2-3
塔屋を出ると、さわやかな風を感じた。まえをゆく先輩の髪のさきっぽが風に煽られ、たなびいた。
ぼくは後手で屋上への鉄扉をしめた。――がしゃん。
夏場の屋上は、ぽかぽか陽気の小春日和(*誤用)を感じる。太陽がぎんぎらぎんだからこそ、さりげない微風にいやされる。近藤真彦サイコー!
ぼくらは塔屋の近くのフェンスにもたれかかった。
先輩は腰元に体重をあずけ、片足を振り子のように小さく揺らす。なんだか、落ち着いていない。
先輩クラスの美少女なら、告白なんて日常茶飯事だと思っていたから、それ相応の対処はテンプレになっていると思っていただけに意外だった。なにか、みなが敬遠する要素でもあるのだろうか? と少し不安になったりもしたが、先輩を一瞥してしまえばそんな不安感は吹き飛ぶ。
「あのね。茂木くん」
「はい」
先輩は蒼穹をみあげた。
積乱雲が遠くに見える。
鳥が飛んでいる。滑空した。
「とべると思う?」
「とべる?」
――なんの話?
「ごめんなさい。茂木くんとは付き合えません」という話じゃないのだろうか? 切り捨てるなら、さっさと一刀両断してほしいもんだ。内心はガクガクブルルなのに。
先輩は続ける。
「鳥はみんなとべるよね?」
「ですね」
「じゃあさ、かごの中の鳥もとべるの?」
「え?」
ぼくはたぶん、とっても鳩豆な顔をしたと思う。
鳥の話題だけに、鳩。
「とべると思う? イエスかノーで応えて」
「イエスです」
「どうして?」
なんで、いきなりこんな話をするのだろうと思いつつも、好青年であるところのぼくは律儀に応えてしまうのである。まったく、我ながら紳士すぎて怖いくらいだ。モテないのがおかしい。この世界の法則に異議あり!
「たしかに、鳥かごは狭いかもしれません。でも――鳥ってそんなにバカじゃないんですよ。バカだと思ってるのは人間だけで。カラスだって、もしかすると、電信柱のうえからこっちを見て笑っているかもしれないんです。
脳化指数って指標があって、それによると、鳥類は全体的に賢いんです。牛豚よりもずっと。鳥って、自分が虜囚であることを理解しているし、どうやったら脱走できるかくらいの算段はつくんですよ。だから、しずかちゃんのカナリアは脱走するんです」
先輩は首をかしげた。
ぼくは続ける。
「それに、飛ぶ必要もないんじゃないかなぁって思いますよ」
「え?」こんどは先輩が鳩豆になる番だった。大き目の瞳が、さらに一回りおおきくなった。
「動物の生存圏ってとっても狭いんです。地球にとっては表皮よりも薄い、いまにも破れそうな皮膜のうえにぼくらは棲んでます。陸地も大気もひっくるめて。人間は地球よりもすべらかな球体をつくれないんですよ。ですから――飛ぶだとか飛ばないだとかそんなことどうでもいいんです。地を這おうが、空を駆けようが、どっちもどっち。五十歩百歩なんです」
我ながらいいことを言った。
科学的な事実に立脚した、すばらしいことばの羅列。そこに痺れる。憧れる!
「凄い博識なんだね」先輩はまったく含みのない調子でぼくを賞賛した。「じゃあ――」先輩はくるっと軽快に反転した。屋上からグラウンドを見下ろす格好になった。「ここからとべる?」
「ここ?」
先輩は屋上を囲うフェンスをたたく。「これをのりこえて」
「え? とべるわけないじゃないですか。グラウンドにまっさかさまですよ」
「そうだよね……」先輩は顔を伏せた。そのままの体勢で言う。「電車のアナウンスでさ」
先輩はさっきからとりとめのない話――もとい、イマイチつかみどころのない話をふってくる。しょうじき、ぼくは当惑していた。断頭台に送られたのに、身を縮めつついざ処刑台にのぼると、そこはブルーマンの舞台だったという感じである。
「黄色い線の内側にさがってくださいっていうよね?」
「いいますね」
「外側ってなに?」
ぼくらは、しばらく押し黙った。
ぼくは答えを探している。先輩はその答えを待っている。
ふつうに考えれば線路だろう。
黄色い線の外側を覗いたところで、錆びた鐵の狭軌が枕木のうえにのっている姿が見えるだけだ。おもしろいものなんてなにもない――はず。
しかし、この答えは間違っている気がした。あまりにも順当すぎる。なにも考えずに応えられるではないか。とすれば、先輩が求めている答えはもっと違うところにある。おそらく、いま、ぼくは試されている。
深く、先輩の真意を読み解くのだ。茂木孔明十七歳、これは試練だ。
あたまをひねる。
「黄色い線の内側にさがってください」というアナウンスが流れるのは、事故防止のためだ。つまり――黄色い線の外側へいったひとは、もれなく電車に轢かれてしまうわけで、「お待ちドー! 無残な轢死体一丁できあがりぃ!」ということである――なるほど。ぼくのあたまのなかの電球がピーンと点った。
謎かけみたいなもんだ。
「あの世ですか?」
先輩がぼくを見る。
その瞳はまた一段階、大きくなっていた。黒目が白目の部分を埋めている。ぬりつぶされてしまっている。
「茂木くん。あなたなら――」先輩は目を伏せた。もごもごと唇が動き、「最後にいいかな?」
先輩はふたたび、そのおもてをあげた。真剣な顔があった。彼女は、おもむろに左手をぼくへとつきだした。
左手首にはリストバンドがはまっている。およそ先輩に似つかわしくなかった。どうしてこんなものを? と一瞬だけ虚をつかれたが、答えなどすぐに出てしまった。人間の知性は過去の経験、知識から類推する……。
まずい――。
なんかイヤな予感しかしないぞ。これまでの会話の流れ的に、先輩はアレなひとだ。なんてことだ!
あたまのなかの電球の色が赤に変わる。こいつは――まったく、赤信号だ。青信号などない。みっつの灯すべてがレッドだ。エマージェンシー、エマージェンシー!
先輩の白い細腕が動く。右手の五指が左手首へと向かう。
どうかはずさないでくれと願ったが、彼女の指先はとまらない。
リストバンドがズラされた。
まさしく――予想通り。リストバンドのしたからあらわれたのは、幾筋もの痛々しい刃傷! 幾何学文様のように刻まれ、ミミズ腫れのようにもりあがっている。
眼前には切り傷。目をあげると、真摯な顔。
どうしたらいい? 助けて、ウルトラマン!
ああ、ぼくのバカ。バカヤロー。なんで、あそこで「あの世ですか?」なーんて応えちゃったんだろう?
先輩がこんな子だったなんて。識ってました? 奥さんッ!
痛い子だって識ってたら、あんなことぜったい言わなかったのに!
どうして教えてくれなかったんだ! 神さまのウンコ! こいつがカルヴァンの予定説ってヤツなのか?
くそう。くやしいのぉ、くやしいのぉ。マージャンで敗北を喫したときに運命はディスティニーしていたということか。
とっさに口をついて出たのは、
「先輩って料理ヘタなんですね」
――なにを血迷ったこと言ってんの? 俺。ここはすっぱりと縁を切るためにフォローなんかすべきじゃないのに……。
「そう。うん。そうなんだよ!」
なぜか先輩は嬉しそうだ。
「茂木くん」
ほがらかなオーラが先輩をつつんでいる。
痛い子であることも忘れ、やっぱり先輩は美人さんだなと思った。アイタタな人だってことなんて、どうでもいいじゃん。いいじゃんいいじゃん! ぼくはあたまの切り替えが光子よりも光速だった。
「えっと――」
「手紙の答え、イエスでいいかな?」
うっかり、「うん」と応えてしまうぼくだった。
おいおい、クレオパトラや小野小町の求愛を無碍にも、つっぱねるって言ったのはどこのジャーマン(ドイツ人)だ? オラァ! 喰らえ! ジャーマン=スープレックス!