トラベリング!
短編3000文字シリーズ第12弾
「あの、だ、抱きしめてください!」
言った後であたしは恥ずかしさで溶けてしまうんじゃないかと思った。
またやってしまった、と後悔が襲ってくる。最後の最後まで失敗だらけだ。
卒業式が終わり、もうすぐいなくなってしまう先輩を必死に探して、やっと見つけたその背中に、決死の想いで声をかけた。その第一声が、これだ。
心臓が頭の中で踊っている。先輩の顔が怖くて見られなかった。
どんな顔してるの?
嫌な顔?
困った顔?
それともいつものように優しく笑ってくれてる?
俯いたあたしの目に先輩の足元が見える。ゆっくりと踵を返して振り返る。その動作の一つ一つがスローモーションに見えて、心臓が際限なく高鳴った。
初めて先輩を見たのは入部の挨拶の時だった。中学の3年間練習に励んだバスケを高校でも続けようと選んだバスケ部に先輩はいた。
第一印象は、さえない先輩。バスケ部なのに、背は中の上。メガネをかけていつもぼさぼさ頭で、練習中もボーとしてて、当然プレーも他の先輩がたに比べると全然ダメだった。
初めて声をかけられたのは、入部して一カ月も過ぎた頃だった。
新人の仕事は練習よりも、レギュラーメンバーのお手伝い。そしてあたしに与えられた仕事はユニフォームの洗濯だった。
「大変そうだね」いつからそこに居たのか、先輩が声をかけてくれた。「手伝おうか?」
入学間近で男の子とあまり話す機会も少なかったあたしは、恥ずかしくて、黙って俯いてしまった。
無視してると思われる、そう思って慌てて顔を上げると、もう先輩の姿はなかった。
練習終わりにおずおずと謝りに行ったら「鮎子ちゃんはかわいいね」と笑いかけてくれた。嫌われたと思っていたのに、予想外の反応だった。
さえないくせに先輩の微笑みには爆発的な破壊力があって、半年も過ぎるとあたしの目は自然と先輩の姿を追うようになっていた。
先輩と付き合えたら、部活帰りに一緒に買い物して、休みの日には一緒にご飯食べて、映画見て、公園でおしゃべりして、で、帰り際に「離れたくない」って抱きしめてもらう。先輩の姿を見てはあたしの妄想は膨らむばかりで、練習にも身が入らなくなっていた。当然そんな調子でバスケが上達するはずも無く、あたしはどんどんレギュラー候補から外れていった。
先輩に彼女がいるって聞いたのは秋が終わりを迎え、ユニフォームを洗うのに水が冷たく感じる頃だった。
「あの高橋さんに彼女がいるんだって、こないだ女の子と一緒に歩いてるのを見た人がいるらしいよ。意外じゃない?」
まるで大スクープをモノにした記者のように友達が嬉々として話しかけるのをあたしはすごく遠い所から聞いている気分だった。足元がふわついて、友達の言葉はそれ以降何一つ入ってこなかった。
「先輩に彼女がいる」
その言葉が頭から離れなくて、悲しさよりもショックの方が大きくて、何度も眠れないまま朝を迎えた。
最悪だったのは、その場面を見る機会を神様があたしにくれたこと。そんなお願いした覚えもないのに、下校途中にあたしの目は、楽しそうに女の人と歩いて行く先輩を捕えたまま離さなかった。
『付き合ってください』
いつか伝えようと心に決めたあたしの想いは、伝える機会を失ったまま大きな重りとなって心の奥底に沈んでいった。何も始まらないまま恋が終わりを迎えた。――と、思っていた。
それは何の前触れも無く訪れた。
3年生が部活に来なくなって、自棄気味に練習に打ち込んでいたあたしがレギュラー候補の上位に入った頃、先輩が怪我をしたと男子部員が話しているのを聞いて、考えるよりも先に足が動いていた。慌てて保健室に駆け込むと、足に包帯を巻いた先輩が、びっくりしながらいつものように優しくほほ笑みかけてくれた。
「友達とふざけてたら階段から落ちちゃってさ」と痛々しく巻かれた足首の包帯を触って、捻挫だって、と笑った。
「歩けるんですか?」
そう訊ねると先輩は、右手に持った携帯をポケットにしまいながら「一人じゃ無理だから、姉さんに迎えに来てもらうことにした」と笑った。
何のことはない。あの時先輩と楽しそうに歩いていたのはお姉さんだったのだ。迎えに来たお姉さんはとても綺麗で、大人な感じがした。
思いがけず心の底に沈んだはずのあたしの恋は急上昇して、今まで諦めていた分、前よりも大きくなって心を覆った。だって気がついたら卒業まであと一カ月しかないもん。
もう立ち止ってなんかいられない。会えなくなる前に、あたしの顔忘れられちゃう前に、この想いを伝えなくちゃ。
卒業式が終わって、卒業生たちが校門の前に集まっているのを校舎の中から眺めながら、それでもあたしは迷っていた。行かなくちゃと思えば思うほど足が動かない。
まごまごしながらげた箱から靴を取り出すと、もうだいぶいなくなった卒業生の中に先輩の姿が見えた。
最後のチャンスだ、と声が聞こえたような気がした。でも足がすくんで動かない。踏み出そうとしてもなかなか一歩目が踏み出せない。先輩はどんどん遠くへ行ってしまうというのに。
自分を奮い立たせてようやく決心したあたしは靴のかかとを履くのも煩わしくて、踵を踏んだまま先輩の消えた方向へと走り出した。
迷ってるうちに見えなくなってしまった先輩を追いかけて、足は今までにないほど早く動いた。息が上がって、膝から下が悲鳴を上げそうになる。
もういないよ。遅かったんだよ。と弱い自分が諦めを持ちかけるのを振り払って、止まってしまいそうになる足を必死に動かす。
先輩と行きたかったファミレスを通り過ぎ、先輩と来たかった映画館を通り過ぎ、先輩とお話ししたかった公園が見えた頃、ようやく先輩の背中を見つけて、最後の気力を振り絞って追いかける。
「せ、先輩!」
息も絶え絶えに先輩の背中に向かって今こそ想いを伝える。
で、あの一言だ。
恥ずかしさで死んでしまいそうだった。ホントに言いたかったのは「好き」だったのに、あたしの口から飛び出たのは「好き」を通り越して「抱きしめて」だった。
恥ずかしすぎて顔を上げられない。火が出るんじゃないかと思うほどに顔が熱くなって、何も考えられなかった。
ゆっくりと振り返る先輩の足元が見える。あたしの心臓はこれ以上ないくらいに高鳴って、そんなに鳴ったら止まってしまうと、思った。
振り向いたまま何も言わないのはなぜ?
怒ってる?
驚いてる?
それとも呆れてる?
恐る恐る顔を上げる。ゆっくりと先輩の上半身が見えて、その先にあるはずの先輩の顔が徐々に見えてくる。
先輩はいつものように優しく微笑んでいた。
「鮎子ちゃんは、やっぱりかわいいね」
先輩の声は限りなく優しくて、その微笑みはあたしの疲れを一瞬で癒してくれた。
先輩がゆっくり近づいてくるのをあたしは何も考えられずにただ見ていた。どうして近づいてくるのかも解らないまま、靴のつま先が触るほどの距離に先輩の胸が見えると、あたしの体は優しく包み込まれた。
「これでいい?」
耳元で先輩の声が聞こえて、あたしの心臓はホントに一瞬止まってしまった。
「よかった、ずっと鮎子ちゃんの事探してたんだよ」
先輩が体を離してあたしの顔をじっと見つめる。息がかかりそうなくらい近くに先輩の顔。
「今日鮎子ちゃんに会えたら言うつもりだった言葉があるんだ、短いから聞いてくれる?」
まっすぐ見つめる先輩の瞳にあたしは吸い込まれる思いでその後先輩が言ったことをよく聞き取れなかった。
「好きだよ、鮎子ちゃん」