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【進化×SF×青春×ホラー】『夏の前日』――新人類にいたる夏

作者: 斉藤 悠
掲載日:2026/06/04

 今年の夏は、記録的な猛暑になるらしい。

 

「篠崎くんっ! カラスが! 羽化しようとしてるっ!」


 ひそひそ声で叫ぶという器用な芸当をしながら、戸塚さんは俺を大きく手招きした。海水水槽の水の入れ替えを放棄して、俺は早足で戸塚さんがいる虫かごの方へ向かった。

 夕暮れの生物室で俺たちは、フタの開いた虫かごに張り付く。蛹を割いた黒い翅。固唾を飲んで見守る。

 オペラ歌手のドレスみたいな黒い艶やかな翅が立ち上がりきる。カラスアゲハはよく飛ぶ種だ。生物室ではもう飼えない。俺と戸塚さんは生物室の窓を全開にして、旅立ちの時を待った。

 カラスアゲハはヒラヒラと舞い上がると、生物室の中を一周し――


 海水水槽に着水した。


「ごめん、俺が、水槽閉めなかったから……!」


 俺と戸塚さんは慌てて海水水槽に駆け寄る。


「……いいや、最っ高……」


 ひと足先に海水水槽の前に辿り着いた戸塚さんは、華奢な肩を震わせていた。海水水槽の中で、カラスアゲハがまるで……エイのように、悠然と海水を羽ばたいていた。状況を理解できずに固まる俺の横で、戸塚さんが顎に手を当てる。


「普通! 溺れるし、そうじゃなくとも浸透圧で死ぬはず……」


 ……あ、戸塚キョウコ、始まった。


「というか、もう数分水面に上がってないけど大丈夫なんだね? もしかして、ゲンゴロウみたいにどこかに空気を貯めてる? あるいは直接海水から呼吸してる?」


 セーラー服の上に着ている白衣を翻し、戸塚さんは興奮気味に早口で捲し立てた。スポーツ万能、学年首席、黙っていればアイドルかモデルかという顔立ちなのに、生物マニアという性質がそれをぶっ壊す。これが、戸塚キョウコという残念な浜津高校生物部部長なのである。

 でも、俺は……小学校のときから、戸塚さんが羨ましかった。凡人の俺とは違って、何をやってもセンスがあって上手くいく……大仰に言えば神様に選ばれた人間みたいだと思っていた。


「し! の! ざ! き! く! ん!」


 戸塚さんの声で現実に引き戻される。彼女は俺のシャツを引っ掴むと激しく揺すっていた。

 

「何!? なんだよ!?」

「君はっ! 興奮しないのかぁーっ!? これ大発見でしょ!? はあもう私ぃ……頭がおかしくなりそうっ」


 小柄な彼女を見下ろすと、肩までの外ハネボブヘアは乱れていて、黒縁メガネの奥の大きな瞳はいつになくキラキラしていた。白い頬は紅潮し汗すら浮かんでいる。でも、戸塚キョウコなのである。

 戸塚さんは突然目をかっぴらくとバタバタと暴れだした。


「はあああそうだ! 撮影っ! 撮影撮え――」

「あ」


 ……ぱく!


 海水水槽の透明な壁に貼り付いて、ヒマそうにしていたアゴハゼが、嘘みたいな俊敏さでカラスアゲハを捕食した。


「んッなぁあああああああああああああああ!!」


 地獄の底から上がってきたみたいな声を出しながら半泣きでアゴハゼを引っ掴もうとする戸塚さんを、何とか止める。


「篠崎くんッ離せーッ! クッソ〜アゴハゼえ! カラスアゲハ返せよーッ! 雑食性だからっていくらなんでもてめえ何でも食べすぎだろーっ! 吐き出せえェーッ!」

「落ち着けって! アゴハゼが! 逆にアゴハゼが死んじゃうって!」

「死骸でもいい! 解剖してやる! 表出ろアゴハゼーッ!」

「ダメだって! 部員みんなで採集して初めて海水水槽で飼育成功したやつじゃん!」


 何も分かっていないアゴハゼは、海水水槽をチンタラ泳いでいる。泣き叫び荒れ狂う戸塚さんが少し落ち着いたのは、日が完全に落ちてからだった。


「戸塚さん……まあその、残念……だったね」

「あのカラスアゲハを観察し! 解剖しっ! 論文にしたら……ネイチャーだったかもしれないのに……っ」


 地団駄を踏んで戸塚さんは、椅子にどさっと座った。


「でも、カラスアゲハが海水を泳ぎましたー、なんて――論文、信じてもらえる?」

「篠崎くん! 知らないのか!?」


 脊髄反射で知らないよ、と返すと、戸塚さんはムキー! とでも言わんばかりにキレ始めた。

 

「最近の生物系クラスタ内では、異常進化がトレンドなんだぞ! ニュージーランドのバウンティー島ではシュレーターペンギンが空を飛んだ!」

「ペンギンが? デマなんじゃないの?」

「見たまえよ!」


 戸塚さんのスマホには、空を悠々と羽ばたくペンギンが映っていた。


「その割にはニュースにもなってないんだ」

「いや、これからだ。SNSでバズり始めている。ま、時間の問題だ」


 戸塚さんは白衣を脱ぎながら、天井を仰ぐ。


「ここからは私の持論だが……地球の生物相に、『夏』がまた来ると思うんだ」

「あー……まあもう6月も末だもんね」


 そうじゃなくて、と戸塚さんは首を振った。


「カンブリア紀のような、あの爆発的な進化期がやって来るんじゃないかと思ってるんだ……まあ、根拠はないけどね」


 生物室の電気を消す戸塚さんの目は、ギラギラと輝いていた。正直何を言ってるのかよく分からないけど……戸塚さんの言うことには謎の説得力があって、もしかしたらそうなのかも? と思わされるような不思議な引力があった。


 次の日、戸塚さんは学校を休んだ。次の日も、その次の日も、戸塚キョウコは学校に来なかった。今までも戸塚さんは「メジナを釣りに行きたいから」、「アメフラシを採集しにいくから」、などのトンチキな理由をつけて……学校を休むのは珍しくなかった。だから、クラスは戸塚さんのことなんて気にせず、ツブヤイッターでバズっている、空飛ぶペンギンの動画や陸を行く深海魚の動画で持ちきりだった。

 クラスメイトや理科の先生は、フェイクニュースだとか、生成AIだ、なんて言ってるけど……戸塚さんの言う、生物相の『夏』が訪れようとしているのではないかと気が気ではなかった。


「篠崎、戸塚に課題を渡してきてくれ」


 放課後、担任の松山先生から、数学とか古典とかのプリントをもらう。よくあることだった。同じ部活だし、同じ小学校なこともあって、俺はすっかり戸塚さんの世話係みたいな感じだった。


 みどり浜公園を抜けると、戸塚さんの家がある。インターホンを押すと、戸塚さんのおばあちゃんが対応して通してくれた。


「篠崎くん、いつも悪いねえ」

 

 門を開けると、柴犬のポン太が足にまとわりついてくる。ポン太は結構気難しい犬なんだけど、何回かこうして来ているからか、俺にすっかり懐いてしまった。


「キョウコ! 篠崎くん!」


 おばあちゃんの声に、二階から戸塚さんの気だるげな返事が返ってくる。玄関から階段の下まで俺を案内すると、「じゃあ、頼んだわね」とおばあちゃんはそそくさと和室の方へ戻って行った。こんな年頃の異性の同級生、上げていいのかよ、と毎回思うけど……たぶん、おばあちゃんとしても、戸塚キョウコという問題児は、アウトオブコントロールなんだろう。二階の戸塚さんの部屋の前まで向かい、コンコンとノックする。


「戸塚さん、課題持ってきたよ」

「篠崎くん! 遅いぞ! というか! 課題どころじゃないぞ!」


 興奮した様子で扉を開く戸塚さんは、あの日と同じギラギラした目をしていた。戸塚さんの部屋は年頃の女の子の部屋とは思えない、水槽と虫かごと植物でいっぱいの部屋だった。その真ん中に、彼女の机があって、これまた難しそうな生物の本とか図録とかで三つほどのタワーが聳え立っていた。

 戸塚さんは俺を部屋に招き入れると、後ろ手で扉をそっと閉めた。


「篠崎くん……君にだけ、見せてあげよう」


 意味深に微笑む戸塚さんは、ぞくりとするくらい妖艶だった。

 強い、ツンとした、シトラスの香り。戸塚さんの額からV字型の黄褐色の角が天を指し十五センチほどに伸びる。俺は予想を遥かに超えた出来事に思わず後ずさった。


「と、戸塚さ……「静かに」


 戸塚さんは自慢げに咳払いをすると、「これが何か分かるか?」と俺に問う。

 俺は……たじろいだ。ありえない。でも、間違える訳ない。だって、それは、毎日見てきた――


「カラスアゲハの幼虫の、臭角……」

「素晴らしい! さすが我が生物部副部長!」


 戸塚さんは大袈裟に拍手すると、両手を広げた。


「ひと足先に、私に『夏』が来たらしい! 大発見だ! こうしちゃいられない! ……という訳で、自分の身体について論文を書いているところだ」

「はあ」


 驚かなかった。戸塚キョウコは、新種のコガネムシを発見して、大学教授である父親と一緒に論文を書いたことがある。そんな優秀さも、凡人の俺にはとても羨ましかった。


「と、いうわけでだ。すまないが、しばらく学校は休むことにする。時間がないからな」

「学校休みまくってたら時間なんていくらでもあるだろ。部活も最近顔出してないし。海水水槽の世話、ずっと俺一人でやってんだぞ」


 ここぞとばかりに愚痴をぶつけると、戸塚さんはばつが悪そうに「仕方がないだろう」と漏らした。


「臭角があるということは、いずれ蛹になり活動不能になる期間が出るに違いない。その前に、発表したいんだ、この発見を……!」


 そわそわしている戸塚さんを、俺はじとーっと見た。


「身体……そんなんになって、ショックとか、ないんだな」


 戸塚さんは、「ショック? ワクワクの間違いだろう?」と、 目を丸くしてから、俺の耳に顔を近づけた。

 

「実はな……秘密裏に父さんの大学で検査しまくってるんだ。遺伝子とか、身体の構造とか!」


 ひそひそ声でひとしきり喋ったあと、満足気に戸塚さんは顔を離した。ドキドキと高鳴る心音を誤魔化すように、俺はぼやいた。

 

「……秘密裏を俺なんかにベラベラ喋っていいのかよ」

「篠崎くん、君のことは信頼しているからね。そうだ、明日、一緒に浜津大に行こう! 私の研究を見せてあげるよ」


 そう微笑む戸塚さんは、無邪気で眩しくて、俺は断ることなんて出来なかった。



 

 翌日、浜津大学の研究棟で、俺と戸塚さんは採血されていた。


「戸塚教授、なんで俺もなんですか」

「サンプルは多い方がいいからね」


 親子なだけあって顔も喋り方もそっくりだ。


「改めて、私たちのプロジェクト、『夏の前日』への協力を感謝する」


 正直、すぐ帰りたかったのに。協力すれば、学校に行くって戸塚さんが言ったからだ。ただでさえめんどくさい海水水槽の維持人員を確保しなければ、夏休みまでにアゴハゼが死んでしまう。


「世界中で異常進化がトレンドになっているのは知っているね? 遂に私たち人間にもその兆候が現れた。キョウコは地球上で早く兆候が現れたうちの一人だ」


 はあ、とオレンジジュースを啜りながら返事する。


「カンブリア紀のような生物相の『夏』が人類にも訪れた……つまり、つまりだよ。様々な遺伝子の変化の中で『新人類』とでも呼べるような、我々の上位互換種が現れるかもしれない! 私たちはそれを探している」


 戸塚さんは満足気にうんうんと頷いている。そんなヤバい宗教とかSFみたいな研究してるのかよ。恐怖を感じた俺は、採血が終わった後戸塚さんを置いてすぐに浜津大学を後にした。


 数日後、戸塚さんから、『残念だったな』とLIMEメッセージが来ていた。


『篠崎くんの遺伝子、何にも異常が起こってなかったらしいね』

『俺としては安心だけどな』


 というか、いつ学校来るんだよ。と追撃メッセージを送ると、ダイオウグソクムシのスタンプが送られてきた。戸塚さんが都合が悪くなったらいつも送るやつだ。ため息をついて、俺はスマホを伏せた。テレビからは異常進化特集が流れている。母さんは熱を出して寝込んでて、父さんはなんだか最近髭が伸びるスピードが上がってきたらしい。薄気味悪い、酷く嫌な予感がして、俺はテレビを消した。


 翌朝、揺すられて起こされる。父さんの声だ。目を開けると、毛むくじゃらの何かが俺の目の前にいた。


「うわ!」

「驚かせてすまんな。俺だ、父さんだ」


 毛を両手で掻き分けると、そこにはいつもの父さんの顔があった。朝起きるとこうなっていて、とりあえず有休をとったらしい。

 

「病院に行こうにも、どこも閉まっててな」


 居間のテレビでは、テロップと読み上げAIの音声だけの放送が流れている。


「お前は、何ともないか。具合悪いところとか……ないか」


 俺が頷くと、父さんはそうか、と安心したように息を吐いた。


「母さんが心配なんだ。返事はあるけど、布団から出てこなくて……」


 父さんに連れられて寝室の障子を開けると、母さんであろう布団の塊があった。


「母さん……大丈夫?」


 布団の奥からくぐもった声が聞こえる。

 

「元気よ。あんたは大丈夫なの?」

「どこも、何ともないよ」


 俺が返事をすると、布団がもぞもぞと動き……大きなトカゲが頭を出した。


「良かったわ……良樹だけでも、何ともなくて……こんな身体じゃ……これからどうしたらいいのよ……」


 母さんは、大きな黄緑の目から大粒の涙を零した。大きく裂けた口や平たい鼻は、元の母さんの姿とは決して似つかないものだったけど……父さんはずっと傍で、すすり泣く母さんを布団越しにさすっていた。

 戸塚さんなら……何とかできないだろうか。


「俺……出かけてくるよ」

「電車、止まってるぞ。学校からもメール来てたぞ」


 大丈夫、用があるのは徒歩圏内だから、と言い残して、俺は家を飛び出した。

 ゴミ集積所に集まるカラスの足は三本だった。逃げるように戸塚さんの家に向かう。チャイムを鳴らす。誰も出ない。柴犬のポン太は、増えた顔どうしで吠えあっていた。ギョッとして、帰ろうかとも思ったけど、戸塚さんは……大丈夫なんだろうか。心配になって俺は、戸塚さんちの玄関の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。


「すみません、篠崎です……失礼します」


 戸塚さんのおばあちゃんは見当たらない……と思ったら、大きなリクガメがゆっくりと近づいてくる。甲羅に、おばあちゃんの顔が張り付いていた。俺は思わず声を上げてしまった。


「篠崎くん、びっくりさせて悪いねえ。キョウコの様子、見てきてくれる? 階段がのぼれなくてねえ……」


 もちろんです、と俺は返事すると、二階へと駆け上がった。


「戸塚さん! 俺! 篠崎!」


 ドンドン、と扉を叩く。返事はない。意を決して部屋の扉を開けると、鬱蒼と茂るジャングルのような空間の真ん中に……見たこともない色とりどりの生き物たちに囲まれながら、ぐったりしている戸塚さんがいた。


「戸塚さん! 大丈夫!?」

「……間に合わなかった」


 謎の生き物たちは俺が近づくとゆっくりと離れていく。よく見るとそれらは、戸塚さんが飼っていたネオンテトラとレオパードゲッコーだった。熱帯魚のはずのネオンテトラは十倍ほどの体長にしっかりとした吸盤付きの足が四対生えており、エラから空気を取り込んでいるようだった。レオパードゲッコーの背中には玉虫色の羽毛がびっしりと並んでいて、南国の鳥みたいだと思った。


「まさか論文を発表する前に、人類全体に異常進化が広まってしまうとはな……今更、論文なんて出したところで、査読できる人間がいなければ無意味だ」


 俯いたまま、戸塚さんは笑った。戸塚さんの首筋や腕は、黄緑色に変色し斑点が浮き上がっている。終齢幼虫だ、と思った。


「戸塚さん、もしかして、蛹化が近いのか……?」

「……今朝、下痢様便を確認した。今日のうちにはおそらく、始まるだろう」


 心配が顔に出ていただろうか、戸塚さんは俺の顔を見てにやりと笑った。


「なに、死ぬ訳じゃない。『新人類』への助走みたいなものだろう。篠崎くんも、『夏の前日』を楽しもう」


 戸塚さんの家から帰ったあと、何も喉を通らなかった。父さんも母さんも寝室から出てこなかった。風呂に入ろうとしたら、水が止まっていた。

 仕方なく布団に潜り込んだけど、ひとつも眠れなかった。豆電球のあかりが急に落ちて、部屋が暗くなる。電気が止まったらしい。窓を開ける。草いきれの匂いが窓を駆け抜けた。暑くはなかった。星明かりはこんなに明るかっただろうか。世界に夢中になっているうちに、夜空が透き通る。激烈な光量をもって、太陽が地平の上に顔を出した。

 呻き声が寝室から聞こえる。熊のような獣と、ワニのような大型のトカゲが食い合っていた。俺は動けなかった。やがて二匹は俺を視界に捉え、喉と腹にかぶりつかんとする。


「うわあああ!」


 こんなサイズの動物に勝てるわけない。逃げようとして、足がもつれて転ぶ。のしかかってくるトカゲに決死の思いで蹴りを入れると――トカゲは思っていた五倍の勢いで飛んでいき、壁に叩きつけられた。


「か、母さん!」


 思わず駆け寄ろうとする俺に、父さんだった獣が爪を振りかぶる。頭に強い衝撃を受ける……何ともない。パニックになった俺は二階だというのに窓から飛び降りた。普通に庭に着地する。どうなってるんだ。母さんも、父さんも……俺も。視界がぐちゃぐちゃに涙で歪む。

 縋るような気持ちで俺は、戸塚さんの家に向かった。走ると原付くらいのスピードが出て、すぐに着いてしまった。門の奥で犬の顔が沢山ついている大きな毛玉が呻きながら転がっている。犬の顔の一つがポン太の首輪をつけていた。

 もう挨拶なんかしてられない。おばあちゃんだっただろう大きなリクガメは木の柱を齧っている。歯は齧歯類のそれで、ケリケリケリと音を立てていた。


「戸塚さん!」


 戸塚さんの部屋を開ける。大きな蛹が学習イスの上に鎮座していた。中で何かが蠢いている――羽化だ。蛹を割いて、黒い、絹のような、美しい翅が現れる。


「戸塚さん……嘘だ……」


 大きく、色の深い、見事なカラスアゲハだった。頭の部分に、戸塚さんの顔が付いている……滑稽だった。


「こんなの……『新人類』な訳ないだろ……」


 愕然とする俺の前で、ずっと閉じられていた戸塚さんの瞼が開かれる。戸塚さんは俺の方にひらりと舞う。シトラスの匂いとともに、戸塚さんの整った顔が近づく。

 口づけをされたと気づいたのはしばらく経った後だった。甘酸っぱくほろ苦いシトラスの匂いが、鼻の奥から離れない。戸塚さんだったものは、どこかに飛び去ってしまっていた。

 戸塚さんの机の上に開かれたノートが目に入る。俺は即座に内容を理解して、浜津大に走り出した。


 研究棟の戸塚さんのお父さんの研究室には、大きなクラゲが空気中を漂っていた。触手をかき分けて、俺の遺伝子検査の結果を見つける。


「……最悪だ……」


 もちろん、こんなの、読めるわけないのに。見たって分からないのに。理解してしまう。解析前の検査結果をそのまま読んで、どの部分が何の情報を指定しているのか、辞書を捲るみたいに頭に入ってくる。

 

 俺、だった。

 俺だったんだ。


「なんで……俺なんだよ……」


 口から漏れ出た言葉に、ハッとした。俺はずっと……凡人な自分のことが嫌いだと思ってたのに。『新人類』とでも呼べるような、上位互換種への進化を遂げたというのに。それって、神様に選ばれたみたいなもんじゃないか。なのに――俺は耐えきれなくてうずくまった。


 俺は……たぶん、戸塚キョウコが羨ましかったんじゃなくて、戸塚キョウコに相応しくなりたいだけだったんだ……。皮肉にも『新人類』としての知性の高まりが、己の感情への解像度を上げていた。


 ――今更、論文なんて出したところで、査読できる人間がいなければ無意味だ。


 戸塚さんの声が脳裏でリプレイする。俺だって……戸塚さんが居ないのに、神様に選ばれても、無意味だ。ああ、戸塚さんも、こんな……こんな気持ちだったんだな。俺は蝶にでもなった気分で、研究棟の四階の窓から飛び降りた。

 階段を数段飛び降りた時くらいの衝撃で着地する。ふと見上げると、オペラ歌手のドレスみたいな黒い艶やかな翅で、戸塚さんが舞っていた。


 カラスアゲハはよく飛ぶ種だ。

 俺は声を腹から押し出して口を大きく開いた。泣いてるのか笑っているのか、自分でももう分からなかった。


 今年の夏は、記録的な猛暑になるらしい。

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