第二章 ご主人さまと、召使いと
第二章 ご主人さまと、召使いと
呻き声が、聞こえる。
「う、うーん……」
「だからそこには、xが入るって言っただろう?」
放課後の、学校。ふたりだけの教室で、彼と彼女は正面向かいに座っていた。
「ほら、そこじゃない。ここ」
「いやぁー、もうわけわかんないから!」
「こんなの、中学生でやっただろう? 復習だよ、復習」
悠翔は、ひとつの机を挟んで瑠音の数学を見てやっている。今日の小テストの結果があまりに悪かった――というか、〇点という見事な点数を取ってのけたのだ。
「今日は、これができるまでいちご大福はお預け!」
「わぁーん、悠翔のケチー!」
駄々っ子のように喚く瑠音を、悠翔はきっと睨みつける。
「おまえのためだぞ? ここつまずいてちゃ、先が大変じゃないか」
「いいんだもんー、人間のする勉強なんか、できなくていいんだもん!」
がばっと机の上に身を乗り出した瑠音に驚いて、悠翔は後ろに仰け反った。
「また、適当なところで体乗り換えて、テストも勉強もない時代に戻るんだぁー」
「……乗り換える?」
悠翔は、大きく顔を歪めた。瑠音は突っ伏したまましばらくじっとしていたが、ふと顔をあげる。
「そう、乗り換えるの。お母さんのお腹の中で死んじゃった子供の魂を抜き出して、そこに入り込むんだ」
「へ、へぇ……」
なんと返事をしていいかわからず、ただとどまって目をぱちくりとさせた。
「もちろん、ちゃんとお父さんとお母さんは大切にするよ? でも、別に人間みたいに仕事しなくちゃいけないわけじゃないし、面倒になったら、また猫になればいいしね」
「猫?」
悠翔は首を傾げた。あら、と瑠音も首を横に倒す。
「言ってなかった? わたしは、猫の妖仙」
「へ、ぇ……」
そう言われてみると、瑠音は猫っぽい。気まぐれなところも大胆不敵なところも、身のこなしの鮮やかなところもつりあがった大きな目も、確かに猫だ。
(好物がいちご大福、ってのは、猫にはあり得ないだろうけどな)
「じゃあ、今はその……おまえが魂になって入り込んだ赤ちゃんの、お父さんとお母さんと暮らしてるわけ?」
うん、と瑠音はうなずいた。
「お父さんとお母さんを騙してるのは心苦しいけれどね。特に今回の両親はすっごく優しい人だから、よけいに申し訳ないな、って思うの」
「じゃあ、勉強頑張らないといけないじゃないか」
「……そうなんだよねぇ……」
瑠音は、再び机に突っ伏した。そんな彼女の長いツインテールの艶やかさに見とれながら、悠翔は尋ねた。
「じゃあ、那奈と莉奈も、同じように誰かの体に入り込んだってわけ?」
彼女たちが、瑠音に教えてもらったことがある、と言っていたのはこのことなのだろう。瑠音はうなずいた。
「じゃあ……魂はその体の中にあって、おまえの本来の体は、どこにあるんだ?」
「人間みたいに、魂と体が離れているわけじゃないもの。体そのものが魂だから、形だって決まってないんだよ」
「へぇ……」
では、目の前のかわいらしさにいくら惹かれても、しょせんは上辺だけのこと。本来の姿すらないのなら、人間として悠翔はどのように彼女に接すればいいのだろうか。
瑠音は妖仙で、悠翔は人間。その間にある壁のようなものを感じて、悠翔はなぜか鬱々たる気分になった。
「……俺、トイレ行ってくる」
戸惑う心を押し隠して、悠翔は席を立った。瑠音が首をかしげて見送ってきたが、彼女と自分の、種族の差がどうしても辛く感じられた。
「……ふぅ」
実際にトイレに用があったわけではない。だから悠翔は個室に入り、便器のふたの上に座って息をついた。
(いちご大福食べてるときの、あの表情……)
悠翔が彼女のぶんのいちご大福を食べてしまったときの表情。悠翔を召使いだと声高に言うときの表情も、なにもかもがかわいいと思うのに。あれは瑠音自身ではなく、いわば世を忍ぶ仮の姿だなんて。
(瑠音の本当の姿……見ても、俺は瑠音がかわいいと思えるんだろうか)
本当の姿、とは猫の姿かと思うのだけれど。猫は好きだから問題ないけれど、どきどきやときめきとは、違うと思う。
ふぅ、とまたため息をついて。ふと視線の端にうごめくものを感じ取り、悠翔は顔をあげた。そして、大きく瞠目する。
「う……わぁ、ぁぁぁっ!」
思わず、便器から転がり落ちてしまった。悠翔の目は、確かに窓の向こうになにか紫色のものを見た。はっきりとした鮮やかな紫が窓の向こうで揺れていて、それがなんなのかまったく見当がつかない。
「な、な、な、なんだぁ!?」
ゆらり、とまた紫が揺れた。よく見ればそれは人の髪で、その主は窓の外に張りついて頭をゆっくりと揺らしているのだ。それは上下逆さまになって壁を張っている人間のような――しかも、女だ。
「な、なんなんだ、なんなんだ!」
じろり、と睨みつける目も紫だった。髪がそれほどザンバラでなければそれなりに美人なのだろうが、いかんせんトイレの窓に貼りついてこちらを覗きこんでいるというのが異様だった。
「返せ……」
紫の女が、低く呻いた。悠翔はひっと肩を震わせ、夢中で個室の鍵を開けようとする。
「開け、開け……開いてくれ!」
手が震えて、うまく鍵が開けられない。その間にも、紫の女は半分だけ空いていた窓にがっしりと指をかけ、開けようとする。
「うわぁぁ、やめてくれー!」
どうにか、鍵が開いた。転がる勢いで悠翔はトイレから出、瑠音のいる教室に駆け戻った。
「どうしたの」
悠翔が席を外している間、勉強にいそしんでいた……わけではなさそうな瑠音は、至極呑気な調子でそう言った。
「お化けにでも会ったみたいな顔してるわね」
「で、で、でた……!」
ぜいぜいと息をつきながら、悠翔は言った。瑠音は、きょとんと首をかしげる。
「なにが」
「化けもんだよ……、と、トイレで、紫の髪の女が……!」
「トイレで?」
とたん、瑠音の眉根に皺が寄った。そのような難しい顔をしていても、かわいい子はかわいいんだなぁ……と、いささか場違いなことを考える悠翔の前、瑠音は考え深げな顔をしている。
「瑠音、なにか心当たりがあるのか?」
入学したばかりのこの是岩高校、実はトイレに紫の髪をした女の霊が出るんです、という怪談があっても不思議ではない。
しかしそれよりも、瑠音に那奈に莉奈。妖仙だとかいう人間ではない存在がまわりにたくさんいる状態では、あの怪奇を彼女たちとつなげて考えるのは自然なことだろう。
「そうね、心当たりは、あるわ」
瑠音は、はっきりとそう言った。悠翔はぎょっと後ずさりをした。
「じゃ、あれ……やっぱり、お前たちの関係か?」
「まぁね。また、嗅ぎつけてきたなんて」
むっ、と真面目な顔をしているさまは、メガネこそないものの委員長の優心を思い出させた。
「またって、どういう……」
しかし瑠音は、答えてくれなかった。彼女は机のうえを手早く片づけ、バッグに突っ込むと悠翔にひらりと手を振った。
「今日は、教えてくれてありがと。また、明日」
「おおい、置いていくなよ!」
また、先ほどの恐怖が迫ってくるかも知れない。悠翔は慌てて、自分のぶんの荷物を詰めてバッグを取りあげる。
夕暮れの、一日を終えたオレンジ色の太陽に照らされる教室は妙にもの悲しくて、同時にトイレでの怪異を思い出して、悠翔はぶるりと震えた。
またあの紫の女が現われないか、びくびくしながら校舎を出て。悠翔は足早に、家路に就いた。
☆
体育の時間の瑠音は、絶好調だ。
悠翔は、体育教師の真似をして準備体操をしながら、瑠音のほうを見やっている。瑠音の相手になっているのは、愛菜だ。ポニーテールのきりりとした少女で、悠翔がいじめに遭っていないかと心配してくれた。
背中をあわせて相手を持ちあげてのストレッチや、両手をつないで横に引っ張りあう体操。それらにきゃあきゃあと歓声をあげる瑠音につられて、愛菜も声をあげている。
(鶯谷さんって、ああいうキャラだったっけ……?)
どちらというとおとなしく、声をあげて笑うタイプには見えなかったけれど。今も確かに瑠音のハイテンションにつられて少し困った顔をしているが、それでも充分楽しそうだ。
今日の体育は、百メートル走だった。身体検査も兼ねているということだけれど、短距離は苦手な悠翔には、やや憂鬱な時間だ。
教師からの注意を聞き、自分の順を待っているとき、話しかけてきたのは愛菜だった。
「瑠音ちゃんって、テンション高いねぇ」
まだ始まっていないというのに、すでに疲れた様子の愛菜が、言った。
「あ、やっぱり? テンション高いなぁ、って思って見てた」
「ほかの授業では、あんなんじゃないよね。体育、好きなのかなぁ?」
「まぁ、好きそうではあるな」
少なくとも数学や英語でテンションが高くなるのは、瑠音には難しいだろう。悠翔は順番待ちの列に座り、次々に走り始める同級生を見やっていた。
「あ、次。瑠音ちゃんだね」
愛菜の声に、うなずいた。すらりとした手足が眩しい瑠音は、肩と足首をぐるぐるとまわし、やる気が漲っているようだ。
スタートの合図とともに、瑠音とほか三人の女子生徒たちが走り出す。結果は、確かめるまでもなかった。
「なに……、あの速さ」
すでにゴールした瑠音に、ずっと遅れてほかの三人がゴールにたどり着く。彼女たちはぜぇぜぇと肩で息をしているのに、瑠音はあと二、三回は走れそうな元気さでぴょんぴょんと跳ねまわっている。
「じゅ……十秒二?」
教師が驚愕の声をあげており、まわりの者も大きくざわめく。悠翔も、聞こえてきた数字に目を疑った。
「それって、インターハイレベル……」
あり得ない、信じられない、という思いは教師も同じだったらしくストップウオッチの故障かと、瑠音にもう一度走らせている。
瑠音は待ってましたとでもいうようにまた百メートルを走り、今回の記録は先ほどよりは少し劣ったものの、それでもその場の者を驚愕させるには充分だった。
「あ、悠翔!」
悠翔は、瑠音のいる場所に向かって走った。皆に囲まれている瑠音のもとに走り、手を伸ばして彼女を抱き寄せる。瑠音は、彼女の本来の姿がそうであるらしい『猫』のような声をあげた。
悠翔は、驚いている瑠音の耳もとにささやく。
「おまえ、何やってるんだよ!」
腕を引き寄せながら、悠翔はささやいた。
「あんな速さで走って……疑われるだろうが!」
「え、なにが疑われるって?」
なにを言うのか、というようにきょとんとしている瑠音が、悠翔はもどかしい。
「だって、おまえが妖仙で……人間じゃないってばれたら、なにか大変なことに……」
「ならない、ならない」
あははっ、と声をあげて瑠音は笑った。
「誰も、この程度で疑ったりしないって。疑ったって何ができるわけでもないし、いざとなれば幻術をかければいいし。那奈も莉奈もいるしね」
「幻術……」
馴染みのない言葉を、思わず繰り返してしまう。そういう言葉がさらりと出てくるあたり、やはり瑠音は人間ではない、違う種類の生きものなのだと認識せざるを得ない。
戸惑う悠翔に、瑠音はにやりと笑いかける。
「なんなら、悠翔にも幻術かけてあげようか? 一生わたしの召使いでいるっていう幻術。悠翔のほうから『瑠音さまぁ』とか言って懐いてくる幻術!」
「いらん、そんなもん!」
瑠音が本当にそうしてしまいそうだったので、悠翔は脅えた。しかし瑠音は肩をすくめて、いたずらっぽく笑った。
「心配しなくても、無理。そういうことはできないから」
目をぱちくりさせる悠翔に、少し悲しそうな表情で瑠音は言う。
「幻術では目の前にあるものの姿を違うものに見せたり、記憶を操作したりはできるけど、人の心までは操れないわ」
少しばかり、瑠音はさみしそうな顔をしていた。そのはかなげな表情は、先ほど女子生徒たちときゃあきゃあとはしゃぎまわっていたときとは別人だ。ギャップがあるからこそよけいにその表情は印象的で、悠翔はどきりと胸を掴まれる。
「操れるようなら、いいんだけどね」
いったいその言葉は、なにを意味しているのか。尋ねたいような、それでいて訊くのが恐いような思いで、悠翔はせめてもの軽口を叩いた。
「記憶操作だけでも充分だろう……」
そう悠翔がつぶやくと、瑠音は「そうね」と言って、肩をすくめた。
「ちょっとふたりとも、なにしてるの?」
ふたりのもとに、駆け寄ってきた者があった。メガネの委員長、優心だ。
「まだ、授業は途中よ? 芦馬くんは、走る順番!」
「あ……そうだ」
悠翔はまだ走ってもいなかったのだ。
「もう、ふたりでなにをしてるんだか……」
むっと眉をひそめる優心は、メガネのブリッジを指先で持ちあげる。そんな姿が本当に『委員長』だなぁ、と思ったことは口に出さず、悠翔は生徒たちの集まっている場所に向かって駆け出した。
☆
いざとなれば幻術をかければいい、とは言っても。
瑠音の、インターハイ記録レベルの百メートル走のことが話題にならないはずもなく、瑠音は学校中の有名人になってしまった。
休み時間、瑠音はクラスメイトたちに囲まれて楽しそうだ。そんな彼女を、頬杖をついて見ている悠翔に、声がかかった。
「ねぇ、悠翔」
話しかけてきたのは、ポニーテールの愛菜だ。彼女はそのかわいらしい顔に不安を浮かべて、悠翔にそっとささやきかけた。
「瑠音ちゃんって、何者なの?」
どきり、とした。彼女たちが人間ではないことがばれてしまった――その証拠は先ほどの体育の時間で充分だけれど、悠翔はどう反応すればいいのだろうか。
「あんな記録出せるんだったら、推薦でスポーツ強い学校とかに行っててもおかしくないのに、なんでこんな、普通の高校に来てるんだろう」
「あ、そっちか……」
悠翔は思わず頭を掻いた。常識的に、瑠音たちが妖仙だ、などと考えるほうがおかしいのだ。愛菜の感覚が、まずもって普通のものだろう。
「なにが、そっち?」
いやいや、と愛菜を制し、悠翔はうなずいた。
「いや、確かにそうだよな。あれだけ走れるのに、なんでスポーツ推薦とか受けなかったんだろうな」
「ねぇ……。あんなに走れるなんて、羨ましくて仕方ないな」
そう言う愛菜が本当に羨ましそうだったので、悠翔は首をかしげた。
「鶯谷さんって、陸上部なの?」
愛菜でいいよ、わたしも悠翔って呼ぶから。そう言い置いて、愛菜は続けた。
「中学校のときはね。でも、高校でも入るかはわからない」
「どうして?」
尋ねると、愛菜は少しさみしそうな顔をして言った。
「記録が伸びないの。十三秒までは行ったけど、それ以上、全然伸びなくて。高校生になったし、もう陸上はやめようかなぁ、って」
「百メートル十三秒って、それだけですごいけど」
悠翔は、本気で感嘆した。勉強もスポーツも、あくまでも人並みでしかない悠翔にしてみれば、それほどの記録が出せるということはものすごいことなのだけれど。
愛菜は肩をすくめて笑った。かわいらしい印象の彼女の、このアンニュイな表情は悠翔をどきりとさせるものがあって、悠翔は思わず彼女から目を逸らせてしまう。
「瑠音ちゃんくらい走れたら、迷わず陸上部だけどね。瑠音ちゃん、陸上部の勧誘来るだろうね」
「まぁ……そうだろうな」
自分が陸上部のメンバーでもそうする。瑠音を中心に固まっているクラスメイトの中にも、それが目的の者も少なからずいるだろう。
「わたしも、勧誘受けるくらいだったら……」
ぽつりと愛菜は言った。そしてぶんぶんと首を振ると、悠翔に向かって笑顔を見せた。
「たぶん、もう陸上はしない。高校では、書道部とか茶道部とか、おしとやかなほうにいってみようかなぁ」
「似合うと思うよ」
本心からそう思ったことを言うと、愛菜はまたアンニュイな笑みを見せる。そんな表情にはどうしても弱いのだけれど、愛菜のような美少女の笑みとなると、いつまで見ていてもいいものだと思ってしまう。
「悠翔は? なにかクラブに入るの?」
愛菜は、話題を逸らせるように尋ねてきた。愛菜はそれ以上クラブのこと――陸上のことを話していたくはないのだろうと、悠翔は素直に愛菜の問いに答えた。
「わかんない。俺は、別に得意なこともないし……中学のときは野球やってたけど、万年補欠だったしなぁ」
「へぇ、野球」
愛菜は特に野球には興味はないらしく、無難な返事をした。
「ここって、野球強いのかな」
「いや……そんなことないと思う。少なくとも、甲子園に行けるほどじゃないはず」
「甲子園って、悠翔の基準は高いなぁ!」
弾けたように愛菜は笑った。陸上への複雑な思いを忘れたかのようなその笑いに、悠翔もほっと胸を撫で下ろす。
「あ」
チャイムが鳴って、次の授業の開始を知らせる。愛菜は「じゃあね」と言って自分の席に戻る。瑠音を囲んでいた者たちも、教室に散らばっていった。
そちらを見るともなしに見ていた悠翔は、瑠音と目が合った。彼女はどこか膨れたような顔をしていて、悠翔と目が合うと、あかんべぇをされた。
「な、なんなんだ……」
そしてつんと顎を逸らせると、もう悠翔のほうは見なかった。