4-3
カーテンのしまったワンルームには陽光がわずかしか届かない。もともと立地がよくないせいもある。日照権的には完全にアウトだろう。灯のすくない部屋は、木目調のフローリングは灰褐色にすら見えた。
ぎしぎしと金属同士がこすれる独特の音がする。軋むスプリングじみた音色はやや不快感を呼び覚ます。
六畳間にぽつねんと置かれたソファにしどけなく座りつつ、氷柱は壁際の年代もののテレビへと視線をそそいでいる。
てっぺんにアンテナをのっけた、ダイヤル式の赤いテレビジョンは電源はついておらず、ブラウン管に光はともっていない。沈黙しているスピーカー。もとい、コンセントじたいが抜けていた。灰色の、なにも映さぬガラスを彼女は呆然と見つめているだけだった。まるで意味がない。
不意に、氷柱が口を開いた。
彼女はゆっくりとした口調でよびかける。
「なぁ、オービチェ」
傍らをみやる。
オービチェと呼ばれたそれは、黒いスフィアだった。
なんの原理でそうなっているのか検討もつかないが、中空にブレることなく泰然として浮遊している。口もないというのに、ボーリング球じみたそれは応えた。ぎしぎしと唸りながら。「なんでしょうか?」
「我らヴォールピの歴史とはなんだ?」
低いが穏やかな声音だ。「とうとつな質問ですね……。しいて表現するとするならば、流浪の歴史でしょうか?」
「何万年こうしてきたのだ?」
「解りませんね」
「なぁ、飢えたものは、どうしても糧を得なくてはいけないのか?
老いた獅子はひとを襲うという。ひとはまずいんだそうだ。でも、老いた獅子はジャッカルを狩るちからも、ハイエナをけちらす覇気もない。だから、ひとを食う。いいのか? それで? 百獣の王はそれで満足なのか?」
「と、いいますと?」
「襲い掛かってくるわけでもないのに、窮鼠はネコを噛まねばならんのか? 窮鼠がカピパラであいてが子猫でもいいのか? 成り立つのか? それは窮鼠なのか? ただしょうしょう憔悴しているだけで」
「おっしゃっている意味が解りませんが?」黒い球体はぶるっとふるえた。困惑しているらしい。
「我らが故郷を追われたのいつだ?」
淡々としてオービチェは応答する。「標準歴一七六五年です」
「私たちは、なにかを忘れていると思わないか?
私は故郷タルティーンを識らない。私は生まれてこのかた、地球に派遣されるまでずっと暗い舟のなかだったからね。世界はことさらに狭かった。いつもエンジン音がした。そして、自由意志もなくテンプラーたちに導かれるままだった。
彼らの言葉は絶対だ。おなじ種だというのに。彼らはマシンでもないというのに。盲目とは恐ろしいな。私は歯車なのか? 取替え可能なのか? いくらでも子宮でつくればいいのか? そして――私が雌性なれば……」
「そんなことをいってはいけません。処罰されます」黒い球体はやや声をひそめて、たしなめた。けれど、氷柱はとまらない。
「考えてもみろ。
そのテンプラーも果たして古の教えをきちんと受け継いでいるのかもあやしいじゃないか。有機体は三年で完全に構成する物質が完全に入れ替わるのだ。記憶など一日であやふやだ。脳はファジィだよ。ファジィだからこそこの世界を寛容に把握できている。だけど、長所はときとして弱点になりかわる。
やっぱり、忘れているものがあるんだよ。なぁ、オービチェ。あるだろう!」
「さぁ……?」
「おまえは識っているはずだろう? おまえは死を識らぬマシンではないか。なぁ、オービチェ。タルティーンはどんなところだった?」
「地球に似ていましたよ。海面面積は多かったし、サイズもやや大きかったですけれど。高等生命をはぐくむ環境というのは往々にして卑近するのでしょうね。じっさい、あなたはホモ=サピエンスと見かけ上の差はないですから。
宇宙の意思とまではいいませんが、分子原子の構造が宇宙に汎的ならば、そうなることは必然でしょう。故、珪素生命の発祥には、なにがしかの問題点があるものと思われますよ」
「そうか……」氷柱は深くうなづく。「衣食足りて礼節を識る。それはいい。けれど、衣食がなくても笑いとばすことができないだろうか? 不可能だろうか?
私はそうは思わない。
飢えて死ぬとしても、笑って死ねればいいではないか。醜く生きながらえることにどんな価値がある? ――そう思うのだ。我々は種の保存に固執するほど低俗ではないはずだ。きっと、万年の孤独と閉塞が私たちを硬直化させたんだ。啼かぬなら啼かせてみようホトトギス。おもしろくない世をおもしろく。あらためんとする精神のないぬけがらほど滑稽なこともないよ」
「つまり? 我らヴォールピには笑いが足りないと?」
「そうだ! そうなんだよ。さすがじゃないかッ! おまえはよく解っている。だてに長年の叡智と知識をもっているわけじゃないのだな!」氷柱は目を輝かせた。爛々とした双眸がオービチェへと熱い眼差しを与える。「ちょっとまえにな、とてもおもしろいギャグを聞いたのだ。あれは絶品であった。まるで雷にうたれたかのような――、電撃が走ったかのようだった。
私は派遣に際し、地球の歴史や社会風俗は学習したが、シリアスすぎた。私はもっと俗的なことを学ぶべきだったのだ。だから、あの日以来、私はテレビを見ている。深夜の――」
このまま放置していると、こちらの相槌など関係なく、話が延々長くなりそうなのでオービチェは横槍をいれた。
「どんなギャグだったんですか?」
氷柱は身振り手振りをまじえて、熱心にオービチェへ説明した。孔明のウォールギャグを説明してやった。白熱していた。彼女は真剣だった。電撃がはしったみたいだったということばにウソ偽りなど微塵もなかった。しかし、
オービチェはなにも応えず、ぶるっとふるえただけだった。
球体の反応などおかまいなし。氷柱は続けて、
「ギャグ。そう、ギャグが言えればきっと私たちも少しはいい感じになる。と、思うんだよ。
笑いは世界を救う。私たちの狭い世界を救済するんだ。どうしようもなくなってしまった閉塞感、悲観的な精神のうずまき、そういったものから脱却することができるはずなのだ。もう新しい郷里を捜すなどという蒙昧な考えを捨てるだろう。なぁ、オービチェ。そこのところをどう思う?」
「はぁ……。そこまでギャグが大切だといおっしゃるなら、まずはあなたが実践すべきですよ。いいだしっぺが船頭になりませんとね。ですから、このサイです。――なにか言ってみては?」
考えること五秒――、
「うんこ」
「あなたは小学生ですか! そんなのギャグにもなってませんよ。やはり――単にギャグだと間口が広過ぎましたね。ここはもっと的を絞るべきですね。では、一発ギャグとかどうでしょう?」
「一発うんこ」
「もっと――ひねって」
「ひねったうんこ」
「……」
***
「まずいよ。花子ぉ……」
「なに言ってんの! ナギちゃん」
「こんなデバガメ……よくないってッ!」
「事件は会議室でおこってるんじゃない! 遊園地でおこっているのだ!」
と、まあ、ふたりは遊園地にきているのである。
電車で三時間というすばらしい遠出であった。こんなに遠くまで出張ったのは中学の修学旅行以来のことなのではないか。
花子は貧乏性まるだしのなさけない顔をしながら財布を開く。なかみを数える。嗚呼……夏目さんが券売機にすわれていく光景を思い出すにつけ鬱が入る。電車賃だってバカにはできないのだ。
「事件って……」
「これは重大事件なのだよ」
花子は鼻を鳴らす。
「ひとの恋路を邪魔するやつはウマにけられて死ぬよ?」
「ウマなんぞいないからだいじょーぶ。牧場とか臭いからきらいだし。ウマはかわいいとは思うけどね」
「じゃぁ、現代風にアレンジして、車に轢かれて死ぬよ?」
「だいじょうぶっていってるじゃん。だってこれはオフィシャルな活動なんだから。公認されているんだよ」
「え?」
「さっきナギちゃんにチケットわたしたよね?」
「うん。だから、いまから代金を――」
ナギは肩掛けポーチのチャックを外そうとした。
それを花子が制止。
「払う必要ないよ」
「なんで?」
「これはね……じつは、コーくんのお父さんからの捜査依頼をいただいているのだよ。ナギ捜査官。だから、チケットももらったわけですよ。うん。よって払う必要はないよ。どうしてもっていうのなら、身体で払っても……」
「じゃぁ、払わない。茂木くんのお父さんに払う」
「ちぇー」花子は口をとんがらせた。すぐさま真剣な顔になる。「男には第二の脳がある。ゴジラも股間にあるが、人間もそうである。しかし、それはオスのみにある。男性の犯罪は、女性にくらべて十代後半から二十代後半にかけてが多い。それは性的な欲求のなせるわざである。と、コーくんのお父さんがいったわけよ」
なんか始まったよ……とあたまをおさえつつ、ナギはさきをうながすことにした。「で……?」
「第二の脳は強力無比である。権力構造的には国会いじょうに各省庁が実験をにぎっている日本の政治機構のようなものだ。だから、間違いがおこるかもしれない。俺は息子のムスコ――すなわち孫――が理性的であると望むが、現実はつねに悲観すべきだ。もしも、孔明が暴走したばあいボコボコにしてもらいたい」
鞄からバールのようなものを取り出す花子。
バールのようでいてバールではない。なんだろう? 気にはなったものの、ナギは追求しなかった。
「……」
「ほら、ちんたらしてると置いてかれるぞ!」花子が走り出す。
眼前に捉えているのは、孔明と黒紐のうしろすがた。雑踏のなかにまじっていても、それと解る。縄架黒紐はまれに見る美人に相違なく、かたや孔明は花子にとって見慣れた存在だから見間違いはしない。
ふたりは口惜しいことに手を繋いでいる。
ぎゅっと繋いではいない。
じつに初々しいことに、そっとあいての掌に自分の掌を重ねているのだ。まだまだ付合いはじめて日が浅く、しかし着実に両者のこころが接近していることを、その光景は証明していた。
パーペキすぎて目に毒な青春模様である。
目が目が!
まさにムスカる。きゃきゃうふふといった甘い吐息がこちらまで空気を媒介にしてやってきて、ウボワーとなりそうである。視覚だけではなく、嗅覚にも大ダメージ。精神的攻撃力も生半可なものではなかった。
花子の両眼が赤くきらめく。そして、ダッシュ。ロケットスタート。
砂埃をふきあげるかと思うほどの、花子の疾走っぷりを唖然として見ていたナギだったが――、
「あ、まってよ!」
あわてて追いすがった。
「まずは昼食のようですな。ナギ捜査官」
「……」
「ふたりがさ、なんていってるかきこえる?」
花子は耳が悪いようだった。ナギにはきちんと会話の内容が聴こえている。ちゃんと耳掃除しているんだか――。彼女はハァとわざとらしく嘆息してみせた。しかし、花子は催促する視線をよこし続けているだけで変化なし。
黙っていてももちろんよい――のだが、あとあとが怖い。
花子のことだ、じつはきこえていることがバレたしゅんかん、『ワキガ伝説』とかいうあだ名をつけてくることだろう。そんなのイヤだ。『ワキガ女王』くらいのあだ名であるなら許せるが、<ワキガ――そして伝説へ――>なんてなりたくはない。しぶしぶとナギは応えることにした。
花子にだけ聞こえる程度に声量をしぼるもの忘れない。ナギは優等生的だった。
「先輩曰く『おなかがすいたよ』。茂木くん曰く『じゃあ、マックにしましょう』。先輩曰く『いいな。マック。いこういこう』」
「子曰く、君子は道を謀りて、食を謀らず」
ナギはふと疑問を覚えた。口にする。「ところで、先輩ってあんな話し振りだったっけ? なんか砕けてるような気がするんだけど?」花子に反応がない。「ねぇ、花ちゃん」
険しい表情で花子、
「我曰く、驚天動地なり」
「もうそれいいから……。それに、それ別に孔子のことばじゃないし……。曰くとか漢語とか使えばいいってもんじゃぁ――」
「じゃ、マックへさきまわりしようか」
「はいはい……」
なるだけほかの席から死角になっているボックス席を選んだ。ふたりはそこに陣取った。ややしてから、黒紐と孔明がやってきた。どうやら、テイクアウトではなく店内で食すようだ。花子はちいさくガッツポーズした。
広場などでは、遮蔽物がすくなく盗み聞きには不向きだ。雑踏もある。店舗のなかでも雑踏はあるが、遊園地のファストフードの回転率は早いということを斟酌した。ごみごみして、こみあっている店内のほうがいい。まぁ、たぶんにしておそらく。
「ナギちゃん。ちゃんときいててよ。委細漏らさず、ね。あ、ショウベンも漏らさないでね」
「なんか、花ちゃんさ……茂木くんと似てるよね」
「え? どこが?」
「言動のすべて」
「心外だなぁ」花子はマックチキンを齧った。
ナギは耳を澄ます。
雑踏のなかから、ざわめきのなかから、ふたりの音声だけをひろう。
黒紐先輩の声は特徴的だ。
どこが? といわれて素直には返答できないけれど、同年代や世代の近い若い女性の声のなかにあって、彼女の声はどうしてだか目立つ。育ちとかの問題なのか……どうなのか、ナギには解らなかった。けれど、彼女の声を拾うという実務的観点にたつと有意なことは確かだった。反面、孔明の声はききとりづらかった。ほかの男性客の声との区別がむずかしかった。
ナギは両耳に人差し指をつっこんで、ほじりほじりして、
「先輩曰く、『私ね、はじめてなんだ。ねぇ、茂木くんのおすすめというか、そういうのってなにかな?』。茂木くん応えて、曰く『そうですねぇ――。じゃぁ、シャカシャカしましょう。シャカシャカ』」
「バカじゃないの……」
「先輩曰く、『シャカシャカ♪』」
「バカじゃないの……」
「仲いいみたいだね……」
「バカじゃないの……」
***
なぜだか解らないが、不穏な空気がするのだ。
なんだろう? 背中につきささる針。
それも見えない針だ。
視線。
殺意とまではいかないけれど、かなりの反感の情と敵愾心がこもっていることが容易に推察できてしまい、どうしようもなく不安になる。どろどろうずまくような気配が背後より、する。
「どうしたの?」と先輩がいった。
杞憂かもしれない。思い過ごしかもしれない。
先輩と遊園地にきているというこのハッピーな事実が却ってぼくを不安に駆らせているんじゃないか? と思った。ぼくと先輩は見た目的にも、財産的にも、成績的にも釣り合わない(セックスが釣り合うかは未知数)。どこかでぼくは背徳を感じていやしないか? けれど、ぼくの不安で先輩を、不用意に、不必要に心配させてはいけない。ぼくはとりつくろった。「なんでもないですよ」
「もしかして……尾行されてるかな?」
まさかの同調。
不安からくる思い違いではなかったようだ。
「え?」
「え?」
「尾行?」
「うん。私、きょうね。パパにないしょできちゃったんだよ。もしも、バレているとしたらパパのSPが尾行してるんじゃないかって……」
「ぼく――殺されませんよね……」
揺り篭から墓場までをサポートするA社のご令嬢なのだ。先輩は。
もしかしたら、
とか考えちゃう。
「安心していいよ。うちはPDWとかもつくってるし」
「安心できません……」おもくっそ銃器メーカーじゃないすか……。しかも個人用ライフル。PDWっていったら、民間軍事会社なんかが愛用しているらしいじゃないか……。ってことは――、
「遊園地じゃ撃たないよ」
「遊園地じゃなきゃ撃つんですか……」
「撃つかも……」
おぞましい。
なんて掟破りなんだ。
たしかジャペーンでは銃の携行は禁止されているはずではなかったか。銃刀法違反! 銃刀法違反!
訴えてやる!
「ちょっと待てよ……」
ぼくはあごに手をあてた。
お解りのとおり、あごに手をあてる行為は考えるポーズだ。ロダン的ポーズだ。首からうえだけ限定だけど。
「なに?」
「そのSPも佐藤さんなんだよね?」
「うん」
ぼくはガバっと背後を振り返った。
そして、おらぶ。「さーとーさーん!」
ビクっと震える人翳。
あたりだ。
佐藤さんと呼ばれてしまい、うっかり反応してしまったヤツがSPだ。日本では点呼の習慣がある。小学校から高等学校まで点呼の刷り込みがなされる。そしてパブロフの犬のように反応してしまう大日本人ができあがるのだ。
まさかこっちからよばれるとは予想だにしなかったに違いない。不意打ちとは、いついかなるときも有効打なのだ。戦国武将だって不意打ち大好き。でも一歩間違うと「卑怯者!」っていわれるから用法用量には気をつけるんだぞ☆
「あ……」
人翳と先輩の目が合った。あいては気まずそうな顔をする。
これで確定。ビンゴだ。
赤の他人が先輩に対して気まずそうな顔をするはずがない。知り合いだからこそ、バツが悪いのだ。
けど、まさかこんなチャチな作戦で尾行を看破できるとは思わなかっただけに拍子抜けもいいところだった。こんなオマヌケなSPを雇っていて、はたしてだいじょうぶなのだろうか? とか心配になってしまうが……まあしかし、結果オーライである。終わり良ければすべてよしの精神。
ぼくを置き去りにして、佐藤さん(もちろんだが運転手の佐藤ではない)のところへ先輩は向かった。
「佐藤。どうしてつけてたの?」先輩のいいざまは手厳しい。
それもそうだろう。デートをかってに尾行されていたのだ。ぼくだって気分が悪い。先輩ならもっとそうだろうと思った。
なにせ、ぼくのばあいは直接的に佐藤さんとの関係性はないが、先輩のばあいは使用人なのだし。
「お父さまが、お嬢さまになにかあったらことだと……」あたまをかくコワモテのSP。もちろんスーツ姿。かんぜんに場違い。
てか、遊園地にスーツできているという、この場違いっぷりできづいてもよかったような。なんていまさらながら、思った。
「いいんです。そんなことは……どうせパパは……破談になるのがイヤなんでしょう? 識っているもの。そんなこと。私がなんにもしらないって思ってるみたいだけど。それに、私の心配というよりは――」
「滅相もない……。お父さまは純粋に心配なのです。それが親心というものではありませんか」
「ほんとうに? ほんとうにそうなら、一人娘の自由くらい……」
「おことばですがお嬢さま」
「なに? 佐藤」
「お嬢さまは一般人ではないのです。どこの馬の骨とも解らないオトコといっしょにいるなどと……お父さまは、さぞや辛いおもいをしているに違いありません。それ相応のあいてというのが――」
「じゃあ、なんだっていうの? 私は。貴族? 華族? それとも皇族? なんなの? 一般じゃないってなんなの? 特殊だってことなんですか?」
「いいえ……ですから、そのような下賎の――」
先輩が激昂した。
わなわなと拳を震わせている。顔はやや赤めいている。くちもとをきっと引き結んでいる。
しばし見詰め合うSPと先輩。
先輩の堪忍袋の口火がきられた。
「茂木くんの悪口は許さないよ。佐藤その一〇七番。あなたをクビにするようにいいます」
「お嬢さまッ!」
「ほうっておいてください!」ぼくの手を強引にとると先輩は走り出す。「いこう。茂木くん」
SPは追ってこなかった。
それだのに、背中につきささる視線の針は消えなかった。いったいぜんたい、どういうことだ?
***
「気分転換もいいものですよ」とオービチェが言った。
彼はいま、氷柱のむねのまえにだかれている。
まるでお気に入りのお人形さんを大事にだいているようだった。彼女は背丈がちいさかったし、ネコミミ帽子がこどもらしさをかもしていた。もちろん、その表情と顔立ちをみればけっしてロリィではないことにきづくのだが……。
「邪魔なものがなくて快適ですね」
空中を舞う黒い球体。
重力がいざなう。
きれいな放物線が描かれる。
「うひぃぃぃぃ」
どしゃ!
アスファルトにめり込む黒球。
道行くひとが妙チキな音に反応する。
「氷柱さま……」
衆人環視のなかにあっては、オービチェは浮遊できない。そんなことをしてしまってはあやしまれるのは必定。だから氷柱に放り投げられるがままだったのだ。彼としてはこんな無体な扱いをされるいわれはなかったのだが。
氷柱はわざとらしく左右を振り仰ぎ、
「ここにボーリングピンがないのが残念だ。嗚呼、残念だ」
「あるかもしれませんよ。なんとはいっても、ここは遊園地ですから」
「そうか。さすがは遊園地。わざわざごみごみしい場所に出張るだけの価値があるということか」
「そうですよ」
氷柱はむぅと唸った。
「バカと煙は高いところがすきだという」
氷柱の視線が向かうのは――、
言葉を発しない彼女のいわんとするところをオービチェが代弁する。「観覧車ですか?」
「気分転換になるかな?」
「どうでしょう。こういうときのコースというのがあるんですよ」
「コース?」
「おフランスなお料理みたいなものですよ。人間というのは、気にするものです。作法を。つまりです、さいしょはジェットコースターというのが暗黙の了解という人類の不文律があってですね――」
「のろうか。慣性の法則の実験がしたい」
そういって氷柱はオービチェを拾った。
***
クライマックスが近いことを花子は悟った。
西の空が赤い。
からすさんが、おうちへかえろうよ♪ っていいだしそうだ。まだカァとも鳴いていないけれど、時間の問題だろう。
閉園はまださきだが、帰路の所要時間をかんがえればそろそろお開きになるころあいと見ていいだろう。このまましっぽりとホテルへいく計画でもない限りは……。いかんいかん。コーくんはそこまでアクティヴじゃないはずだ。と花子はかぶりを振って、自身の考えを否定する。
いまのところ尾行はバレていない。
肝を冷やす事件はあった。
なぜだかコワモテの男が黒紐に糾弾されていた。なにごとだったのか解らないけれど、バレずにすんだのはさいわいで、任務の続行にはなんら支障なし。まぁ、気にもむ必要はない。
露店のみやげ物売り場の影から、花子とナギはようすをうかがっている。
クライマックス。
臨界点。
最後にもりあげる場所。
夜が近い。
夜景。
ふたりだけの空間。
アベックが遊園地で最後におもむくさきといえば――、そんなの決まっている。ひとつしかない。
案の定、黒紐と孔明が向かうさきは、
***
先輩はかわいい。
美人でかわいらしいというのは、もはや最強ではないだろうか。最強すぎてみんな地にひれ伏し、五体投地すべし。白旗をあげるべし。
むかうところ敵なしじゃないか。
どのあたりがかわいいかって?
それは、
たとえば、
レタスを落としながらハンバーガーを食べ、ぼくがそれにきづくとすねたようにプイっと顔をそらすけど、ぼくがレタスをひろってなにもなかったかのように取り成すと、「ありがとう」と小声でいう。
その仕草がおかしいやら、愛らしいやらで、思わず、だきしめたくなってしまったが、ここぞ漢の見せ所なんである。必死に耐えた。まだぼくらはハグする関係じゃない、と思うし。
何万回でもいうが、ぼくはジェントルマンなんだからね!
ちょっとしたハプニングもないではなかったが、園内の水族館もいけたし、半分くらいの遊具は制覇したしでけっこうそれなりに順風満帆だった。
先輩はジェットコースターがすきだった。
さすがは屋上から飛べるか飛べないかとかきいてくるだけのことはあった。
意気揚々と最前部にのりこみ、さえぎるものがない風圧をうけながら、「うひひひひ」と奇声をあげるのだ。
さいしょこそ怖がっているのかと思った。
泪も流しているんだからふつう勘違いすると思う。恐怖心で泪してしまったもんだって、思うじゃない? そこで、そっと手を差し伸べるのが正しい作法。
が、奇声をあげるのは怖いからではなく、どうやら楽しいらしいのだ。一風変わった楽しみ方もあったもんである。
先輩はいたく、ジェットコースターをお気に召した。
なんてことはない、ふつうのジェットコースターだ。一回転もない。スペースワールドにあるような木造のレールというわけでもない。逆さづり状態でのりこむわけでもない。でも、気に入ってくれたのはいいことだ。
けど、
おかげで三回ものるハメになってしまったのは計算外。
こっちとら、すでに二回目の時点で憔悴しているのに、先輩はのるごとにハイになっていき、しまいには「無限のかなたへさーいくぞー」とかいいだす始末だった。なぜバズ=ライトイヤー(著作権的にやばい)? と疑念をいだくも、つっこまなかった。つっこむのはアワビに似た穴だけにしたい。
四回目もこなそうとする先輩をぼくは必死でとめた。
先輩は不服そうに、「終わりにするの? まだまだいけるよ」と言った。ぼくは断乎として「いけません」と言った。
「イケズ」
かわいかった。
そんなこんなで、ぼくのなかにあった先輩のイメージが音をたてながらガラリンガラリンと瓦解していった。
きっとぼくのなかの先輩イメージの構造設計をしたのは姉歯一級建築士に違いないのである。まったく、きちんとやってよね! 構造設計。ちょっとした余震でもゆらいじゃうよ。
けれど、イメージが壊れても、いまのいままでいだいていた先輩への諸々の感情が悪化するということはなく、むしろギャップ萌え? にちかい感情に囚われた。どうやら、ぼくは恋しているらしい。なんてこったい。
ぼくはとんでもないことにきづいてしまった。
革命だった。
天変地異。転地無用。
なんとなく成り行きでこんなことになっているが、その成り行きがいかんともしがたくうれしい。
やっぱり、ぼくはおかしい。
これが恋は盲目ってやつなんだろうと思った。たぶん、初恋だ。
十七にして初恋。ちょっと遅いだろうか?
水族館では、先輩らしいというのも変かもだけど、ちょっとネガティヴな側面が顔をだした。リストカッターとしての先輩が。
それはちょうど、ペンギンコーナーにさしかかったところだった。
こまっしゃくれた白黒コントラストの鳥が流氷を模した一室を右往左往していた。とくにとんだりはねたりすることもなく、ぺったんぺったんと腰をふっていた。昼食を済ませてオネムなのか、ごろんと床に横たわっているヤツがいた。死んでいるだけかもしれなかった。
「ペンギンってこわいよね」と先輩が言った。
かわいいの聞き間違いかと思った。
聞き返すと、
先輩は顔を横に振った。
ちょっと寂しげに眉を寄せた。
「こわくない?」
「ペンギンがですか?」
「うん」
「どうして? あんなによちよちしてて、おいしそうなのに。串焼きにして食べたいくらいかわいいですよ」
「おいしそうかな……たしかにマルっとしてて……」先輩は困った顔をして、「って、そうじゃなくって……」
のりつっこみする先輩にニヤけそうになったので、
背筋をぴんしゃん。
「どこがこわいんです?」
「みんな一緒に見えない?」
「へ?」
「ペンギンのコロニーを見てるとこわくなるんだ。ぜんぜん区別がつかないから。全部いっしょに見えてしまって……。どれがどれなのか、ちっとも解らない。違うはずなのにね。まったくおなじってことはないはずなのに。それでね」一呼吸。「もしかしたら、私たちもそうなんじゃないかって思っちゃうんだよ。おおきなうねりのなかでは、だれからも私だって認知されないんじゃないか……。そんな風にかんがえると、ペンギンのコロニーを見るだけで背筋がゾクってする」
アクリルガラスごしに数十匹のペンギンの蠢きが見える。
いくつかのグループをつくってかたまっている。何ペンギンだろう? 学名まで書いてある親切な表示板をさがしたが見つからなかった。ぼくはペンギンのコーナーに視線を戻す。
たしかに彼らは区別がつかない。
オスかメスかくらいしか解らない。
一匹のペンギンに的を絞って食い入るように追跡しても、そのペンギンがいったん群のなかに消えると追うことはできなくなった。
まぎれてしまった。
そうなるとさきのペンギンを識別できなかった。
先輩の危惧はただしい。
でも、先輩は拡大解釈しすぎているし、ペンギンの見分けがつかないだとかそんなことはどうだっていいんだ。重要なことはそんなことじゃない。ぼくらにとって、個々のペンギンの区別がついたところで宴会芸にだってならない。そんなことは飼育員にまかせておけばいい。瑣末。
「先輩は先輩ですよ」自分のものとはどだい思えないやさしい声だった。
「私と……ほかのオンナノコは違う?」
ここでそんな質問を……。
ぼくは返答に窮した。
自分の恋心を理解してしまったあとだっただけに、当惑は一入だった。ぐわんぐわんと銅鑼があたまのなかを、ぼくの脳みそを、その轟音でかき回した。
咽の奥できゅるきゅると胃液くさい唾が逆巻くのが解る。唾はねちっこく、はねまわった。舌の付け根にまでからんでくる。
先輩がぼくをみあげた。頬がわずかに上気しているような気がする。黒く、深い瞳がぼくを真剣に見てくる。瞳の奥に見えたのは、期待感だった。ぼくはいとも簡単に射抜かれた。
「ねぇ、応えてくれないの? 私は――私が雑踏のなかに隠れてしまったら……見つけられないの?」
ぼくは応えなかった。
先輩が両手を胸のまえまでもっていく。たわなな乳房のあいだで、両手を合わせて、お互いの指の間隙に指をすり込ませた。いまにも神への祈りをささげてしまいやしないかと思った。
「茂木くん……ねぇ……」
ことばは無力だった。
ちがう――
そうじゃない。
ことばよりも有効な手段をぼくはもっていた。ただそれを実行すればいいだけだった。ためらいはなかった。
ぼくは先輩の腰へと両手を回した。
身体がかってに動いていた。
身体はぼくの意識下をはなれた。
けれど、反するようにあたまのなかはすっきりしていた。じつにクリアーで、網膜から視神経を通じてやってくる先輩のすがたはいつにも増して鮮やかな色彩を帯びている。――ツバサのない天使がそこにいた。
「え?」
素っ頓狂な声をだす先輩。
ぼくの身体はその声をおさえるかのように、先輩をだきしめた。人・生・初のハグであった。
先輩からやってくる芳香。いままでにない圧倒的な香がやってくる。鼻腔内のレセプターがパンクしそうだ。
きめ細やかな長髪がぼくの肩へとふりかかる。
まわりにいるひとのことなんか、もはやどうでもよかった。ふだんならば、恥ずかしがっただろう。できやしなかっただろう。こんなこと。――でも羞恥を毛ほども感じなかった。脳神経が麻痺していた。ただ、先輩だけを感じていた。
「どこへもいかせません」
「茂木くん……」
ぎゅぅ。
先輩の腕がぼくの肩へと回ってくるのが解った。
「先輩は飛ぶ必要もないんです。ぼくはなしませんから。先輩はどこかに隠れてしまいせん。ぼくがはなさないから」
「うん……」
先輩の吐息。
とてもちかい。
身体にはさまれて行き場をうしなった先輩のダブルメロン。つぶされて、転がるメロン×2。
やわらかい。
適度に、
かたく、
張りもあった。
ブラジャーなんてまるで意味がない。ノーブラとブラの境界線などオニギリとイナリズシの違いよりもすくなかった。沖縄そばとラーメンくらいの違いしかなかった。ブラジャーは先輩のぬくもり、あたたかさ、女の色香、フェロモン、そういった諸々をまったくふせいではくれなかったのである。
ずっとこのままでいたかったけど、このまま続ければぼくの理性がぶっちギれそうだった。先輩の肉体にこれいじょうふれいるわけにはいかなかった。腰にまわしていた両手をはなして、ほんのすこしだけを距離をおく。
先輩がぼくの背にまわしていた両腕も離れる。
それから、言った。
「それに先輩」
「なに?」
「ペンギンよりもマグロとカツオの区別がつきません」
「……もぅ……ばか」
雰囲気の女神がわらった。
キューピッドは矢を折っただろう。もっとも、もうぼくにそんなものは必要ないんだがね?
***
うねうねと蛇のようにのたうっているレール。
やってくるのは女性の係員。クリーム色をした短いスカートに、オレンジ色の制服を着ている。
「お嬢ちゃん。身長はたりてるかな?」
氷柱は彼女のことばを無視した。
さいわい、氷柱の背丈はジェットコースターの入場条件に届いてはいたようだった。係員は不機嫌な表情はしたが、氷柱をそれいいじょう拘束しなかった。
錆のうく、なんだか頼りない階段をのぼっていくと、
「ほう。これがジェットコースター」
「プリモピアット」黒球。
「は?」
「だからコースメニューに例えたんですよ」
「あんまり大声ださないで。怪しまれるじゃぁないか」シートにかけるてしばし、安全バーが降りてきた。肩と腰を固定。オービチェは手提げにつめてある。足元に置く。脹脛のうしろでかっちりと。「と、ところでこれ……あの狭くて高低差のきついレールを走るんだよね?」
「そうですよ。ちゃんと帽子、固定しておいてください」
「あ、うん」そうだ。風圧で飛んじゃう。氷柱は顎紐をまわして、結んだ。「これでいい?」
「はい。――っと」オービチェの声質が低まった。「どうやら発車のようです」
低速で前進を開始する車体。
なんてことないではないか。と氷柱は思った。
レールの頂上で車体はいったん停止した。
ガクっと身体が震えたと思ったら、落下している。位置エネルギーが運動エネルギーに変換されて、車体が加速。
風防なんて気障ったらしいものはなし。風がぐいっと頭部をおして、うしろへとひっぱられているような。
「うにゃあああああああ」
「絶叫ですか? 柄にもないで――」
「黙れ。くそったれぃ!」
慣性で横滑りしつつ、落下していく手提げカバン。
「Noooooo」
「ハァハァ……。り、リベンジだ……。こんどは叫ばんぞ。武士は食えねど高楊枝なんだからな」
「あれ? 白面さんじゃない?」
氷柱は振り返った。知らぬ男が立っている。歳のころはいっしょくらいか。「ん? あなたはだれだ?」
「俺? 俺は冬町。冬町敦ね。白面さんとおなじガッコなんだけど? 学年もおんなじなんだけどね」
「ひとりか?」氷柱が言った。
「そっちこそ、ひとりなの?」
「うん」
「なんで?」
「なんとなくだよ。なんとなく。そういう気分だったんだ。気分転換というものさ。あなたは?」
冬町はポリポリと後頭部をかく。
いいづらそうな仕草で、
「ほら、俺ってこのままじゃぁ、カマセ以下じゃん? しょっぱなに名前つきで登場したわりにはしょっぱいというかさ……。だから、わざわざフルネームで自己紹介したのもさ、そろそろ出張っとかないと出番がなさそうでってことなんだよ。せめて、こうカマセっぽいことくらいはしておきたいなぁって」
「大変だな」
「大変だ」
氷柱は座席についた。
冬町が追ってきて、
「となりいい?」
「好きなようにすればいい」
「発車しまーす」
こんどは叫ばんぞ。誓ったのだ。
車体が最頂部へ。
降下。
風圧。
うきそうになる身体。
もちろん固定バーが身体をおさえつけているからうかないんだけど。もぞもぞする。身体の内奥の芯みたいな場所が。
「にゅわああああああん」
憔悴した。
発車場へまいもどったジェットコースターのカー。
息が荒い。
こんなの――大気圏突入艇にくらべたらミジンコのようなものだと思ったのに、いかんともしがたい感情が臀部のあたりから徐々にのぼってきて、背筋がぞくり、ひやっとしてしまうのだ。
「白面さん」小声で冬町。
「……な、なんだ?」挙動不審。
「ジェットコースター、苦手?」
むすっとしたようすで氷柱は質問を質問で返す。「おまえ……、孔明くんのトモダチか?」
「そうだけど?」
「……孔明くんには黙っておけよッ!」
一目散に駆けていくネコミミ帽子。
後姿はずんずんちいさくなっていき、群集のなかに隠れて見えなくなった。
「ちょっと、待って! 話は――」冬町は気づいた。「ん? 孔明くん? あれ、あいつ先輩とつきあってるんじゃなかったけ? はて……」
なんだったんだろう?
***
「黒頭巾ちゃんは言いました。おおかみさん、おおかみさん」指を左右にふりながら、花子はことばをつづける。「チャウチャウはおいしいから、おおかみさんもさぞや美味なのでしょうね」
「食べたことあるの?」
とうぜんあるべき、つっこみをナギは言ってやった。すると逆ギレ的なことに花子はお怒りになって、
「それ、チャウチャウちゃうんちゃう? でしょ、そこは!」
『ぶわっふ』轟音。
盛大にだれかが噴出した音だった。
すさまじい音であった。
「いますごい噴いた音しなかった?」花子はナギを見る。
おどろいた顔をしながらナギ。「したね……。臓物まで飛び出すレベルの噴きっぷり……。どこのだれだろう……花子ちゃんのルラーダフォルオルに噴出すなんて。きっと人間じゃないね」
「とりあえず、この黒頭巾をかぶりたまえ」花子は黒頭巾をナギにわたそうとする。
ナギは花子の機先を制し、
「拒否する」
「どうしてだ!」
「だって見るからに怪しいじゃん」
花子は唸った。うううむ……。
「青頭巾か黒頭巾でまよったんだよね……。ほら、黒いサンタクロース知らない? 知らないかぁ……」
「はいはい」
***
そろそろ遊園地をあとにしなくちゃいけない、とぼくは思った。
なにせ、先輩の家には門限というものが存在するのだ。
ぼくにはないけど。
園を去ることにはすこしも名残惜しさはなかった。いっぽう、先輩との時間の閉幕がちかいことはイヤだった。
ぼくたちは観覧車へむかった。
観覧車はネオンサインにつつまれていた。
卑近すると、ゴンドラひとつひとつのネオンの色がちがうことを知った。塗装はいっしょだった。全部、赤い塗装で統一されている。
見上げていると、不意に黒いフードをしたふたり組みがぼくらの横合いをすりぬけた。たたらを踏む。
彼らはそうとうあわてていたようだった。なにもあんなにいそぐこともないのに、と思うほどのスピードで走っていき、あっというまに見えなくなった。
尾行しているSPにしては小柄だったので気に留めなかった。
入れ替わりに係員がやってきた。
閉園には、まだまだはやいからか、アトラクション性にすぐれない観覧車にのろうとするひとはまばらだった。
ぼくたちはフリーパスを見せた。
係員はうなづくと、ゴンドラの扉をあけた。
つれだってのりこんだ。
真向かいに先輩がすわるのを確認してから、ぼくもすわった。係員が扉をしめた。がちゃんと施錠された。
密室。
そう、これは密室。
刑事モノの殺人事件でよくある密室。
ここでぼくが先輩を殺したら、
あ――ぼくしか犯人いないじゃん。
もっとも、ぼくは先輩を殺さない。もちろん、それは物理的な意味であって、精神的な意味では殺すかもしれない。いま、ぼくはプレイボーイへの道程の途中なのだから。
とはいつつ、ふたりっきりだ。
いままでは周囲に雑踏があったが、いまは違う。
オンナノコと密室にいる。
花子? あれはどうでもいい。
脚をくんだ。
態度が悪いかもと思う。でも、そうしないとおちつかなかった。ぼくはどこまでいっても根源的な部分でヘタレらしい。
ふと、かかとにあたるものがある。ぼくは目を落とした。銀色のケースがあった。座席下の、薄暗闇のなかで鈍色に照っている。だれかの、おとしものだろうか? あとで係員にわたしていこう。拾う。
ぼくの内情などよそに、ゴンドラはゆるりゆるりと上昇していく。時よ、とまれ、おまえは美しい。なんて言ったところでファウストではないぼくは無力だ。ゴンドラと観覧車の円環をつなぐジョイント基部ががくりと軋む。
園内の樹林の先端に目線がちかづいていく。
「ねぇ、茂木くん」
先輩はぼくを見ていなかった。
彼女も彼女で緊張しているらしかった。ぼくのひとり相撲ではないことに一抹の安堵を覚える。
平静をつくろい、
「なんでしょう?」と応じる。
「きょうは、さそってくれてありがとう」
「そんなにあらたまらないでくださいよ。ぼくは一銭もだしてないんですから。父さんからもらったんです。このチケット」
半券になった入場券をポケットから出した。
ぴらぴらと左右にふる。
「え? お父さんは、私たちの――その……関係というか、そのあたりのこと、知ってるの?」先輩はびっくりしたようだ。虹彩がふくれた。
「ほんとうは黙っておくつもりだったんだけど……うちのおやじ、嗅覚がするどいみたいで、バレました」
「私もバレてたみたいだしね……。帰るの怖いな……」先輩がぼくをみすえてきた。潤んでいた。彼女はなにをいわんとしているのだろう? 考えるまでもない。解っている。女性が帰りたくない旨をただよわせたとき、それはインザベットのフラグであることをぼくは男性誌から学んでいる。けど、聞こえないフリをした。先輩はつづける。「いいお父さんだね。とても……」
「あんなのアル中です」
「ブレンダーなんでしょ?」
「なんで、知ってるんですか!」
「私を誰だと思ってるの?」
「A社には酒類部門もありましたね……」先輩はぼくの個人情報をあさったのかもしれなかった。
「家族思いのお父さんだよ。とってもいいお父さんだ。……チケットもいわないのに用立ててくれて」
「先輩だって心配されてるじゃぁないですか。SPまで使って、手を回ししたのだって――」
ことばがつづかなかった。
いや、つづけれらなかった。
先輩がぼくをにらんでいたから。
怨念めいたものや、敵愾心はうかがえない。あるとすれば、非難だった。彼女の目がぼくをなじっている。
「ちがう。あのひとはいつだって――」
おっと雰囲気の悪魔が笑うのはごめんだ。
こういうときこそ、KYに徹するべき。
ぼくはうたった。大声で。
みっつならんで団子団子♪
「ぷっ」噴出す先輩。よほどおかしかったのか、はたまたツボにジャストミートだったのか、目じりに泪まで浮かべ、つづく笑いを必死にかみ殺すようにして、「恋人同士って、楽しいね」
「楽しいですか?」
「楽しいよ。とても。茂木くんはどうだった?」ぼくが素直にうなづくと、さも満足そうに目を細めた。「このまえも、釣堀楽しかったよ」
「よかったぁ。やっちゃったかと、思ってたんです。とんでもないとこに連れていっちゃったなぁって」
「うぅん。そんなことない。新鮮だったもの。あいいうばしょっていままでいったことなかったから。存在くらいは知ってたけど……」先輩はうなじにかかった髪の毛を手櫛した。ぼくは外をみやった。いつのまにか遊園地の景観がはるか足の下になっていた。とおくの町が見えた。「茂木くんは博愛主義者なの?」
へ?
「たしかに。ぼくは、あらゆる女性にやさしいジェントルマンなんですよ」だなんて、言いかけ、
「ジョーダン。ちょっと気になっただけ」先輩、取り繕うようににっこり。この微笑はすぐさまなりをひそめ、「私がその……手首きってること、知ってるでしょ?」
「はい」
「あれを見せると、みんな私の前からいなくなるんだ」悲しそうに顔を伏せる。「だけど、あなたはそうじゃなかったから」
「だって……」
さぁ、またしても試練だぞ! 茂木孔明十七歳。
先輩のこころをえぐらない回答をひねりだすんだ!
脳細胞フル稼働。
全エネルギーを脳細胞へ。
チャージ! チャージ! ちゃぁぁぁじぃぃ! 海綿体はチャージするなよ!
「だって……解らないじゃないですか!」
「解らない?」
「たとえば、小指のないおとこが歩いていました。彼はとてもコワモテです。そしてとてもかたぎの仕事をしているような風采ではありません。そのひとについて先輩はなにを思い浮かべますか?」
「元ヤクザ?」
「ですよね。ふつう、そう思います。
だけど、単になにかの事故で失っただけかもしれないじゃぁないですか。顔がこわいのだって単なるうまれつきで、遺伝のイタズラ。カタギの仕事じゃないって一口いってたところで、日雇いの仕事をまじめにしている勤労青年だってだれが疑えるんでしょう? ね? 確かに彼はホワイトカラーじゃないけど」
「うん」
「人間、見た目が九割っていいます」ぼくは咳払いした。「でも、じっさいに話してみなきゃ解らないこともあると思うんですよ。先輩のそれだってなにかの事故の後遺症なのかもしれないじゃないですか。
手首のきずあととリストカットを初見で結びつけるだなんて、早計です。きちんとした人間のすることとは思えません。理性的でもないし、論理的でもないし、そういう人は差別主義者です。
――もっとも、いまはそうじゃないんだって解ってます。なにか家庭の事情かもしれないっておおよその予測もしています。もちろん、そこに深入りはしませんよ。ぼくがなにかできるとしても先輩についてのことだけですから。
ちゃんとした性根をもった人間ならッ、なんの理由もなくリストカットなんかしませんよ! 先輩とつきあいはじめて……そういうこと解りましたから」
屋上でラブレターの返事をもらったときの光景がフラッシュバックした。風がふいていたなぁ。
先輩の目が皿のように拡がっている。
あのときとおなじように先輩はなにか感じたのだろう。
しかし、いけしゃぁしゃぁと口からでまかせをいえたものである。なんだか悪い子になった気分。
「やっぱり段階は踏むべきだよね……」先輩はなんどもなんどもうなづく。首肯はぼくへ向けられたものではなくて、自分自身に対して同意をうながしているような気がした。「いっしょにいる時間がないと、あいてのひととなりも解らないし」
「ですです。いまじゃ、ぼくは先輩を美人って思ってません」
「え?」
「先輩は美人じゃなくってかわいい人です」
「どう、ちがうの?」
足を組みなおす。
やや前傾姿勢。
「美人は単純に見た目がすべてを物語るわけですけど、かわいいってのは外見も中身も含みます」
十秒くらい先輩が凍った。
まずいこといったかなぁと思っていたら、
「私が……もしもの話だよ? 遠くへいったら悲しい?」
遠くとは――あの世のことだろうか?
先輩はまだ死にたいと思っているんだろうか?
あの日いらい、ぼくは先輩のリストバンドのしたの膚を見ていない。蚯蚓腫れは増えているのかもしれなかった。
先輩が死にたい理由はよく解らない。
つきあって数週間たつけれど、棚上げにしたままだ。くさいものに蓋をしても無意味だ。においが消えるわけじゃないもの。
いつか解決しなくちゃ……いけないだろう。
ぼくは縄架黒紐のためになにができるだろう?
「かなしいです」さきの問いに答えた。
いまは、ただこう応えるしかできない。
「先輩」
「なに?」
ぼくはたちあがった。
先輩へとちかづく。
ゴンドラはゆれている。バランス感覚がむずかしく、スローモーションのように前進して、彼女のすわっている板の、彼女の腰の横っちょに右手をおいた。
先輩は目をとじた。
わずかに彼女の首がのび、顔がつきだされた。
パチィン!
「ひッ!」
「蚊がいました」
掌をかえし、つぶれた蚊の死体を彼女に見せると、彼女はハァと盛大にためいきをもらしてから言った。
「うぅ……ほんとマイペースなんだから……」
よく解らないけど、先輩はあきれ顔でぼくを見るのだった。
***
「この屑鉄」
ガシボカ!
ガシボゴ!
不安定なゴンドラのなかである。黒い球体は、みぎからひだりへぴょこぴょこみぴょこぴょこ、ひだりからみぎへころんころん、うえへしたへの大騒ぎ。けたたましい金属音を轟かせながら跳ね回る。
オービチェは抗議の声をあげた。「私のォォォォせいですかぁァァァァァ! 盗聴しィィィィガッシャガッシャろっていったのはァァァァァドシンドシンアブワッ氷柱様ではないですかゥア!」
「うるさい。この屑鉄。しかれども……これが火サスっぽい展開というやつなのだろうか……」
氷柱の耳にはイヤフォンがひっかかっている。ワイヤーはつながっておらず、ワイヤレス形式のもの。彼女は、いままさにこれで孔明と黒紐の会話を盗み聞きしている最中なのだった。
「それをいうなら、メロドラマじゃないですか……。観覧車ラブストーリー。ゴンドラから始まる恋もあるとか云々」
「どうでもいい。そんなことはいいんだ」イヤフォンからきこえてくるのは、はずれた調子の歌声。「しかし、なにをうたっているんだ? 孔明くんは」
「断固三兄弟ですね。長男はダム建設に断固として反対し、次男は核発電所の誘致に断固として反対し、三男は断固として花より団子がすきで……」
「つまらん」一蹴。「私は泳げたいやきくんのほうが好きだぞ」
「それじゃぁ、雰囲気ぶちこわしではないですか。あれは暗い歌です。きっと社会的な不幸ものの惨状をうたったものに違いありません。なにせ、まいにちまいにち、ぼくらは鉄板のうえでやかれるんですよ」
「あつそうだ」そっけなく氷柱。
オービチェは浮遊した。
ぷかぷか。
「氷柱さまもやかれてしまえ」
「口が悪くなったなぁ、オービチェ」ピキピキと鳴ったのは氷柱の指。きらめく白銀のアーマーリング。まるで野獣の爪。
「私が悪口的になってしまったのも、近頃のあなたの言動がめっきりがさつで暴虐的だからです」
「むぅ……私は……諦めが悪いんだ……。あきらめないからな!」
なにをです? とオービチェが返答しようとしたときだった。氷柱が叫んだ。「うぎぃ!」
「どうしました?」
「ノイズだ。どうやら《壁の耳蟲(インテル=ハイッテル)》が壊れたみたいだ」
叫んだ拍子に耳から外れ床に落ちたイヤフォンを氷柱は、しゃくりあげるような動作でつまさきを使い器用にけりあげると、手でキャッチ。
即座にポケットへ。
「ところで、なにをあきらめないんですか?」
「孔明くんのことだよ」
「すでに二回拒否されてますよね」
「三顧の礼というではないか」
「なんかちがうような……」
***
「夫婦喧嘩は犬も食わないが、たにんの恋愛もO-157。嗚呼、おなか痛い。正露丸どこー」
「そうとうショックだったんだね……」
ナギはそっと花子に正露丸――ではなくミントスをわたした。
花子、頬張る。口へ大量に投入されるミントス。彼女はなめるでなく、いきなり噛み砕きはじめた。
むしゃむしゃくちゃくちゃしながら、
「そりゃ……水族館じゃハグってるところをみせつけられるし。白昼堂々、ってか屋内だけど。ぜんぜん周囲を気に病まないし。それもさぁ、はっきり聞こえたわけじゃないし、ナギちゃんだってきちんと聞き取れたかどうか解んないけど、なんか男らしいことまでいってるし……。
こう、傍目にも一応かっこよかったのがさ。歯がゆいっていえばいいの? ……こう、ね、なんていったらいいんだろう。と、とりあえず態度が違いすぎるんだよ。いっつも私のことはバカにするくせにぃ……」
「観覧車が決定打だったんだねぇ」ナギはささっとポーチからなにかを取り出す。「ポチっとな」
「やめて! 再生しないで!」
ながれだす団子三兄弟のメロディ。
ナギの手ににぎられているのは銀色のケースにはいったテープレコーダー。てか、録音機能つきウォークマン(和製英語)。
「でもさ、これって盗聴だよねぇ……」
「いいの!」
「そういえば白面さんものってたね。観覧車」
「へ? あの不良っぽい子?」
「うん。ひとりだったのかなぁ。だれかと話してるみたいな感じではあったけど、ほかに人影はなかったし」
白面氷柱のことなど花子はどうでもよかった。
遊園地にひとりでいく奇特なオンナノコくらいいるさ。ここにはストークするためだけに遊園地へおもむいた女子が約二名もいるんだから。
「そうだった……忘れてた。コーくんってバツゲームで先輩いがいにもラブレター出したはずなんだよね。どうなったんだろう?」
「さぁ?」
ナギはかたをすくめた。
彼女は賭けマージャンと、その結果がもたらしたバツゲームのことについて、花子からききおよんではいたが、しょせんは他人事であって、きょう一日花子に付き合わされて疲れ果てている。どうせなら、ナギだってカレシでも連れ立っていきたいと思っている。彼女は、はやく帰ってマンゴーカルピスを飲みたいだけだった。
しかし、花子がいつになったら開放してくれるのは皆目検討がつきそうもない。ベッドのうえのグルーミーをみやった。
あんまり長居すると花子の母親が「ごはんでもたべていきなさいよ」といいだしてズルズルと居座ってしまいそう。山田家にはマンゴーカルピスの備蓄はない。あるとしてもそれはグレープカルピスかイチゴカルピスであり、ナギの望むところではない。グレープ、あれはまずい。
「まあいいや、そんなことより私は思うのよ」花子が言った。
「なにを?」
「私のばあい、なまえがよくないんじゃないかって」
「ハァ?」
この友人はバカである。
オオバカである。
オオバコではない。
「なまえよ、なまえ。いまは、なまえが凡百ってだけの理由で就職不可能ってくらい重要なんだから」
「まぁ、たしかにあんたのばあい、平凡すぎるけど……逆に個性的だよ。いまどきさぁ、花子なんてトイレいがいには住んでないって。だからこそ、芸人の山田花子の本名とかだって……」
「そんなことはいいの」ぴしゃり。
「じゃぁ、どうしたいのさぁ?」
「どうしたらいい?」
「なんで私に聞くかなぁ……。じぶんで考えなよ。考えないと若年性アルツハイマーになっるよ」
「ボケはいや! ハゲはいいけど」
「ハゲはいいんかい!」
花子はあたまをかかえ、身をよじり、のたうちまわった。牡蠣にでもあたったのかと思うほど。もしくは十二指腸か盲腸か。
ナギはアホの友人をグルーミーでたたいた。ひっぱたいた。手加減はしない。慈悲はない。親しき仲でこそ厳格さをうしなってはならない。と、まれ――なぜだか解らないのだが、この女、グルーミーでたたくと正気にかえるのである。
そういえば、アホの語源は阿房宮。バカの語源も始皇帝の故事。――だったなぁ、とかなんとか考えながらナギはたたきまくった。
「アイタタタ……」起き上がりこぼしのように花子が姿勢をもどす。「だってさ、ハゲならアートネイチャとかあるしさ。レディースアートネイチャ。和田アキ子、でてんじゃん? 関係ないけどさ、和田は。ヅラでも育毛でもハゲは克服できるけど、ボケは特効薬ないじゃん?」
「まぁ、そうだけど。って話それてない?」
花子はくびをひねり、「そうだった。なまえだ。なまえ。ハナコとかどう? イチローみたいにカタカナにしてさ」
「発音かわんないでしょ……」
「だめ?」
「没」
斬って捨てた。それはもう、ばっさりと。
百年は芝すら生やさぬ除草をもってす。
「じゃあ、ちょっと考える」そういうと花子はうんうん唸り始めた。
こんこんこんとノックがして、花子の母親がおかしをもってきた。「ナギちゃん。ゆっくりしていってね」
「はい」
お盆にのっているのは、
濡れセンベイ。まぁ、よい。カシカシしていないものをセンベイとよぶことなど言語道断――というほどにナギはセンベイ愛好家ではない。硬いセンベイだって湿気ればいっしょなのだもの。がしかし、もうひとつの品が――いまいましいことにグレープカルピスではないか! イチゴならまだ許せたものをグレープだってッ!
口がひきつりそうになるのを全身全霊で必死に押さえ込みながら、ナギ。「お世話さまです」
ナギが言い終わらぬ間に彼女はキッチンへいなくなった。
とりあえず見送った。
「アレクサンドラ=山田」とつぜん叫ぶ花子。そして、念仏のようなマシンガン。否、これはガトリングガンだ。機銃掃射だった。「クリスティーナ=山田。エカテリーナ=山田。マリーアントワネット=山田。ルイズ=フランソワーズ=ルブラン=山田。ピカソ=(長いので略)=山田。ヤマダ=ヤマダ」
「山田から離れろ! 最後とか、ガソダムっぽいからッ!」グレープカルピスへの鬱憤を発散する。
「いまから、フローレンス=マウンテンライスフィールドです」
「直訳、勘弁!」
「いまら、フローレンス=M&Rです」
「S&B! てか、M&A? かんたんに買収、もとい買春されそう!」
「Y&Hです」
「戻ってる! 山田花子に戻ってる!」
……。
……。
「「はぁはぁ」」
口角泡をとばすのにも疲れたところで、花子。「もともとさ、私、禊って名付けられる予定だったんだ!」
「ほう……。巫女っぽい。魚屋の娘のくせに」
「が――しかし! 常用漢字表(日本国内で使用が奨励されている漢字)になかった! 戸籍係につっぱねられた!」
「人名用漢字表(特例的に名前のみに使用できる漢字)には?」
「なかった!」
「ちょいタンマ……」ナギは掌をつきだして制止の合図。頭蓋の側面をこしこしとなでまわすような仕草で、軽くたたきながら記憶をたどる。「縄架先輩の名前って、黒紐、だよね?」
「うん」
「紐って漢字、表にないよ?」
「マジで?」
「マジで!」
「エコヒイキッ!」
天上(ただしくは天井)に向かっておらぶ山田花子。
「だれに言ってんの?」
「さぁ?」
結論をいうと、この日ナギはマンゴーカルピスを飲めずじまいだった。あな口惜しやぁ、と化けてでたい心境であった。
我々はマンゴーカルピスを要求する。 日本マンゴー党書記長・万壕満剛