6-2
家庭科室のとびらの鍵はあいていた。もしもしまっていたら窓ガラスを破壊して進入するつもりだったのだが、その必要はないようだ。しかし、鍵があいているということは、なかにだれかいることを意味する。
「どうした?」白面さん。やっぱりか、と思った。
「腑分けでもしてるのか?」
彼女はなにをするでもなく、トライポッドに掛けていた。伸ばした両足を中空でぶらんぶらんとさせている。
学校中が先輩のせいで大童だというのに、ひとりでこんな場所にいるなんていかにも、らしい。
「いや……。孔明くんは、なにをしに?」
「包丁を取りにきた」
「なにに使うの?」
「先輩を刺す」
白面さんは細い目をしてぼくを見た。それから、首をかたむけ、マイペースさまさまに言った。「飛べるか、飛べないか。それが問題だ。we can fly or cant, that's a ploblemってことか?」
「いちいちシェイクスピアっぽく言わなくていい」
「鳥っていうのはね、孔明くん」白面さんはトライポッドからたちあがり、教室の壁面に右手をなぞらせながら歩き出した。その背中を追う。
「?」
「哺乳類よりも新しいんだ」
「なんの話だ?」
「竜脚類が跳梁跋扈していた時代にも、すでに哺乳類はいた。けど、鳥類はいなかった。いや、いたにはいたんだけど満足に飛べなかった。翼竜であるプテラノドンは飛翔能力を持たなかったから、空を満足に飛翔する存在はおおくはなかった」
「なにがいいたいんだよ?」ぼくは焦れていた。ぼくは一刻も早く先輩のもとへ馳せ参じなくちゃならないのに……。
「恐竜は飛びたいと思ったのか? だから数千万年かけて鳥になったのか? 竜脚類の祖先である爬虫類はいまでも世界にいっぱいいるのに? とべてよかったの? 彼らはいま、この星のどこにもいないのに」
「そんなこと、解らないよ」
「ペンギンはとべない。ダチョウもとべない」
「ぼくと同じこというなよ」先輩にもおなじことを言った憶えがある。
「愛だな」
「きゃっせん」
「む――。鳥瞰して解ることもある。けど、解らなくなることもある。地上から見た円錐を、真上から見たらただのサークル。強烈な光で陰さえもなくしていたら、それが立体物であることにも気づかないかもしれない。必要なのは――あなたが懸案しているそのひとは地上にいるから、円錐をサークルだと思っているのだってこと。
蟲の目――虫瞰だっておなじくらい大切だ。巨人の産毛をみるために巨人同士なら目を凝らさないといけない。しかしだよ、小人にしてみればその産毛は剛毛――もとい、なにか蔓のようなものにさえ映ってしまうかもしれない。だから……」
白面氷柱はなんでも知っている。いつも長口上でぼくを煙にまく。けれど――それはとうぜんのことだ。彼女は宇宙人のスパイ。
先輩とはじめてのデートのときだって、ぼくよりも先輩のことに詳しかった。彼女は、いま、飛び降りしようとしているのが縄架黒紐であり、彼女をとめるにはどうしたらいいのかということを語っているのだ。
先輩がかごの中の鳥なら、白面さんもそうだ。
寺院船というかごのなかで暮らしてきたのだ。
先輩はいま、逃げようとしている。この世から。
しかし嘱目のなかの、この宇宙人は先輩とはまったく違う――正反対のベクトルで生きている。だけど、ぼくはかごのなかの鳥になったことはない。だから、彼女たちの気持ちは解らない。
同じ道にいながら、その岐路で、ふたりの少女は違う道を進んだ。でも、道は後戻りだってできるのだ。なにも断崖絶壁から身投げする方法にたよることはない。先輩と白面さんは違う。その点で根本的に違う。
先輩はあんなに気に病んでいたけど、
先輩のオヤジさんは、
――そんなに悪いひとじゃない。
ちょっと娘との接触のしかたが解らないだけだ。なんだ。ぼくの父さんといっしょじゃないか。ちょっと不器用なだけなんだ。みんな、不器用だ。ぼくも含めて。
そして、不器用だけど、ぼくは――。
「見せてあげればいい」ぼくは宣誓するように言った。
「そういうこと」白面さんはほほえむと、ぼくになにかをつきだしてきた。ぎらりと銀色に光る刺身包丁だった。「もっていくといい。切れ味は抜群だ」
「世話になったよ。白面さんって意外と――」
「氷柱、そう呼んでほしい」
「了解」
ぼくは包丁を鞘のままベルトに差込み、屋上を目指した。
雨がふっていた。
いつのまにふりだしたのか、ぼくと氷柱の会話中に、だったろうか。しかし、そんなことはどうでもいい。
教師たちが塔屋につめていた。そのわきをすりぬけようとすると、肩をつかまれた。よびとめられたのだときづいたのは剣呑な声がぼくへと突き刺さったからだ。「おまえ、どこへいく?」
悲壮感にあふれた教師の顔。
そりゃそうだ……ことが公になってしまえば、謝罪すべきでもないのにマスコミなぜか謝ることになるのだから。
ぼくはいった。「説得してきます」
「できるのか?」
だれもが臆して屋上へいきたがらない。
みなが遠巻きに見物しているだけなのだ。生徒たちは屋上への階段には、陽から逃れる低推移の三面側溝のザリガニのように犇いている。みなが、腫れ物に触りたくはなかったのだ。だから、ぼくはメシアのように彼らの目に映っただろう。彼らは道をあけた。
先輩はフェンスの向こう側にいた。
背中をフェンスにおしつけている。
ちかづくぼくの足音にきづいてか、彼女の上半身がこちらを向く。「おはよう。茂木くん」
綺麗な髪をずぶぬれにした先輩。額にはりつき、肩口にはりついている。貞子みたいだった。
セーラーカラーが萎びれ、上着は水で透けている。ブラジャーの線が見え、どうしようもなくエロティックだった。
「もう夕方がちかいですよ」冷静に言った。
意外とだいじょうぶじゃないか、先輩は。なんて思ったのも束の間のこと。
「裏切りもの」
「え?」雨脚のむこうがわの先輩がくすんでみえる。
「きのう、どこにいたの?」
「自宅だよ」
「じゃぁ、質問をかえるね。だれといたの?」底冷えのする声が空気を凍てつかせながらやってきて、ぼくの耳朶を氷結する。
「……」
「ねぇ? だれといたの? どうして応えないの? なにか、後ろめたいことでもあるの?」
「白面さんと……」
「そう。あの子、かわいいよね。このまえお弁当食べてたときにやってきた子でしょ? 私とは違ってかわいいよね。ああいうのがすきなんだ?」
「先輩だってかわいいですよ!」
言ってからきづいた。失言だった。
「だって? 先輩だって? 認めるんだ。白面さんがかわいいって認めるんだ! この、嘘つきッ!」先輩はあらんかぎりの声量をふりしぼった。「はなさないっていったくせに! いったくせに!」
「先輩は婚約者のことで……」
「佐藤からでもきいたの? 別にいいけど……。婚約者とかそんなことはどうでもいいの。そんなことはもういいの!」
あやまってはいけないと思った。
ぼくの優柔不断な態度がまねいた事態だったとしても、先輩にここで謝罪してしまったら、彼女はかわらないと思った。
「どうして隠すんですか?」
「え?」
「どうしてリストバンドをするんですか?」
「ひとに見せたくないからに決まってるじゃない!」
「どうして見せたくないんですか。ひとはなぜ、傷に包帯をまくのか、先輩は知ってますか?」
「……なにを? いってるの?」当惑する先輩。
「傷を癒すだけじゃないんですよ。包帯をまくのは傷を見たくないからです。先輩はリストカットの傷跡をたにんに見せたくないんじゃない。自分で見たくないんだ。みじめな気持ちになるからッ!」
先輩がことばに詰まった。
ぼくたちは見詰め合う。
髪がびしょびしょになった。
雨音だけが屋上を支配している。野次馬たちもいたって静かなものだ。咽を鳴らす音さえ聞こえてはこない。
先輩の視線はぼくから逸れることはなく、それはぼくとて同じだった。
無言。
目力勝負でもあるまいに……。
沈黙を破砕したのは先輩。「ねぇ、知ってる? 茂木くん。鳥はとべるのに人間がとべないのは、神様が意地悪だからだよ。どうしてなんだろうね?
自身の似姿として、楽園で囲い飼うほどにかわいがったはずなのに、私にはなんで羽根がないのかな? じゃぁ、どうして神様は鳥をつくったのかな? そんなことしたら、人間がうらやましがるって解らなかったのかな? 全知全能のくせにバカなのかな? かな?」聞き取れないほどの早口。まくしたてる先輩。いいしれぬ恐怖。「天使の羽根は、鳥の羽根。悪魔の羽根は、コウモリの羽根。なんでかな?
結論はね、とってもかんたんなんだよ。神様は天使をうやまわせたかったんだよ。コウモリさんは哺乳類だから。神様はコウモリを醜くつくったのは、きっとおなじ理由なんだよ!」
ぼくは歩をすすめた。
先輩。あなたは……。
「こないで。私は死ぬ。もう死ぬ。狂言じゃないから!」
聞かない。耳はかさない。
ずんずん接近する。
「私のことはなさないっていったのに、いったのに! ほかのオンナノコのところで……。やっぱり私はペンギンなんだッ!」
先輩、知ってますか?
――クライストは言った。「いままでさんざんに神をこきおろしてきた無神論者は数あれど、悪魔をこきおろした無神論者を私は識らない」
ぼくは無心論者なんですよ。
それにいったじゃないですか……ペンギンはおいしそうだねって! みすみす、うまそうなお肉を、沙でべとべとのミンチにはさせませんぜ。
ぼくは走り出す。
水で滑りそうになるが、気にしない。
フェンスをはさんで対峙。彼我の距離は三十センチもはなれてない。先輩は泪目になっていた。
「先輩」
「……」
ベルトに手をかける。
しゅんかん、鞘から包丁をぬき放った。
ぼくは問答無用で細い刃の刺身包丁をフェンスの網目のはざまからつきだした。雨粒にきらめく、刃先が先輩へ向かう。
彼女の頬がひきつった。
彼女が包丁の横っ腹をたたいた。
柄が網目にひっかかり、ぼくの手から滑り落ちる。そのまま包丁は校庭へと落下した。かきんかきんと不快なエコーをさせながら。
「なにするの! 死ぬじゃない!」
怒っていた。
生命をおびやかされた人間の目だった。
ぼくは安堵した。
これでいいのだ。ぼくは、先輩を刺すつもりでつきだした。これに嘘はない。殺すつもりでやらねば意味がない。けれども、それはあくまでも先輩が反撃や回避をしなかったならば、だ。彼女がさけたり、たたきおとしたりできるスピードでぼくはつきだした。それは彼女のホンネを知るためだった。
ぼくは深呼吸をした。
「先輩」力強くよびかけ、先輩を射抜くように見る。否、見つめる。視線で殺すほどの強さで。「対外的に自殺願望があるってひけらかしているひとって、死にたいっていいますよね。でも、殺してくれとはいいません。
先輩が殺して欲しいというのなら、ぼくはいくらだって、あなたを殺してあげます! でも、あなたはぼくに殺して欲しいって言わない! こうして、ぼくたちのまえで死にたがるだけなんだ! ぼくがここで、ちょっとした心遣いであなたを刺し殺したら、あなたはぼくをきっと恨むんです。だから、刺そうとしたんです」おおきく深呼吸。宣言。「あなたは死にましぇんッ!」
「……そんなこと言ったって! ここから飛べば死ねるもん! 私を裏切った孔明なんかッ!」
先輩が飛び込みの準備をする。ぼくにカンペキに背をむけた。だめだ……。手をのばしたい。しかし、フェンスが――。
そのときだった。
ずばっとフェンスを越える陰。
ん? と視線をそそぐ。
「バカか! おまえはバカなのか!」
「あなたは?」怪訝な先輩。闖入者に敵対する両目。
「私は白面氷柱といまは名乗っている。孔明くんからラブレターをもらったもののひとりだよ」
「そんな……やっぱり死ぬ!」
「だから、おまえはアホなのだッ!」師匠が降臨した。
「なにを……」
「あなたは飛びたいの?」
「飛べないから……こうしてるんじゃない!」
「アホだな。度し難いアホだ。
飛ぶ勇気もないのか? さっさと飛べよ。おまえがその口でバラまいているくそったれな音節は、なにを指している? フェンス越えたら、おまえは重力に逆らうすべなく、そのまま自由落下するしかないという意味か? それともまえへ進み跳躍する気概の欠如の比喩表現か? ま、そんなことはどっちでもいい。だって、おまえには二本の立派な脚があるだろう!」氷柱はトーンを落とした。いままでの怒声じみたものとはうってかわり、「あなたには立派な脚がある。そして、あなたは大地を踏みしめているじゃないか。縄架黒紐。あなたは識っているか? 踏みしめるべき大地もない場所があることを。一粒の沙もない場所のあることを」
「なにをいってるの?」
「縄架黒紐。あなたは神さまを信じている?」
「そんなの信じない。神さまはなにもしてくれない。なんども祈った。でも全部、無視された! 私にツバサをくれなかった」
「そうだ。なにもしてくれない。私もだいきらいだ。だから、神さまを恨め。神は天罰などくださない。神の仕事は恨まれることだ。だから、すきなだけ呪え」ふふふ。「そして――」
氷柱が張った。
張られた先輩は、
「なにするのッ」
こんどは殴られる先輩。
フェンスからうっかりおちてしまわないような絶妙な角度で氷柱は彼女を殴打していた。ぼくはどうすることもできずに眺めているしかない。
「あなたのフィアンセが政略結婚の故だというのなら、そいつは哀しまないだろう。でも、あなたが死んだら孔明くんが哀しむ。だから殴った」
長い沈黙の開始だった。
事態の展開にさすがに耐え切れなくなったのか、三年の学年主任の先生と体育教師がひとりこっちへ歩いてきている。
彼らはあすにも地球が終わるんではないかという危惧と、しかしこの事態を収拾しなくてはならないという正義感とでマーブリングされた顔色でぼくを見た。ぼくは、ただうなづくしかなかった。
フェンスのむこうでは、ふたりのオンナノコが睨み合っている。
先輩はいつになく激昂し、
氷柱はいつもどおりの冷静さをもって。
山の手からバリバリと乾いた音。雷がおちたみたいだった。雨脚はどんどん強くなり、横殴りになった雨が痛い。
センセーたちがふたりになにごとかを言う。ふたりは無視する。
完全な膠着状態。
ぼくの見立てがあまかった。
ぼくのプランでは、とっくに先輩はこちらがわへと帰還していてしかるべきだったのに……。
どこでまちがったのだろうか。
ぼくは――、「優柔不断だ」しぼりだす。「あのときはああいったけど、決められない。先輩。ごめんなさい」
嗚呼、なんてなさけないんだ。
いきまいて先輩を救おうなんてして、それがこのザマだ。
沈黙の格子がはずされた。「……やっぱり、神さまはいないよ」
「そうか」
「だから、代わりにあなたをのろっていい?」
「もちろんだ。あなたと私は好敵手だ。好敵手はおたがいにおたがいを認め、貶し、責め、癒し、あいてに負けんがため切磋琢磨して研鑽にいそしむものだぞ。故、ぞんぶんに呪うがいい。
その代わり、私を呪い殺せるまで死ぬなよ。ユーレイになっても呪いなんてできないんだから。呪いでひとは殺せない。呪いで夢は適わない。ユーレイは眠らない。だから夢もみない」
「誓うよ」
氷柱が先輩をだきかかえるようにして、ひとっとびでフェンスを越えた。彼女はやりとげた感いっぱに言った。「孔明くん。解決したぞ」
「ずるい……」
「なにが?」どうなった?
「氷柱さんだけずるい」
「だからなにが?」
「きょうから孔明くんって呼ぶよ。いいかな?」
拍子抜け。
なにが起こったのか。問題は解決したようだった。
先輩は晴れ晴れとした顔をして、気力にあふれていた。
ぼくはとりあえず先輩の手をとって言った。「よろこんで」
「それから、恨むことにしたよ」
「神様?」
先輩はくびを横に振る。「うぅん。それもそうんなだけど……もうひとり、ね。孔明くん、あなたを。あなたは私を刺そうとしたんだから。いいよね?」
「天使に恨まれるなら本望です」
「「え?」」重複。ふたりのハーモニー。おたがいの『え?』のしめすところはまったく違うのかもしれないけれど、ぼくは気にしないふりをして言うのだ。だってぼくは、ジェントルメン。
「ツバサなんかなくったって先輩は天使なんで――うぎぃ」
足の甲が踏まれた。
ぐりぐりぐりぐり。
踵がめりこむ。
「残念だなぁ」氷柱が言った。
そのとき、地球が震えた。