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永遠





 湯上がりの黒髪は、絹よりなお重い。

 目の前に垂れる濡れた髪へ香油を落とし、目の細かい串を通していく。


 毛先から、少しずつ。千の夜を数えたわけでもないのに、わたくしの指はもう、この髪の癖を全部覚えている。


「んー……」


 膝の上に座ったヴィータが、猫のように背を丸めて目を閉じている。


 寝間着の襟から覗く首元は、今夏より少しだけ血色がよくなった。ひと月の入院と、わたくしのすまーとな三食で、ようやく人並みの体温になってきた身体。

 揚げ物を封印させて正解だった。やはりあの食生活は不健康だと思う。


 耳を澄ませば、秋の虫の声がする。


「そういえばヴィータ、聞いてくださいまし」

「んー?」

「今日、エリス様に呼び止められましたの」


 櫛を動かす手は止めない。


「執行機関の、試験を受けてみないかと」


 櫛が、ひと梳きの分だけ、髪の中で止まった。


 わたくしの手ではない。

 ヴィータの首の角度が、ほんの一度だけ変わったのだ。


 執行機関。

 <叡智の学堂《アルカヌム・マギステル》>が抱える、たった四つの席。

 超越者専用の処刑執行部隊。人の理を踏み越え、人心を乱す超越者や、天災と見紛う原生種を借り、学堂へ踏み入る侵入者を始末する。この学園の最終解決機関。


 一人一人が天災級。

 戦争という概念を単独でひっくり返せる、目の前のヴィータですら、その第四位。


【聖都】の聖騎士も、帝国が誇る<魔剣隊>も、比較の土俵にすら上がれない。


 リヴェータ学園長が動かせる、地上最強のジョーカーたち。


「そう」


 ヴィータは、目を閉じたまま言った。

 

「いいと思う。ろーれったは、つよい。すいせんが来るのは当然のこと」


 平坦な声。いつも錬金科で聞く、なんでも肯定する声。


 ……ふうん。


「よろしいんですの?」

「うん。ろーれったのしたいことをするのが、いちばん」


 言い終えるや否や、ヴィータはするりと立ち上がった。


 髪は半分濡れたまま。梳きかけの毛束がわたくしの手元からこぼれ落ちる。


 とてとて、と足音が停涼庫へ向かい、扉が開いて、冷気が漏れた。


 ……逃げましたわね、この人。


「アイス、たべる?」

「話を逸らそうとしても無駄ですわよ」

「たべる?」

「……いただきますわ」


 ソファの背もたれに身を預けたわたくしのところへ、彼女が戻ってくる。

 

 当然のように、わたくしの腹の上に頭を乗せて、寝転がった。


 重くはない。この人の体重は、いつまでたっても軽いままだ。


「はい。あーん」


 小さな匙が、逆さの角度で運ばれてくる。

 イチゴのアイス。真下から差し出されるので、非常に食べにくい。


「……んむ」


 まあ、食べるのですが。


「おいしい?」

「ええ」


 冷たさが喉を通い、胃へ落ちていく。


 ふと思う。

 わたくし、今日何か食べましたかしら。


 朝は食べた。ヴィータの分と一緒に、スープに季節のサラダ、エッグベネディクト。


 昼は……食べていない。講義が長引いて、そのまま夕方の修練に入った。夕食も、ヴィータのぶんだけを作って、彼女に食べさせただけ。


 なのに、腹が減っていない。


 よく考えれば一か月くらいこうかもしれない。

 

 いけませんわね……。なんだか空腹を感じづらいせいか、食事を摂る機会が減っていますわね。これではヴィータに偉そうなこと言えませんわ。


 食欲はある。今、口に入れたアイスは確かにおいしい。味も冷たさも、以前のまま。なのに、食欲はかけらも沸かない。


 ……奇妙な感覚だった。

 

 まあ、いいでしょう。

 源流能力に目覚めてから、身体の勝手が変わったのも事実。魔力の巡りも、睡眠の深さも、動きのキレも、何もかも。そのうちのひとつだろうと、わたくしは思うことにした。

 思うことにして、今は130センチの小人に集中する。


「で、ヴィータ。何が気に入らないんですの」

「…………」

「白状なさいまし。あなた、口では賛成しておいて、内心反対しておいででしょう」


 無言の匙が、二口目を運んでくる。

 返事の代わりに、口へ突っ込まれた。


「……むぐ。ごまかされませんわよ」

「……ろーれったは、するどい」

「あなたがわかりやすいだけですわ」


 ヴィータは、わたくしのお腹に頭を預けたまま、ぼうっと天井を見つめていた。

 やがて、ぽつりと。


「執行機関のおしごとは、たいへんだよ」


 小さな声だった。


「あいては超越者。ぜんぶ、理不尽。魔法がきかないやつ、岩をばくだんにかえるやつ、斬れないやつも、死なないやつもいる。……ろーれったはつよい。つよいけど。……いたいおもいを、するかもしれない」


 わずかに、赤い瞳がわたくしを覗いた。


「ろーれったが傷つくのは、いや」


 ——ああ。

 この人は本当に。

 いつだって、そればっかり。


「それを言ったら、ヴィータだって傷つきますでしょう」


 手にぬるい温風の魔法をまとわせ、彼女の濡れた髪に手櫛を通す。


「当機はへいき」

「へいき、じゃありませんわ。ひと月前、腕も足もなかった人が何をおっしゃいますの」

「あれはなりゆき」

「なりゆきで腕がもげてたまりますか」


 髪をひと頻りなで終え、髪を完全に乾かす。


 魔法を解く。

 小さな匙が、わたくしの口に運ばれていくのを、唇で受け止める。


「ヴィータ。ひとつ確認しますけれど」


 ぐ、と彼女の頬を摘まむ。


「まさかとは思いますけど。——自分が傷つく分には構わない、だなんて。そんなバカなことを考えてはいませんわよね?」


 匙が、止まった。


 露骨だった。

 あまりにも、わかりやすかった。


 イチゴのアイスを乗せた匙が、わたくしの口元へ運ばれかけたまま、宙で完全に停止している。


 赤い瞳が、すう、と横へ流れた。


「……………………」

「ヴィータさん?」

「……当機は、その。ヴァンガードに、乗るから」

「ほお」

「ぶれす・れすは、じょうぶ。装甲もあついし。【生命の歌】もあるし、ほかにも迷宮特典はたくさんある。だから、当機はへいき。ろーれったは、生身だから、あぶない。ごうりてきはんだん」


「なるほど、ずいぶん素敵な考えですわね。では聞かせていただきますわ。その合理的判断とやらができる方が、生身で聖教国へ密航した挙句、罠で痛い目を見たことがあるそうですわ。どこの誰か、わかりますかしら」

「…………………………」

「返事は?」

「…………とうきです」


 わたくしは、白い目を彼女へ向けた。


 もう、この人は。

 あの決闘の日から、ひと突き。頭を下げさせて、泣かせて、二度としないと誓わせても、根っこのところが何ひとつ治っていない。


 自分の価値は、他人の中にしかない。

 自分の身体は、目的のための道具。


 十八年で刻まれた悪癖は、ひと月やそこらで消えたりはしない。わかっている。


 だから、わたくしがずっと隣にいて、わからせてやるしかない。上書きするしか、これは治るまい。


 ……なるほど。

 なるほど、そういうことでしたら。


「……執行機関、受けてみようかしら」

 

「え」


「本気で考えますわ。あなたが出撃する際に、無茶しないように。あなたが出撃する死地に、わたくしがいられるように」


 ヴィータの目が、まるくなった。


「だ、だめ。それは、ろーれったが」

「危ない? ええ、危ないでしょうね。でも、あなたを一人で行かせるほうが、わたくしにとっては危険ですの」


 つまんだ頬を、むにむにと引っ張る。


「わかりまして? あなたの安全と、わたくしの安全は紐づいておりますの。もしもヴィータが危ない真似をするなら、わたくしは執行機関に入ります。ヴィータが傷ついた分、わたくしも自分を傷つけますわ。わたくしだけ助かる選択肢はありませんのよ」

「……りふじん」

「なら、もっと自分を大切になさい。あなただけの身体じゃありませんのよ?」

「……わかった。むちゃしない。だから、執行機関は考えなおして」

「よろしい。善処しますわ」

 

 ひとまずは、こんなところだろうか。


 ヴィータは、しばらく黙った。

 それから、伸ばした指で、わたくしの頬をつんつんと突き始めた。



「…………なんですの」

「ろーれったのほっぺた、やわらかい」

「やめなさいな」

「もちもち」

「——はい! 就寝の時間ですわよ!」


 勢いよく上体を起こし、腹の上の小人を抱き上げる。


 危ない。あのまま、もちもちされていたら大変なことになっていた。

 かわいいと一緒に胸から上がってきた衝動のままにヴィータをむちゃくちゃにしていた。


 抱き上げた彼女の体温。

 いつもどおり、軽い。いつもどおり、ほんの少しだけ体温が低い。


 抗議のつもりか、腕の中で足をばたばたされるのを無視して、寝室へ運ぶ。


 ロフトの下の、ふたりの寝床。

 彼女を転がす。毛布を被せ、隣の潜り込むと、彼女はすぐに丸くなってわたくしの胸元に額を寄せてきた。


「ろーれった」

「なんですの」

「おでこ」

「はいはい」


 こつん、と。

 額と額を、合わせる。

 あの門前の朝から、これが就寝前の作法になっていた。


 あたたかい。

 ひと月前、決闘場の血だまりで冷たくなりかけていた人が、今。わたくしの額の下で、確かに温かい。


 その事実だけで、胸の奥が、じんと痺れる。


「おやすみ、ろーれった」

「ええ。おやすみなさいませ、ヴィータ」


 規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、一分もかからなかった。


 わたくしは、その音を聞きながら目を閉じる。


 ——今夜も、眠気はあまり来なかった。





 ※※※






 翌朝。

 食べ終えた朝食の皿を片付けていると、ヴィータが黒いコートに袖を通し始めた。


 鴉のエンブレム。執行機関の装い。

 錬金科の藍色の制服とは違う、執行機関の制服だった。


「おしごと、いってくる」

「ええ。行きますわよ」

「え」


 わたくしはすでに、バトルドレスに着替えていた。


 背にはバックリボルバー。サンセットの銃身を、五本すべてに挿してある。


「な、なんで」

「なんで、ではありませんわ。あなあを単独で送り出す、という判断が信用できませんの」

「……あれは」

「極秘任務でしたっけ? リヴェータ学園長から?」

「……………………」


 ヴィータの唇が、ぷうと尖った。

 困り顔である。珍しい。この人が明確に困った顔をするのは、月に一度あるかないか。


「学園の権限がどうとか、部外者がどうとか。そういうお話でしたらわたくしが学園長に直談判いたしますわ。わたくし、これでも今、学園長に対して前回の一件で大きな貸しを作っていましてよ?」


 わたくしの事情や心情はさておきとして、前回の件では大きな貸しを作っている。

 私兵戦力である執行機関第四位の救出。プレアデス家の悲劇を利用し、イフィゲネイアを暴く剃刀としての役割を引き受けた。


 協力である以上、実利が発生するのは当然。

 それとなく貴族的にリヴェータ学園長へ伝えたとき、嬉しそうにうなずいていらしたもの。


 ……どこまで読んでいるのかわからないのが、怖いですけれど。


 銀の聖女の異名を持ち、遠く離れたプレアデス領まで名を轟かせた善人。二千年前の大戦争、『五年戦争』 にて伝説的な君主であるアルフェウス王と共に神獣軍を率いて人類を立て直し、西方連合を建国した英傑の中の英傑。九偉人の中の、第二位。

 海千山千の貴族や司教連中を相手しながら、善であることを広告できている彼女の手腕には、空恐ろしいものを感じる。



 と、考え事をしていると。

 ちりん、と。


 よく通る呼び鈴の音が、玄関に鳴り響いた。


 顔を見合わせる。

 宅配物だろうか。こんな朝早くにこの部屋を訪ねてくる人は限られている。


 サンセットを片手に握ったまま、扉を開ければ案の定。


「よう」


 茶色いコートの壮年が、片手をあげて立っていた。


「ローグ」

「迎えに来た。ヴィータ、今日は北の学境線だ。獣性科の実験体が逃げた」

「わかった。じゅんびできてる」


 ローグの鳶色の瞳が、すい、とわたくしを見た。

 バトルドレスと、背中の銃身の光背を、上から下まで。


「……で、ローレッタ。お前が行くと駄々をこねるのも、俺の予想の範疇だ」

「駄々とは失礼ですわね」

「正論だからな。中庭に来い。話がある」


 ローグは背を向けた。

 わたくしはヴィータを見る。彼女は、こてんと首を傾げていた。


「……いってらっしゃい、ろーれった」

「ちょっと、やり返すのはずるですわよ」

「ふふ」


 ヴィータの、勝ち誇った小さな笑い。

 ぐぬぬ、と唸りながら、わたくしはローグの背を追った。




 


 ※※※





 

 学生寮の中庭は、抜けるような青空だった。


 秋の空は高い。

 鉄塔の影が長く伸びて、噴水の水面に千切れた雲が浮かんでいる。


「ほら」


 ベンチに腰かけていたローグが、なぜか売店の紙コップを差し出してきた。


「……なんですのこれ」

「マンゴースムージーだ。売店で買った。三つ買うと一割引きだったのでな」

「……はあ」


 頬を掻きながらローグが目をそらした。

 彼が嘘をつくときの仕草だ。ローグはふだん、甘いものを好んで買わない。一割引きだろうと購入しないだろう。

 おそらく、ヴィータとわたくしに渡すため、わざわざ買ってきたのだ。


 気にしなくていいのに、なんて思いながらわたくしはそれを受け取った。


 冷たい。甘い。

 ……悪くない。


 隣に腰かけると、ローグは自分の分に口をつけ、しばらく空を見ていた。


「ローレッタ。最近、食欲はあるか」


 スムージーが、喉につまりかけた。


「——なぜ、それを」

「顔を見ればわかる。俺も通った道だ」


 彼は、こともなげに言った。


「超越者について話しておく」


 風が、噴水のしぶきを運んでくる。


「超越者とは、法則を超越した生命体だ。肉体、精神、霊魂。この三つが完全に同調した状態を指す」


「同調……」


「そうだ。生命体とは本来、この三つにずれが生じる。だから、肉体が充足しきれない。肉体を維持するために食い、眠り、老いる。

 超越者になれば、そのずれが消える」


 ローグはスムージーをベンチに置き、スキットルの酒を呷る。


「同調すれば、充足しきる。食わずとも死なん。味覚は残るが、飢餓からくる食欲が消える。眠らずとも、回復が追いつく。眠りも食事も、趣味の領域になる。

 もっとも、リヴェータのようにアホほど業務を抱えていると、さすがに睡眠をとる必要がでてくるがな」


「そして」


 ローグは、鳶色の目をわずかに細めた。


「老いも止まる」


 噴水の音が、やけに遠くなった。


「ローレッタ、お前は超越者となった。自力で源流能力へ覚醒した以上、お前は悠久に至った。食うことも、眠ることも、お前にとっては無用。お前の身体に起きている変化は、そういうものだ」


 指先が、冷たくなっていくのが分かった。


 空腹がない。

 睡魔が薄い。

 傷や疲労の回復が、以前とは比べものにならない。


 全部、繋がってしまった。

 

 わたくしは。

 ローレッタ・ヴェン・プレアデスは。


 老いを知ることはない。


「……そうですの」


 自分でも驚くほど、平坦な声だった。


 誇らしくはない。

 嬉しくも、なかった。ただ、動かぬ事実が、わたくしの前に置かれただけ。十年に及ぶ修練の果てに手が届いた高みは、どこか虚しい形をしていた。


 なぜだろう。

 胸の奥に、冷たいものが落ちるような感覚があった。

 

 その正体を知覚するより早く。


「ローグ」


 わたくしの口が勝手に動いていた。


「ヴィータは。ヴィータも、超越者ですの?」




 沈黙が、あった。


 ローグは、空を見上げたまま。

 ゆっくりと、首を横に振った。


「いや」


 噴水の音が、小さく割れる。


「……なぜ、ですの。あの人は、執行機関の第四位。竜の群れを数秒で殲滅して、第三位でもあるあなたと打ち合えるのに——」

「肉体だ」


 短く、ローグは言った。


「あいつも、超越者覚醒の条件をほとんど満たしている。霊魂の出力は、常人のそれをはるかに凌駕している。精神は、あの歳にしては完成しきっている。

 ……問題は、肉体だ」



「魔力量は学生平均の十分の一未満。筋力は童と大差ない。覚醒とは、三つが同じ高さに達して初めて起きる。あいつがどれほど霊魂と精神を高めようと、その肉体は地を這ったまま」


 ローグの顔から感情が抜けていく。


「<生育>の魔法で歳月を飛ばされた代償だろう。五年、そのうえで使いつぶされていた」


 声に、どうしようもないほど苦い感情が滲んだ。


「——天寿の内に、あいつが超越に届くことは、難しいだろう」



 目の前が、白くなった。



 空が遠い。

 噴水の音も、秋の香りも、そよぐ風も。全部、異国の言葉のように遠い。


 寿命。天寿、肉体の、性能限界。


 わたくしは、老いない。

 ヴィータは、老いる。


 その意味が遅れて、頭の底に落ちてきた。


 十年後。

 三十年後。

 五十年後——。


 わたくしの隣で、あの人が。

 あの小さな体が、しわがれて、細くなって。あのきれいな黒髪が、真っ白になって。


 わたくしだけが、十八のまま。

 老いさらばえていく彼女を見つめたまま、あの人を見送って。


 千年、二千年。

 ひとりで、生き続けるのか。


「ろーれった?」


 

 舌足らずな声が、背中から届いた。

 


 振り返れば、中庭の入り口に黒いコートの小さな影が立っていた。


 朝日を背負っている。

 いつもどおりの、なんの憂いもない顔で。首を傾げて、わたくしを見ている。


 その姿が、なぜか、この上なく——遠かった。


「ヴィータ」


 名を呼ぼうとして、喉につっかえて。咳のように掠れてしまう。


「行くぞ、ヴィータ。仕事の時間だ」


 ローグが立ち上がった。

 わたくしの肩に、ローグの大きな手がぽん、と置かれる。


「ローレッタ。今日は寮に戻れ。コレトーには俺から休みの連絡を入れておく。ヴィータの様子は俺が見ておく」

「で、ですが」

「戻れ」


 有無を言わさぬ声だった。

 この人は、いつだって、わたくしの顔色からすべて読んでしまう。


 ヴィータが、何か言いたそうにこちらを見ていた。

 ローグはその肩を押して、さっさと中庭から出ていった。


 わたくしは、動けなかった。

 手の中で、紙コップが汗をかいている。中の氷が解けて、ドロドロに濃かったはずのスムージーと溶け合っている。


 甘いはずのそれは、もう、何の味もしなかった。






 ※※※




 メテオラを走らせていた。

 行先は、レイライン・ステーション。

 レイラインに乗り、鉄塔の街を抜けて、大陸の反対側へ。


 ——ひとりになりたくない、のではない。

 ヴィータと、離れたくない。


 あの人が居ない世界に、わたくしがおいて行かれる。きっと、そうなればわたくしは終わる。世界が色あせて、移ろいゆく時間についていけなくなる。

 

 想像するだけで、腹の底が冷たくなる。あの決闘場の血だまりを見た時よりも、屋敷が燃え堕ちる夜よりも、ずっと怖い。深く、暗い恐怖が、足元から背筋へ這いあがってくる。


 なら、答えはひとつ。


 不死の法を。永遠の道を、探す。

 なんとしても。わたくしを、犠牲にするとしても。






 ※※※






 書架・図書科。

 学科領そのものが巨大な図書館であり、同時に監獄でもある。


 魔導書は生きた魔法。そこんじょそこらの術式が記載された教科書とはわけが違う。ゆえに、その情報量は並みの本とは比べものにならない。

 棚のすべてに檻がある。魔導書が鎖に繋がれていて、時折、紙のこすれるような呼吸音が聞こえる。


「不死の法、ですか」


 神経質そうな学者——図書科の最高権力者、祭主。ヴァイシュ・ラヴァナ教授は、眼鏡の奥からわたくしを見た。わずかに思案し、指を鳴らせば、どこからか魔導書が飛んでくる。

 

 魔導書が目の前に置かれる。


 わたくしは、慎重に本を扱った。

 閲覧席の本を斜めに置かない。ページを指の腹でめくる。読み終えた後は、手拭いで表紙を拭いて、机の上に返す。元の場所で、元の向きで。


 この教授も、異常者だ。

 リズムを崩されると、癇癪を起してすぐに生徒や周辺にいる生き物を殺す、危険人物。<叡智の学堂>以外では、確実に生きていけなかったであろうほどの危険人物。

 だが、本を丁寧に扱うものには、驚くほど寛容だと同級生から聞いていた。


「——これでは、ないですね。病弱な人の老いをとめる魔法。あるいは、寿命そのものを伸ばす魔法を探しています」

「ありませんね」


 即答だった。


「……全世界の魔導書を識る、あなたでもですの?」

「言い方が悪かった。あなたが望むものはない」


 教授が再度、指を鳴らした。

 どこからともなく、三冊の魔導書が平石、机の上で自らページを開く。


「不老を扱った書は、五百七十二冊。私はそのすべてを読んでいます。うち四百二十冊は、命を他者から奪う類の外法。八十冊は魂を器物へ移す、成功率の極めて低い外法。残りはすべて」


 ぱたん、と本が閉じた。


「呪いの類です」


 教授が眼鏡を押し上げる。


「完全とは、停滞を含有します。不老とは、肉体と魂、精神の三位一体を意味するのはご存じでしょう。であれば、ひとつでも不完全ならば、停滞が淀みに代わり、不自然となる。不自然の末路は、怪物となるのが常。

 永遠とは、本来。我々超越者にだけ許されたもの。技術で再現するのは、困難を極める」

「では、その同調を、外から与えることは——」


「不可能に近い」


 容赦がなかった。


「肉体の器そのものを作り変えるしかない。混沌たる月の末裔、あるいは神に連なる血か、もしくは……。そうですね、変身科のリデレか、治療科のロスミスターくらいでしょうか」


 教授は、ふ、と目を細めた。


「前者ふたつは、まず見つからないでしょう。後者のふたりに、『大切な人の身体を作り変えてくれ』と頼めますか? 人格ごと『普通』に治療されるか、面白半分で爆薬に変えられるか。

 どちらでも、なかなか愉快なことになりそうですね」


「…………」


「ああ、もうひとつだけ。確実かつ、簡単な方法はありますよ」


 教授は、閉じた本の背を指でなぞった。


「優れた人間の肉を、食らうことです」


 喉の奥が、灼けた。


「その力の一部と、寿命を得られる。医食同源の類ですね。イフィゲネイアも面白いことを考えるものです。効果は本物だ。もっとも」


 眼鏡の奥の眼が、喜悦に歪む。

 この学堂における教授——。学科における最高位の存在特有の、人でなしの眼だった。


「プレアデスの噓から出た実になりますね」

 

 ……安い挑発だ。

 わたくしは、立ち上がった。

 椅子を、音を立てずに戻す。


「……もってのほかですわ」

 

 言葉が、思ったより低く出た。


「あんなもののために、あの人が化け物になるくらいなら。……あの人が、化け物と呼ばれるくらいなら」


 

 わたくしは、あの日、化け物と呼んでしまった。

 あの人を本当の化け物にする気はない。あの人に、後ろ指をさされる人生を送らせるくらいならば。

 本当に、他の道がないというのならば。


「わたくしも、一緒に死にますわ」


 最後まであきらめる気は毛頭ない。

 だが、どうしようもなく。覆せないものであるのなら。わたくしは、終わる時を共にする。


 ヴァイシュ・ラヴァナは、しばらく黙って。

 ほんの少しだけ、口の端を上げた。


「面白い。本を丁寧に扱う人は、受け答えも丁寧だ」


 彼は頬杖をつき、羅針盤型のシャンデリアを見上げた。


「まずは猶予を知るべきでしょう。次は、天体科をお訪ねなさい。寿命を測る術なら、あそこが一番だ」


「知ることは、苦しいことだ。が、苦しみを乗り越えた先の発見こそ、学問の祝福でしょうから」





※※※





 天体・占星科。

 

 南東の果て。「夜のベール」と呼ばれる術式に覆われた、常闇の学科領。

 凍結湖の上に、針のような塔がいくつも屹立している。


 地上に入り口はない。塔の周囲に浮かぶ煙突から気流が吹き上がり、それに乗って上層へと飛ぶ。


 塔の最上階。

 満天の星が、天井にも床にも映っていた。


「来たれる者よ。汝は招かれてはおらぬ」


 パペットが、口を開いた。

 手に握られた人形。腹話術による対話だった。

 主たる人は、左右対称の化粧をしたピエロ。


 占星科の祭主。

 エンデルス・エンデルム教授。

 運命視に至った、最果ての視座を持つ男。


「突然の訪問をお許しくださいませ、エンデルム教授。いけませんでしたか?」

「善きかな。招かれずして門をたたくものを、星は嫌わぬ。──リンゴは食むか、生徒よ」


 差し出された赤い実を、わたくしは受け取らなかった。


「見ていただきたいものがあります。人の寿命を」


「ふむ」


 教授は、パペットの首を傾げさせた。


「我は語らぬ者なり。語らぬことこそ最も善き実を結ぶ。それが予言というものであるゆえに」


 エンデルスはじっと、わたくしの顔を見つめる。

 わずかに空を眺め、星を見つめた後。


「…………されど、渇くものに水を与えずして、何の星見か」


 パペットが大きく頷いた。


「名を告げよ」

「ヴィータ・アルデバランです。ご厚情に、感謝を」


 教授が指を振ると、天井の星々が、一斉に動き出した。

 星が流れる。星座が幾何学的に組み替わる。銀河が渦を巻き、星雲がきらめいた。

 無数の光点が燦燦と輝き、一か所に収束していく。


 その中心に、ひとつ。

 小さく、赤い。震えるように瞬く星が浮かんだ。


「ああ」


 教授の声に悲しみが混じる。


「…………見よ。これは、あまりに無理を強いられた星である」

「どういう意味ですの」

「聞け、生徒よ。迷える子羊よ。その魂の火は、輝ける星のごとし。されど、これの星躯は、あまりに小さい」



 パペットの指が、赤い星をそっと指した。


「大いなる火を、小さき灯篭に押し込めたのだ。ゆえに灯篭は内より焼かれ続けている。生まれ落ちた、その日より」


 わたくしは、拳を握った。


「短いのは、覚悟していました。ヴィータは、あとどのくらい生きられますか」

「……真に、訊くか」

「聞きます」


 パペットは、深く息を吐いた。

 そして、告げる。


「──二十。あるいは、三十」



 わたくしの世界から、音が消えた。



「身を養い、健やかに歩みて三十。務めに身を焼き続けるならば、二十にも満たぬであろう。…………それが、彼の器に定められた量りである」



 二十年。

 わたくしと同い年の彼女は、三十八。

 三十年でも、四十八。


 人並みの寿命にすら、届いていなかった。


「…………そんな」


 膝が笑って、仕方がない。

 凍結湖に反射した星明りが、視界の中でぐるぐると回る。


「なんとか、なりませんの。星の力で、何かの術で」

「星は量るためにあり。動かすためにあらず」


 教授は、静かに言った。


「我がなしえるのは、ここまでなり。されど」


 パペットの首が、こちらへ向いた。


「ひとつ、汝に言葉を授けよう」


 近くへ寄り、わたくしの耳もとにパペットの顔を当てる。


「遠き地にのみ、汝の望むを求むるなかれ。

 見よ、汝の足元にあるものを手繰れ。

 その枝に滴る果実は、求めし物よりなお甘く、

 その甘きこと、久しく汝と共にあらん」


 教授は、手のりんごをしゃく、と齧った。


「さて。我は眠る。星とて、休むことはある」


 ピエロは、パペットごと椅子の背に沈みこんだ。


 一礼し、わたくしは茫然としたまま、塔を下りた。



「足元に、あるもの……?」


 凍結湖の氷に映る満天の星が、足元でゆらゆらと揺れていた。

 どれが本物の星なのか、わからなくなっていた。








※※※







 錬金科に戻ったときには、日が暮れていた。


 メテオラを押しながら、霊子街の繁華街を歩く。乗る気力すらなかった。


 二十年。

 二十年。三十年。二十年。


 頭の中で、その数字だけが反響し続けている。


 図書科にはない。占星術でもどうしようもない。イフィゲネイアは論外。器の作り替えは博打。


 ──足元にあるものを手繰れ。


 足元とは、なんですの。

 源流能力ですの。でも、軽くしたところで寿命に干渉するのはまだ難しい。いずれはいけるかもしれないが、それこそ悠久の時を要する。

 では、足元とは、いったい──。



 ふらふらと歩いていると、看板の灯りが目に入った。



『レンタル映像店。ホロウ』


 錬金科名物、帝国渡りの映像作品を貸し出す店。ヴィータがよく通っている店だ。


 気づけば、ふらふらと店に入っていた。「らっしゃっせー」という店員のやる気のない声が木霊する。すこしつん、とする、洗浄剤の匂い。


 ……なぜ、この店に入ったのか。

 

 自分でもわからない。ただ、ヴィータを思うと、なんでか無性に入りたくなった。



 薄暗い店内。並んだ映像結晶の背表紙を、意味もなく指でなぞっていく。

 恋愛。冒険。料理。ロボット。


 そして。


 棚の一角で、わたくしの指が止まった。


『無限鋼機 ヴァルド・エターナル』


 背表紙の紹介文には、こう書いてあった。


「──愛する者の死を看取り続けた男は、ついに肉体を捨てる決心をする。永遠の鋼の肉体を得た彼が、最後に見たものは」

 

 




 わたくしの手が、震えていた。


 



 そうだ。

 肉体が滅ぶなら。誰かに、作り変えてしまえないのなら。


 わたくしの手で、作り変えてしまえばいい。


 霊魂と精神が、超越に届いているのなら。

 朽ちぬ器を。鋼の五体を。


 バカげている。荒唐無稽だ。

 でも、ヴィータの機体は錬金術で動いている。

 彼女はその脳髄として、鋼と一体になれる人だ。


 可能性が、あるかもしれない。


 わたくしは、その結晶を掴んだ。

 それから、同じ棚の類似作品を、片っ端から腕を抱えた。


 店員が驚くほどの量を狩りだして、わたくしは寮へ帰った。


 









※※※






 三日経った。

 鍵の開く音がしたのは、深夜だった。


「ただいま──」




 心臓が跳ねた。



 しまった。

 今日は明後日まで帰らないと言っていたはずですのに。任務が早く片付いたのか──!


「ちょ、ちょっとお待ちなさい! 開けないで!」


 わたくしは飛び上がった。

 床に散らばった映像結晶を毛布の下へ蹴りこむ。テーブルの上を両腕でかき集め、壁に貼った図面を引き剝がし、まとめて寝床の下へ押し込んだ。


 三十七時間ぶんの研究成果が、五秒で押入れの間に消える。


 息を整える。前髪を隠す。よし。


「──お、おかえりなさいまし、ヴィータ」


 扉が開いた。


 黒いコートの小人が、そこに立っていた。


「……………」


 赤い瞳が、ゆっくりと部屋を一周した。


 床。テーブル。壁。寝床。

 最後に、わたくしの顔で、止まった。


「……ろーれった」

「な、なんですの」

「なにしてたの」


「なにって、その」


 平静。あくまでも、冷静に。


「勉強ですわ。ええ、勉強。次の単位認定課題の。……ほら、わたくし、真面目な学生ですから」

「課題、らいげつまで出ないよ」

「──予習ですわ!」


「ふうん」


 ヴィータは、とてとてと部屋の中央まで歩いてきた。


 そして、ぺたん、と床に座り込んで。

 毛布の端から、ちょこん、と顔をのぞかせている映像結晶を、ひとつ拾い上げた。


「……………『無限鋼機 ヴァルナ・エターナル』」

「そ、それは」

「全二十六話。当機、去年ぜんぶ見た。おもしろかった」


 彼女は、結晶をくるくると回した。


「しゅじんこうが、死んじゃう恋人がてんせいするのを追いかけて、じぶんの身体を鋼にするおはなし」



 わたくしは、笑顔を作った。

 たぶん、この人生で一番ぎこちない笑顔だった。


「あ、あら、そうでしたの! 偶然ですわね! わたくし、その、帝国文化の研究をと思いまして。ええ、錬金科の学生として、帝国の映像作品における錬金術の考証をですね。レポートにまとめようかと」

「ろーれった」

「近年の帝国アニメは魔導理論の描写が雑でして、そこを批判的に検証しつつ、技術の再現性を研究することは学術的にも意義が──」

「ろーれった」

「な、なんですの」


「目のした、まっくろ」



 冷たい指が、わたくしの眼の下に触れた。


「くちびる、かさかさ。三日、水も飲んでない。……ろーれったは、こういうとき、いつも同じ顔をする」


 喉が詰まった。


「ろーぐ師父と、なかにわで話してから。ろーれった、ずっと変」


「……気のせいですわ」

「図書科と、天体科にいった


「──」



 ………ずるい。



 この人は、執行機関第四位だ。

 学科領の渡航記録なんて、指先ひとつで視られてしまう。そういう立場なのだ。


「……そ、それは、その……調べ物がありまして」

「なにを?」


 赤い瞳が、まっすぐにわたくしを見つめていた。


 言えるはずが、なかった。


 あなたの寿命を調べに行きましたなんて。

 あと二十年だと告げられましたなんて。


 言ってしまえば、この人は必ず、自分を後回しにする。「当機はだいじょうぶ」と笑って、わたくしの手からその話題ごと取り上げてしまう。


 だから。

 だから、この人には、絶対に。


「………なんでも。ありませんの」


 目を、逸らした。


「本当に、なんでも。ちょっと、興味のある術式があっただけですわ。……ええ、それだけ」


 沈黙が、落ちた。

 ヴィータはしばらく、じっとわたくしを見上げていた。


 やがて。


「……そっか」


 それ以上、追求しなかった。

 立ち上がって、とてとてと近づいてくる。


「じゃあ、ねよう」

「え、いえ、わたくしはまだ」

「ねる」

「まだ途中──」



 視界が、ぐらりと傾いた。



「……あら?」


 気づけば、床に押し倒されていた。

 小さな身体が、わたくしの上に乗っかっている。


「ね、る」

「ま、待ってくださいまし。あと、少しだけ」

「だめ」



 こつん、と額を合わせられた。

 冷たい手が、わたくしの目元を覆う。


「ろーれったは、がんばりや。だから、じぶんでとまれない。………当機がとめる」


 優しい、抗いがたい魔力の流れが、脳にしみこんでくる。


 この人の、催眠の術式。まだ、人間だったころの名残が残るわたくしにとって、これは劇薬だった。三十七時間分の疲労が、堰を切って押し寄せてきた。


「あ……ずるい、ですわ」

「おやすみ、ろーれった」


 瞼が、落ちる。

 落ちる寸前。


 わたくしの頭をなでる手が、いつもよりずっと、優しかった気がした。






※※※




※※※






 当機は、眠ったろーれったを毛布にくるんだ。

 抱き上げるのは無理だった。当機の腕力には、ろーれったは重すぎる。だから毛布ごと引きずって、寝床まで運んだ。

 三回も休むことになるとは思わなかったけど。


 髪を撫でて、額の汗を拭いてやる。


 ……ひどい顔をしていた。

 目の下の隈。ひび割れた唇。ガンギマっていた目。三日、まともに水も飲んでいない。


 おおかた、ろーぐ師父もいけたから、とか考えていたのだろう。まだ、ろーれったの肉体が超越者であることに慣れていない。十八年の生活の慣性が、一か月ぽっちで抜けるはずもない。


 すう、すうと深く寝入るろーれったの髪を、優しくなでる。


 この人は、すぐこうなる。

 一度スイッチが入ると、もう止まらない。止まることを知らない。自分のすべてをぜんぶ燃べて、走り続ける。復讐に十年を費やしていた時と同じ。


「……それいじょうかも」


 何かに追われているような、焦り方。

 いったい、彼女は何を隠しているのだろう。


 当機は、寝床の下に手を伸ばした。

 押し込まれた映像結晶。図面。三十個の映像結晶。


 五秒で隠したにしては、よく隠せている。ろーれったは器用だから、こういうのもうまい。


 ……ごめんね、ろーれった。


 当機は、一番上のノートを開いた。

 

 読むまでもなかった。

 ぱらぱらとめくるだけで、内容を暗記できる。


 術式。理論。資産。棄却された案の山。


 その余白に、走り書きが残っていた。


『霊魂出力=十分に足りている(超越条件クリア)』


『課題点は器。肉体の使用限界=二十~三十年』


『どうすれば、彼女に永遠を。いっしょにいれるか』


 

 

 ……ああ。



 一瞬だった。

 一瞬で、ぜんぶわかってしまった。


 最近のろーれったの様子。ろーぐ師父との内緒話。急に増えた外出。図書科と天体科の渡航記録。


 そしてさっきの、あのへたくそな嘘。


 当機の、寿命のことだ。

 この人は、三日も眠らずに、ただ当機のことを考えてくれていた。


「…………」


 当機は、ノートを胸に抱えたまま、しばらく立っていた。


 心臓が、変な動きをしている。

 痛いのも、苦しいのとも違う。何かがいっぱいになって、内側からぐりぐりされているような感じ。


 この一年で、当機はたくさんの感覚を覚えた。


 かなしい、さみしい、うれしい。全部、ろーれったがくれたもの。


 でも、この感覚はどれとも違う。

 きゅう、って苦しくて。でも、とっても嬉しくて、あたたかい。


 まだ、名前の知らない感情。


 当機の命を、この世界の誰よりも考えてくれている人がいる。


 …………ずるいよ、ろーれった。


 そんなことをされたら。

 そんな顔で眠られたら。


 当機は。


 茹だるような火照った思考を払って、寝床を見る。

 毛布の中で、金髪の少女が。当機のいちばん、たいせつな人が、疲れ果てて眠っている。


 当機の、当機だけのために。


「うん」


 当機は、ノートやメモを寸分たがわず、同じ場所へ戻した。


「なら」


 窓の外。夜明け前の空に、青い星団が輝いていた。


「かくごを、きめよう」





※※※




 目が覚めたのは朝だった。

 寝床に、ヴィータがいない。


 枕元に、水差しと、蜂蜜を溶かした湯冷ましが置かれあった。


 ……やられましたわね。催眠をかけられてしまうとは。今後、不意打ちでも効果を「軽く」できるようにしませんと。


 喉が渇いていることに初めて気が付いた。空腹も水も不要だと思っていたが、まだ身体が慣れていないらしい。

 それを、あの人が知っていて置いていったのか。


 のろのろと起き上がり、厨房へ立つ。


 ベーグルを焼き、玉ねぎのスープに火を入れる。ポーチドエッグを作り、サラダを盛り付ける。

 いつも通りの朝食を、いつもどおりに作る。


 ヴィータはとっくに起きていて、テーブルで待っていた。


「おはよう、ろーれった」

「…………おはようございます」

「今日は、じゅぎょう、あるよ」

「あら、珍しい。小鳥遊教授もゲームの感想でも言いたくなったのかしら」


 いつものようにヴィータはと会話を重ね、制服に着替えて登校する。


 メテオラの前に座る彼女の髪が、風になびいている。


 あと二十年で、この髪も白くなるのだろうか。

 そんなことばかりを、考えていた。




※※※





「──というわけで! やっぱり竜ってロマンなんだよ!」


 講堂に、小鳥遊教授の声が響いていた。


 ゲームの話題から入らなかったのは珍しい。いつもよりまっとうな講義になるのだろうか。

 頬杖をつき、うつらうつらしているヴィータに肩を貸しながら黒板を見る。


 黒板いっぱいに、へたくそな竜の絵が描かれている。



「見ろ! この造形! 翼! 鱗! 顎! うーーーーーん、最強って感じ。超かっけえ。何よりでかい。Breath/Bless Lesの脚部を竜爪いしたのも、ぶっちゃけかっこいいからなんだよね。姿勢制御は、まあ、あれだ! ヴィータならいけるだろ、と思って」


 周囲の学生が笑っている。

 わたくしは、ぼんやり窓の外を見ていた。


「あー……たまには真面目な講義をしてやるか。竜って生き物はな、そもそも生物学的におかしいんだよ。あ、これはエリスさんの悪口じゃないから、チクんなよ。

 竜のブレス──。竜気ってのは、神気の残りかすだ。法則を書き換える力を体内で練ってやがる。ドラゴンブレスって魔法防御貫くじゃん? あれよ。だから、素材も効果的に高価になるんだけどネ!」


 黒板の拙い絵に注釈が書かれていく。


「特に上位の竜。古竜の一種だな。あれはもう、生き物ってよりかは神格に近い。血の一滴に、ばかみてえな質の神秘が練り込まれている」




 血の、一滴。




 背筋を、何かが走り抜けた。

 

 待って、待ってくださいまし。


 わたくしは、知っている。

 その話に、聞き覚えがある。


 プレアデス家の書庫にあった、古い、革表紙の家伝。

 まだ小さかったわたくしが、お父様の膝の上で読んでもらった、家の逸話。


 ──初代プレアデス伯は、竜殺しの騎士であった。


 巨大な上位竜と七日七晩戦い、これを討ち取った。

 その際、傷ついた騎士は、渇きのあまりに竜の血を舐めた。


 初代は、二百年を生きた。


 それだけではない。

 騎士が持ち帰った竜の血を分け与えられた領民たちも、みな、常ならぬ長寿を得たという。


 だからこそ、プレアデス家の家紋には竜がいる。


 竜と、三叉槍。


 わたくしがずっと、家の誇りとして背負っていた紋章。

 子供向けの、御伽噺だと思っていた。


 だが。

 もし。


 もしも、あれが。


「──ローレッタさん?」


 気づけば、わたくしは立ち上がっていた。

 椅子が倒れる音が、講堂に響く。


「教授。質問がありますわ」

「お、おう? どしたん」

「上位竜の血に、寿命を延ばす効果があるという伝承は、実在しますの?」


 小鳥遊教授は、目をぱちくりと瞬きさせた。


「……あー、あるっちゃ、ある。純潔の高位竜の体液は、長寿の霊薬になるって説はな。強ければ強いほど、寿命が延びるって話が、文献も残ってたような……。ただ、実例は千年単位で確認されてねえよ。理由は簡単で」


 教授は、肩をすくめた。


「そんな竜、ほとんど誰も倒せねえもん」




 ──ああ。



 わたくしの顔から、笑みがこぼれる。

 三日ぶりに、心の底から、笑ってしまった。


 倒せない。ええ、倒せない。

 超越者の中でも、一握りの存在しか倒せないのだろう。


 しかも、高位の竜はめったに姿を見せない。狩れるとしても、彼の高名な《竜狩り》レンジェンスくらいでしょう。


 でも。


 この学園には、いるではありませんか。


 誰にも倒せないほど強い、現世最強の竜、


 執行機関、第一位。

 二つ名を──”世界竜”。


「教授、失礼いたしますわ!!」

「え、ちょ、珍しく俺講義してんだけ──」


 わたくしは、講堂を飛び出していた。

 視界の端で、ヴィータが、じっとこちらを見ていたような気がした。





※※※







 図書科へ渡り、ヴァイシュ・ラヴァナ教授に頭を下げて、三日寝ずに竜種に関する文献を片端から丁寧に漁った。


 結論から言えば、確信は得られた。

 高位竜の血液には、法則干渉能力が秘められている。


 これを摂取した生物の細胞は、その構造を「あるべき正しい状態」として固定される。老いとは細胞の情報が擦り切れること。

 高位の竜の血──あるいは、混沌の血を引く者の血は、それを上書きし続ける。


 ただしと文献は続いていた。


 ──竜血は、あまりに強すぎる。

 劣った器に注げば、器は法則に耐えきれず、内側から破裂する。



(小人族の、あの細い体に)


 わずかに不安が残る。

 しかし、細かいことは良い。そのための薬学、そのための知識だ。


 細けえことはいいんですの。あとは実験。そのためのシミュレーター室。

 道は、ここにある。なら、あとは走るだけだ。




 ※※※







 【天動宮 ステラ】。

 学園長の城塞たる中央都市。その一角、執行機関の詰め所。


 訓練場の中央に、そのヒトはいた。


 黒髪に、金のインナーカラー。

 肩にかかるウルフカット。着崩した軍服のコート。


 背丈はわたくしより頭ひとつ以上高い。人型でありながら、そこに在るだけで空気の質感が変わる。


 これまでにないほど、濃密な覇気を漂わせている。


 黄金の、縦に割けた瞳孔が、わたくしを捉えた。


「──お」


 こちらが名乗るより先に、その人は笑った。


「ローレッタちゃんじゃないかぁ。我(ワタシ)の誘いを蹴っておいて、自分から来るとはな。はっはは! いい度胸だ。気に入ったぞ」


 エリス=アヌマティ。

 執行機関、第一位。


 ”世界竜”。この学園の頂点にして、この星の最強。人の理を超越し、天の理をも凌駕せし覇者。


 わたくしは、膝を折った。

 

 貴族の礼ではない。

 石の床に頭をこすりつける、弱者の礼。


「エリス様。お願いがございます」

「ほお」

「あなた様の、血をいただきたく存じます」


 空気が、固まった。

 大気の輪郭が歪む。彼女を恐れた世界が、慄いているのがわかる。


「面をあげよ」


 言われるがままに、顔を上げる。

 黄金の瞳が、まっすぐにわたくしを見下ろしている。


「理由を言え。嘘はなしだぞ。我に嘘は通じないぜ」


「ヴィータ・アルデバランを、不老にするためです」


 わたくしは、抱えていた書を差し出した。


「純血高位竜の血には、寿命を固定する効果があると文献にあります。わたくしの家にも、竜血を得た初代が、二百年を生きた伝承があります。…………そして、この星で最も偉大なる竜は、あなた様です」


 言いながら、指先が震えていた。


「わたくしは、超越者になりかけております。老いません。ですが、あの人は二千年で──」


 声が、掠れた。


「わたくしは、あの人を看取りたくはありません。それは、わたくしのエゴです。差し出がましい願いであることは、重々承知しています。ですが」


 石の床に、頭をめり込ませる勢いでこすりつける。


「どうか、慈悲を。あの人に、時間を、あなた様の、尊き御血を、いただきたいのです」




 沈黙。




 やがて、頭上から、酷薄なほど楽し気な笑い声が降ってきた。


「はーっはっはっはっはっは!」


 訓練場の壁が、笑い声に含まれる圧だけで揺れた。


「よいぞ」


「──え」


「よい、と言ったのだ。血が欲しいなら、くれてやろう。純潔の竜でこそないが、ああ。純潔竜以上の不老効果を、我が血族の血は有している。何より、我はお前とヴィータを気に入っている。血の一滴や二滴、惜しくもない」


 あまっりにも、あっさりとしていた。

 顔を上げたわたくしを見下ろして、エリス様は牙を見せて笑う。


「我は敗者の守護者でな。挑むものが好きなのさ。…………その上、お前は、我に真っ向から頭を下げた。毒杯も、だまし討ちもせず。怒りを買うことを覚悟のうえで、な。そういう誠実なやつは、我は好ましく思う」


「では──」


「ただし」


 黄金の瞳が、細まる。


 空気が、鋭く凍った。


 膨れ上がったのは、殺意ですらない。

 純然たる、生命としての格の差。存在するだけで、息をするだけで世界を捻じ曲げられる、真正の神としての具現が、質量を持ってわたくしの臓腑にのしかかる。


「お前が、我に傷をひとつでもつけられたら、な」




 …………ああ。



 やはり、そう来ますのね。

 

 当然だ。この方は、そういうお方。

 ”公平”であることを信条とする。ならば、対価なき恵みは、公平ではない。


 つまり、弱者への施しではない。対等な存在として、わたくしを見ている証拠。

 

 わたくしは、立ち上がった。


 笑っていた膝は、居住まいを改めていた。


「──そのしょうっぶ、お受けいたしますわ」

 

「はっはっは! いい返事だ」


 エリス様は、腰の双剣を外し、地面に突き立てた。

 黒い曲剣と、黒い大剣。【勇者】の振るう最強の聖劍、【天璽聖劍】にも匹敵する、最強の二振り。それが、何でもないかのように床へ刺さった。


「安心せよ。権能は使わん。剣も使わん」


 彼女は、自分の首に手を当てる。

 ごきり、と音が鳴った。


「拳だけで遊んでやる。絡め手は、すべて使うと良い。罠でも毒でも、武器でもなんでも使え。卑怯? 結構結構。大歓迎だ」



「そうでもしないと、我の足元にすら届かん。人の叡智とやらを、結集させよ」



「その上で。骸の上に立つのは己だと。我に証明してみせよ」






 ※※※






 第七臨界試験場。

 霊子演算による仮想空間、街ひとつを丸ごと再現した、五キロメテル四方の演習域。


 わたくしは、大通りの端に立っていた。


 千メテル先に、黒いコートの女が、面白そうに立っている。



 背には、バックリボルバー。

 五本の銃身。デイジー・プロミネンス。マテリアルスライサー。フレア・セルペンス、アウローラ。オリュコス。


 両腰に、二丁のサンセット。

 懐には、六本の『ルファリアの狂熱』。



 準備は整えた。疲労も反動も、体重も『軽く』している。限界を超えた実力を、発揮できるはず。


 そう、開始の合図に備え──。




 


『──開始』





 世界が、消し飛んだ。



 

 何が起きたのか、わからなかった。

 

 ただ、わたくしの立っていた場所の前方三百メテルが、まるごと消滅していた。

 建物も、大通りも、地面も。半球状に抉れて、蒸発している。

 

「ほお。避けたか」

 

 エリス様が、突き出した拳を戻していた。

 拳圧。

 ただ、殴っただけ。それだけで、街区が消えた。

 

(——【罪疑彗軽】がなければ、今ので死んでいましたわ)

 

 重さを捨てた身体は、意識より先に横へ飛んでいた。源流能力がわたくしの生存本能に追いついた、その一瞬の差だ。

 

「よい反応だ。ならば、次だ」

 

 エリス様が、指を弾いた。

 空に、光が生まれた。

 球体。

 直径十メテルの、白熱した魔力の塊が、七つ。

 

「魔力砲撃だ。せいぜい、踊ってみよ」

 

 落ちてきた。

 隕石だった。

 着弾のたびに市街が消え、衝撃波が空気ごと大地を裂く。七つ。十四。二十一。数が増えていく。空が白く焼けて、地平が消える。

 

 わたくしは、飛んだ。

 棺桶を組み上げる余裕はない。フレア・セルペンスを噴かし、彗星のように空を跳ね回りながら、隕石の隙間を縫う。

 

 撃つ。

 デイジー・プロミネンスの百二十連射が、エリス様へ殺到する。

 激しく明滅し、強烈な土煙を上げた。

 全弾、当たった。

 ——傷ひとつ、つかない。

 弾丸が、皮膚に触れた瞬間に粉になっていた。

 

(魔鋼の鎧を貫く弾丸が……!)

「はは。鉛球か。こんな豆鉄砲、千発食らっても欠伸も出んな」

 

 わかっている。

 だから、次だ。

 バズーカ。アウローラ。

 対竜榴弾、六発。全弾を一点に集中させ、爆炎の中へブレードで突っ込む。

 

「ほう、よい判断だ」

 

 爆炎の中で、拳が待っていた。

 

 迎撃。

 振り下ろしたマテリアルスライサーが——刃の側から、粉々に砕けた。

 

 玉鋼とスライム合金で組まれた愛刀が、拳の一撃で、砂になった。

 

「が——ッ」

 

 衝撃が、腕の骨を通り抜けた。

 【罪疑彗軽】で衝撃の重さを殺していなければ、上半身が消えていた。

 地面に叩きつけられ、二度、三度と跳ねて、瓦礫に埋もれる。

 

「まだ立てるな?」

 

 口元にこびりついた血を拭い、立った。

 『ルファリアの狂熱』を噛み砕いて、立った。


 戦闘が、意識が溶けていく。

 二本目。三本目。

 撃った。斬った。焼いた。爆ぜさせた。

 

 十分。

 十五分。

 街は、更地になっていた。

 

 わたくしの武装は、ブレードとバズーカが砕け、火炎放射器の燃料が尽き、ショットガンの弾倉が空になった。

 

 残っているのは、小銃が一本。

 肋は折れ、右目は見えず、左腕は感覚がない。

 

 対して。

 エリス様は、汗ひとつかいていなかった。


「二十分か。よく保ったほうだな」

 

 その笑みに、嘲りは一切なかった。

 むしろ、心底愉快そうに、彼女は笑っていた。

 

「お前は強い。学生の齢としては規格外だ。武技もよく練れている。……鯉落とし、ずっと狙っていただろう?」

 

 息が、詰まった。

 

 ずっと、狙っていた。

 あの絶技だけが、わたくしの唯一の切り札だった。魂と精神と肉体を乖離させる、崩しの極み。

 だが。

 

「無駄ぞ。あれは隙を晒した者にしか届かん。ローグですら、そう簡単には我の鯉は落とせんよ……我に隙はない」

 

 その通りだった。

 二十分。一度たりとも、あの人の重心は乱れなかった。

 

「だが、お前は諦めんだろう。そういう、戦士の目だ」

 

 エリス様は、両手を広げた。

 

「——ほれ。くれてやる」

 

 わざと。

 

 彼女は、がら空きの胴を晒した。

 

 ……ああ、なんと。

 なんと残酷で、なんと公平な方だろう。

 

 これは施しではない。試験だ。

 差し出された隙に。待ち構えた、引き絞られた拳の間合いに、お前は本当に踏み込めるのかという、問いだ。

 

 踏み込めば、死ぬ。

 それが分かっていて、踏み込めるのか、と。

 

「——上等ですわ」

 

 わたくしは、笑った。

 

 地を蹴った。

 重さを捨てた身体が、砲弾になる。

 残った小銃を投げ捨て、右の掌を開く。

 

 届く。

 届かせる。

 

 二十年を、五十年に。五十年を、永遠に。

 あの人の朝ごはんを、じゃんけんを、湯船を、髪を梳く夜を。

 

 永遠に、わたくしの隣に。

 だから——!

 

「秘伝——」

 

 掌が、届いた。

 届いた、その刹那。

 

 わたくしの下半身が、消えた。

 

「————」

 

 痛みは、なかった。

 拳が振るわれた風圧だけで、腰から下が、綺麗に消し飛んでいた。

 視界が、ぐるりと回る。

 届かなかった。

 あと、指の幅ひとつ分。

 ……いいえ。

 

 まだ、届く。

 

 わたくしは、笑った。

 残った全魔力を、一点に集めた。

 源流能力で反動を殺し、体内で魔力を圧縮し、圧縮し、圧縮して。

 心臓を、炉に変えた。

 

「——お父様。プレアデスの紋は、竜と、三叉の槍」

 

 落下しながら、わたくしはエリス様の胴へ、右手を突き出す。

 

「竜を、討つための紋章ですのよ——ッ!」

 

 自爆した。

 

 閃光。

 仮想の街の、残っていた全てが白く塗り潰された。

 そして、わたくしの意識は、そこで途切れた。




 

 ※※※




 

 カプセルの蓋が開き、冷たい空気が肺に流れ込んできた。

 五体は、ある。仮想空間の外だから当然だ。

 だが、疲労と絶望だけが、現実の身体にどっしりと残っていた。

 

「……届き、ませんでしたわ」

 

 天井を見上げ、わたくしは呟いた。

 あと少しだった。あと、指一本。

 

 でも、あと少しは、届かなかったということだ。

 ならば、次はどうする。もっと鍛えるか。あと二十年で、あの方に届くのか。二十年経ってしまえば、意味がないのに——。

 

「————見事」

 

 顔を上げた。

 

 カプセルの前に、その人が立っていた。

 満面の笑みだった。

 酷薄な捕食者の笑みではない。牙を剥き出しにして、心の底から愉快そうに笑う、少女のような顔で。

 

「見事だ、ローレッタ・ヴェン・プレアデス」

「……エリス、様? ですが、わたくしは」

「ログを見よ」


 彼女が指を鳴らすと、宙に映像が浮かんだ。

 

 最後の閃光。

 自爆の瞬間を、極限まで引き延ばした記録。

 白光の中で、エリス様の右手が、爆心を払っている。

 その——人差し指の、第二関節。

 

 ほんの、わずか。

 

 鱗のような皮膚の表面が、赤黒く。

 

 焼けていた。

 

「傷、ですの……?」

「火傷だ。まぎれもなくな」

 

 エリス様は、その指を掲げて、自分でしげしげと眺めた。

 

「ふははっ。傷を負うのは二千年ぶりだ。アルフェウス以来か? 誇れ、お前は勝ったのだ」

 

 彼女は、指をわたくしの目の前に差し出した。

 

「よく踏み込んだ。よく諦めなかった。なにより——お前は最後まで、我を殺しに来た」

 

 黄金の瞳が、細まる。

 

「己の魂に嘘をつかんやつが、我は好きでな。——お前は、我の基準を上回った」

 

 エリス様は、無造作に自分の左掌を、右の爪で裂いた。

 鮮血が、溢れる。

 いや、それは血と呼んでいいのか。

 

 黄金と赤の混ざった、光る液体。触れてもいないのに、周囲の空気が軋み、床の石材が結晶化していく。

 

「ほれ、瓶を出せ瓶を」

 

 わたくしは慌てて、懐から用意していた硝子瓶を差し出した。

 とぷ、と。

 瓶の中に、竜血が満ちる。

 

「これが我の血だ。……が、これだけでは足りんな」

「足りない、とは」

「お前も文献で読んだであろう。竜血は強すぎる。アヌマティの血もあれば、尚更な。器が耐えられねば、内側から破裂する」

 

 エリス様は、あっさりと言った。

 

「あの小娘の身体では、五分と保たずに弾けるぞ」

 

 血の気が、引いた。

 

「では——!」

「まあ待て待て。手はある」

 

 彼女は、自分の指先を目元へ運んだ。

 そして、迷いなく。

 自らの、涙腺を切った。

 

「な——ッ!?」

 

 黄金の雫が、頬を伝った。

 

「我は泣かんのでな。生まれてこのかた、泣いたのは片手で数えるほど。しかし、ここまで健気に戦った戦士に、そらは惨いであろう?……ゆえに、こうして裂く方が速い。手っ取り早いだろう?」

 

 エリス様は、その雫を指で掬い、瓶の中へ落とした。

 瓶の中で、赤と金が混ざり合う。

 軋んでいた空気が、嘘のように凪いだ。

 

「血は、竜の生命そのもの。強すぎる法則の塊よ。……だが、涙は違う」

 

 彼女は、静かに言った。

 

「涙とは、竜が唯一、他者のために流す水だ。己ではなく他者を想って初めて流れるもの。ゆえに、これは我の力を馴染ませるための水になる」

 

「血だけなら、あの小娘には適合せんだろう。だが、涙を混ぜれば」

 

 瓶を、わたくしの手に押し付けた。

 

「——あの小娘の命を、老いぬものに変えられる」

 

 わたくしは、瓶を両手で握りしめた。

 

 赤い硝子の中で、黄金の光がゆらゆらと揺れている。

 これが。

 この、たった一瓶が。

 

「……ありがとう、ございます」


 わたくしの、永遠なのだ。

 言葉が、震えた。

 

「ありがとうございます、エリス様。この御恩は、必ず」

「礼はいらんさ。対価は貰ったからなあ」

 

 エリス様は、火傷の指をひらひらと振った。

 

「それに——まあ、なんだ」

 

 黄金の瞳が、ふ、と遠くを見た。

 

「我にも、隣に置いておきたいのが、おるのでな。……何があっても、絶対に隣にいてもらわねば困るのが、一人。うん、一人だけな」

 

 その横顔は。

 この星で最も強い生き物の顔ではなく。

 ただ、誰かを想っているだけの顔だった。

 

「だからな、お前の気持ちはわかるぞ。竜の勘というやつだ」

 

「——ああ、それとな」

 

 立ち去ろうとする彼女が、思い出したように振り返った。

 

「お前に、ひとつ教えておいてやろうか」

「はい?」

 

 黄金の瞳が、悪戯っぽく細まった。

 

「……いーや、やめた。黙っていたほうが面白い」

「はーっはっはっはっ!」

 

 高笑いを残して、"世界竜"は去っていった。




 

 ※※※

 

 寮に帰り着いたのは、夜だった。

 

 扉を開けた瞬間、豪快な揚げ物の音が耳を叩いた。

 バチバチ、ジュワァ、と。油の弾ける音。

 

 むわりとした熱気と、香ばしい匂いが廊下まで溢れている。

 

「ヴィータ!? また揚げ物を——」

 

 厨房へ駆け込む。

 割烹着姿の小人が、菜箸を握って、ふらふらと揺れていた。

 鍋の中では、げんこつほどもある巨大な唐揚げが、黄金色に踊っている。

 

「あ、ろーれった。おかえり」

「おかえり、じゃありませんわ! なんですのこの大きさは!」

「おおきいほうが、うれしいでしょ」

「うれしいですけれども!」

 

 案の定、彼女は次の瞬間、ぐらりと傾いだ。

 

「〜〜♪ やっぱり、おりょうり、たの——きゅう………」

「ほらまた!」

 

 倒れ込む身体を受け止め、片手で火を止める。

 腕の中で目を回している彼女を見下ろして、わたくしは大きなため息をついた。

 

「まったく……次に気絶したら、一週間サラダですわよ」

「むん……。また気絶してた。ありがとう、ろーれった」

 

 それから、いつもどおりの夜だった。

 

 二人で唐揚げを食べた。

 げんこつサイズの唐揚げは、外側がざくざくで、中から肉汁が溢れて、悔しいくらいに美味しかった。

 食後は、ゲーム。

 村づくりのゲームで、彼女の畑が順調に育っているのを眺めて、そのあと対戦格闘で四十三連敗した。

 

「ろーれったは、こうげきの前にまばたきする」

「読まないでくださいまし!」

 

「ふふん」

 

 風呂に入って、髪を梳いた。

 いつもどおりに香油を落として、いつもどおりに毛先から櫛を通した。

 いつもどおり。

 どこまでも、いつもどおりの夜だった。

 なのに、わたくしの懐の中で、赤い硝子瓶が、ずっと熱を持っていた。



 

 ※※※




 

 寝室の灯りを、落とした。

 窓から差し込む月光だけが、寝床を白く照らしている。

 

 毛布に潜り込んで、額を合わせる。

 いつもの、おやすみの作法。

 その、直前で。

 

「ろーれった」

 

 小さな声が、わたくしを引き留めた。

 

「なにが、あったの」

 

 ……はぁ。

 

 やっぱり、この人にはお見通しなのだ。

 三日間の徹夜も。図書科も、天体科も。

 今日、天動宮で何をしてきたかも、たぶん、全部。

 

 わたくしは、身体を起こした。

 膝の上で、両手を握る。

 

 言わなければ。

 言わなければ、ならない。

 

「あの、ですわね」

 

 声が、上ずった。

 

「べつに、あなたのためというわけでは、ないのですけれど」

 

 嘘だ。

「その、わたくしが、勝手に。ええ、勝手にですわ。……ちょっと、竜の血を、手に入れましたの」

 

「竜の、血」

 

「純血高位竜の血には、老いを止める効果があるんですの。エリス様に頂きましたわ。血と、涙を混ぜたものです。これを飲めば、その、肉体の時間が」

 

 説明が、途中で崩れた。

 言葉が、うまく積み上がらない。

 わたくしは震える手で、懐から赤い硝子瓶を取り出した。

 

 月光の中で、瓶の中の黄金が、ゆらりと光る。

 差し出す。

 

 ——目を、開けていられなかった。

 顔を伏せて、視線を膝に落として。

 わたくしは、精一杯の声を絞り出した。





  

「——ヴィータ」



 

「わたくしと、永遠を共にしてくださいませんか」



 


  

 言ってしまった。

 

 言ってしまってから、心臓が壊れそうになった。

 これは、エゴだ。

 わかっている。わかりきっている。

 

 永遠を生きるということは、きっと、途方もなく辛いことだ。

 終わらない生。終われない生。すべての人を見送り続けて、それでも歩き続けなければならない苦しみ。

 

 リヴェータ様の目の底にあった昏さを、わたくしは見た。

 ローグが二千年を語るときの声の深さを、わたくしは知っている。

 

 あんなものに。

 この人を、わたくしの都合で、巻き込んでいいのか。

 

 わたくしが、一人になりたくないというだけの理由で。

 目を、瞑ったままでいた。

 

 拒絶されるのが怖くて、顔を上げられなかった。

 

 やがて、暗闇の中で。

 

「こまった」

 

 ヴィータの、声がした。

 

 ——ああ。

 

 やっぱり、か。

 胸の底が、ずぶりと沈んだ。

 当然だ。当然の反応だ。こんな重すぎるものを、押し付けられて。

 わたくしは謝ろうとした。今のは忘れてくださいと、笑って誤魔化そうとした。

 その、口が開くより先に。

 

「わたしも、もうもってきちゃった」

 

 ——え。

 

 顔を、上げた。

 

 月光の中に、黒髪の少女が座っていた。

 その小さな両手に。

 赤い硝子瓶が、握られていた。

 中で、黄金の光が、ゆらゆらと揺れている。

 わたくしのものと、まったく同じ。

 

「な——」

 

 声が、出なかった。

 

「エリスさんに、もらってきたの」

 

 ヴィータは、こてん、と首を傾げた。

「まえに、いちど。外せないようじで、エリスさんの任務を変わったとき。そのごほうびを、まだもらってなかったから。……三日前に、もらいに行った」

 

 三日前。

 わたくしが、三十七時間ぶっ続けでノートを取っていた、あの日。

 わたくしが眠らされた、あの夜に。

 この人は。

 

「……あなた、まさか、あのノートを」

「よんだ」

 

 悪びれもなく、彼女は言った。

「ろーれったが、当機の寿命を、のばそうとしてるって、すぐわかった。……ろーれったは、隠しごとがへた」

「あ、あなたには言われたくありませんわ!」

「ふふ」

 

 小さく笑って、ヴィータは瓶を月光にかざした。

 

「当機、かんがえたの」

 

 その横顔は、いつもの平坦な顔で。

 けれど、月明かりの中で、ひどく静かだった。

 

「ろーれったは、超越者になる。老いない。……当機は、老いる。二十年か、三十年で、いなくなる」

 

 やはり、この人は全部わかっていた。

 

「そうなったら、ろーれったは、ひとりになる。……当機は、それが、いやだった」

 

「ヴィータ……」

 

「ろーれったに、さみしい思いを、してほしくない。当機がいなくなったあと、ろーれったが千年、ひとりで泣いてるのは、いやだ」

 

 彼女は、瓶を胸に抱いた。

 

「だから、かくごを、きめた」

 

 赤い瞳が、こちらを向く。

「永遠は、こわい。当機にも、それくらいはわかる。おわらないって、たぶん、すごくたいへん。……でも」

 

「ろーれったと、ずっといっしょにいられるなら」

 

「こわいより、うれしいほうが、おおきかった」

 

 目の奥が、ツンとした。

 

 なんてこと。

 なんてこと、ですの。

 わたくしが三日間、寝もせずに探し回っていた答えを。

 わたくしが土下座して、身体を吹き飛ばされて掴み取ってきた答えを。

 この人は、同じ夜に、同じ場所で、同じ理由で、手に入れていた。

 わたくしが、この人を失うのが怖かったように。

 この人も、わたくしを一人にするのが、怖かったのだ。

 

「ばか……」

 

 嗚咽が、漏れた。

 

「ばかですわ、あなた。……なんで、いつも、そうやって」

 

「ろーれった」

 

 ヴィータは、少しだけ姿勢を正した。

 そして、いつもの平坦な声で、けれど、ひどく真剣に。

 

「聞いてほしいことが、ある」

「……はい」

「当機は、だめだめなところが、おおい」

 

 彼女は、指を折り始めた。

 

「お片づけができない。料理をすると気絶する。体力がない。朝ごはんで、しおしおになる。動物にきらわれる。ゲームで、ろーれったをいじめすぎる。じゃんけんで、ずるをする」 

「ずるはしてましたのね!?」

 

「……それに」

 

 指を折る手が、止まった。

 

「たぶん、これからも。ろーれったを、こまらせることも、怒らせることも、たくさんあるとおもう。……ひとりで、無茶をしちゃうことも。当機のくせは、きっとすぐには、なおらない」

 

 彼女は、まっすぐにわたくしを見た。

 

「それでも」

「わたしで、いいの?」

 

 ——ええ。

 

 わたくしは、答えるより先に、その小さな身体を抱きしめていた。

 半泣きで。

 いえ、たぶん、もう完全に泣いていた。

 

「ええ、ええ! いいんですの! あなたがいいの!」

 腕の中で、彼女の身体が、少し驚いたように強張って。

「他の誰でもありませんわ! 片付けができなくても! 気絶しても! じゃんけんでずるをしても! ヴィータでなきゃ、だめなんですの……ッ!」

 

 ふ、と。

 

 背に、細い腕が回された。

 

「……うん」

 

 薄い表情に、確かな笑みが浮かんでいた。

 

「ありがとう、ろーれった」

 

 彼女は、わたくしの手から、赤い瓶をそっと取り上げた。

 そして、代わりに。

 自分の持っていた瓶を、わたくしの手に握らせた。

 

「はい」

「……これは?」

「こうかん」

 

 ヴィータは、こともなげに言った。

 

「ろーれったが当機のために、いっしょうけんめい持ってきてくれたもの。当機が、飲む。……当機が、ろーれったのために持ってきたものは、ろーれったが飲む」

 

「そのほうが、いいでしょ?」

 

「————」

 

 もう、何も言えなかった。

 

 ただ、こくこくと頷いた。

 わたくしたちは、寝床の上で向かい合った。

 どちらからともなく、腕を絡ませる。

 身体が密着して、額が触れそうなほど近くで、互いの瓶に口をつけた。

 月光だけが、二人を照らしていた。

 

「……ろーれった」


「ふつつかものですが」

 

 ヴィータの声を受け止める。

 涙で滲んだ声で、それでも精一杯、貴族らしく背筋を伸ばして。

 

「どうか、末永く」


 ヴィータが、笑った。

 それは、これまでで一番、やわらかい笑みだった。

 

「——いっしょに、いようね」

 

 瓶を、傾けた。

 

 喉を落ちていったそれは、驚くほど、甘かった。

 熱くも、苦くもない。

 ただ、日向のような温度が、身体の隅々にまで染み渡っていく。

 腕の中の身体が、じわりと熱を持った。

 いつも冷たかった彼女の体温が、生まれて初めて。

 わたくしと、同じ温度になった。

 

「……あったかい」

 

 ヴィータが、目を丸くして呟いた。

 

「ろーれったと、おなじ」

「……ええ」

 

 わたくしは、彼女を抱きしめたまま、その髪に顔を埋めた。

 永遠が、腕の中にある。

 その事実を、何度も何度も確かめながら。

 月光だけが、二人の褥を照らしていた。





 ※※※


 



 



 【天動宮】、学園長の書斎。


 深夜。

 燭台の代わりに霊子灯が灯る部屋で、二人の女が向かい合っていた。


「——というわけでなあ。あの小娘、我の指を焼きおったのだ」


 黒いコートの女が、行儀悪く執務机に腰かけて、火傷の残る指を掲げた。

 シミュレーターである以上、怪我は残ることなどない。


 だが、エリスは彼女の——ローレッタの奮戦を、心の底から気に入っていた。最愛に、自慢をしたくなるほどに。


 "世界竜"エリス・ミア=アヌマティは、機嫌が良いときにしか出さない、少女のような笑い方をしていた。


「権能なし、剣なし、拳のみとはいえだぞ。二十分保たせて、最後は自爆ときた。学生の分際でな。くはは、面白くなってきたわ」

「……本当に、傷が」


 書類の山の向こうで、リヴェータ・ロット・アイネイアスが、その指をまじまじと覗き込む。


「二千年、見なかったわね。あなたの肌に傷がつくの」

「はっはー、だろう? 我も驚いた」


 エリスは、掲げた指をひらひらと振って——それから、ぴたりと動きを止めた。


 黄金の瞳が、すう、と細まる。


「……なあ、リヴェータ」

「なに?」

「痛かったのだぞ、これ」

「嘘」

「嘘だな」


 あっさり認めておいて、竜はずい、と身を乗り出した。


「が、心配してくれてもよいのではないか? 二千年ぶりの負傷ぞ。この我が。……ほれ、ふーふーせよ。ふーふー」

「しないわよ」

「してくれ」

「しません」

「してくれよぉ」


 執務机の上で、この星の最強生物が駄々をこねている。

 リヴェータは深々とため息をついて。

 それから、諦めたように、その指先へ息を吹きかけた。


「……ふー」

「ん。治った」

「治らないでしょう、竜の傷が息で」

「治ったのだ。我が治ったと言えば治ったのよ。我の権能は、そういうものだと知っているだろう?」

「権能の無駄遣いが過ぎるわ……」


 書類にペンを走らせながら、リヴェータはそう零して。

 口元が、わずかに緩んでいる。

 そのことに、彼女自身は気づいていない。

 気づいているのは、二千年間その顔だけを見続けてきた竜のほうだけだ。


「面白いのは、その理由でなあ」


 エリスは執務机から降り、椅子の背後へ回った。


「あの小娘、我を殺しに来たのだ。血が欲しいと頭を下げた直後に、な。……ああいうのが、我は好きなんだ」


 背もたれ越しに、大きな両腕が、するりと下りてくる。

 後ろから抱き込まれる形になって、リヴェータのペンが止まった。


「……エリス。仕事中」

「知っている」

「退いて」

「いやだ」


 竜は、銀の髪に鼻先を埋めた。


「今日はな、朝から夕まで、我はお前と一言も交わしておらん。分身とは喋ったが、あれはお前ではない。本物でなければ、満足できんよ」


「……2つも分身を出してるのは、あなたのせいでもあるんだけど」


「そうなのか?」


「夜、あなたが離してくれないから、業務が翌日に押すのよ」

「では致し方あるまい。これは天災のようなものだ」

「天災が自分で言わないでちょうだい」


 リヴェータは、ペンを置いた。

 ふ、と。

 彼女の表情から、【枢機卿】の仮面が抜け落ちる。


「……ずるいなあ、あの子たち」


 声から、敬語と重厚さが消えた。

 いつもの、二千年を統べる政治の怪物ではない。ただの、少し我儘な少女の声。


「わたし、あの子たちのために、何十年も盤を組んできたのに。この二日で全部、自分たちで解決しちゃった。

 何より、あなたにこんなに認められてるなんて。少し、悔しい」

「よいではないか。それがお前の望みであろ」

「望みだけど。……ちょっと、悔しい」


 むう、と唇を尖らせるその頬を、エリスは指先で、つん、と突いた。


「かわいいなあ、お前は」

「……そういうところ」

「うん?」

「そういうところが、ずるいの」


 言いながら、リヴェータはくるりと椅子を回して。

 抵抗もせず、竜の胸元へ、こてん、と収まった。

 小さな身体が、腕の中にすっぽりと納まる。


「エリス」

「なんだ」

「もっと」

「はいはい」


 大きな手が、青みがかった銀の髪を、丁寧に、それはもう丁寧に撫でた。

 この二千年、彼女がこの手つきで扱ったものは、この銀の髪と、包丁と、絵画の額縁くらいのものだ。


「……ん」

「よしよし。よくやったなあ、リヴェータ。今日もよく働いた。えらいえらい」


「子ども扱いしないで」

「ではやめるか」

「……やめないで」

「はっはっは!」


 しばらく、そうしていた。

 霊子灯の光が、二人の影をひとつに重ねている。

 やがて、リヴェータは彼女の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。


「……ねえ、エリス。あの子、どうだった」

「戦士としてか?」

「うん」


 エリスは、少し考えて。

 それから、ひとつだけ、断言した。


「——まだ今ひとつ、と言ったところだな」

「まあ」

「今はな。技も、格も、我らの席に並ぶには十年、いや五十年もあれば届く。逸材だが、まだ研磨が足りんな。せいぜいが神獣軍の尉官が精々だろうよ」


 黄金の瞳が、細まる。


「だが、な」


「あの小娘は、最後まで我を殺しに来た。下半身を失っても、笑顔で突っ込んできおった。あれは、天性の勘所と、意志による決死の笑みだったよ」


「意志は鍛えられんぞ。持って生まれるか、地獄で拾うかのどちらかだ」


 エリスは、愉快そうに喉を鳴らした。


「あれは、拾ってきた口だな。しかも、拾ったものを他人のために使いおる。我、ああいうやつに弱いのよ」


 言って、腕の中の銀髪を、もう一度撫でる。


「昔、そういうのに二人ばかり惚れておるのでな」


「……ひとりは、誰かしら」


「言わせるなよ。恥ずかしいだろうがぁ」


「あなたが恥ずかしがるところ、二千年で三回くらいしか見てないわ」

「三回もあるのか。参ったな。これでは“世界竜”の名折れよ」


 リヴェータは、小さく笑った。


 そして、身体を起こした。


 その顔には、もう、少女の甘えは残っていなかった。

 書類の山から、一枚の羊皮紙を引き抜く。


 最上位の魔導紙。

 この学園において、四人にしか発行されたことのない、特別な様式。


 彼女は羽根ペンを取り、迷いなく走らせた。

 

 『<叡智の学堂>特殊解決部隊『執行機関』

   第五位 推薦状』

 

 『被推薦者 ローレッタ・ヴェン・プレアデス』

 

 推薦人の欄に、エリス・ミア=アヌマティの名を。

 承認人の欄に、リヴェータ・ロット・アイネイアスの名を。


 そして、本人の了承印だけを、白く空けたまま。


「……よいのか? 我は構わんが、あの小娘は受けんかもしれんぞ?」


「そうかもね」


 リヴェータは、微笑んだ。


「今のあの子の世界は、あの子の隣で寝ている小さな子だけで、いっぱいだもの」


 彼女は羊皮紙を掲げ、指先に魔力を灯した。


「でもね、エリス。永遠って、退屈で、疲れるのよ」

 

 じゅう、と。

 

 紙の下端が、焼けた。

 浮かび上がったのは、翼ある蛇の紋章。

 二千年、この星の裏側を統べてきた女の——銀蛇卿の、印。


「千年後でも、二千年後でもいい。……あの子たちが、退屈になった頃に。この紙が、まだ待っていればいい」


 彼女は羊皮紙を丁寧に巻き、机の一番深い引き出しへ収めた。


「……ふむ。ではリヴェータよ」


 背後から、また腕が回ってくる。


「その永遠とやらをお前よりも永く味わってきた先達として、我から一言だけ言わせてもらおうか」


「なあに?」


「——退屈ではないぞ、我は」


 竜は、腕の中の銀髪に頬を寄せて、心底楽しそうに笑った。


「お前がおるからな」

「…………」

「おい。なぜ黙る。何か言え。おい」


「……仕事、するから」

「耳が赤いぞ」

「うるさい」


 窓の外。

 秋の夜空に、青の星団と、赤い巨星が並んで瞬いていた。

 その二つは、これから先、幾千の夜を越えても。

 明日から、新たな第五位が生まれても。


 同じ距離のまま、隣り合って光り続ける。 
























 

 

 

これにて後追い星のプレアデス、完結となります。

こちらは外伝扱いであり、以下の本編に合流します。

ご興味があれば読んでみてください。


https://ncode.syosetu.com/n2652mk/

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