模様の耳――。
「わぁ、ぁ、ぁっ!」
「おまえ、しっぽも!」
生えた耳を押さえて、身を小さく縮み込ませて。瑠音は、ふぁぁん、と泣きそうな声をあげた。
「やだぁ、見ちゃ、やだぁ……」
「見ないって、てか、俺以外には誰もいないんだから、落ち着け」
「悠翔に見られるのが、一番やなんだもん……」
泣き声の混じった調子でそう言われ、悠翔はどきりとする。以前、瑠音の家で聞かされた「悠翔はわたしだけの召使い」との言葉、そう言われたときの胸の高鳴りを、思い出した。
「……ま、まぁ……」
泣くのを我慢しているせいか、目のまわりを真っ赤にして瑠音はうつむいている。手で隠しきれない猫の耳、そしてしんなりとへたっているしっぽ。それらのかわいらしさに、悠翔は思わず手を出して撫で撫でとしてやりたくなってくる。
「見ないから。治まるまで、後ろ向いててやるから。だから、泣くな?」
「……うん」
瑠音はこくりとうなずいた。うつむいてしまっている彼女が震えているのが、――何に比してもかわいらしくて。背を向けているなんて言わなければよかった、と悠翔は後悔した。
☆
悠翔は、唖然と立ち尽くしていた。
「嘘だろ……おい」
まわりの者たちが、ざわめいている。しかし一番驚いているのは、悠翔だ。
「おまえ、そんなに筋肉あるのか?」
「ないよ! ほら、この体。どこにそんな筋肉があると思う!?」
「いいから、男の体を見せつけるな!」
声をかけてきた友人は、心底いやそうな顔をしてそっぽを向いた。「悪かったな」と言いながらも、悠翔にもわけがわからない。
「楠城さんだけじゃなくて、芦馬くんもなんだ……」
瑠音が超級の運動神経を持っていることは、すでに皆の知っていることだ。しかも悠翔まで、となると皆が驚くのも無理からぬこと。
「八メートル三十とかって、あり得ないから……」
今は、走り幅跳びの時間だった。瑠音はいつもと同じようにインターハイ級の記録を出して皆を驚かせているが、悠翔もその仲間入りをしてしまい、皆に大変訝しがられているところだ。
「なにかあったのか? なにか、薬でも呑んでドーピング……」
「俺が、どうしてそんなことするんだ」
憤慨する悠翔だが、本当に心当たりなどないのだ。今までこつこつ練習を重ねてきたのであろう陸上部の者たちには、面白いはずがない。事実、遠くから悠翔を見ている一団はちらちらとこちらを見やり、何ごとかをひそひそと話しあっている。
(うわー、気分悪っ!)
愛菜が、瑠音とはつきあわないほうがいいと言っていたことを思い出した。それが今、自分の身に起こっているのだということを実感する。
己自身でもわけのわからない――こんな記録を出してしまうなんて――ことで嫉妬されるのはごめんだ。ひとりと目が合い、彼が忌まわしげな顔をしたことに、胸の奥の不快が大きくなる。
努めてその集団から目を逸らしたところに、視界に飛び込んできた者があった。
「悠翔ー!」
瑠音は、悠翔の鬱屈を晴らしてくれる笑顔とともに、楽しげに走り寄ってきた。
「すごいねー、悠翔ってば、あんな記録出しちゃって!」
「まぐれだよ……、なんかの間違い」
本当にそのとおりだとしか言いようがない。しかし瑠音は、すごいすごいと歓声をあげて悠翔の手を取った。
「間違いじゃないよ、悠翔の実力だよ!」
「そんなわけない、実力だったら、とっくの昔に県代表とかに選ばれてるはずだ」
「そういう意味じゃないよ」
砂場では、次々に生徒たちが幅跳びをしている。誰も悠翔のつけた痕までは届かず、もちろんそれが正常なのだけれど。
「あのね」
瑠音はそっと、悠翔の耳もとにくちびるを寄せてきた。ふわり、と甘い匂いが漂う。相変わらず毎日食べているいちご大福の匂いなのかも知れないし、女の子特有の匂いなのかもしれない。
「もも先輩の、桃食べたでしょ」
悠翔はうなずく。瑠音は、神妙な顔をしていた。
「あれで、悠翔の中の何かが目覚めたんじゃない?」
「目覚めた?」
思いもかけないことを言われ、悠翔は眉根を寄せた。
「そんなことって……それにほかのやつらも、いっぱい食べてるやついたけど、すごい記録とか出してるやつ、いないぞ?」
「それが、わからないんだよね……」
ますます神妙な表情で、瑠音は言う。
「どうして、悠翔だけなのか。生徒会長あたりに訊けば、わかるかもしれないけど」
「そう、だな……」
正直、あの生徒会長は好きではない。しかしこの身に起きた異変、そして日常を取り戻すにはどうすればいいか。尋ねられそうな者がいるのなら、頭を下げるのもやむなしで訊いてみるしかない。
「じゃあ、会長に訊いてみるか?」
うん、とうなずいた瑠音がどこか目をきらきらさせていたのは、恭一=『餡処』のいちご大福、というパブロフの犬的な作用なのかもしれない。
「また、食べ過ぎるなよ」
そう釘を刺すと、瑠音は悠翔が思っていたとおりのことを考えていたらしく、小さく肩をすくめて極まり悪そうに、笑った。
☆
中ノ森恭一生徒会長。彼は今日も今日とて生徒会室の一番奥に、高校生らしからぬ威厳を感じさせる雰囲気を醸し出しつつ、座っている。
「……ああ、芦馬くん」
悠翔が部屋に入るか入らないか、というところで、恭一はそう言って目をすがめた。珍しいものを発見し、矯めつ眇めつしているような表情だ。
「君も、仙人になったんだね」
「はぁぁぁ!?」
突拍子もない、といえばこれ以上ない突拍子な言葉で迎え入れられた生徒会室のドアの前、悠翔は立ち尽くした。
「おめでとう。君も、僕たちの仲間入りだ」
「な、仲間って……」
ただただ戸惑う悠翔を押して生徒会室に入らせると、瑠音はぴょんと悠翔の目の前に飛んだ。
「仙人だって! そうだったの? 悠翔、そうだったんだ!」
「お、俺はわからん……なんのことか」
たじろぐ悠翔の手を引っ張って、瑠音が恭一の前に駆け寄った。
「ねぇね、会長。どうして悠翔も仙人になったってわかったの?」
「仲間は匂いでわかるんじゃないのか、君は」
そういえば、恭一とももが仙人であるというのも、瑠音は「匂いでわかった」と言っていた。
「そのはずなんだけど、悠翔のはわからなかった」
少し拗ねたようにそう言う瑠音に、恭一は爽やかな笑いを向ける。
「そうかもしれないね。彼はまだ、目覚めたばかりだろう? それにこう言っちゃなんだけど、妖仙の君に、芦馬くんの中に潜んでいた仙骨まで読み切れるとは思えない」
そのもの言いに、悠翔は少しむっとした。同時に思い出したのは、那奈莉奈のふたごが言っていた、妖仙だからほかの仙人にばかにされるということ。
(それって、こういうことなのかな……)
恭一自身には、ばかにしているという気持ちはないだろう。しかしいちご大福を(瑠音に起こる副作用のことを知っていながら)大量に持ってきたことといい、それを食べる瑠音を止めなかったことといい、どうにも恭一は、瑠音、そして彼女をはじめとする妖仙たちを同等と思っていない節がある。
「わからなくても仕方ないよ。芦馬くんが自分を仙人だと自覚して、その持つ能力を覚醒させるまでいかないと、妖仙にはわからないだろうなぁ」
悠翔が思ったのと同じことを考えているらしく、瑠音は少し膨れている。恭一は悠翔を見あげ、何気ないように言った。
「君は、崑崙山に行ったほうがいいよ」
「は……ぁ……?」
あまりに突然の、そしてあまりの恭一の提案に、悠翔は唖然とするばかりだ。恭一自身は、突拍子なことを言ったつもりはないのだろう。独り勝手にうなずきながら、言葉を続ける。
「君は、仙骨の持ち主だ。この間のももちゃんの桃で、仙人としての資質に目覚めた。もちろん、目覚めただけでは人間とそう変わりはない。だから崑崙山で修業を積めば、君の仙人としての能力もあがるよ?」
「いや、俺……仙人なんて」
悠翔はたじろいだ。しかし恭一は、視線で悠翔を引き止めようとする。
「でも、そのままの状態で人間界に留まるのはいろいろと不都合だろう?」
「……う」
走り幅跳びでインターハイ記録を出してしまったこと。瑠音を抱きあげて屋上まで駆けても、息ひとつ切れなかったこと。ほかにもいろいろなことが積み重なっていけば、そのうち悠翔がまわりに不審がられることは、火を見るよりも明らかだ。
「ほら。もういろいろ不都合が出てきてるんじゃないか」
「だからって、崑崙山とか……そんなこと、無理に決まってるじゃないですか」
やはり仙人には、人間の気持ちはわからないのだろうか。突然、仙人になったから崑崙山に行こう、などと。そのようなこと、承諾できるはずがないのに。
そんな悠翔の心を読んだかのように、恭一は言った。
「今はその気になれなくても、時間が経つうちに本来の仙人としての自覚が生まれてくるよ。僕が、君の家族や友人から、君の存在の記憶を消してあげるし」
それに、と恭一は手を伸ばした。抵抗する間も与えずに瑠音を抱き寄せ、腕の中に閉じこめてしまう。
「きゃっ、やだっ、会長っ!」
「その間、瑠音ちゃんは僕が守ってあげるよ。妖仙とはいえ、猫耳と猫しっぽ出す仙人なんて初めて見た。ぜひとも、大切に飼ってあげたいな」
「飼う、って……」
余裕綽々で話す恭一を前に、苛立っていた気持ちがぶわりと大きく広がった。悠翔は強く眉根を寄せるものの、恭一はそんな悠翔を気にしたふうもない。瑠音を抱きしめて、逃げようとする彼女を後ろから拘束している。
「いちご大福だって、食べ放題だよ? いくら副作用が出ても平気だ、僕は何とも思わないし、君も恥ずかしくさえなければいいんだろう?」
いちご大福との言葉に、瑠音は一瞬ぱっと顔を輝かせた。しかし副作用、と聞いて今度は恐ろしいものを前に萎縮する猫のように、身を小さくする。
「ふ、副作用は、いやなのっ!」
ももの実らせた桃で副作用が出てしまった日。あのときはどうにか泣くのを我慢していたようだけれど、結局放課後まで猫耳と猫しっぽは消えなかった。いちご大福でさえ食べることなく、しょんぼりと帰宅した瑠音の後ろ姿が忘れられない。
「やめてください」
低い声で、悠翔は言った。
「瑠音、いやがってるじゃないですか。それに、飼うとか……そういうの、聞き捨てなりません」
「おや、瑠音ちゃんの騎士気取り……そう、召使いだったっけ?」
悠翔は足を踏み出し、瑠音を抱きしめている恭一の腕をはたいた。できた隙に、瑠音を奪い返す。
「きゃっ!」
瑠音は、悠翔の腕に抱きしめられる恰好になった。恭一は、後輩の無礼な行動に眉をひそめる。
「僕の言うとおりにしたら、君はますます、瑠音ちゃんの役に立つ召使いになれると思うけどね」
「あなたがなにをやらかすか、心配でよそになんて行けませんね」
「ふぅん、召使いのくせに、ご主人さまの心配?」
恭一は、ばかにしたように鼻を鳴らした。腕の中で瑠音は「悠翔ぉ……」とせつなげな声をあげている。
(守る、なんておこがましいけど……)
腕の中の細い体を抱きしめながら、悠翔はぐっと恭一を睨みつける。
(瑠音を『飼う』なんて言うような人には、渡したくない)
「召使いとか、関係ないです。ただ俺が、瑠音を守りたいから。それだけです」
ふぅん、と恭一がまた、ばかにしたような声をあげる。それにますます苛立って、瑠音を抱きしめる腕を強くした。
「失礼します」
ドアの向こうから声がして、はっとする。
とんとん、とドアが鳴り、恭一が「誰?」と問うと、「碇野です」という返事があった。優心だ。恭一はむっとした表情で、ドア越しに乱暴に言った。
「今、取り込み中なんだ。あとにして」
「え、でも……」
ここは生徒会室で、補佐委員会の者も出入りは自由なはずだ。それなのに入室を拒否されて、優心はどう思っただろう。
「取り込み中って、なんですか。碇野さんだったら生徒会の関係者なんだから、入っちゃだめってことないでしょう?」
瑠音の腰を抱いたまま、悠翔はドアに歩み寄る。がらりと開けると、目の前には驚いた顔をした優心がいた。
「どうぞ。入って」
「で、……でも」
優心は両手で、紙の束を抱えている。明らかに仕事で生徒会室を訪れたのだ。そんな彼女をドアも開けずに追い払うなんて。恭一に対する不快感が、ますますつのる。
「もういいんだ、済んだから。碇野さん、仕事だろう?」
「そうは、そうなんだけど……」
ちらちら、と優心は、悠翔の腕に抱き寄せられている瑠音、そして恭一のほうを見ている。ここで今までなにが行なわれていたのか、どんな話がかわされていたのか。優心には知るよしはないだろうけれど、悠翔と恭一が険悪である、ということを想像することはできるだろう。
「いいから、入って。俺たちが出る」
「悠翔……」
頼りなげな声で、瑠音は悠翔を呼ぶ。いつもは召使いだなんだのと高飛車なくせに、こういうときにまるで捨てられた子猫のような声をあげるなんてずるいと思う。
「行こう、瑠音」
「う、ん……」
虫のいどころが悪いであろう恭一と、優心をふたりにするのは気が引けたが、今は恭一のもとに瑠音をいさせたくはなかった。
いつも昼食を摂る屋上は、今日は強い風が吹いていた。
昼食のときの、定位置に座る。いつも一緒の那奈と莉奈はいないけれど、自分のいるべき場所に帰ってきたような心持ちで、ほっとした。
瑠音のツインテールが、セーラー服の衿が、スカートがさらさらと揺れる。立ったままの瑠音は、不安そうな顔をして悠翔を見ていた。
「会長と喧嘩しちゃって、よかったの?」
「別に、喧嘩なんかしてない。あっちの提案を、俺が却下しただけだ」
「それを喧嘩って言うんじゃないの?」
いつもの元気な彼女らしくもなく、しおたれた様子で、瑠音は悠翔の隣に座った。そして首をかしげて、悠翔の肩に頭を乗せる。
「それに、向こうは天仙で、もう何年くらい生きてるのかな……仙人になったばっかりの悠翔が、対抗できるような相手じゃないよ」
「対抗って……あいつが殴りかかったりしてくるってことか?」
悠翔は、肩をすくめる。どうしてもあの生徒会長は、腕力が強いタイプには見えない。喧嘩をするならするで、口八丁手八丁で攻めてきそうだ。
「殴るくらいで済めばいいけど。どんな術を持ってるかわからないし、どんな手で悠翔を責めてくるかもわからないし」
本気で瑠音は心配そうだ。そんな彼女に、悠翔は微笑んだ。
「どうして、そんなに心配してくれるわけ? 俺が召使いだから? いちご大福買ってくるやつが、いなくなるから?」
「……そんなんじゃない」
甘えるように、すり寄せた頭でぐいぐいと押してくる。よろけそうになりながら、どうにか悠翔は踏みとどまった。
「こういうのは、ご主人さまも召使いも関係ないもん」
その声音からは甘い香りが漂ってきそうで、悠翔はくらくらしてしまう。
「妖仙だって、心配とか、守りたいとか、思うもん……そんなの、変?」
そんなことを言う彼女に、どう答えればいいのか。悠翔は迷い、だからあたりには沈黙が満ちた。
「……瑠音?」
肩にかかる重みが、少しずつ増していく。耳を澄ませば、強い風の中、瑠音の呼気がはぁはぁと荒いのがわかった。
「瑠音!?」
思わず、悠翔は立ちあがった。瑠音はそのまま横に倒れてしまい、悠翔の座っていたところに横たわる恰好になった。
「おい、どうしたんだ! 大丈夫か!?」
「う、ん……」
先ほどまで、おかしなことはなかったのに。瑠音はまるで重病人のように横になっていて、赤みの差した頬、荒い呼気。すべてが異常を物語っていた。
「ど、どうしたらいいんだ……」
しかし、答えるものはない。瑠音は目をつぶっていて小刻みに震えていて、悠翔の言葉が届くどころではないようだ。
「あ、那奈莉奈……」
霊仙薬を作り出せる彼女たちだ、なぜ瑠音はこうなってしまったのか、心当たりがあるかもしれない。
携帯電話で、那奈にかける。那奈がいるところには、莉奈もいるだろう。
『はーい、那奈でーす』
こんなに切羽詰まっているところに、そんな呑気な声を聞かされれば苛立っても仕方がないだろう。しかし相手は状況を知らないので仕方がない。苛立ちを押さえ、悠翔は今の状況を説明する。
『あー、それはねー……』
那奈が、言葉を濁した。
「なんだよ、もったいぶるなよ!」
本気で苛立って、悠翔は叫んだ。その間にも、瑠音は苦しんでいるのに。
『もったいぶってるんじゃないけど……』
「いいから、早く来てくれよ! お前たちだったら、どうすればいいかわかるだろう?」
わかった、と那奈は言う。電話を切ってしまえば、悠翔にはなにもできない。瑠音に「大丈夫か」と、返事のない問いを繰り返すしかない。
那奈と莉奈が現われるのには、たいそうな時間がかかったように感じた。実際は五分と経っていないはずなのに、悠翔は一昼夜待たされたように感じた。
「ああ……、やっぱりねぇ……」
ふたりは、瑠音の状態を見て声を揃えた。悠翔は、思わず眉をひそめる。
「なにがやっぱりなんだ?」
「もう一ヶ月以上、霊仙薬あげてないもの」
え、と悠翔は目を見開く。なおも苦しんでいる瑠音は、体を守るように丸くなって、呻いている。
「不老不死だからね、死なないの。死なないけど苦しみはあるから、逆に死ねないほうが辛いかもね」
不老不死とは、どういうことなのか――楽しいことばかりならいいが、辛いことがたくさんあっても、それを抱えて生きていけるのか。そう考えたことがあった。事実、目の前の瑠音は見ているほうが辛いくらい、苦しそうなのだ。
「那奈、いける?」
「うん、大丈夫」
ふたりはすばやく会話をし、那奈が横たわっている瑠音を抱きあげた。なすがままの彼女に、くちびるを寄せる。
(あ……そうか、口移しに、霊仙薬……)
那奈たちとのキスを見られることを、あれほど恥ずかしがっていた瑠音だ。この先は見ないほうがいいだろうと、悠翔はふたりに背を向けた。そんな悠翔に、莉奈が近づいてくる。
莉奈は、首をかしげて悠翔を覗きこんだ。そして、つぶやくように言う。
「瑠音はね、悠翔を召使いにしたとき以来、霊仙薬を呑んでないんだよ」
「……え?」
ああ、一回だけ例外。いちご大福食べ過ぎて副作用が出たときは、無理やり飲ませちゃったから。莉奈は言った。
「でもあのときの霊仙薬は、副作用治めるので精いっぱい。瑠音を元気にするには、量が足りなかったから」
莉奈は、肩をすくめてそう言う。
「なんで、そんなこと……?」
尋ねる悠翔に、莉奈は不機嫌そうな顔になった。
「あたしたちが言っても、聞かないんだもん。無理するなって言っても、絶対、しないって」
「いや、だから……なんで?」
悠翔は眉をひそめ、首をかしげる。そんな悠翔に、莉奈は苛立った声で言った。
「わからないの? もう、全然召使い失格!」
しかし悠翔には、なぜ瑠音が霊仙薬を拒否するのか、なぜ莉奈が苛立っているのかがわからない。
「こんな薄情な召使いのことなんて、気にしなければいいのに」
「薄情って……」
そもそもわけがわからないのに、薄情と言われる理由がわからない。もっとちゃんと教えてほしいと莉奈に言いかけたとき、莉奈は振り向いて声をあげた。
「あ、瑠音。気がついた?」
悠翔も、瑠音を振り返る。那奈に抱きかかえられている瑠音は目を開けていて、まだ怠そうではあるが、元気を取り戻したようだ。
「大丈夫? もう平気?」
「……大丈夫」
呻くように、瑠音は言った。那奈に抱きかかえられている恰好から、懸命にひとりで座ろうとしている。
「おい、無理すんなよ」
「悠翔、見た?」
顔をあげての瑠音の第一声は、それだった。悠翔は、ぶんぶんと首を横に振る。
「見てない見てない。後ろ向いてたから」
「本当に……?」
そのことが気になって仕方がないらしい瑠音に「見てないよ」と改めてうなずきかけた。まだ不安げな彼女の座っている前に、悠翔はひざまずいた。
「見てないって。元気になったみたいで、よかった」
あたしの霊仙薬だもん、元気にならないわけがないでしょ。憤慨している那奈に「ありがとう」とひとつ頭を下げて、改めて瑠音に向かい合う。
「本当に見てない。見られるの、いやなんだろう? それはわかってるから、だから背中向けてたからさ」
「そう……、ありがと」
悠翔の言葉に納得したらしい瑠音に、今度は悠翔が問いかける。
「でも、なんで今まで霊仙薬摂ってなかったわけ? あんなになるまで……本当に、苦しそうだったのに」
「……ふん」
瑠音は、ぷいとそっぽを向いてしまう。いつもの瑠音の態度にほっとするものの、なぜ彼女が霊仙薬を断っていたのかが気になって仕方がない。
「悠翔には、関係ない」
悠翔とは目を見合わせない瑠音は、しかし明らかに挙動不審な口調でそう言った。悠翔は瑠音に向き直り、その両肩に手を置く。
「関係なく、ない」
そう、強い調子で言うと、瑠音はびくりとした。
「おまえはご主人さまだろう? 召使いにも言えないようなことなのか」
「召使い……」
自分で言い出しておきながら、その言葉に戸惑ったかのように瑠音は繰り返した。
「そうだ。心配しちゃだめなのか? 召使いには、その権利もないって?」
「う……うう、ん……」
強い口調での悠翔の問いに、瑠音は曖昧に返事した。悠翔は彼女の肩を掴み、その細さ――力を入れれば折れてしまいそうな質感に、はっとした。
(女の子、なのに)
力をゆるめながら、悠翔は思った。
(妖仙でもなんでも、こいつはこんなに細い、女の子なんだ。そんな子が、あんな苦しそうに……)
手に伝わる細い感触に重ねて、先ほどまでの瑠音の様子を思い出す。すると、胸が潰されそうな気持ちになった。
「我慢なんか、しなくていい。必要だったら、仕方ないだろう? なんで我慢なんかするんだよ?」
「でも……、キス、なんて」
瑠音はうつむき、くちびるを噛んでいる。まるでその体が小さく萎縮してしまったかのようで、彼女を包み込んでやりたい気持ちが大きく膨らむ。
「見られたくないのに……、悠翔に、見られたくないの」
「だったら、見ないからさ!」
今にも瑠音を抱きしめそうになる衝動をこらえながら、悠翔は言った。
「さっきみたいに、後ろ向いてるし。どっかに行ってろって言うんだったら、行ってるし。だから、我慢なんかするな?」
「うん……」
それでも、瑠音は沈んだままだ。不老不死でありながら、霊仙薬がなければ苦しむなんて。不条理だとは思うけれど、実際に苦しんでいる瑠音を前にしてはただ自分の力のなさに歯噛みするしかない。
「俺が、霊仙薬作れればいいのになぁ」
ふと、そのようなことを思った。瑠音は、はっと顔をあげる。
「俺、仙人なんだろう? だったら、そういうこともできるんじゃないかって」
「霊仙薬を作れるのは、狐の妖仙だけだよ」
後ろから声をかけてきたのは、那奈だった。莉奈も、うんうんとうなずいている。
「悠翔は、妖仙じゃないし。むしろ妖仙よりも位が高いんだから、妖仙のことなんか心配するのは、変」
「でも、自分が仙人だなんて自覚はない」
確かに、悠翔の身に何か起こったと考えなくては辻褄の合わない、おかしいことはあった。しかしそれは、悠翔自身にとっても人ごとのようで、まだ実感を持つには至っていない。
「変でもいいんだ、俺が霊仙薬を作り出せたら……」
肩を掴んだままの瑠音を、見つめる。彼女は目の縁を赤くして悠翔を見つめていて、そのくちびるが目に入った。
「……あ」
瑠音の、ぽってりと膨らんだくちびる。それを目の前にして、悠翔は覆わず息を呑む。
(俺が、霊仙薬を作れれば、って……)
それはすなわち、瑠音とキスするということだ。自分の言い出したことでありながら、その意味に今ごろ気がついて、悠翔は頬を赤くする。
「だったら、いいな」
ぽそり、と瑠音が言った。
「悠翔が霊仙薬作れたら、那奈と莉奈に頼らなくていいし」
瑠音は、悠翔と目をあわせない。視線はうつむけたまま、震える声で言った。
「なに、あたしたちとキスするのはいや?」
「あたしたちはいやで、悠翔ならいいの?」
ふたごが、ひと息に騒いだ。後ろでふたごがきゃんきゃんと騒いでいる中、悠翔は頬を熱くしたまま、瑠音の肩から手をはずそうとする。しかし瑠音が悠翔の手首を掴み、離れることを許さない。
震えるような声で、瑠音は言う。
「うん。悠翔だったら、いい」
「な、にを……」
瑠音の言葉に、どきりとした。瑠音は悠翔の手首を掴んだまま離さず、うつむいたままで言う。
「悠翔だったら、……キス、しても」
「な、な、な……」
悠翔は、自分の頬の紅潮がますます強くなるのを感じた。瑠音は首をかしげて、悠翔を見つめてくる。そこにはいつも悠翔を召使い扱いする高飛車な猫の妖仙ではなく、素直でかわいらしい少女がいた。
瑠音は、なおもじっと悠翔を見ている。そして少し濡れたような小さなくちびるを開き、言った。
「悠翔は? 悠翔は、どう思うの?」
「お、俺は……」
自分で霊仙薬が作れたら、などと言い出しておきながら、正面からそう尋ねられると戸惑ってしまう。自分が瑠音とキスすること――瑠音をどう思っているのか。
以前、愛菜を前に、瑠音のことが好きだと言った――我ながら、あれはどういう意味だったのか。改めて、自分の気持ちを目の前に悠翔は惑乱した。
「ひゅーひゅー」
後ろから、那奈が囃し立てる声をあげる。
「口で言わないでよ。口笛吹けないんだったら、黙ってて」
苛立った声で、瑠音は言う。そんな瑠音を、那奈も莉奈も、揃って「ひゅーひゅー」と続けた。
「照れてるの? ねぇ、瑠音。悠翔も?」
「……うるさいわよ」
瑠音は、唸るような声で言った。
「那奈と莉奈には関係ないんだから、黙ってて」
「あははー、怒ってる怒ってる」
そう言って、莉奈が笑う。悠翔には、冷やかす那奈たちを振り返る勇気がない。赤くなった顔をからかわれるのは、明白だから。
(瑠音とキスしたいと思ってるのか、俺は……?)
自分のことが自分でわからず、悠翔はただ、戸惑った。
☆
いつもどおり、昼には総菜パンといちごミルクを買って、屋上に行く。
そこには瑠音とふたごたちがいて、ふたごは弁当をつついているが、瑠音は手持ちぶさたに、高いところに座って足をぶらぶらさせている。
「……あ」
ふたりは目が合うと、同時に背けてしまった。なんと言っていいものか、わからない。
「え、っと……」
そんなふたりを、那奈と莉奈が見ている。いつものような軽口は叩かず、まるでふたりを窺っているようだ。
先日のことから、どうにも気まずいのだ。悠翔とならキスしてもいいと言う瑠音の気持ちがわからなくて、瑠音とキスしてもいいという自分の気持ちもわからなくて。だからただ、黙ってパンの入った紙袋を瑠音に差し出した。
「悠翔。もう、いいから」
しかし、瑠音は手を出さなかった。高いところから降りてこず、ただ首を横に振った。
「召使いとか。もう、解除だから」
「え……」
瑠音は、それ以上はなにも言わなかった。ぴょん、と座っていたところから飛び降りると、ふたごたちにさえ視線をくれず、歩いていってしまう。
「おい、瑠音……」
瑠音は、立ち止まらなかった。そのまま悠翔が閉めたドアを開け、ふわりとなびくツインテールの先が見えたのが、最後。
瑠音は、もう姿を見せなかった。屋上どころか教室に現われなくなり、出席簿には『欠席』の文字が並ぶばかりだった。