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英雄の決算(ペイオフ)②

 轟音。

 魔獣の巨腕が、マリアたちを押し潰そうと振り上げられる。

 ガルドは絶望に顔を歪め、動かない手を虚しく伸ばした。

「や、やめろぉぉぉッ!!」

 その時だ。

 ドォンッ! と鋭い破裂音が響き、魔獣の腕が真横から弾き飛ばされた。

 何かが高速で衝突した衝撃。よろめいた魔獣の前に、一人の男が割り込む。

 舞い上がる雪煙の中、スーツの裾を翻して立ったのは、ヴィクトルだった。

「……え?」

 マリアが目を丸くする。

 ヴィクトルは手にした『黒い帳簿』で魔獣の一撃を受け止めていた。ただの紙束のはずが、まるで城壁のような硬度を帯びて、鋼鉄の爪を弾き返している。

「おい、爺さん!」

 ヴィクトルは魔獣と鍔迫り合いをしながら、背後のガルドに向かって怒鳴った。

「商談の続きだ! 耳の穴かっぽじってよく聞け!」

「銀行……屋……?」

「通常の融資は却下された。だがな、一つだけ……今のあんたでも組める『特例措置』がある」

 ヴィクトルは帳簿を振り抜いて魔獣を突き飛ばすと、その隙にガルドの元へ滑り込む。

 その胸ぐらを掴み、強引に引き起こした。

 至近距離。灰色の瞳が、老人の瞳を射抜く。

「寿命が足りないなら、『存在すべて』を担保にするしかない」

「そん……ざい……?」

「魂、記憶、肉体の全構成物質。これらを銀行が『資源』として一括回収する。いわば魂の完全売却フル・リクイデーションだ」

 ガルドの瞳が揺れる。

 ヴィクトルは早口で、しかし冷徹にリスクをまくし立てる。これは慈悲ではない。契約上の重要事項説明だ。

「契約すれば、全盛期の肉体と力を一時的に『前借り』できる。時間は一時間。……だが、期限が来ればあんたは死ぬだけじゃ済まない」

 ヴィクトルの声が低くなる。

「消滅だ。死体も残らない。魂は銀行に回収され、輪廻転生からも外れる。あんたという存在が、この世界から綺麗さっぱり削り取られるんだ。墓も作れねえぞ」

 それは、死以上の虚無。

 魂の永遠なる消失。歴史からも、人々の記憶からも、いずれ彼という存在の痕跡は薄れていくだろう。

 だが。

 ガルドは、笑った。

 血に塗れた口元を、ニヤリと歪めて。

「構わん」

「……正気か?」

「墓なんぞ要らん。……あいつらの未来が、俺の墓標だ」

 迷いのない、即答だった。

 ヴィクトルは数秒だけ沈黙し、ふ、と口元を緩めた。

「……商談成立ディールだ」

 ヴィクトルは素早く『黒い帳簿』を開き、懐から一本の万年筆を取り出した。インクなど入っていない。彼自身の血液と魔力を媒体にする、契約専用の筆記具だ。

 サラサラと紙の上を走るペン先が、赤い軌跡を描く。

「『大陸中央銀行・特別資産管理課』より本行へ緊急申請。対象、ガルド・フォン・アイゼンベルク。資産種別、魂魄ソウル。全資産の即時売却を以て、融資ランクA『英雄再演』の行使を申請する」

 ヴィクトルが詠唱のように告げると、帳簿のページがひとりでに捲れ上がり、虚空から赤黒い光の帯が伸びた。

 その光は天井を突き抜け、遥か彼方――この世界の理を管理する『銀行』の中枢へと繋がる。

『――承認(Approved)』

 重々しい、地響きのような声が響いた気がした。

 同時に、帳簿の上に真っ赤なスタンプが押される幻影が浮かぶ。

「稟議は通った! アニエス!」

「はい」

 ヴィクトルが帳簿をアニエスに向ける。

 膨大な魔力――いや、前借りされた「ガルド自身の未来の生命力」が、帳簿を経由してアニセスの身体へと流れ込む。

 彼女はあくまで精巧な「導管パイプ」だ。銀行から送られてくるエネルギーを受け止め、それを患者へと流し込む医療端末。

 アニエスは無表情のままガルドの胸に手を当てた。

「術式展開。第四生命魔法『理の改変リライト』――接続」

 バチバチバチッ!

 アニエスの手から青白い稲妻が迸り、ガルドの老いた心臓を強制的に鼓動させる。

 それは治療ではない。

 壊れた機械に燃料をぶち込み、限界を超えて稼働させる暴挙。

 ガルドの身体が弓なりに反り返る。

 骨が軋み、筋肉が繊維の一本一本まで作り変えられていく激痛。常人ならショック死するほどの負荷。

 だが、ガルドは声を上げなかった。

 歯を食いしばり、血の涙を流しながら、ただ耐えた。

 無様な悲鳴など上げない。それが、家族を守ると決めた男の矜持だった。

「……完了です」

 アニエスが手を離す。

 ガルドがゆっくりと立ち上がる。

 その背中からは、老いの気配が消えていた。

 筋肉は隆起し、肌には張りが戻り、白髪交じりだった髪は全盛期の鋼色に染まっている。

 ガルドは無言のまま、部屋の隅に飾られていた古びた剣を手に取った。

 ジャリ、と鞘走る音。

 彼が剣を握った瞬間、その場の空気が変わった。

 ただ立っているだけで、周囲の空間が張り詰めるような圧迫感。かつて「英雄」と呼ばれた男の全盛期が、今ここに再現されていた。

「……行くぞ、アニエス。退避だ」

 ヴィクトルはアニエスの腕を引き、崩れた壁の陰へと走った。

「ヴィクトル様」

 瓦礫の陰に身を潜めながら、アニエスが淡々と尋ねる。

 その視線は、魔族の群れへ向かって静かに歩き出すガルドの背中に向けられていた。

「疑問です。ガルド氏にあのような高リスクな契約を結ばせずとも、ヴィクトル様が戦えば済む話では?」

「馬鹿を言うな」

 ヴィクトルはハンカチを取り出し、スーツについた煤を丁寧に払いながら答えた。

「俺は審査部の人間だぞ? ホワイトカラーだ。肉体労働ブルーカラーは専門外なんだよ」

「……今の動きは十分に肉体派でしたが」

「あれは正当防衛だ。いいかアニエス、俺たちの仕事は『回収』であって『討伐』じゃない。顧客が自分で解決すると言ったんだ、その意思を尊重するのが優良な銀行員バンカーってもんだろう」

 へらず口を叩きながら、ヴィクトルはモノクルの位置を直す。

 その表情は硬く、珍しく彼が緊張していることをアニエスは見逃さなかった。

 彼は知っているのだ。

 これから始まる戦いが、あまりにも残酷な「消失」の儀式であることを。


                  ◇

 風が止まった。

 猛り狂っていた吹雪が、ガルドの一歩によって圧し殺されたかのように静まり返る。

 家の前に群がっていた十数体の凍牙獣たちが、一斉にその男を見た。本能が告げている。目の前の獲物は、先ほどまでの死に損ないではない。捕食者プレデターであると。

 ガルドは、吠えなかった。

 威嚇も、雄叫びも上げない。

 ただ静寂を纏い、切っ先をだらりと下げたまま、雪の上を滑るように疾走した。

 ヒュンッ。

 風切り音すら置き去りにする一閃。

 すれ違いざま、先頭にいた魔獣の首が、何が起きたのか理解できぬまま宙を舞った。

「……ッ!」

 マリアが息を呑む。

 速い。目で追うことすらできない。

 父は確かに強かったが、記憶にある父の姿ですら、これほどの神速ではなかったはずだ。

 これが、命を前借りした代償の力なのか。

 ガルドは踊るように剣を振るう。

 一太刀で硬い甲殻を両断し、返し刀で二匹目の心臓を貫く。

 完璧な剣技。洗練された殺戮。

 だが、その内面では――恐ろしい速度で「崩壊」が始まっていた。

(……浅い。もう少し踏み込むべきだったか)

 ガルドは冷静に自らの剣技を分析する。

 思考は澄み渡り、肉体は羽根のように軽い。

 だが、剣を振るうたびに、頭の中の風景が白く塗りつぶされていく感覚があった。

「お父さん! 後ろ!」

 背後から、女性の叫び声が聞こえる。

 ガルドは反射的に体を捻り、背後に迫っていた魔獣を袈裟懸けに斬り裂いた。

 鮮血が雪を汚す。

 その赤を見ながら、ガルドはふと、奇妙な違和感を覚えた。

(……誰だ?)

 今、俺を呼んだのは誰だ?

 聞き覚えのある声だ。懐かしくて、守らなければならない、大切な声。

 だが、名前が出てこない。

 顔が……思い出せない。

(俺は……なぜ戦っている?)

 ザシュッ!

 思考の空白を埋めるように、身体が勝手に動いて敵を殺す。

 眼前の魔族に対する憎しみも、怒りもない。

 恐怖すらない。

 まるで、自分が自分ではない、ただの「剣を振るう装置」になっていくようだ。

(こいつらは敵か? 俺は……誰だ? ここはどこだ?)

 記憶が、砂の城のように崩れ去っていく。

 妻と交わした言葉。娘が初めて歩いた日の喜び。孫娘の温かい手の感触。

 それらが一つ、また一つと、銀行への「支払い」として徴収されていく。

 恐怖で足が止まりそうになる。

 自分が何者かわからなくなる恐怖。暗闇の中に一人で放り出されたような孤独。

 だが、それでも。

(……温かい)

 記憶が消えた空っぽの胸の奥に、ひとつだけ、強烈な「熱」が残っていた。

 名前も理由もわからないけれど、絶対に譲ってはいけないもの。

 消してはいけない、魂の灯火。

 ガルドは涙を流していた。

 なぜ泣いているのかもわからない。

 ボロボロと溢れる涙を拭いもせず、彼はただ、胸に残ったその「熱」だけを頼りに剣を振り続けた。

(守らなきゃいけない。なんだ? それはなんだ? わからない。でも、守るんだ。それだけが、俺がここにいる理由だ)

 最後の一匹。

 群れのボスである巨大な凍牙獣が、ガルドの前に立ちはだかる。

 ガルドは構えた。

 思考はない。技名もない。

 ただ、全身全霊を込めた、生涯最高の一撃を放つ。

 一閃。

 交差した瞬間、時が止まったように感じられた。

 魔獣の巨体が、音もなく左右に割れる。

 ドォォォン……と、重たい地響きを立てて巨躯が雪原に沈んだ。

 ――静寂。

 全ての敵が死に絶えた。

 風すらも息を潜めるような静けさの中、ガルドは雪原の中央で、剣をだらりと下げて立ち尽くしていた。

 自分が何をしたのかも分からない。

 ここがどこかも分からない。

 ただ、終わったことだけは分かった。

 ふと、彼は空を見上げた。

 厚く垂れ込めていた雪雲が割れ、東の空から強烈な光が射し込んでくる。

 日の出だ。

 黄金色の光が、血塗れの雪原を浄化するように照らし出す。

 ダイヤモンドダストがきらめき、世界が輝きに包まれる。

 その光を浴びた瞬間、ガルドの空っぽだった心が震えた。

 胸に残っていた「譲れない熱」。

 それと、目の前の「美しい光」。

 二つがカチリと重なり、溶け合った。

(……ああ)

 理屈ではない。記憶でもない。

 魂が、思い出したのだ。

 ガルドは、くしゃりと顔を歪めて、子供のように無垢な笑顔を浮かべた。

「……あ、これか」

 それが、英雄の最期の言葉だった。

 直後、ガルドの輪郭が揺らいだ。

 足元から、指先から、光の粒子となって朝日に溶けていく。

 肉体も、骨も、着ていた鎧さえも。

 痛みはなく、ただ穏やかな温もりが彼を包み込み、美しい朝焼けの一部へと帰っていく。

 誰も見ていない静寂の中で、英雄は人知れず世界から消失した。

 後に残されたのは、雪に突き刺さった一本の錆びた剣と、彼が着ていたボロボロの衣服だけ。

          ◇

 しばらくして。

 魔獣の咆哮が止んだことに気づき、瓦礫の陰や地下壕に避難していた村人たちが、恐る恐る顔を出した。

「……終わった、のか?」

「おい見ろ、魔物が全滅してるぞ!」

「誰がやったんだ? 自警団か?」

 困惑と安堵の声がさざ波のように広がる。

 その人混みを掻き分けて、マリアが飛び出してきた。

「お父さん! お父さん、どこ!?」

 夫と孫娘も一緒だ。

 マリアは必死に視線を巡らせる。あれだけの魔物の群れを相手にしたのだ、無事であるはずがない。怪我をしているかもしれない。早く手当てをしなければ。

「ねえ、おじいちゃんを見なかった!? ガルド・アイゼンベルクよ!」

 マリアが近くの自警団員に詰め寄る。

 だが、男は首を横に振るばかりだ。

「いや、誰も見てないんだ。ものすごい速度で剣士が暴れまわってるのは見えたんだが……」

 マリアの胸に、冷たい予感が走る。

 彼女はよろめく足で、戦場の中心へと歩み出した。

                  

 そこには、朝日に照らされた「痕跡」があった。

「……あ」

 雪原の中央。

 まるで墓標のように突き刺さった、見覚えのある古剣。

 そしてその足元には、父が着ていたシャツとズボンが、中身を失った抜け殻のように落ちていた。

「嘘……でしょ……?」

 マリアはその場に崩れ落ち、震える手で衣服を拾い上げた。

 まだ微かに温かい。

 けれど、そこにあるはずの肉体は、どこにもなかった。

「お父さん……? 嫌よ、出てきてよ……っ!」

 マリアの声が涙声に変わる。

 周囲の村人たちも、その異様な光景に言葉を失い、静かに帽子を取った。

 誰かが言った。「ガルド様が、守ってくれたんだ」と。

 その言葉を合図に、静かな祈りの輪が広がっていく。

 黄金色の朝日は、残酷なほど美しく、残された人々を照らし続けていた。

          ◇

 その光景を、少し離れた丘の上から見下ろす二つの影があった。

 ヴィクトルは無言で『黒い帳簿』を掲げている。

 戦場跡に漂っていた微かな光の粒子――ガルドの魂の残滓が、風に乗って帳簿の中へと吸い込まれていく。

「……記憶も、魂も、全て使い切ったか。見事な完済だ」

 ヴィクトルはパタンと帳簿を閉じた。

 その隣で、アニエスがじっと眼下のマリアたちを見つめていた。

 彼女の無表情な顔を、大粒の涙がとめどなく伝い落ちていた。

 嗚咽はない。表情もピクリとも動かない。ただ、その青い瞳から静かに、悲しみが溢れ出していた。

「……ヴィクトル様」

 アニエスが、濡れた瞳のまま主を見上げる。

「ガルド様は……幸せだったのでしょうか」

 その問いに、ヴィクトルは懐から安タバコを取り出し、フィルターを噛んだ。

 空を見上げる。雲の切れ間から射す朝日は、嫌になるほど眩しかった。

「知るか」

 素っ気ない、突き放すような一言。

 だが、ヴィクトルは視線をガルドが守り抜いた村へと移し、独り言のように続けた。

「……ただ、守りたいものを守った」

 そこには、朝日に照らされて泣き崩れるマリアと、それを支える家族、そして感謝の祈りを捧げる村人たちの姿があった。

 彼が全てを投げ打ってでも残したかった未来が、確かにそこにあった。

「あいつは、間違いなく『騎士』だったな」

 その言葉に、アニエスは小さく頷いた。

 涙を指先で拭い、その冷たい頬にほんのりと血の気が通ったように見えた。

「……はい」

 悲嘆に暮れる家族に背を向け、二人の銀行員は歩き出す。

 朝日に照らされた雪解けの道を、次の回収先へと向かって。

 彼らが去った後には、英雄の墓標となった剣だけが、いつまでも金色の光を浴びて輝いていた。



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