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「童貞ペンギンがきたぞー!」と冬町が言った。
クラスに緊張が走った。さすがに、浣腸に走るヤツはいなかったが、間諜は戻って来た。彼は廊下へと顔をだし、センコーの出現を警戒していたのだ。
クラスメートの顔が能面に変わった。
私語が消える。
幾人かの生徒たちは、死地に赴く武人さながらに、そして、いままさに悪魔の階をみながのぼろうとしている。
つんつんと背中をつつかれて、ぼくはうしろを向いた。
ほぼ反射的に。
人間は背中をつんつんされると骨髄反射的にふりかえるようにプログラムされているらしい。まったくもって、けしからん。童貞ペンギンがくるんだぞ!
「ちょ……。花子。童貞ペンギンがくんだぞ!」
「センセーがかわいそーでしょ」幼馴染の花子は、すこしも同情している風もないくせに、いかにもイインチョー的なことを言った。ちなみに彼女はイインチョーでもないし、フーキ委員でもない。ヒラである。
彼女は、たしかに担任を童貞ペンギンといわないが、似たようなことは言う。リタイヤした亭主を粗大ゴミと呼ぶか、濡れ落ち葉と呼ぶか、そんなささいな違いでしかない。
「用事はなんだよ?」
童貞ペンギン降臨のまぎわだというのに、なんの用事だ?
ぼくは、訝りながらも花子のちっちゃな鼻を見据えた。鼻同様、ちいさなふたつの穴のかたいっぽうからは鼻毛がこんにちはしていた。――切れよ。
花子の口がゆっくりと動く、
「つついただけ」
「死ね!」ぼくはさっさとまえをむいた。
と、同時に教室の前の扉が開かれ、童貞ペンギンがやってきた。
のっしのっしとやってきた。
もしもこの世界がRPGだったなら、まちがいなくラスボスである。そんな威厳で充ち充ちている。ぴったんぽったんと床を叩くスリッパの音色だけが教室中に充満した。だれも――しゃべらない。
ペンギンの物腰をした担任は、その腹鼓をゆらしながら、教卓のまえに立つ。
突き出した腹と、まえのめりの歩き方がペンギンっぽいということで当初、彼は《ペンギン》とだけ呼ばれていた。
が――ある日、冬町が「あの顔、童貞っぽいよな」なんて言ったので、いらい童貞ペンギンと呼ばれている。
皇帝ペンギンに謝れ!
南極までいってジャンピング土下座してこい。たしかに、あの絵に描いたようなブサイク(なにそれ?)なら――一理あるなぁ、とは思うが。
彼は極上のブサイクだが、鉄拳制裁上等の教師なので不断は恐れられているからこそ、陰口で童貞ペンギンと呼ばれているのだった。皇帝ペンギンには謝罪と賠償をすべきだが、これはしかたのないことだ。きっと、こころやさしいペンペンくんはご容赦してくれるのである。
「さて――こんかいのクラス順位を発表する」
ますます、しずまりかえる教室。シーンという擬音すら封殺されてしまったかのように静謐。
ぼくらにプライバシーはないようだ。
順位が公開されるというのはPTA的にはどうなんだろう? キョウイクイインカイ的には?
トップは賞賛をあびるからいいとして、ドンケツはかわいそうじゃないか、とも思うんだけど、この童貞ペンギン、そんなことは気にしない。黙々とクラス順位を読み上げていく。
なんでも、ライバル心を持たねばらないというのが彼の持論だから。親しいトモダチが自分よりも好成績だと識れば、おのずと奮起するはずだと考えているのだ。
彼は――どうやら、ぼくたち、ゆとりが打たれ弱いことを識らないらしい。ゆとりの打たれ弱さはK-1でフルボッコにされた曙なみである。一ラウンドでタオルである。いやいや、開始二秒でいい。だって、痛いのイヤだもん。
もっとも、ぼくは成績優秀者の部類なので憂慮などしない。ほかのクラスメートのようにぎくしゃくするほど緊張もしないが、でも、童貞ペンギンの童貞らしい物言いがぼくを不安にさせるのも事実。
むんずと成績が羅列されているであろう、バインダーを開く童貞ペンギン。
まず、ブービーの発表。
佐藤さんが崩れ落ちた。
佐藤さんのトレードマークのおさげ髪までしなびてしまっているかのようだ。完全なる絶望。
ドンケツとトップの同時発表を最後にもってくるというのは、しょうじき、バラエティー番組の見すぎじゃないかな。
クラス三十五人中、ぼくは七番だった。
休み時間になって、冬町――親友だ――がぼくのところへやってきた。彼は、にへらと笑ったのちに、口をひらく。
「おまえ何番だったよ?」
「七番だ」
「あいかわらず、成績のいいことで」
にらまれた。
「ぼくは天才だからな」
冬町はぼくのことばを完全にスルー。
「俺は二五番。石綿と波幌が十三番と二十番。つまり、おまえが親始まりだな」
一般的には、マージャンでは風牌(*東西南北が書いてあるヤツ)をめくらせて親を決める。けれども、こんかいはテスト終わりの遊興ということもあり、テストの順位の高いやつが親ということになった。たいした意味はないが、だからこそ、意味をもたせようということだ。意味のないものに意味を見出す、ぼくたちの、この高尚な戯言はじつに哲学的観念のもとに遂行されているわけだ。
ぼくが親か――。まあいいだろう。
黄金の右手を見せてやる。
唸ってきたぞ。
静まれ、ぼくの右手!
勝負は放課後だ。まだ、おまえの力を見せるときじゃない!
ぼくらのやり取りをつまらなそうに見ていた花子。ワイシャツ越しに、ぼくの背中へ《へのへのもへじ》を描くという意味不明なことをしながら、言う。「またドンジャラするのー?」
「ドンジャラじゃねぇ!」(*タカラトミーの登録商標です。ポンジャンというべき)
「似たようなもんじゃん。ジャラジャラいってるし」
こう――花子とは、ほぼ生まれたときからの付き合いだが(つまり十七年)、ひとが話しているときにすぐ横槍を入れてくる。もしくは、ずっとぼくの背中に《へのへのもへじ》を描く。なにがしたいのか解らない……。
不思議ちゃん? だったらよかったのにねー。
花子のばあい、アホの子というのが正しいんだ。
アホの子と不思議ちゃんのあいだには、超えがたい壁があり、その壁を越境するにはライセンスが必要なのだが、そのライセンスを発行しているのは萌えの守護神なのでそうそうカンタンに発行されない。ざまぁ!
「話しかけるな!」
「コーくんのイケズぅ」
「コーくんって呼ぶな!」
花子はシナをつくったが、魅力はゼロ。あたりまえだ。お互いにあいてのうんこもシッコも見てきたなかなのだ。お互いに全身全霊をもって、すべてを晒けだしあった仲とも言える。そんな関係性の、どこに魅力を感じるというのだろう。無理、ぜったい無理。不確定性原理。
「そうだぞ。コーくん」冬町が言った。
「おまえも呼ぶな!」
ぼくの本名は茂木孔明という。
とうぜんのように、諸葛孔明がモトネタだ。パパンが三国志演義マニアなのだ。ママンは三国志正史マニアなので、ふたりのあいだに論争は絶えない。けれど、名付けに関しては満場一致だった。
べつにコーくんというあだなが嫌いなわけじゃないんだけど、しまりが悪い(*性的な意味ではない)ような、むずがゆいような気がしてできるだけ呼んで欲しくないのだ。両親からも呼ばれているせいで、こどもあつかいを受けているような――つまるところ、背伸びしたいお年頃的にはそぐわない。
冬町も不断は孔明と呼んでくれる。
花子には、いくどとなく、呼ぶなといってきたのだが――、
「私のコーくんはさぁ」
「かってに所有物にしないでほしいんだけど」
「じゃあ、ダーリンは――」
誤解をまねくようなことを……。
ぼくは花子から目を離し、
「冬町。そとへいこう」
「了解。了解」
忍び笑いをする冬町の襟をひっつかみ、ひきずってぼくは廊下へ出た。落ち着いて話をするためだった。
廊下にはペンギンがいた。でっぷりおなかをひっさげている。
彼はだいぶ後退している髪の毛を掻いた。それから、ぼくらをまじまじと舐めるように見た。
とっくに休み時間は終わっていたのだ。
童帝(ガールズ=インビジブル=マスター)は言った。「教室、戻れ」
ぼくらは即時撤退を決めた。イタリア軍もびっくりのシッポのまき具合だったと思う。エチオピアこええええ!