第五話
「さてぇ。これからどうしようかねぇ」
事情聴取を終えた比留間は今、権蔵の部屋の前にいた。高級そうな木製の扉には『keep out』と書かれた黄色いテープが張り巡らされ、入る物の侵入を拒んでいるようだった。
舌なめずりでしてるかのような口調だった。しかも、どこから取り出したのか、白い手袋を着用している。
「ではでは、参ります〜」
比留間が扉の取っ手に手を掛けた、正にその時、
「何してんすか?」
背後から、気の抜けた声が聞こえた。高橋である。比留間は特に驚きもせず、背中を見せたままの姿勢で取っ手を握った。
「警察に変わって、現場検証」
「え!?」
どこかうわずっていて嬉しそうな声と、素っ頓狂であっけらかんとした感じの声。
高橋が呆けた表情で固まっているのもつかの間、比留間は扉を開けた。観音開きの扉は、それ相応のきしみと共に開け放たれる。中から漂う品の良い木材の香り。それが調度類から発せられる物であると判断するのに、さほど時間は掛からなかった。
その時、また新たな声が響いた。今度は高橋と違い、きびきびとした感じの声だった。
「おいおい。勝手に入るな!」
二人が勢いに溢れた声に驚き振り向くと、そこには鑑識の一人が立っていた。身の丈は高橋並み。しかし、がっしりとした筋肉質の男で、一目で熱血タイプであることが伺えた。
「ほら、どいてどいて。現場は鑑識の聖地なんだよ。部外者立ち入り禁止」
ずけずけと二人の間に割って入り、比留間を押しのけて取っ手の主導権を奪うと、有無を言わさずに扉を閉めた。
「はいはい、さっさとここから離れてね。ここには入れないよ」
二人を押し返し、扉の前でふんぞり返って仁王立ちする。
「ほうら、やっぱり怒られる」
高橋が呆れかえった口振りで比留間に向けて言う。その言葉を掛けられた比留間といえば、難しい顔つきで宙の一点を睨んでいた。眉間には、尋常に無いくらいの皺が寄っていて、実年齢よりも十歳は老けた印象がある。
「どうしたんすか?」
「何か。何か引っかかる……」
手を顎にあて瞑目し、必死に何かを思い出そうとしているように見えた。
難しい表情で立ち尽くす比留間と、それに寄り添って突っ立つ高橋。そして、熱血鑑識官がそんな二人に訝しげな視線を送っている。
廊下に変な空気が漂ってからややあって、比留間は熱血鑑識官に詰め寄った。しかし、眉間の皺はそのままで、はっきり言って不気味だった。
「な、何か……?」
異質なオーラを前にたじろぐ鑑識官。そんな彼をよそに、比留間はその顔をじぃっと見詰めた。
「むむむ……」
「一体、何ですか……。ここには入れませんよ」
「!」
記憶の堂々巡りに終直点が見えたのか、すっかり細くなっていた比留間の目が、くわっと見開かれた。それと同時に、鑑識官が更にたじろぐ。
「お前あれだろ! 『推研』の赤川!」
どうやら、熱血鑑識官は比留間の旧知の人間らしい。赤川と称された男を指差し、何年かぶりにであった友人に会うような、すっきりと晴れ渡った表情で声を張り上げる。あまつさえ、指をパチンと鳴らす始末だ。
こうなると鑑識官の方もたじろぐ訳にはいかず、何とか思い出そうと記憶をひねり出す。小さな声で『推研』だの『え、誰?』だのと呟いている。その間にも、比留間は赤川の顔を覗き込んでいた。
「あの、もしかして、比留間先輩ですか?」
ひねり出した記憶の断片を口にする。しかし、それだけで比留間は良かったようだ。
「そうだよ! 比留間だよ。いやあ、久しぶりだなぁ!」
力強くガッツポーズを作り、彼の拳が何度も宙を横切った。
「あ……、あの……」
「ん?」
その場で浮きに浮いている自分の立場が居た堪らなくなったのだろう。高橋は申し訳なさそうに声を絞った。
「二人は、一体どういう?」
彼は、自分の中で渦巻く疑問を修正したり脚色したりせず、ありのままストレートにぶつけた。相手は無論、比留間である。
「ああ。俺と赤川は、大学の推研……。推理研究同好会の先輩後輩なんだ」
「なるほど」
高橋は、もやが消えたような、晴れ晴れとした表情でうなずく。
そんな彼を尻目に、比留間は大学時代の思い出話にふけっていた。
「んにしてもよ。これまで元気だったかい?」
営業用の笑顔も、大人の世界の礼儀作法も見られない。比留間は完全に童心に帰っているようである。
「はい。でも、比留間先輩が中退した時はビックリしましたよ」
「いやいや、それはお前だけじゃないさ。俺もさ、お前が鑑識になって、それも久々の再会が仕事中って事に驚いてる」
「そういえば、先輩の今の職業って何ですか?」
「おお、これよこれ」
比留間はどこからともなく名刺を取りだし、慣れた手付きで赤川に差し出した。
「なんでも屋……」
赤川は名刺に書かれた比留間の職業を、目で追い声に出した。次の瞬間、名刺と向き合っていた彼が顔を上げると、その顔には懐疑の念が宿っていた。
すると、比留間は待ってました、と言わんばかりに、自分の今の境遇について語り出す。
「大学を中抜けして直ぐにさ、それを始めたんだ。安いけど汚いテナントビルでね」
「へえー。でも、先輩らしくて良いですね」
「そうか? あっ、そうそう」
比留間は振り向きざまに、依然あっけらかんとしたままの高橋を指指す。
「こいつは俺の部下の高橋」
赤川は比留間ね指の先を見る。そこには、当然の事ながら高橋が突っ立っていた。
「ど、ども」
高橋は反射的に会釈する。すると、赤川もそれに倣った。
「さてさて、それでは本題に戻ろうか」
二人の間を割るようにして、何かを思いだした比留間は、大仰な口調で言う。赤川と高橋は、ほぼ同時に比留間の方を向いた。
「ここに入れてくれ。ついでに現場検証もさせてくれ」
部屋の扉を指差し、どことなく気軽である。『煙草を吸ってもいいかい?』と頼む姿に似ていた。
すると、赤川は職務に対する熱意が戻ったのか、この場に登場した時と同じ顔つきになる。ただ、相手が大学時代の先輩であると言うことで、彼の言葉にはそれなりの敬意が込められた。
「先輩。そこには入らないでください」
「ダメかい?」
「はい。それだけは絶対にダメです。諦めてください」
「そうか……」
度重なる注意と赤川の熱気に負けたのか、比留間は大人しく退散した。
「おい、高橋。行くぞ」
別に行くあては無かったが、高橋にそう告げて歩き出した。高橋といえば、そんな比留間に唯々諾々と従う。
「残念だったなあ……」
比留間は数歩歩いた所で立ち止まり、天井を見上げる。その表情には、思い通りにならなかった事への悲しみや絶望の類の他に、妙な自信が宿っているようでもあった。それを裏付けるように、口の端がわずかに吊り上がっている。
「?」
赤川は比留間の行動の意味が分からず、扉の前できょとんとする。
「……」
しばしの沈黙。その間、比留間はずっと天井を見上げていた。悲しみとも絶望とも期待ともとれない、曖昧な表情のままずっとである。
そして。
「九月……、七日……」
重々しく。まるで、その言葉を発するのを、面倒臭がるかのように言った。消え入りそうな、弱々しい声だった。
「あの時、まさか君が――」
「はい! はい! わかりました! 先輩、ささ、どうぞ」
赤川は比留間の言葉を遮る様に声を荒げたと思った矢先、彼自ら扉を開けた。声はうわずり、顔中汗だくで、とても必死そうな顔つきであった。扉を開けきると脇に流れ、ガードマンの如く直立する。どうやら、『九月七日』は、赤川にとってかなり壮絶な日だったのであろう。
比留間は扉が開かれた事を確認すると、不気味な笑みを浮かべる。扉の方に向き直るや否や歩き出した。赤川の隣を通過する際、
「忘れたりはしないよ。まさか――」
「どうぞ。好きなだけ現場検証をなさって下さいませ」
またも、比留間の言葉を遮るように怒鳴る。自分でも思い出したくない過去があるようだ。全身を硬直させて棒立ちする姿は、それと格闘しているようにも見えた。
「何があったんですか? 九月七日に」
高橋が比留間に訊く。すると、比留間は素っ気なく返す。
「さあな。でも、あんまりこれを使うなよ。可哀想だ」
優しさか、それともおちょくりかどうか解らない言葉で返した。
その時もずっと、赤川は硬直していた。




