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ヒューマンドラマ

木の葉の色は変わるもの? 落ちるもの?

作者: 本羽 香那


 私は幼い時に1番大切な物は何かと聞かれていたら、間を空けずに「勉強」と答えていただろう。しかし、大学生になった私は何が大切なのかが分からなくなっていた。


 ◇◇◇◇◇


 昔は両親の方針もあり、勉強を第一として国数英理社は勿論のこと、他にも簿記や漢字などの検定を取り、様々な分野を学んできて、英語もほぼ完璧に話せるようにもなった。

 そんな中で、猛勉強した私は誰に聞いても名門と言われる大学の医学部に進学し、その中でも首席を収めているのだが、正直今何をしたいのか全く持って分からない。

 普通で考えたら医学部なのだから、医師になるのだろう。しかし、医師になるにしても内科や外科と分野も違えば進む道も異なってくる。具体的な目的も目標もないまま、ただ浮遊しているだけだった。

 そもそも、両親の意思で医学部に進学することを決められたため、時々何故こんなところにいるのだろうと思うこともしばしばあった。都会に出て、1人暮らしになったせいか、そんな風に考える時間が増えてしまったのだ。

 両親には、もし大学院に行きたいなら全力で支援すると言われているが、このままだとそもそも大学院に進学したところで、そこでも何もするべきか分からないまま浮遊するのは目に見えているので、何も考えないようにしていた。

 こうして1年間は、ただ他に何をしたら良いのか分からないまま、ただひたすらに勉強に打ち込んでいた。


 ◇◇◇◇◇

 

「これからの夏休み何するつもりだ? 研修医になったらバイトが出来なくなるから、バイトする予定だ」

「俺はアメリカに2週間留学するな」

「私は友人と遊ぶわ。勿論勉強もするけどね」


 7月半ばになり期末試験がもう少しであるため、ほんの少しの休み時間も勉強をしていたのだが、他の学生は勉強なんかせずに友人とお喋りをしている。私の近くではもう少しで始まる夏休みのことについて話していた。普段なら気にならないはずなのに、どうしてか耳を傾けており、耳に入ってくればくるほど、自分に夏休みの予定が特に何にもないが情けないような気がした。


 ◇◇◇


「アルバイトって大変だな。まあ、でもそれだからこそやりがいを感じたかな」

「俺は昨日アメリカから返ってきたけど、色々な経験をしたな。頭の中に文章は出てきても、正しいかどうか分からない発音で話したりもしたし、貨幣の価値の違いもやはり全然違うな」

「私は友人と満喫してきたわ。勿論、ちゃんと勉強もしているからね」


 9月の初めになり、夏期講習として履修した人達が講義室に集まっているのだが、久しぶりに会えた仲間達と今までの夏休みのことで話題になっていた。相変わらずみんながリアルに充実しているようで、ただ机に座って勉強している私と比較すると、自分が惨めに感じられ、思わずため息をついてしまう。

 そんな中で、教授が講義室に入り、時間ピッタリに講義がスタートした。いつもなら教授の講義を真面目に受けるのにも関わらず、今日は教授の声が殆ど右から左へと通り抜けていった。


 ◇◇◇


 1週間の夏期講習が終わり、 帰る場所は現在1人暮らししている部屋ではなく、両親が待つ実家。両親が嫌いなわけでも、実家が嫌いなわけでもないが、どうせ今後のことを聞かれるのは分かっていたため、帰る前からもうすでに憂鬱だ。まだバスまでは時間があるため、ゆっくりと帰ろうと人通りの少ない街並みを歩くことにした。

 

 勿論人はいるため、足音や話し声は聞こえるものの、自分が気にしている話題ではないため、気になることもなく、寧ろ落ち着いた環境に私も心が穏やかでいられた。

 そうやって歩くこと数十分。その時大きな風が吹き、何が私の顔を当たった。


「イチョウ?」 

 

 手に取って見てみると、それは黄金色に輝く綺麗なイチョウの葉。咄嗟に見上げると、そこには緑色の葉と黄金色の葉が混じった大きなイチョウの木が多く並んでいた。また、鮮やかな水色の空と真っ白な雲。それぞれの4色が美しく彩られている。その中でも特に美しいと感じたのは、黄金色のイチョウの葉だった。

 それにしても葉や空を見て美しいと感じたのはいつだったのか? またこんな正の感情を抱いたのはいつ頃だったのか? ここ最近は負の感情で溢れていたことを思い知らされて、更に気分が落ち込んでしまった。美しいという感情すら欠如していたのだと思うと、自分は何のために人生を歩んでいるのか分からなくなってしまう。そんな中、とある独り言が聞こえてきた。


「イチョウか…………色が落ちて綺麗だな……」


 その独り言を発した相手に目を向けると、見るからに優しそうな女性が佇んでいた。そんな言葉、いつもなら気にも止めないものなのに、何故か自分の言葉ですらない独り言が反芻してしまう。一体、色が落ちたというのはどういうことなのか。普通は色が変わるではないかと気がかりを覚えたのだ。そんなことを不思議に思った私は、いつの間にかその人に声を掛けていた。


「あの……色が落ちるってどういうことですか?」


 急に話しかけられて向こうは明らかに大変驚いていた。そりゃそうだろう。見知らぬ人からなんの前振りもなく話しかけられた誰もが驚くに決まっている。しかし、1番驚いていたのは、紛れもなく声を掛けた私だった。

 

「えっと…………別に変な意味ではなくて……」


 慌てふためく私の姿がおかしかったのか、彼女は口を抑えながら笑うが、すぐに笑みを浮かべて優しい声で口を開いてくれた。


「確かに色が落ちるという表現はおかしいわね。でも、実際にはクロロフィルなどが分解されて、カロテノイドなどが残った故の色だし」

「ああ…………確かにそうですね」


 クロロフィルとは葉緑素の一部で、光合成を行うために必要な物質であるため、若葉ではクロロフィルが多く存在するが、時間が経つにつれて分解されて、カロテノイドなどの色素が残り、木の葉は黄色や赤色に見えるようになる。その原理は知識としては知っていたが、だからと言って、色が変わるという表現をすることに疑問を持ったことは1度たりとも無かった。


「何故、色が落ちると言わないのでしょうね。そっちの方がしっくり来るのに……」


 逆に何故一般的には、色が変わると言う人の方が多いのか不思議に思い、独り言を呟いてしまう。そんな言葉にも彼女は真面目に答えてくれた。


「これはあくまでも私の推測だけど、やはり落ちるというのは言葉的に縁起が良くないからじゃない? 変わったという方がまだ言葉の響きとしてはマシだろうし」


 確かにそれも一理はあると思う。でもなんか他にも理由があるような気がして少し気がかりだった。


「まあ、変わるというとプラスのイメージを抱く人も多いのと思うけど、落ちると言ったら切り捨てられると言う意味に取れるからマイナスのイメージが強いだと思うわ。でも、私は落ちることも捨てることも大切だと思うけどね」

「落ちることも捨てることも大切?」

「ええ、落ちたり、捨てることで得られることは多くあるし、そもそも何かするということは選択をして捨てるということ。当たり前のことでしょ」


 その言葉を聞いて、今まで支えていたものが取れたものような気がした。確かに今まで勉強を頑張ってきたが、それ以外では何1つ真剣に取り組んだことなんてなかった。スポーツも料理も、そして友人さえも出来ることがなかった。勉強に没頭することを選んだ代わりに、他の全てを捨ててきた。 

 また、今まで勉強に関しては負けたことが無かったし、受験だって落ちたことはない。だからこそ、負けた者の気持ちなんて理解も出来なかった。悔しさを体験したことも無かった。

 だけど、そこに残っているのは虚無感。自分の志でやったことなど無かったので、達成感すら得られたこともなかった。そうした感情すら今まで捨てて来たのだとようやく気がついた。


「教えてくださりありがとうございます。お陰で霧が晴れました」

「あはは……変な方ね。よく分からないけれど、何か悩んでいたの?」

「悩んでいたというか……迷っていたというか……」

「なにはともあれ解決したようで良かったわ。さっきより顔が明るくなったね」


 少し前まで暗い顔をしていたなんて全く予想もしていなかったし、さっきは明るい表情になっていたなんて気が付かなかったが、今は自分でも自然と笑顔を浮かべていることが分かった。そして、気持ちも軽くなっていることも同時に理解した。

 

「そう言えば荷物が大掛かりな荷物だけど、時間とか大丈夫?」

 

 今はバス停に向かっている途中であることをすっかり忘れていた。慌ててスマホを取り出して時間を確認すると、まだ時間はあるものの、そこまで悠長にいられる程の時間は残されておらず、彼女とはここでお別れすることになった。

 


 彼女とはさっき偶々出会った名前も知らない人であり、偶然の出来事だった。普段は運命なんてと馬鹿にしているものの、今回ばかりは本当に彼女と出会った運命だと信じてみたくなった――きっと神様が私を変えてくれるチャンスを与えてくれたのだと。

 帰ったら両親に様々な体験をしたいということを伝えようと、しっかりと前を向いてバス停に向かった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] タイトルから想像したのとは全然違う、真摯なヒューマンドラマでした。大学生ならではのリアルな実感があり、とてもよかったです。 捨ててきたものが何なのか、私も自分を振り返って考えてみたくなりま…
[一言] 色づく、とか紅葉する、とかの表現もありますね 言葉の持つ雰囲気だけで言えば、落ちるや変わるより優しい気がします そもそも、単純に、普通の人は脱色したとは思わないので、見た目が変わったから変わ…
[一言] 自分の意志を持つようになる変身と色が抜けて色づくイチョウの変身の合わせ方がいいなぁと思いました。 自分に付随しているものを落として、秋を彩る感じですね。 また、クロロフィルのところもよく分か…
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