6-1
六
「飛び降りだって!」
心臓が跳ねた。
会陰に小骨がつきささったような不明瞭な不快感。
ぶるっと背中をぼくは震わせて、あたりをみまわした。だれが「飛び降りだ」なんていいやがったのか、さぐるつもりだったが、解らなかった。もし解ったなら、ぼくはそいつをぶちのめしたかもしれない。
教室全体が地震でもきたかのごときざわめきで溢れかえっている。事態を収拾せんと、目をつりあげ、大声でわめきちらして、童貞ペンギンがいきまいているがまるで効果がない。それもそうだ――このHRが終われば放課なのだ。
みな、うずうずしている。
浮き足立っている。
その――飛び降りとやらのことであたまがいっぱいなのだ。日常の繰り返しの産物であるHRなどあたまの片隅からこぼれおちている。むくむくと、日ごろ抑圧されている野次馬根性が芽をだしている。
ぼくもご多分に漏れない。
しかし、ぼくのばあい、飛び降りそうな知人がいるからにほかならなかった。野次馬的な喧騒の列にくわわる気などおきるはずがなかった。先輩が心配だ。いやな予感があっというまに育ち、こころを埋め尽くし、支配する。
痺れをきらした童貞ペンギンが言った。彼はそうとうにご立腹だった。「HRは終わりだ。解散!」
あっというまに教室が空になった。
クモの子を散らすとは、まさしくこの光景のことなんだと廊下を駆けていくクラスメートたちをぼやけたまなこで見送った。
ぼくは動けないでいた。
冬町も花子も物見遊山にいってしまっている。ぼくだけがぽつねんと教室に残された。足が動かなかったのだ。もしかしたら? が顕在化して現実としてぼくのまえにふりかかってくることがなににもかえておそろしいのだ!
どれくらいぼくは硬直していただろうか?
意識を取り戻させたのは、年配の男性の声だった。「きみ!」
見知らぬ男だった。
高そうなスーツに身をつつんで、かなり顔立ちのよい彼は、五〇手前くらいに見えた。かなり憔悴した様子に見える。反面、双眸だけはギラっとひかっていて不気味でもある。いったい、ぼくになんの用だ?
彼のうしろからもうひとり男がやってきた。こちらは三〇歳くらい。背が高い。そして、不本意にも面倒ごとに巻き込まれてしまったという顔つき。その態度を隠そうともしていなかった。優男――というよりは軽薄と形容すべき男だ。
壮年のほうが大声で言った。「どうにかしてくれ! きみは――黒紐と仲がいいんだろう!」
? なんだ?
ぼくはつとめて冷静に訊ねることにした。「それは、いったいどういうことなんですか?」
「屋上で――」彼はことばをいったん切って、ひげの剃り跡が青々しいあごをなでまわして、つづける。「黒紐が……」
彼はこれいじょういわなかったが、ぼくには事態が飲み込めた。
やはり、飛び降りをしようとしているのは先輩なのだ。しかし、しようとしているのであって、完遂してしまったあとじゃない。だからこそ、眼前の男はぼくに助けを請うているのだから。このことは救いだ。まだ引き止める機会があるのだ、と思うとすこしだけ楽になった。
そして、こんなことを頼むような人物のこころあたりはひとつしかない。
そう――。
「あなたが黒紐先輩の父さんですか?」
「そうだ」鷹揚に言う。
「その……いいづらいんですけれど、先輩がリストカットしていたのを知っていましたか?」
「なんですって!」優男。
ぼくは優男を見て言った。「だれですか。そのひと」
「黒紐の婚約者だ」先輩の父が優男を指し示しつつ、説明する。
「で、知ってたんですか?」
「お、俺は知らなかった。知ってたら、そんな――」
「東二町くん……きみにはきいていないと思うんだがね……。彼は」とげとげしい声で先輩の父。
「……知ってたんですか?」
「知ってたよ……」
「どうしてほうっておいたんですか?」
「いまはそんなことを言ってる場合じゃないんだ! 火急なんだよ。きみだって解るだろう?」
「そうだ! そうだ!」……なんだこの東二町という男は。先輩のオヤジさんの背を盾にして文句をいってやがる。
「だから東くん! 黙れと言っている!」
「う……」
「なんとかしてくれ」
「そんなこと言われても困ります」一息。「ぼくは、先輩が手首を切る理由が解らなかったんですから」
「解らなかった?」
「いまはなんとなく解ります」
「なら――」
「先輩は、あなたが嫌いだと言っていました」
苦悶の表情。それほど悪いひとではないような気がした。「解ってるさ。年頃の娘にどう接したらいいのか、こどものないきみには解るまい」
「だから放置したんですか。それって言い訳なんじゃないですか。先輩のはなしにちゃんと耳を傾けたこと、あるんですか? もしかして、あなたをがんじがらめにしているのは世間体ですか?」
「そうかもしれない」
先輩の父がぼくから顔を反らす。入れ替わりに優男が割って入ってきた。彼はいたけだかも大概にしろとといいたくなるような横柄さでぼくに言う。「きみさ、学生みたいだから解らないかもしんないけど、おとなってのは世間体が大事なんだよね。人間はね、タテマエで生きているんだよ。ホンネなんてものはだれも気にする必要はないんだ。――愛とか勇気を信じろとかそんな、絵空事を声高に宣言するなんてのは、アンパンマンだけで十分なんだよ!
だからさぁ、はやく彼女をどうにかしてよ。彼女に死なれたら困るんだ。まぁ、彼女がリストカッターなのはしょうがないよ。それはいいさ。一応、A社の娘なんだから価値はあるわけだからね。身体つきもいいし。それに――」
「どう困るんだ? 東二町くん」
「そりゃ、世間体に決まってるじゃないですか。お父さんもそうでしょう? だから、黒紐さんのリストカットの件をぼくに話したがらなかったんでしょう? 隠してた理由はそれじゃないですか。
でも、俺はこころが広いですから。どうせ、セックスしてこどもをつくればいい関係な……」
「私の娘の誕生日はいつだ?」
「えっと……」
「そいつを連れて行け」
いつのまにかコワモテのスーツたちがいた。SPなのだろう。先輩のオヤジさんの命令で東二町さんがしょっぴかれていく。
なんてヤツだ。
ぼくだってあたまのなか、妄想の世界でなんども先輩とセックスしたさ。先輩はあんあんといい声で啼いたさ。あの巨大なメロンもぐちゃぐちゃにもみしだいたさ。……だけど、それをおもてにだしちゃいけない。それこそ、タテマエなんじゃないか? こいつは……いっていることが矛盾している。いわないことも優しさじゃないか。
こいつにとってのタテマエは、都合のいを意味している。
先輩は、きっと、そうだ――。
お父さんのことが嫌いだったんじゃない。こんな男のもとにとつがせようとする父親が嫌いだったのだ。だってそうだろう? 先輩はこれまでに何度か、パパの話をしてくれたじゃないか。ママの話は一度もしてくれたことがないのに、だ。
彼はほざく、
「な、なにをするんですか! 俺は婚約者ですよ!」
「婚約破棄だ」
「どうなるか解っているんですか! あなたの会社がいまどんな状況にあるのか。俺だって知ってるんだぞ!」
「ふん。いいことを教えてやる。東くん。私もひとの親なのだよ」ぼくのほうを向く。「茂木くんと言ったかな。きみ……。きみが黒紐を助けてくれるのなら……、娘の思うままにきみが加担してもいい」
「どうして自分でいかないんですか」
「解ってくれ……。私はなさけない父親なんだよ」そう言って縄架氏は深く深くこうべを垂れた。
「婚約を、先輩がのぞんでいないことも知っていましたか?」
「そんなことまで娘は話したのかい?」
「はい。それで――このまえ遊園地で……」
「ああ。あのときは――」
「先輩を叱りましたか?」
「いや……。佐藤。運転手の佐藤だ。きみも知っているね?」ぼくは首肯する。「彼が命をかけてもいいからと懇願してね。それにさいきん、娘は自傷行為に及んではいないようだった。メイドからきいた話にすぎないのだけれど……」
「解りました」とぼくは言った。
屋上にいかねばならない。
「娘を頼む」
でも、
そのまえにぼくはしなくてはならないことがあった。ぼくは急ぎ足で家庭科室へと向かった。