第四章 猫耳と猫しっぽの彼女は好きですか?
第四章 猫耳と猫しっぽの彼女は好きですか?
是岩高校では、毎年春に運動会が行なわれる。
通常の秋の開催では、受験を目前に控えている三年生たちが満足に参加できないという理由から、もうずっと『運動会は春』と決まっているらしい。
「うちって、そんなオベンキョーの学校だったんですか?」
入学したときの偏差値からすると、とてもそうは思えないのだけれど。そう問うと、一緒に歩いていたももは、苦笑した。
「そうでもないけど……ただ昔、熱心な先生がたがいらっしゃったとき、そうなって。もうずっと、このままなの」
「入学してすぐじゃ、クラスのやつらの顔も覚えてないし……」
実際悠翔自身も、クラスメイトの顔と名前は一致しない。そんな相手と力を合わせて、などできるものだろうか。
「まぁ、運動会をきっかけに仲よくなる、ってことでいいんじゃないの?」
鷹揚にそう言ったももに首を捻ってみせながら、悠翔は生徒会室の扉を開けた。
「……あ?」
思わず、間の抜けた声があがってしまった。悠翔の足は止まってしまい、ただ目の前の光景に、目を見開くばかりだ。
「瑠、音……?」
「ふぁぁん……」
そこにしゃがみ込んでいるのは、瑠音だった。いつもはきりりとした黒い瞳は今にも涙が流れそうに泣きそうで、はかなく震える声をあげている。
「悠翔ぉ……、見ないで……」
「な、に……?」
いつもの制服姿の彼女に、なにかおかしなところがある。見慣れた瑠音なのに、なにが違うのか――。
「あらぁ、瑠音ちゃん。出ちゃったの?」
――出た? なにが?
「瑠音……、おまえ……」
瑠音は悠翔の視界から逃れようというのか、身を小さくした。目だけで見あげる彼女の頭の上、そして腰まわりにまとわりついている長いふわふわとしたものは――?
「猫……耳? しっぽ……?」
瑠音は、猫耳と猫しっぽを生やしていた。制服姿にそれなのだから、まるでコスプレだ。おまけに耳はともかくしっぽが本物であるというのは、それがひょこひょこと動いていることから推測できた。
「なんでおまえ、そんな……」
ちらりと机の上を見ると、たくさんの透明な包装紙が散らかっていた。『餡処』という文字が描かれているところから、恭一の家のものだろう。いかにも饅頭をひとつひとつ包装していたのだろうサイズで、しかし中身はどこにもない。
「だめねぇ、こうなることは、わかってたんでしょう?」
ももがしゃがみ込み、瑠音の頭を撫でる。すると頭の耳がぴくぴく動いて、それも本物であろうことが知れた。
「わかってた……けど、我慢できなかったの……」
「会長も、意地が悪いんだから」
机の上の包み紙の山を見て、ももはため息をついた。やはりこれは恭一の持ち込んだもので、瑠音は好きなだけ食べていいと言われたのだ。
「で、どれくらい食べたの?」
瑠音はなにも言わなかった。ただ、両手を開いてももに見せる。
「十個も?」
「ええ、十個も食ったの、おまえ!?」
状況はよくわからないものの、瑠音は十個ものいちご大福を食べたという。そして目の前の、猫耳と猫しっぽを生やした状態になっていて――。
「ああっ!」
悠翔は、思わず大声をあげてしまった。瑠音がびくんと体を跳ねさせる。
「副作用って、このことかー!?」
以前、聞いた。いちご大福は一日一個にしておかないと、副作用が出る。それがどんなものかは聞き損ねたけれど、まさか、目の前で見るなんて。
「いやぁ、恥ずかしいんだから、恥ずかしいから、出ていってー!」
大粒の涙をぽろりとこぼし、瑠音は床に突っ伏した。ももはよしよし、というように彼女の背を撫でている。彼女は目線だけで悠翔に出ていくように告げ、仕方がないので悠翔はそれに従った。
「じゃあ……、また、あとで来ます」
ぺこりと頭を下げて、悠翔は部屋から出た。ふぅ、と息をついたものの、脳裏には猫耳と猫しっぽの瑠音の姿が焼きついている。
(……こんなこと思うのは、不謹慎だけど)
彼女は泣きそうになるくらい恥ずかしいのだ思うと、胸に湧きあがった感情に素直に身を委ねるわけにはいかないのだけれど。
(かわいかったな……猫耳と猫しっぽ……)
しかも、それらはぴくぴくと動くのだ。悠翔は自分がもふもふな生きものを好きだったのだと初めて知り、そう思うとますますあの姿の瑠音が、脳裏に鮮やかに浮かぶ。
(もう一回、見たい)
しかし、ももに出ていくように言われたのだ。生徒会室に戻るわけにもいかないし、ここでぼーっとしているのも人目を引くだろう。悠翔はとりあえずの避難場所として、人気のないトイレに向かった。
(……あ)
水の音が聞こえる。トイレの前、手洗い所に向かっているのは髪を低い位置で結んだ女子生徒――ああ、と悠翔は声をあげた。
「碇野さん」
呼ばれた彼女は、顔をあげる。文字通り、手を洗っていたらしい。
「あ、芦馬くん……」
「生徒会室に……」
行かないのか、と問いかけて、今の生徒会には近寄ってはいけないと口をつぐんだ。
優心は、手を洗うのをやめる。置いてあった、きれいにアイロンのかかったハンカチに手を伸ばした。
「あ、いや。邪魔して、ごめん」
「……ううん」
どこか恥ずかしげに身を縮み込ませて、優心は手を拭いている。その仕草は指の股に残る湿り気も許さないというようで、どこか神経質な印象を与えた。
(瑠音と、召使いごっこしてるの。不健全とかいっていやがるのが、なんとなくわかる)
「あの……、じゃあ」
小さな声で優心はそう言うと、くるりと悠翔に背を向けて早足で行ってしまった。その後ろ姿を見送るともなく、見送った。
優心の姿が消えてから、悠翔は男子のトイレに向かう。生徒会室は、今はどのような状態になっているのだろうか。
(猫耳と猫しっぽ、もう一回見たい、けど)
誰もいない中、ひとり個室に入った。
(あんなに泣いてたもんな、見たいって言って見せてもらえるわけもないし)
鍵を閉め、ふたの上に腰を降ろす。
(会長も、副会長も……知ってたのかな、副作用のこと)
座ったまま、ぼんやりと考えた。
(ふたりとも、仙人だって瑠音が言ってたしなぁ。なら会長は、知ってていちご大福をあんなに大量に……)
もしや恭一も、瑠音がああなると知っていたのだろうか。それであえていちご大福を食べさせるのは、あまりにひどい行為だと言わねばなるまい。
(ひどい……けど、ひどくない……)
悠翔はぎゅっと目をつぶる。すると脳裏に浮かぶのは、猫耳と猫しっぽをぴくぴくさせながら目を潤ませている瑠音の姿。それがどうしても瞼の裏に焼きついて離れない。
(あの姿をかわいいって思った俺も、同罪だからなぁ……)
恭一を非難する思い、それでいてあの『副作用』を喜ぶ自分を嫌悪しながら、悠翔は、はっと顔をあげた。
「わ、ぁ……っ!」
紫色の女が、覗きこんでいる。毎度のことでもう慣れたとはいえ、いきなり現われると驚いてしまう。しかも紫姑という彼女が狙っているのは瑠音かと思うと、ただ脅えて逃げているだけではいかない。
「おまえ、どうして瑠音を狙ってるんだ!」
立ち上がり、大声をあげる。いつになく強気な悠翔に驚いたのか、紫姑はこそこそと逃げようとする。
「紫姑、待てよ! どうしておまえが瑠音を狙うんだ?」
同じ仙人でも、恭一やももは、そのことにいっさい触れないのに。そこからも確かに、恭一たちは、瑠音への追っ手ではないのだろう。しかし紫姑は。
「貴様、存じているのであろう? 西王母さまの桃を取り返すためじゃ!」
紫姑は、その見た目から想像しうる、しゃがれた声をしていた。しかし顔立ちは、アーモンド型の目に、通った鼻筋、整ったくちびる。落ち着いてよく見れば、充分に美しい女性だ。
(これで、トイレに出るってんじゃなかったら……)
どうしても、出る場所がトイレというところで脱力してしまうのだ。文字通り悠翔は全身の力を奪われて、大きなため息をついた。
「貴様、今! わらわをかわいそうだ、などと思ったであろう!?」
窓に貼りついたまま、紫姑は喚いた。
「どうせわらわは、厠にしか出られぬのじゃ! されど仕方なきこと、わらわの魂は、厠から離れられないんじゃあ!」
「まぁ、確かに。かわいそうっちゃかわいそうだ……」
うら若き(そういえば瑠音も、実際のところは何歳なんだろう?)女性が、自分の美貌を見せられるのはトイレだけ。それはいかにも、不愍なことだ。
「同情は、する」
「なに、本当かや!?」
紫姑が、顔を輝かせた。その拍子に窓から落ちかけて、慌ててまた貼りついた。
「わらわの境遇を笑っても、同情してくれる人なんておらなんだ。人間も仙人も、わらわを笑うばかりで……」
せつなそうにそう言う紫姑がかわいそうになって、思わず頭に手を置いてよしよししてやりたくなる。同時に、しかし、という思いもあった。
「瑠音は、偉い仙人の大切な桃を盗んだんだろう? その追っ手が、どうしておまえみたいな行動を制限されるやつなの?」
悠翔の言葉に、紫姑はがっくりと頭を垂れた。
「わらわは……断れない性格なのじゃ」
それはなんとなくわかるような気がした。瑠音と紫姑、どちらが強いのかは知らないが、腕ずくで連れ帰ることもできず、ただトイレで人を驚かせている日々を過ごしているという状態は、彼女の優柔不断を示しているように思ったからだ。
「誰も彼も、人間界になんぞ降りたくないと申すし。西王母さま直々のご命令とあれば、それはもう絶対、断れなく……」
垂れた髪はさらさらと、トイレを吹き抜ける風に揺らされる。「人間界なんて」といわれて多少むっとしたものの、仙人から見ればそういうものなのだろう、と自分を納得させる。
「でも、瑠音は桃、もう全部食べちゃった、って言ってたぞ。食べたものは食べたもので仕方がないじゃないか」
ふん、と紫姑は髪を揺らせる。どうやら、嘲笑ったらしい。
「食えば消えてなくなる、というものではないのじゃ、蟠桃は。あの者の体から、無理やり引きずり出してやる……!」
いかにも憎々しげな口調に、紫姑と瑠音の因縁は、相当に長いものに思われた。
「されどあの猫、しっぽを掴ませぬ……、トイレには、近づきもしないのじゃ!」
『お姫さまはトイレに行かないのです』と言っていたのは、本当だったのか。いったい瑠音の体はどうなっているのだろう――そう思って、悠翔は目をしばたたかせた。
「無理やり、って……そうされたとき、瑠音はどうなるんだ?」
悠翔が尋ねると、誇らしげな顔をして紫姑は答えた。
「いくら妖仙でも、四百年も生きているのは蟠桃の力であるゆえ。それを取り除けば、ただの妖仙に――西王母さまは、ただの猫にしておしまいになるだろうがな」
猫。その言葉に、先ほど生徒会室で見た猫耳と猫しっぽの瑠音を思い出した。猫になってしまえば、あんな恰好も見られなくなるんだ――と思うと、妙に残念な気がした。瑠音自身は、いやがっているようなのに。
「ただの猫になれば、本来はたかだか二十年程度の寿命の猫でしかない。あっという間に老衰して、死ぬじゃろう」
紫姑の言葉に、どきりとした。死ぬ――瑠音が、死ぬ。それは想像したくもないことで、悠翔はぶるぶると首を振った。
「貴様、わらわに助力せよ」
トイレにしか出られず、頼まれれば断れない、という性格のわりには、紫姑はぴしゃりと言った。
「そなた、常にあの猫のそばにいるな? 隙を見て、厠に連れ込むのじゃ!」
「できるか!」
紫姑のとんでもない言葉に、悠翔は盛大にツッコんだ。
「トイレってのは、女子用と男子用に別れてるんだ! 普通の家のは違うけど、そっちはそっちで複数で一緒に入るもんじゃないし。連れてくるとか、絶対に無理!」
「なに言ってるおるか、根性を出せばできることじゃ。さぁ、早く!」
まさか仙人に根性論を説かれるとは思わず、悠翔は一瞬ぽかんとした。しかし、それどころではないと首を振る。
「瑠音が死ぬかもしれないのに、その手伝いなんかできるわけないだろうが!」
紫姑は、きょとんとしている。その表情からも、紫姑にとっては使命が大切、瑠音がどうなろうと構わないというのが伝わってきて、決して紫姑の好きにはさせない、と決意を新たにする。
「そもそも、なんで俺がおまえの命令聞かなくちゃいけないんだ!」
瑠音なら、悠翔は彼女の『召使い』だから――そう思いかけて、悠翔は「いやいや」と自分にツッコんだ。
「俺は誰の召使いでも、奴隷でもないぞー!」
声高に、悠翔は叫んだ。トイレで。
いつまでもトイレにいるわけにはいかない、と悠翔は生徒会室に向かった。
ドア越しに耳をそばだてると、かすかに話し声はするものの誰かが泣いているような様子はない。恐る恐る「失礼します」と言いながらドアをノックして、開けると。
「わぁ、あ、あっ!」
美少女ふたりの、キスシーン――確かめるまでもない、目の前には莉奈とキスしている瑠音がいて、悠翔は仰け反ってしまった。
「な、な、なに……」
「やぁ、悠翔くん」
嫌味なまでに爽やかな挨拶をしてきたのは、生徒会長中ノ森恭一だ。彼は優雅に椅子に腰掛け、目の前の光景を見やっている。
副会長のももは、困った顔をして恭一と莉奈と瑠音を見ており、そんなふたりをじろじろと遠慮もなく見つめているのは、那奈だった。
「な、なにしてるんだ、こんなところでっ!」
「だって、瑠音ったら気絶しちゃったんだもん」
那奈が、面白そうな顔をして言う。
「泣きすぎて大騒ぎしすぎて、気を失っちゃったんだよねー。だから今、莉奈が霊仙薬をあげてるとこ」
莉奈はくちびるを離し、瑠音を抱きかかえた。もう猫耳と猫しっぽはなくなっている瑠音は目をつぶっていて、眉間には微かに皺が寄っている。
「気絶しちゃうとか、あるのか……」
「まぁ、あれだけいちご大福食べて、あれだけ興奮して、あれだけ泣きわめけば。力も尽きるわねぇ……」
ふぅ、と莉奈がため息をつく。しかしその顔には、那奈同様この状況を楽しんでいるといった色が浮かんでいた。
「ほかの生徒会のメンバーがいなくて、本当によかった」
そういえば、生徒会および補佐委員会のメンバーの中、さっきトイレの前で会った優心もいない。人間はここにはいないということか。
(いや、俺は人間だけど……)
気絶しているという瑠音のあまりに痛々しい姿から、目を逸らせる。瑠音は、霊仙薬をもらうところを人に見られるのをとてもいやがっていたのだ。ここは男として見てはいけない、と背けた視線の先には、恭一がいる。
「なんで、そんなじろじろ見てるんですか!」
目を覚ました瑠音がこのことを知れば、どれほどいやがり、恥ずかしがるか。自分が彼女の召使いになった経緯を思うと、恭一の視線には許し難いものがある。
「席、はずしてください。俺も出ますから」
そもそもは恭一が、禁断のいちご大福を大量に瑠音に与えたところからことは始まったのだ。それなのにそれほど呑気な顔をして、瑠音の恥ずかしがる姿を見ているとは、言語道断だ。
「先輩に向かって、言うねぇ」
天仙とやらなんやら、瑠音の曰く高位の仙人だという彼は、その身分にふさわしく気高い様子を見せつけてくる。
「でも、君も見たんだろう? かわいいと思ったんだろう? 猫耳と猫しっぽの、瑠音ちゃん」
う、と悠翔は言葉に詰まった。そんな悠翔の動揺を見抜いたかのように、恭一はにやりと笑いかけてくる。
「君も、かわいい瑠音ちゃんの姿を見られてよかったんじゃないの? すっごくかわいかったよねぇ。しかも、耳もしっぽもぴくぴく動くの」
いまだに脳裏には瑠音の猫耳と猫しっぽ姿が焼きついているとは、声に出しては言えない。同時に考えるまでもない、瑠音が気絶するほど泣いたのはこの男のせいなのだ。
「そんなこと、どうでもいいんです。早く、出てください。瑠音が、目を覚まさないうちに」
「人間ごときが、僕に意見するの?」
ぴしり、と生徒会室が凍りついた。ももも、那奈も莉奈も、大きく目を見開いて恭一を見た。しかしそのような空気はものともせずに、恭一は足を組み替える。
「生意気だね。人間なんて、つまらない生きものの命令に従うつもりなんて、僕にはないよ」
悠翔は思わず、奥歯を噛みしめた。ぎりっ、と音がして、悠翔はそれに鼓舞される。
「仙人も人間も、関係あるか! 瑠音がいやがるんだよ! だからだめなんだ、それだけだっ!」
ふぅん、と鼻で笑う恭一のもとにつかつかと歩み寄り、ぐいとその腕を掴む。
「なにをするんだ」
「一緒に、ここから出てください!」
こうしている間にも、瑠音が目を覚ますのではないかと心配でたまらない。悠翔は全身の力で恭一を席から立たせると、引きずるようにドアに向かった。
「おいおい、暴力はやめてくれよ」
しかし、恭一の言葉には耳を貸さなかった。そのまま悠翔はぐいぐいと恭一を引っ張って、生徒会室の外に出る。
「乱暴だなぁ」
「乱暴でも、なんでもいいです。それに」
悠翔はひとつ息を吸って、さらなる言葉を恭一にぶつける。
「瑠音がいやがってるのに、あんなふうににやにやして見ている会長のほうこそ、俺はひどい……乱暴な行為だと思いますけど」
はっ、と息をつきながら悠翔は言う。そんな悠翔を怒ったような顔で見ていたけれど、恭一は突如、にこりと笑った。その笑みには、むずがゆくなるような皮肉が込められている。
「確かに、君は瑠音ちゃんの『召使い』だね。ご主人さまの危機には真っ先に駆けつける、っていうところか」
ぐっ、と悠翔は言葉を呑んだ。瑠音に「召使い!」と言われるときは不快などない。しかし恭一の口から洩れると、どうしようもなく苛立たしい、腹立たしい言葉になった。
「好きなように言えばいいですよ」
呻く声で、悠翔は言った。
「先輩、瑠音がいちご大福食べ過ぎるとどうなるか、知ってたんですか?」
「まぁ、どうにかなるってことは、知ってたよ」
さらりと言われ、悠翔は驚いて目を見開く。
「西王母さまの蟠桃を盗んで食べたんだからねぇ。いちごに限らず、果物にはどれでも反応すると思うよ。試したことはないと思うけど」
恭一は、さも楽しそうだ。ちらちらと生徒会室のほうを見やっている。瑠音が、自分たちが彼女を見ていたことを知らなければいい、と悠翔は願った。
面白そうな顔をして、恭一はこちらを見ている。同じような表情でも、那奈や莉奈のそれは純粋に目の前のものを楽しんでいるかのようなのに、恭一の笑顔は、なにかを企んでいるもののように見えるのはどうしてだろうか。
「わかってたんなら、どうしてあんなにいっぱい、いちご大福食べさせたんですか!」
「だって、かわいい女の子に喜んでもらえると嬉しいじゃないか」
いけしゃあしゃあと、恭一は言った。悠翔は、思わず顔を引きつらせる。
「おまけに、あんな姿を見せてくれるとあってはね。最上のものを用意させた甲斐があったよ」
あんな姿、とは瑠音の猫耳と猫しっぽのことだろう。恭一は嫌味なほどに爽やかに笑いながら、ちらりと悠翔を見る。悠翔は、ぎろりと彼を見返した。
「瑠音は、あんたのおもちゃじゃない」
「そりゃそうだ。でも、君のものでもない……君は、瑠音ちゃんの召使いだそうだけど」
とびきりの嫌味な口調で、恭一は言った。
「でも、彼氏とかいうわけじゃない。そんな君が、僕に指示してくる権利なんて、ないんじゃないか?」
「……確かに、俺には権利なんてありません」
ぐっと歯を食い縛って、悠翔は言った。
「でも、人のいやがることをしない、というのは、人間として当然だと思いますけれど」
「……ふぅん」
ぱち、ぱち、と音がした。目の前の恭一が今までで一番嫌味な笑みを浮かべて、拍手をしている。
「ご高説、ありがとう」
そして、やはり今までで一番皮肉な口調で言った。
「仙人に説教しようなんて大胆不敵な人間は、今までいなかった」
「そりゃ、会長が聞いていなかっただけでしょう? 瑠音にあんなことしておいて平気な人は、ほかにもいろいろやっちゃってるんだろうなって思うのが、当然だと俺は思いますね」
拍手をした手をすべらせて腕組みし、目をすがめて恭一は悠翔を見ている。
「僕は、人間なんかじゃないよ。」
ひゅっと、悠翔は息を呑んだ。本人の口から聞くのは初めてだったけれど、やはりそうなのだ――そのような生きものを目の前にしているという異様さに悠翔はぞくりとした。瑠音や那奈莉奈たち、ももも仙人なのに、このような感覚を抱いたことはなかった。
「人間の常識なんて、通用しない。人間ごときの思想を、僕に押しつけないでくれる?」
「だからって、なにをしてもいいわけじゃありません」
ますます息巻いて、悠翔は言う。
「人のいやがることは、しないでください。あんなに瑠音を泣かせて、それで平気なんて、おかしいです」
なおも恭一はばかにしたような、見下げるまなざしで悠翔を見ている。そんな彼の視線に負けまいと、悠翔も目に力を入れる。
このままでは、一触即発。どちらかが拳を向けてきたら――悠翔には体を張っての喧嘩の経験はなかったし、なにしろ相手は仙人だ。瑠音も、術をかけることができると言っていた。そのような手を使われては、どうしようもない――。けれど。
「悠翔」
そこに声がかかって、ふたりは揃って振り向いた。そこにいたのは那奈で、入ってくるようにと手をこちらに向けている。
「瑠音、気がついたよ」
心底、安堵する。悠翔は急いで生徒会室に向かい、だらりとした恰好で座っている瑠音を見た。
「あ、……悠翔」
「大丈夫か? もう、苦しいところとか……」
瑠音は、ちらりと悠翔を見た。しかしそれだけで、すぐに視線をうつむけてしまう。
「瑠音……本当に、大丈夫なのか?」
「いいから、放っておいてあげて」
優しげな表情はしているものの、まなざしに厳しい色を湛えたももが言った。
「やっと回復したの。やっと起きられるようになったから、ね」
「でも……」
瑠音は目をつぶり、怠そうに椅子に身を寄せかけている。
「……送っていこうか?」
悠翔は、瑠音にささやきかけた。すると瑠音はまた悠翔を見、そして「うん」とうなずいた。
「もうちょっと元気になったら、帰る、から」
「ああ、待ってるから。無理はするな?」
椅子が動く音がして、はっとそちらを見ると恭一だった。先ほどまで座っていた椅子に腰を降ろし、腕組みをして大きな息をついている。
その表情はいかにも気に入らない、というもので、そんな表情を見ていると、恭一は、単に瑠音を甘やかしたかっただけ――好意を持っている相手に構いたかっただけではないかと思わせる。
(そうなんだったら……あんなこと、言わなければよかったかな)
恭一から視線を離しながら、悠翔は思った。
(いや、でも。副作用があるって知ってて、いちご大福あんなに食べさせたんだもんな。それは、責められて然るべきだ)
ももが、瑠音に水を持ってきてやっている。素直に飲み干して息をつく瑠音は、水のせいでくちびるを潤ませ、目もまだ涙を湛えているし、目もとは赤く腫れて艶めかしさを作りあげている。
全身脱力してはかなげに椅子に腰掛ける瑠音は、今まで見たことのない、あまりにも魅惑的な姿だった。
☆
瑠音は、ごそごそとバッグを探っている。
「あった!」
悠翔はそんな瑠音を横目で見ながら、マンションのある一室の前にいた。億ションとまではいかないけれど、それなりの資産家が住んでいそうな、大きくて立派なマンションだ。
ちゃんと家まで送っていって、と言った瑠音は、見つけた鍵でドアを開けている。
「俺、もう帰るから……」
「なに言ってるの、これは召使いへの命令だから!」
そういう命令もありなのか、と疑問に思う悠翔の前、玄関を開け放した瑠音はすたすたと中に入ってしまう。
「おい、ちょっと……」
しかし瑠音はさっさと靴を脱ぎ、奥に姿を消してしまった。このまま立ち去るわけにもいかず、悠翔は瑠音に続いた。
なんにせよ、元気になったのはいいことだ。元気で、ちゃんと家に帰ったことを見届けるのも必要だと、悠翔は恐る恐る、声をあげる。
「……おじゃま、します」
部屋は、ほのかに甘い香りがした。玄関側は暗くてよくわからないけれど、廊下にある小さな張り出し窓際には小さな花瓶が置かれ、楚々とした花が飾ってある。
奥に進むと、こぢんまりとしたリビングに出る。テーブルには手編みらしきレース飾りが飾ってあって、中央にも小さな花。
ソファは白の革張りだ。瑠音がバッグをそのソファの上に乗せたので、悠翔も脇にそっと置いた。
「お母さんとか……は?」
「まだ、帰ってないみたい」
母親のお腹の中で死んだ子供の体の中に宿り、生まれてきたという瑠音。彼女が父や母の話をしたのを覚えている。彼らと一緒に、瑠音はこの家で暮らしているのだろう。
そのようなことを思いながらきょろきょろとしている悠翔に、瑠音の声がかかった。
「コーヒー淹れて。あと、クッキーね。こないだお母さんが焼いてくれたのが、あるから、あれ出して」
「よその家の勝手はわからん!」
さっそく召使い扱いされて憤慨する悠翔を前に、瑠音はぽすんとソファに腰掛ける。
「コーヒーとクッキー」
「……わかったよ。勝手に台所、いじるぞ?」
いいわよ、とつんと澄ましている表情は見慣れた瑠音のものだけれど、いつもと表情が違う。目の縁が赤いのは、泣いたせいだろう。頬もわずかに紅潮していて、悠翔を正面から見ようとはしない。
なぜだろうと思いながらも、どう尋ねていいものかわからないので悠翔はだまってコーヒーの準備をした。
コーヒーメーカーも豆も、悠翔の自宅と同じようなところにあった。こういうものは、どこも一緒なのか。
それでも、知らない家でのコーヒータイムの準備にはそれなりに時間がかかる。コーヒーとクッキーを盆に載せると、リビングまで運ぶ。その間瑠音はなにか本に目を落としており、近づいて見るとそれは数学の問題集だった。
「ご苦労さま」
澄ました様子で悠翔にそう言った瑠音は、ぱたんと本を閉じる。タイトルからして、中学生からの復習のための参考書であるようだ。
「それ、生徒会長に勧められたやつ?」
「……まぁ、ね」
恭一のことを思い出すと、それだけで苛立ってしまう。しかも瑠音が素直に恭一のことを聞いて、参考書などを読んでいるのだから、ますますだ。
「おまえ、怒ってないわけ?」
コーヒーカップを瑠音の目の前に置きながら、悠翔は言った。
「会長に、あんなことされたんだぞ? 気絶するまで泣くようなことなのに、それでも会長のこと、信じてるんだ?」
「だぁって……」
拗ねる子供のような顔になって、瑠音は言った。
「『餡処』のいちご大福……美味しかった……」
目の前に悠翔の用意したコーヒーがあるのに、そのようなものは目に映っていないというのか、瑠音はうっとりとした顔をする。
「しかも、十個も一気に……、夢みたいだった……」
確かに包装紙はたくさんあったけれど、十枚もとは驚きだ。そしてそれらをすべて平らげてしまったという瑠音には、悠翔は呆れを通り越して感心してしまった。
「そんなにいっぱい食べて、胸焼けとかしないのか?」
「全然!」
ぱっと顔を輝かせ、瑠音は叫ぶように言う。
「倍あったって私はいけるよ! これだけしかないのかって、会長ってばケチ! とか思ってたくらいだし」
「でもそのせいで大騒ぎして大泣きして、気絶するまでしたんだろう? 会長だって副作用があるって知ってて、おまえにあんなにたくさん食わせたのに」
罪のない参考書をじっと睨みながら、悠翔は言った。恭一のやったことは、いちご大福の美味さで誤魔化されかけていたのか。瑠音は少しばかりいたたまれないような表情でコーヒーカップに手を伸ばした。
「あら、美味しい」
とりあえず、ご主人さまのお口にはあったようだ。
「正直、お母さんよりも美味しい。こんなに美味しく淹れられるんだったら、毎日うちに来てもらおうかな」
「俺の召使い生活は、学校内だけで勘弁してくれ……」
思わず呻く悠翔の前、瑠音はコーヒーを飲みクッキーをかじっている。十個もいちご大福を食べたとは思えない。掴めば折れるのではないかと思うような細い腕、片手で掴めそうな腰はどうやって維持されているのだろう。
「でも、いちご大福のほうが好きなんだな?」
自分もコーヒーを啜りながら、悠翔は問う。
「うん、もちろん! 特に、『餡処』の……」
悠翔の淹れた、しかも美味しいと褒めてくれたコーヒーは、また蚊帳の外だ。またしても悠翔は、むっとする。
「あんなに食べられる機会があるとは、思わなかった……」
「気絶するほどになってて、まだ懲りないんだな」
少し意地悪い気分になって、猫耳と猫しっぽの話をしてやろうかと思った。しかし生徒会室での瑠音の取り乱しかたを思い出すとおいそれとは口に出しかねた。
「だって、好きなんだもん……」
「でも、副作用を治めるのに霊仙薬も必要だったわけだしさ、俺的には少しは、懲りてほしいよ」
「うっ!?」
突然瑠音が妙な声をあげたので、悠翔は彼女に目をやった。するとその頬が見る見る赤くなって、まるで完熟林檎だ。
「見たの……? また……」
霊仙薬を服用するには、那奈か莉奈とのキスが必須。悠翔がまたキスシーンを見てしまったことが、瑠音にばれてしまった。
「あ、いや……ぁ……」
そもそも悠翔が瑠音の召使いになったのは、那奈とのキスシーンを見たからだ。たまたま見たあれが、悠翔の高校生活に多大なる影響を与えたのだ。
「や、まぁ、まぁ、さ」
那奈のみならず莉奈とのキスまで見られたとなると、次はどういう身分にされるのか。悠翔は懸命に、霊仙薬のことから話を逸らせようとする。
「とにかく、いろいろひどいことになるんだからさ、やっぱり一日一個にしておけよ」
「……そうする……」
思いっきり後ろ髪を引っ張られていることを隠さずに、瑠音はこくんとうなずいた。
「いくら『餡処』のでもなんでも、いちご大福は一日一個! それに会長、どんな果物でも同じような症状になるかもって言ってたぞ」
「ううう……」
あえて『猫耳猫しっぽ』という言葉は使わずに、遠まわしにたしなめてみた。瑠音はコーヒーを啜りながら、神妙な顔をしている。
「ねぇ、悠翔」
しばらくの沈黙ののち、瑠音は言った。
「心配してくれるの、どうして?」
顔をあげて、瑠音は問う。悠翔は思わず、背を正す。
「召使いだから? ご主人さまを守ろうとして?」
「もういい加減、召使いってのはやめろよ」
苦笑しながら、悠翔は言った。
「命令なんかされなくても、おまえの頼みなら聞いてやるから。購買のパンも買ってくるし。だから、その召使いってのは、やめろ」
「いや!」
瑠音は、潔いくらいの否定とともにツインテールを揺らした。
「だって悠翔は、わたしだけの召使いなんだもん! わたしは悠翔だけのご主人さまで、わたしの召使いは悠翔だけなの!」
そして、きゃんきゃんと高い声をあげる。
「悠翔は、わたしの召使いなの! そうじゃないとだめなのー! ほかの誰も、いやなんだから!」
今にも両手足をじたばたさせそうだ。どうどう、と悠翔は止めに入る。止めに入った恰好のまま、悠翔は「ん?」と首をかしげた。
(ん?)
二杯目のコーヒーを求める瑠音からカップを受け取り立ちあがった悠翔は、聞いた言葉に妙な違和感を覚えた。
(今、なんか……聞き捨てならないこと、言われた、みたいな……?)
しかし再び数学の参考書を読み始めた瑠音は、もう頬の紅潮もなくただじっと字を追っている。それほどに真剣な顔は見たことはなくて、それが恭一の勧めた本だからこそよけいにもやもやしたものが胸で疼いた。
☆
是岩高校一年三組には、学校中に名が鳴り響いている存在がある。
楠城瑠音――陸上部でもなんでもないのに、体育の時間にはインターハイ記録を易々と出してしまう。それがツインテールの艶やかな美少女で、いつも笑顔でにこにこしているとあれば、話しかけたいと思う者がたくさんいても不思議ではない。
休み時間の、教室。瑠音は女子生徒三人、男子生徒ふたりに囲まれて楽しそうだ。そんな彼女を横目で見ながら、悠翔はひとりぼんやりと席に着いている。
「悠翔」
呼びかけられて、顔をあげた。声をかけてきたのは、ポニーテールの愛菜だ。どこか思い詰めたように真剣な顔をしていて、悠翔は驚いた。
「なに……どうしたの?」
「外、出られる?」
悠翔はうなずいた。愛菜はぐいと悠翔の腕を握り、悠翔は引きずられるような恰好で教室を出た。
「な、な……なんなんだよ!」
愛菜が悠翔を引きずっていたのは、西校舎の裏だった。
(ここって……最初、瑠音と那奈がキスしてるとこ、見た場所だ)
懐かしいような思いに囚われながらあのときのことを思い出し、しかし目の前にいるのは愛菜だった。
彼女はやはりなにかを思い詰めていて、ここまで悠翔を連れてくるのもかなりの早足だった。悠翔は少し息があがったけれど、愛菜にはなんでもないようだ。
愛菜は、悠翔の息が治まるのを待った。そして悠翔が最後に大きな息をついたのと一緒に、言った。
「瑠音ちゃんと、つきあってるの?」
「ぶっ……!」
なにか飲みものを含んでいれば、確実に噴き出しただろう。悠翔はまじまじと愛菜を見てしまい、しかし愛菜は、至って真面目な顔をしている。頬と目の下が、少し赤い。
「ねぇ、教えて。瑠音ちゃんと、つきあってるの?」
「そんなわけない!」
悠翔は思わず、激しく首を左右に振った。愛菜はじっと悠翔を見つめ、そして少し息をつく。
「そう。そうじゃないんだ」
安堵したらしい愛菜はなんのために、このように人目のつかない場所を選んだのだろう。悠翔と瑠音がつきあっていないと確かめるためだけなのに、ここまで来る必要があったのだろうか。
「……こういうふうに言うの、なんだけどね」
にわかに、真摯な表情を見せて愛菜は言った。
「あんまり、瑠音ちゃんと仲よくしないほうがいいよ」
「……どうして?」
悠翔は、唖然としてしまった。愛菜は視線をきっと尖らせて悠翔を見、しかし言い淀むように、すぐに視線を逸らせてしまう。
「だって……あの子、普通じゃないじゃない」
「……え」
愛菜の言葉に、悠翔は眉をひそめた。愛菜は、いったん口火を切ったことに勇気を得たのか、話し始める。
「だって、瑠音ちゃんはあんな……あんな記録出しておいて、スポーツ推薦は全部蹴ったって。『めんどくさいから』って、そんな理由でよ?」
愛菜はきゅっとくちびるを噛み、うつむいた。なるほど、記録が伸びないことに悩んでいる愛菜としては、インターハイ記録まで出しているのに面倒だという理由でその道を蹴る瑠音が、信じられない――怒りの矛先であるのだろう。
「そういう子って、なんか信じられない。なんだかいい加減で……なんか、テキトーに人生やってる感じ」
瑠音は、人間ではない。不老不死の仙人なのだ。しかも死んだ人間の中に入り込んで、その人間として生きることができる。今までに何人もの人間としてたくさんの人生を歩いてきた瑠音としては、スポーツ推薦など、どうでもいいことなのだろうけれど。
「だから、悠翔くんも近づかないほうがいいと思う。そういう人って、なにに対してもいい加減だから。悠翔くんも、なにかひどい目に合うよ」
「……そんなこと、言うなよ」
昂ぶる怒りをこらえきれないまま、低い声で悠翔は言った。愛菜が、びくりと身を震わせる。
愛菜の気持ちもわかる。自分が一生懸命やっていることを、易々と乗り越えてしまう人間。そのような者がいれば、自分はなにをやっているのだろうと悔しくなるだろう。どこにぶつけていいものかわからない怒りを抑えきれないだろう。愛菜の感覚は、人間としてまったく正しいものであると思うけれど。
「そういうのって、自分を貶めるだけだぞ?」
「ひどい!」
愛菜は叫んだ。両手拳を強く握り、それは少し、震えている。
「貶めるなんて……そんなつもりで言ったんじゃないのに」
「そんなつもりじゃなくても、そんなふうに聞こえる」
愛菜は、大きく目を見開いて悠翔を凝視した。
「人を妬むとか、そういうのって、よくない」
「妬んでなんか……」
くちびるを噛んだ愛菜は、ますます強く拳を握りしめた。その頬は赤みを増していて、彼女が怒りと戸惑い、綯い交ぜになったいろいろな感情に囚われているということがわかる。
「しかも、それを俺に言うなんてな」
愛菜が、ひゅっと息を呑んだ。軽蔑したとは言わない――しかし愛菜にがっかりさせられたのは事実で、悠翔はじっと目の前の愛菜を見つめる。
「わたし……そんなつもりじゃ」
「どういうつもりだって、いいけど」
ふぅ、と悠翔はため息をついた。
「人のこと、そういうふうに言うのはいいことだと思えない。俺は、瑠音が変な子でもなんでも」
息をつきながら、悠翔は言う。
「好きだから」
前触れなくするりと、口から洩れた言葉だった。自分の言ったことに悠翔は瞠目し、目の前の愛菜も目を見開いている。
「……そういうこと?」
愛菜が、ため息とともにつぶやいた。
「仲がよすぎると思ったんだよね。つきあってるんだったら……そう言ってくれたらいいのに」
「いや、つきあってないから!」
ぶるぶる、と悠翔は首を振った。
「つきあってない! つきあってないない! そういう意味の、好きじゃない!」
しかし愛菜は、すっかりふたりをつきあっているものと認識してしまったらしい。つまらなそうに、くちびるを尖らせた。
「わたし、ばかみたいだね。つきあってる者同士の彼氏に、彼女に近づくな、なんて」
「だから、そういうんじゃないって!」
愛菜の間違った認識を正したくてわめくけれど、愛菜はすっかり、ふたりはつきあっているのだと信じ込んでしまったようだ。
「じゃあ、野暮なことは言わないけど。……でも」
愛菜は首をかしげ、悠翔を覗きこむ。
「わたしの妬みだけじゃなくて、瑠音ちゃん変な子だって思われてるのは、確かだよ」
悠翔は、ぐっと言葉に詰まる。愛菜は心配そうに悠翔を見て、そしてそのまま踵を返してしまった。
風に、愛菜の髪が、セーラー服の衿が、スカートの裾が揺れる。愛菜の気持ちもわかるような、それでいてこのようなところに呼び出した意図は頷けるものではないと、悠翔はきゅっとくちびるを噛んだ。
(そして、俺は……)
瑠音を、好きだと言ってしまったのだ。もちろん、好きにもいろいろ種類があるわけで――自分の口から洩れた「好き」という言葉は、どんな意味を持つのか。悠翔自身もわからずに、ただその場に立ち尽くした。