第三章 生徒会長といちご大福の魅惑
第三章 生徒会長といちご大福の魅惑
生徒会補佐委員会、というものがあると知ったのは、入学して一ヶ月ほど経ってのことだった。
悠翔はそれを、優心から聞いた。昼食中――もちろん召使いとして、瑠音のぶんも買ってきた購買での戦争のあと。瑠音たちと一緒にいつもの屋上ではない、教室でカレーパンに囓りつく悠翔は、声をかけられて振り向いた。
「補佐委員会?」
「なに、なにそれ?」
クリームパンのクリームを少し口の端につけたままの瑠音が、好奇心いっぱいの声をあげた。ちなみに今日は雨なので、屋上で食事するわけにはいかなかった。
メガネのブリッジを指先であげながら、優心は説明する。彼女が言うには、生徒会の補佐をする委員会らしい。
「なんで俺、誘うの?」
「だって芦馬くん、クラブに入ってないじゃない」
もっともな理由だ。実際、悠翔は暇といえば暇だけれど、委員会に誘われてしまうとは思わなかった。
「具体的に、どういうことするんだ?」
「文字通り、生徒会の補佐。集計のまとめとか、各クラスへの伝達とか。そういうのを、一年生がやるの。メンバーも、一年生だけ」
「それ、わたしも入ってもいい!?」
元気な声でそういったのは、瑠音だ。あたしも、あたしも、と声をあげたのはふたごの那奈と莉奈。
「ねぇ、優心ちゃん。なんだか面白そうなんだもん!」
(優心ちゃん……?)
このふたりは、名をちゃんづけで呼びあうような仲だっただろう。悠翔は首を捻り、優心は眉根に皺を寄せた。
「あなたたちには……特に楠城さんには、運動部からの勧誘がひっきりなしって聞いてるんだけど」
やはり、優心が瑠音を呼びかけるときは苗字にさんづけだった。こうやってなんの衒いもなく相手を気軽に呼べる気楽な性格が瑠音のいいところなのだけれど、不愉快に思う者もあるだろう。
しかし瑠音は、優心の反応をまったく気にした様子はない。彼女はくちびるを尖らせて、つんと上を向いた。
「だって、悠翔がどれにも入らないっていうんだもん。召使いのくせに生意気よねえー」
召使い、というのは悠翔にとってはもう何度も言われていることだけれど、優心は眉根を寄せた。渋い表情で、悠翔と瑠音を見やっている。
「同級生を、召使いってのもねぇ……」
優心は、そのことが気に入らないようだ。しきりにメガネのブリッジに触れるのは、こういうときの彼女の癖なのだろう。
「いいの、悠翔はわたしの召使いだからね。召使いは、ご主人さまと一緒にいなくちゃいけないの!」
「だからって、召使いにあわせてご主人さまが行動するのは、逆じゃないの……?」
優心はもっともなことを言い、それはそうだと納得する悠翔のかたわら、瑠音は「まぁいいじゃない」と優心の言葉を笑い飛ばしている。
この、妙に剛胆というか、おおらかというか。深くを考えない瑠音の一面は、悠翔が好きな部分だ。いくら召使い扱いされようとも、この明るさに「まぁ、いいか」と思ってしまうのだ。
「笑いごとじゃないわよ。召使いとかご主人さまとか、不健康よ」
ますます眉をひそめ、優心は言う。
「そういうのもあって、芦馬くんを誘ったんだけど。一緒に、補佐委員やろう?」
「俺は、別に構わないけど」
悠翔は、ちらりと瑠音を見た。瑠音は好奇心満々の目をしている。潤んだような大きな目が、文字通りきらきら輝いているように感じた。
「じゃあ、わたしも! 補佐委員会、やるよ!」
「あたしも!」
「あたしもね!」
三人が次々と声をあげ、優心は戸惑ったような表情をしている。
「四人も、ひと息には……会長に訊いてみないと」
悠翔に至っては名前も知らなかった補佐委員会とやらに、入ろうという者はなかなかいないのだろう。だからこそ優心もクラブに入っていない悠翔に目をつけたのであり、しかしあと三人も釣れてしまうとは思わなかったらしい。
「じゃあ、早く訊きに行こうよ!」
今にも立ちあがって教室を出そうになる瑠音を、悠翔がつかまえた。
「おい、待てよ。昼休みだってもうあんまり残ってないし、いきなり行っても会長に迷惑だろう?」
「……それも、そうね」
悠翔の言うことを素直に聞き入れる瑠音は、『ご主人さま』としての威厳が足りないのではないだろうか。そうは思うものの、そこもかわいらしいと思っている悠翔は、すっかりこのご主人さまの張った罠にとらえられているのかもしれない。
「じゃあ、会長に聞いてみるから……」
いきなり四人もの入会者を前に、優心は多少戸惑いぎみだ。常に冷静なイメージのあった彼女の困惑の表情に、悠翔はつい、見とれた。
「放課後だったら、会長に会えると思うから。また、そのときに」
優心がそう言ったとき、予鈴が鳴りだした。
優心に連れられて、悠翔、瑠音、那奈と莉奈は廊下を行く。
悠翔たちの教室があるのは二階で、生徒会室は四階だという。四階は生徒会室をはじめとした各委員会の部屋、また文化部の教室があって、悠翔たちには未踏の地だ。
「こっちよ」
優心が指を差した方向、階段をあがってすぐの教室には『生徒会室』とのプレートがかかっている。優心は礼儀正しくノックをし、失礼しますとドアを開けた。すると、声がかかる。
「こんにちは、優心ちゃん」
そう言ったのは、奥に座っている男性だ。椅子は教室にあるものと同じはずなのに、彼が座ると妙に優雅な、ソファかなにかと錯覚してしまう。
「ですから……名前呼びは。それに、ちゃんって柄でもないです」
「なに言ってるんだ、優心ちゃんは、優心ちゃんって名前が似合う。少なくとも僕には、そう思えるけどね」
優心が自分の名前を好きではないことは、悠翔も重々承知している。それなのにあえて呼ぶとは、奥に座る男は無神経なのか剛胆なのか、その両方か。
「会長。優心ちゃんがいやがってるじゃない」
りん、と鈴の音のような声が聞こえた。それは明らかに女性の声で、その彼女は会長と呼ばれた男性の脇に立っていた。
ここからでは逆光なので、顔は見えなかった。腰まである長い髪は陽に透けてやや栗がかっていて、ゆるくウェーブがかかっているのは、天然なのだろう。
生徒会室には、このふたりしかいなかった。しかし机はロの字型に並べてあり、それぞれの机に筆記用具に書類が散らばっていることから、ほかのメンバーは席を外しているだけであるようだ。
「いや、優心ちゃんは、優心ちゃんと呼ぶのがかわいらしい。優心ちゃんだって、自分の名前が素敵だって誇りを持つべきだよ」
「生徒会長……。だから、そのことは」
窓からの逆光を浴びる生徒会長は、入室し近づくとその容姿のほどが見て取れた。きりりとまなじりのあがった鋭い目つきは、しかし笑うと目もとにできる皺のせいで温和な印象を与える。
生徒会長の笑みには隙がなく、彼は人の気持ちを慮ることのできない人物には見えない。しかし優心のいやがる名で呼んで憚らないところといい、優心の苦情も笑って聞き流すところといい、同じ高校生はあってもひと筋縄ではいかないだろうことが悠翔には直感的にわかった。この妙に胸がもやもやする感覚は、そのゆえだろうか。
「ふわー、カッコいい人だね」
「本当、今まで知らなくて、損した」
悠翔の後ろで、ふたごたちがこそこそと話しあっている。その言葉に、悠翔は自分の気持ちにぴんと来た。
(そうか……)
生徒会長は有り体に言って、イケメンだったのだ。生徒会長という学生たちのトップで、投げ出した足は見るからに長くて、シャツを脱げば『脱いだらすごいんです』なボディが現われそうで、おまけに優心の名を呼んで憚らない大胆さ。
(これが……嫉妬か)
今まで嫉妬というものを味わったことがないわけではない。しかし自分よりも明らかに上位にいる人間を前にはこういう気分になるものなのだ、と悠翔は妙な感心をした。
その脇に立っているのは、長い髪の美少女――近づくと、その美貌のほどが知れた。
穏やかな微笑みの似合う、少女というよりは大人の雰囲気を醸し出す女性だった。悠翔と目が合うと、にっこりと微笑みかけられて胸がどきりと鳴る。
「こんにちはっ!」
元気よく、生徒会長の前に飛びだしたのは瑠音だ。彼女がぴょこんと頭を下げると、艶やかなツインテールが揺れる。
「ああ、こんにちは。僕は、中ノ森恭一。君は……」
恭一は、首をかしげて瑠音を見た。
「優心ちゃんが連れてくるのは、男子だって聞いたけど?」
「あ、はい。私が誘ったのは、こっちの芦馬くんなんですけど」
優心に背を押され、悠翔は恭一の前に進み出た。こうやって向かいあわせになると、男性的魅力という点で非情な見劣りを感じ、劣等感――嫉妬にさいなまれてしまう。
「……芦馬、悠翔です」
つぶやくようにそう言うと、恭一はうんとうなずいた。
「生徒会も補佐委員会も、なぜか女の子が多くてね。男子メンバーは大歓迎だよ」
「でも、そんなに役に立てるとは思わないんですけど……」
つい、ネガティブなことを言ってしまった悠翔だったけれど、恭一にはこたえたふうもない。彼は豪快に笑い、ぽんぽんと肩を叩いてきた。
「平気平気、僕も補佐委員会から入ったけど、別に困ったことなんかなかった。難しい仕事もこの時季はまだないし。……なにかあったら優心ちゃんみたいな先輩や、僕でもいいし、このももちゃんでもいい」
そう言って、恭一はロングヘアの美女を見あげた。彼女は、ももというらしい。恭一のノリとしては、苗字ではないはずだ。
そんな悠翔の胸のうちを読んだかのように、ももはにっこりと笑う。
「私は、荒磯といいます。副会長をやってるの」
そうそう、と恭一はうなずいた。
「だれか、生徒会のメンバーに訊けばいい」
「そう、ですね……」
ももに見とれたり、恭一の容姿や貫禄への劣等感を抱いている場合ではない。実際に仕事をすることになれば、そうも言っていられないのだ。
那奈も莉奈も、自己紹介をした。さすがに四人も押しかけてきたとなれば恭一も驚かないわけにはいかないらしく、目を丸くしている。
「あの、補佐委員会って何人まででしたっけ?」
優心が、心配そうに恭一に尋ねている。恭一は、首を捻った。
「別に、規程はなかったと思うけど。まぁ、今は人手不足だから。何人いてもいいよ。みんな、遊びに来る感覚でいいから、補佐委員会に入ってくれると嬉しいな」
恭一は鷹揚に言い、悠翔たちは四人まとめて、生徒会補佐委員会のメンバーになった。
生徒会室からの帰途。後ろで、那奈と莉奈が話している。
「生徒会長さん、カッコよかったねー」
「顔で選ばれたんじゃないの? 絶対、それもあるって」
優心は仕事を頼まれ、新入りの四人はひとまず帰宅となった。しきりに恭一のことばかり話すふたごの前、悠翔と瑠音は肩を並べて歩いている。
「でも、瑠音。委員会なんて、大丈夫なのか?」
「いーの」
かわいらしくピンクのくちびるで微笑むと、瑠音は楽しそうに言った。
「今までスポーツ系のクラブばっかりだったんだもん。たまには、こういうのもいいなって思う」
それはあまりにも奇異な発言ではある。たかだか高校生が、「今まで」「ばっかりだった」と、いくつものクラブを渡り歩いているように言うのは、聞く者が首を傾げる言葉だ。しかしそれもこれも皆、すべて瑠音が妖仙だからなのだ。
今まで、どんなクラブに入ってきたのか。体育のときを見ても、日本や世界記録とされるものに瑠音がまったく関わっていないとは、悠翔には思えない。
そのことを尋ねようとした海翔は、瑠音と目が合った。彼女はいつの間にか、いつになく神妙な顔をして悠翔を見つめていて、ぎょっとした。
「でもね。あの人たち、仙人だよ」
瑠音の言葉に、ますますぎょっとする。
「人たちって、会長も……副会長もか?」
うん、と瑠音はうなずく。その確信に満ちた声音に、決して冗談でも勘違いでもないということがわかる。
「な、なんで仙人って……」
「同族は、においでわかるわ。わたしはもとが動物の、妖仙だからね、鼻はきくよ」
仙人のにおいというのは、どんなものなのだろうか。首を捻る悠翔に、瑠音は考え深げな顔をしている。
「向こうも、わたしたちに気がついたはず。ただしあのふたりは、わたしを追ってきたんじゃないから」
「へぇ? またなんでわかるんだ?」
会長と副会長が揃って仙人であるとわかって、それでも補佐委員会に入るというのだ。彼らから、逃げる必要はないようだけれど。
「追ってきたんだったら、入学式からこんな近くにいるのに、気づかないわけがないもの。それに、ふたりとも普通の仙人じゃない」
仙人である時点で普通ではないのだが、事態はさらに普通ではないらしい。
「副会長のほうは、麻姑だわ」
麻姑ってなに? と尋ねると「下八洞神仙の地仙の仙女」との説明があったが、悠翔にはなんのことかまったくわからない。
「会長は、天仙ね。そんな高位の仙人が、どうして人間界の片田舎であんなことしてるのかはわからないけど」
「片田舎で悪かったな……」
難しい顔をして考え込む瑠音には、悠翔の言葉は届いていないようだ。そうでなくても瑠音の言葉は、悠翔には意味不明だ。
「おまえは、どう思うんだよ。会長と副会長、揃ってなにをしているのか」
「たぶん……那奈と莉奈と、同じ理由だと思う」
「向こうにいるのは退屈だったって?」
うん、と瑠音はうなずく。
(そんないい加減な理由で、仙人がひょいひょい人間界に降りてきていいものなのか)
悠翔には不可解だが、仙人にもいろいろ事情はあるのだろう。そう思うことで、悠翔は自分を納得させることにした。
「じゃあおまえたちも入って、生徒会は仙人博覧会だな」
「もう、見せものじゃないんだから」
そう言って瑠音は、くちびるを尖らせる。
「学校だけじゃないわ。このあたり、地場がいいのよ。だからいろんな、人間じゃないものが集まるの」
少しだけ眉間に皺を寄せ、瑠音は言う。
「まぁ、狐の妖仙に会えたのはラッキーだったけど。不老不死になっても、霊仙薬は必要だから」
「迷惑な話だな……」
いったいどういう地場なのか。人でないもの、と聞かされて悠翔の背にはぞくりとしたものが走ったが、同時に思い出したこともあった。
「あ」
悠翔の声に、瑠音が首をかしげる。眉をひそめて、悠翔は言った。
「そういえば、トイレの窓に貼りついてたやつも……人じゃないもの関係?」
「ああ……あれね」
うなずいて、瑠音は言った。
「あれは、わたしを追ってるのよ」
さらりとそう言った瑠音に、悠翔は仰け反った。
「おい、追われてるって、盗んだ桃関係だろう!? ここまで追いついてきてるのに、そんなに呑気にしてていいのか!?」
焦る悠翔に、瑠音はぱたぱたと手を振った。
「大丈夫。それは、大丈夫。紫姑は、トイレにしか出られないから」
「なんだそれは!?」
悠翔の声のボリュームが大きかったせいで、那奈と莉奈も「なになに?」と顔を寄せてくる。
「紫姑も、確かに仙人なんだけど。トイレで殺された女の人が、仙人にしていただいたものなの」
「トイレで……?」
それは、悔しくも情けない理由だ。本人もたまらないだろうが、仙人になれたということは結局はよかったのか。
「だから、トイレに現われたのか?」
「そう。トイレ以外には出られないのよ。だから心配しなくてもいいんだよ」
瑠音は歯を見せて笑い、握った手を突き出してぴっと親指を突き出して見せた。
「トイレに行かなかったら、大丈夫だから!」
「そんなこと、できるか!」
悠翔は激しくツッコんだ。
「だいたいおまえも、本性は妖仙でも体は人間のものなんだろう? トイレ行かないって……どうするんだよ」
ふふん、と瑠音は笑い、その場で足を止めてくるりとまわって見せた。
「お姫さまは、トイレに行かないのです」
「誰がお姫さまだ、誰が」
さらなる悠翔のツッコミを背に、笑いながら瑠音は走っていく。那奈と莉奈はそんなふたりを交互に見やって、首をかしげていた。
☆
呻き声が、聞こえる。
「う、うーん……」
「だから、そこはさっき言っただろう? この公式で」
生徒会室、会長の机に向かって座っているのは瑠音。その後ろで、彼女の勉強を見てやっているのは、生徒会長の恭一だ。
「どうしてこれが、こう来るのかわからない……」
「瑠音ちゃんは、基礎がちょっと残念だね。中学校のときの教科書、ある? 少し読み返してみたら、理解度は全然違うと思うよ」
「……はぁい」
返事だけは素直に、瑠音は机に突っ伏す。それを複雑な表情で、微笑ましげに、面白そうに、また眉根を潜めて。
生徒会室には悠翔、副会長のもも、那奈と莉奈のふたご、そして優心がいて、それぞれ手は作業を進めながら恭一と瑠音の勉強会を見やっている。
「でも、中学生の教科書なんて、もう捨てちゃったよぅ」
「じゃあ、僕がいい参考書見繕ってあげるから。それちゃんと読んで、復習するんだよ?」
「……、……はぁい」
明らかに、勉強をいやがっている。それでも瑠音は、返事だけ前向きだ。
自分が教えたときは、早々に弱音を吐いていたくせに。そう思って悠翔が拗ねた気持ちになってしまうのは、仕方がないと思う。
「瑠音。できたらいちご大福買ってきてやるから」
瑠音は、ぱっと顔を輝かせた。すると恭一が、そんな瑠音を見やる。
「なに、瑠音ちゃん、いちご大福が好きなの?」
「うんっ、大好き!」
数学の問題に向き合っていたときとは打って変わって、今にも弾けそうな笑顔を恭一に向けた。
「いちご大福だったら、いくつあっても食べられるくらい好き! 毎食毎食、いちご大福でもいいくらい!」
いちご大福ばんざい、いちご大福考えた人サイコー、といつもの瑠音に戻ったところ、恭一がくすくすと笑っている。
「そんなに好きなんだったら、買ってきてあげようか? そこのコンビニに、いちご大福あったと思ったけど」
「いいの、わたしの召使いがやってくれるから!」
胸を張ってそう言った瑠音を前に引かなかったのは、那奈莉奈のふたりと、当の召使いだけだ。
「ね、言ってたら食べたくなった! 買ってきて!」
「おまえ、今日の復習が済んでからって言ってたじゃないか。まだ全然進んでないぞ」
「いいもんー、会長のお薦め参考書買ったら、それで復習するから」
買ってきて、だめだ、との応酬をする悠翔と瑠音に、優心が声をかけてきた。
「だから……召使いとか奴隷とか、どういうのは……よくないと思うの」
「奴隷じゃないわ、召使いよ!」
ぴしり、と瑠音は言ってのけた。そういう問題ではない、と言いたげな優心はメガネのブリッジを指先で持ちあげ、ため息をついた。
「どっちにしろ、クラスメイトを使い走りにするなんて。芦馬くんも、いやでしょうに」
「いや、俺は……」
いやじゃないと言えば嘘になるし、とはいえ恭一に役目を代わってもらいたくもない。瑠音のために宿題を教えてやり、昼休みには購買に走り、放課後はいちご大福を買って馳せ参じるのがすっかり習慣になってしまっているものだから、いやだということはないのだ。
「芦馬くん、いやじゃないの?」
「いやじゃなくない、と言うよりは、いやじゃないというか……」
「なに、わけのわかんないこと言ってるのよ」
優心が苛立ちを露わにしながらそう言うのを、なだめたのはももだった。
「まぁまぁ、優心ちゃん。そういうことは本人たちのことだし。召使いって言葉はどうかと思うけど、それも、本人たちの意向だしね」
「荒磯先輩、そんなこと言ったって……」
おっとりとした笑顔を絶やさないももに、やんわりといなされてはさすがの優心も言い返すことができなかったらしい。まだなにか言いたげではあったものの、口を閉ざしてしまう。
「召使いか、いいねぇ。僕も瑠音ちゃんの召使いにしてもらおうかなぁ」
戯けたような口調でそう言う恭一に、むっとした。瑠音が「召使い」と言って頼るのは、自分だけでありたいと思ったのだ。
しかし瑠音の、という限定ではあっても、召使いであることに誇りを持つのもおかしな話だ。しかし購買の販売員には「いつも二人前買っていく生徒」と認識され、コンビニでは「毎日ありがとうございます」と恥ずかしさ大爆発のことを言われても、それほどにいやがっていないのは――やはり、瑠音のためだから。
「だめ」
まるで、そんな悠翔の心を読んだように瑠音が言った。
「わたしの召使いは、悠翔だけなの。先着一名様かぎり、よ」
「なんだ、残念だなぁ」
それほどにも残念そうではない口調で、恭一は言った。
「僕を召使いにしてくれたら、毎日どころか、いくらでもいちご大福、食べさせてあげるのに」
俺だって、毎日買ってきてやってる。そう言い返しかけて、しかし悠翔を制したのは、書類の整理をしていたももだった。
「会長は、『餡処』の御曹司だもんねぇ」
「御曹司はやめろよ」
悠翔の目には、とても嫌味に見える笑顔で恭一は言った。
「え、『餡処』って、あのおまんじゅうの?」
「『餡処』のいちご大福って、ネットでもすごい評判なんだよ。しょっちゅう、月間売上一位になってて」
那奈莉奈のふたごが、口々に声をあげる。恭一は困ったような、しかしまんざらでもない表情を浮かべて、肩をすくめた。
「別に、僕が作ってるわけじゃないから」
「でも、いちご大福いくらでも食べさせられる、って、言ってたでしょう?」
那奈と莉奈はいちご大福ラヴァーではなかったはずだが、それでも甘いものはそれだけで女の子の心をくすぐるのか。ふたりは目をきらきらさせて恭一を見ている。
「そりゃ、父に頼めば、いちご大福の十個や二十個……」
悠翔は、瑠音の目が猫のようにきらり、と光ったのを見た。
「『餡処』のいちご大福が、十個……二十個……」
ごくり、と瑠音の咽喉が鳴るのが聞こえる。
「そこのいちご大福って、そんなに美味いのか?」
あまりにも瑠音が美味しい美味しいと言うものだから、悠翔も(瑠音へのいやがらせは別として)自分で買って食べたことがある。確かに美味いとは思ったけれど、瑠音のようにいちご大福ジャンキーになってしまうほどのものではなかった。
「もちろん!」
瑠音が、勉強のときもそのくらいの勢いがほしい、と思うくらいの燃えあがるような情熱とともに言った。
「どこのだって美味しいけどね、『餡処』のは別格なの! 屋号にもつくくらい餡にこだわってるし、いちごの酸味も、その餡とのバランスが絶妙なの!」
まるでマタタビ、ならぬ『餡処』のいちご大福を前にしているかのように、瑠音は息を弾ませて言った。
「ただ、そこらへんで置いてないの。デパ地下で、特産品フェアやるときにしか出てないし、生ものだから買い置きもできないし」
「そんなに情熱を注いでくれているとは、ありがたいねぇ」
恭一は、うんうんとうなずきながら瑠音に微笑みかける。瑠音は、恭一に見とれているのか、その背後にある「『餡処』のいちご大福」に呑まれているのか――どちらにしても、悠翔には面白くない。
「会長、お願いしたら買わせてくれますか。『餡処』のいちご大福」
「そんな、他人行儀な。瑠音ちゃんがいるって言うんなら、毎日持ってきてあげるって」
瑠音の耳が、頭の上についているように見えた。腰からはしっぽが――もちろん幻覚に違いないのだけれど、悠翔の目には、まさに猫耳猫しっぽが生えたように見えた。
(猫の妖仙だって聞いてたし、もしかして本当に生えることもある――のかな)
恭一は、毎日いちご大福を持ってくると言った。瑠音は今にも踊り出しそうで。
彼女の『召使い』としての役割をひとつ失った悠翔は、面倒が減ってよかったはずなのに――ぽかりと胸に穴の空いたような、喪失感を味わっていた。