3-2
「メロンパン?」先輩は不思議そうに瞼をさげて、ぼくの抱える紙袋を見た。しげしげーと見た。
「そうです。メロンパンです」
「手作りみたいだね」
「ぼくが作りました」
ウソではない。半分はぼくが作ったも同然である。
パン生地をつくったのは白面さんだが、そのあとの工程はふたりがかりだった。というか、後半はぼくだけしか作業していなかった始末である。パン生地にクッキー生地をかぶせるところは、ほとんどぼくがやった。なぜかというと、白面さんが飽きてしまったからだ。
飽きた挙句、パンを食らうという当初の目的すらも忘れて、「眠いから帰る」と帰宅してしまう始末。
まったく何様のつもり? とか思ったけど――こちらとしてみれば、なにも悪いことばかりじゃない。だって、彼女の目的である腑分けとやらのことすら失念したようなのでありがたかったんだもの。身のすべて(*臓物含む)を晒けだすのは愛する人だけって、決めてるんだもん。
「食べていいの?」
「どうぞ。どうぞ」
おそるおそる紙袋からメロンパンをひとつ掴むと、先輩はそのちっちゃなお口へと運ぶ。カリカリ。
先輩がフリーズした。
顎の動きがとまっている。まずかったのだろうか? じつはまだ、ぼくは食していなかった。まずかったら、白面さんをあしたにでもボッコボッコにしようと決めた。たまには紳士も暴力を振るう。愛に信念は適わない。
「先輩?」
「おいしい!」
「それはよかったです」
じつは二次発酵、時間がなかったのでしていません。とか死んでも言わない。こまかいことはいいのである。結果オーライなのである。経路とかプロセスとかどうでもいいのである。
「私、メロンパン好きなんだ」
「そうなんですか?」
「うん。いってなかったけど。それなのに、解ってくれるってことは、私たち似たもの同士なのかな」
待て。
似たもの同士ってなに?
怖いこといわないでくださいよ……先輩。ぼくはリスカットなんてしませんし、睡眠薬だって過剰摂取で永遠の昏睡に至りたくないので呑めないくらい、性に――じゃなかった、生に執着してるんですよ?
仲間だなんて――なにそれ、怖い。
ウォータースライダーは滑れても、ぼく……東尋坊からはダイヴできませんからね! せめて二階トイレの窓くらいで勘弁してほしい。
「どうしたの? 考えごと?」
先輩はきょとんとしている。
刹那、ぼくはキョドりかけ――こちらの内面を読み取っているわけじゃないことに気付く。純粋にこっちの反応がないのにとまどっているだけだ。そうだよ。先輩はエスパーかもしれないけど、エスパーなんているわけないじゃん。杞憂杞憂。空が落ちてくるってヤツだ。
「まあ、そんなところです」セーフ。セーフ。怪しまれてない。OK、OK。
「そっかぁ」
こうして日々はすぎていくのであった。
もちろん、先輩といっしょに下校したのは言うまでもないだろう。楽しいよ? オンナノコと下校するの。下校中は手を繋ぐので、さいきん夜のお勤めがすっかりサウスポーになっちゃったけどね! え? 日本は右側通行だから、ふつうは左手で繋ぐだろうって? 交通事故怖いんだぞ……。
先輩はいがいと周囲を気にしないタイプなのだと解った。というか、正確には周りが見えていないというべきなのだろうか。ぼくの供したメロンパンがよっぽど気にいったのか、あろうことか……、
「茂木くん。こんにちは」
と、我がクラスの入り口で手を振ってくるのである。
周囲の視線が痛いのでやめてくだちぃ、と懇願の眼差しを向けたら、「はいってきてよ」の合図と勘違いしたらしく、ぼくの席までやってきた。先輩、空気読んでくさださい……てか、空気に文字なんか書いてないから読めないよネー。
初登場のときと同じように足取りは優雅だった。
「……スケコマシ」
花子がボソっとぼくにだけ聞こえるように絞った声量でいった。はい、無視無視。ノイズはノイズキャンセラーで消去しなきゃね。
「これが愛夫弁当というやつか……」冬町が言った。
「なんだよ……それ」
「そのままの意味だ」
「……スケコマシ弁当」
「ありがとう、茂木くん」
ぼくが渡した風呂敷包みをうやうやしく受け取ると、黒紐先輩はぼくの前席に座った。向かい合う格好になった。先輩が見つめてくる。えへへ、照れるよハニー。という内面はとうぜんのように韜晦しつつ、
「いえいえ。先輩がこの世に未練――じゃなかった。よろこんでくれればいいんですよ」
「キャーキャー」うぜぇ。
「……スケコマシ」
「で、中身なに?」
「……エロスが詰まってる」
「おまえら、とりあえず好奇心はネコをも殺すということばがあってだな――」
ぼくは冬町と花子を睨んだ。
ふたりはニヤニヤしながら退散した。
――と思ったら、単にぼくの席から遠のいただけだった。遠巻きにしながら、見てくる。じつにうざい。マジでうざい。パパラッチに追い詰められたダイアナ妃のこころ模様が解った。カメラもってないだけ、ぼくのほうがマシだと思っておこう。英国王室も大変だなぁ。
「じゃあ、食べましょうよ」黒紐先輩がするすると風呂敷をほどく。蓋をあける。顔が華やいだ。「わーい」
弁当の中身は、
すべて冷凍食品である。
サクサク春巻き。
ねっとりミートボール。
パサパサピラフ。
冷凍食品いがいはなにも使っちゃいない。手を抜いたのではない。こうするようにと、先輩が言ったのだ。
「ありがとう」
「おかまいなく」
「うん。じゃあ、私からもどうぞ」
先輩の手提げから登場したのは、
お重であった。
すばらしい重量感。
超重量級の三重のお重。
重重重。
『重』という漢字を三回も使っちゃうくらいに、ばかでっかい。とてもぼくひとりではな食えそうにないし、先輩はもっと無理だろうと思った。
なかを開けると、こいつは御節なのか? 状態になった。
あまりにも豪華だ。
豪華で、豪華だ。
豪華としか表現しようがない。
ごはんだけで五〇〇グラムはあろうかという盛大なボリュームなのだが、これがまた輝いているのである。陸のダイヤだ。宝石箱やぁ! どこどこさんのリッチナブルなアキタコマチに違いない。あれ、アキタコマチだから秋田産か。新潟産ならニイガタコマチだよな。ジョーシキ的に考えて。
「いつも、佐藤がつくりすぎるの……。精をつけにゃぁあきません、って」
「佐藤ってあの運転手?」
「んっとね、佐藤は料理長」
「あのひと、料理長もしてるの?」
佐藤め……。口惜しさも忘れてしまうほどの万能イケメンと思ったが、
「違うよ。うちはね、佐藤しか雇わないの」
「佐藤さーん」って呼べないじゃないか……。いっせいにみんな振り向くとか怖すぎる。しょんべんチビる。
「でも、なんでですか? 理由は――」
「ほら、いまって個性の時代じゃない? 佐藤なんて平凡な名前は個性がないとして、履歴書で落とされるんだよ」
「そんなバカな……」
世間……厳し過ぎるぞ!
おまえの顔が気に入らないって理由よりもむかつくぞ! それ!
「それがあるの。大事なんだよ? 個性。少なくともA社では落としてる。だから救済に家令やコック、掃除番、守衛、そういった職業として――うち、つまり縄架家個人として雇うわけなんだよ」
「でも、苗字ってどうにもならないような……」
「だから、そんな可哀想な佐藤さんを雇うの。なまえで人生が決まっちゃうなんておかしいもの」
わけが解らない……。
世間は名前にすら個性を求めるのか。だから子供に悪魔とか雷中(*ピカチュウと読む)とか海(*マリンと読む)とか、奇抜なものをつけようとするわけか……。なら――ぼくは合格に違いない。なまえを見た瞬間、「合格!」と面接官が言うに違いない。ちょっと変った苗字と下の名前をくれてありがとう。父さん&母さん。
て、いうかあれ? なんかおかしいぞ。これってダブスタっていうのではなかろうか? A社って……。あなたの家が経営してませんでしたっけ……。まあ、深く考えないことにしよう。
「はやく、食べましょうよ」
先輩が目を輝かせながらせかすので、
「「いただきます」」
十七年の人生で初めて識ったことがある。春巻きを食べるオンナノコはエロいということを。
なんでこんなことを識らなかったのか。
まことに残念だ。
いいかい? バナナを食うオンナノコよりもずっとエロい。バナナはふつうにムシャムシャ食えるけど、ちっちゃなお口の人が春巻きを食うと中身がでるんだ。具と汁が。それが下唇にはりつき、ぬらぬらと輝く。こいつは、どえれぇこった!
「ほんとうに、そんなんでよかったんですか?」ぼくは貧相な冷凍食品の列を見ながら言った。
冷凍食品……。
まごうことなき冷凍食品。
「うん。庶民的な味がね、私好きなんだ」
きれてはダメだ。茂木孔明。
庶民ということばに反応しちゃだめだ。
おかげでこっちは、シェフのつくったお重が食えるんだぞ! うまいうまい。この錦糸卵は絶品だ。こっちはなんだ? なんのソテー? まあいいか、とりあえず肉。宝石箱やぁ! な肉。
「ああ、それで交換して食べようって?」
「うん。パパがね、厳しくて」
「なるほど……」
「食べ物で人格形成がなされるってのがパパの持論で。牛は牧草を食べるように、ライオンはガゼルを食べるように、人間にもヒエラルキーに応じて食べ別けがなされるべきだって……」
「なんか、すごいですね……」
なんというキチガイな思想を持った父親だ。これでは、先輩がリストカッターになってしまうのもまっとうな気がする。よかった! 庶民でよかった! 父さん、アル中だけど!
「うん……」
イヤなことでも思い出したのか先輩の覇気が見るからに消失。
まずいぞ。舵を切れ。
このままでは世界の端っこにあるという、絶壁の滝つぼへまっさかさまだ。話の方向を修正するのだ。喜望峰へ面舵いっぱーい! アフリカの土人が待ってるぜ! ぼくはバスコダガマになる!
「そんなことより、野球の話しようぜ!」
「え? 野球?」
「野球拳の話でもいいですよ!」
「野球拳? 中国拳法の一種?」
ごめんなさい。純朴な先輩は野球拳なんてしらないっすよね!
じつのところ、野球拳は愛知県松山市の伝統芸能であり、家元も存在するとか、マジどうでもいいっすよね! トリビアもいいとこっすね! ちなみに現在の本家家元は澤田剛年さんという。マジ、どうでもいいしッ!
「スルーでいいです」
「そうなの?」
「はいはい。スルー。ばっちスルー」
「ふふ」先輩が笑った。「やっぱり、茂木くんはおもしろいね」
「ギャグキングですから!」
「そうなんだ」
「自称ですけど!」
我ながらうまい誘導だ。
先輩はすっかり元気を取り戻した。
喜望峰へいくのは存外、楽チンな航海であった。なんだ、大したことないじゃないか。バスコダガマ。四百年まえのスペイン? ポルトガル? どっちでもいいや。産まれたかった。ぼくは航海王子だッ!
「ヒソヒソ(あいつ、女人のあつかいあんなうまかったか?)」
「ヒソヒソ(脳が沸いてるのよ)」
「ヒソヒソ(あれか、脳に寄生するウマバエ)」
「ヒソヒソ(そうそう。あれみたいなもんよ。そのうち、身体じゅうからうじゃうじゃハエがでてくるよ)」
「ヒソヒソ(きめぇ)」
「ヒソヒソ(いまでもじゅうぶんきもいのにね)」
「ヒソヒソ(うぇっうぇ)」
「おまえら、黙っとけや!」ぼくは一喝した。
陰口はいけないんだぞ。小学校でセンセーからならわなかったのか! ぼくはいまだってブリーフにもなまえを書いてるんだから。
「アイコンタクト(調子のってんぞ)」
「アイコンタクト(まったくしょうがないヤツだなぁ。コーくんは。むかしからだけどさぁ)」
「アイコンタクト(しかし、まさかうまくいくとは思わなかったなぁ。てっきり撃沈して、みんなで笑いものにするってのが、当初の計画だったんだけど。これだったら、俺でもいけたんじゃね?)」
「アイコンタクト(冬町くんが? ムリゲーだと思うけど?)」
「アイコンタクト(なんでぇ!)」
「アイコンタクト(だってたぶん、アレ、コーくんが強要してるのよ。イヤがる先輩をむりやり……)」
「アイコンタクト(犯罪!)」
「アイコンタクト禁止!」
まったくしょうもないやつらだ。どいしようもない。ぼくと先輩のスイートタイムを邪魔する権利は総理大臣にだってないんだぞ。もちろん、幕僚事務総長にもない。アメリカ大統領にもだッ!
「テレパス(やっぱ調子のってんな……)」
「テレパス(いっかいヤキいれるべきね。こんど、焼き鏝もってくるよ)」
「テレパス(そいつぁ、いい案だなぁ)」
「テレパス(じゃあ、私が放課後体育館裏に呼び出すから)」
「だから黙れぇ!」
「「え? 黙ってるけど?」」
くそぉ……。あしたからは屋上か中庭で食うことに決めた。こんなのもうこりごりだ。たくさんだ。ああ、もうおなかいっぱいになりそう。
「一人漫才?」先輩が言った。
「そんなところです」
いまにみとけよ……冬町&花子……。
「おー! 孔明くん」
なんか余計なの来たし……。
くんなし!
「おーい! どこだい? 孔明くーん!」
ぼくは身をかがめた。完全に隠れるなど不可能なのだが、これで事態を回避できるものと高をくくっていた。
教室の入り口でキョロキョロするネコミミ帽子。アーマーリング女。こんな風体の女子など知り合いにはひとりしかいないのである。
「不在なの?」白面さんが花子のほうを向く。「ねぇ、そこのあなた。孔明くん、休み?」
花子は、
「そこそこ」
指差すなや! ひとを指差しちゃいけません。ってばっちゃからおそわらなかったのかよ! まったく最近の若造はなってねぇなぁ! 大澤親分、活をいれてやってくだせぇッ!
「なんだ。いるんじゃない」
つかつかとやってくる。
「や、やぁ」
見付かってしまってはしょうがない。ぼくは、右手をよわよわしくもかかげてみせた。ぎこちなくなってしまうのはしかたがない。ぼくはウソがつけないのだから、表出してしまっても焦らない!
「どうしたの? なんか挙動不審なんだけど」白面さんが怪訝そうな顔をする。
「解ってるだろ……?」
「なんの話?」
「だから――」
ぼくはウインクした。
「あー。解った。うん」白面さんはうなづく。
うなづけば、呼応するように耳のピアスがじゃらじゃらと鳴る。何度見ても、とんとなれない。どうみたって不良だよ。DQNだよ。リア充だよ! やっぱり、ぼくは清楚系が好きなんだなぁ、と再確認。先輩とかドストライクだし。ストライクすぎて、ここは狙い目とばっかりに却って力んじゃって、ファールっちゃうくらい。
「邪魔はしない約束だったしね。いいよいいよ」
「解って――」
なぜか先輩を見据える白面さん。そして、「勝負だ!」と言い放った。
「邪魔してるじゃん!」
「食事の邪魔はしてないが?」
「……」くっそ。一休さんかコイツ。ギャグはおもしろくないくせに、屁理屈は得意らしい。屏風からトラでも出せや! ゴラァ!
「勝負?」話についていけていない先輩。
「うむ。じつは、私も孔明くんがほし――」
「はーい。ストップストップ」
「む。なにをする!」
ぼくは白面さんをチョークスリーパーしながら、ひきずって廊下へ出た。大急ぎで。必死だった。だって人命がかかっているのだ。ここで白面さんの尊い犠牲が発生したとしてもぼくは先輩を守る! たとえ修羅になったとしても! ああ、なんかかっけーぞ。ぼく。男前だ。まるでライトノベルの主人公である。
教室からだいぶ離れたところで解放すると、
「おまえ……」
ぷはぁと大きく息をつき、白面さんが言う。「オンナノコに暴力ふるうなんてひどい!」
「オンナノコねぇ……。メス振り回すようなオンナノコはオンナノコじゃない! オンナノコは包丁を振り回すんだ!」
「ガーン!」
めちゃくちゃ解りやすいリアクションで頽れた。
ぼくは一歩あゆみより、包容力のある笑みをつくった。あまりの微笑に彼女のこころが蕩けてしまわないか心配になるくらいの素晴らしさ(アッサム)で、華麗にも呼びかけた。「で、白面さん」
「む?」
「黒紐先輩が境界例だって識ってたよね?」
「ああ……でもさ……」
「でももへったくれもない!」
ぼくはぴしゃりと言った。
先輩が死んだら困るじゃん。ぼくが困るじゃん! 先輩をなだめすかしつつ、最後(*セックルのこと。挿入完了ともいう)までいってからじゃないと困るじゃん! もしかしたらぼくの人生最後のフラグかもしれないんだから。折れたら、のろう。
ぼくは真剣だった。
ぼくの思いはきちんと白面さんに届いた。
人間話せば解るのである。犬養毅は死んだけど。
「真剣なんだな……」白面さんは深い溜息をひとつした。空気を白く染めてしまうかと思うほどの深さだった。「解った。もうやめておくよ。だから、なにか彼女にあったら言ってよ。協力するから」
「おまえ……いいヤツだったんだな!」
「私は、善人だからな」
立ち上がる。それから胸を張る白面さん。
真っ平らだった。大平原だった。サバンナだった。イボイノシシが咆哮した。それをライオンが追っかけた。背後からはハイエナがおこぼれを頂戴せんと迫る。胸を張ったところで、目を見張るべきものはなにもない。大平原は一味ちがった。アフリカ大陸は偉大だった。
「善人は麻酔ナシで腑分けとかしません」
「いじわるだな。孔明くんは」なんだか寂しそうだ。
「ギャグキングだからなぁ」
「そうか。うん……。ギャグキングだもんな。ギャグキングは恒久平和を実現しなくっちゃな……」
白面さんはネコミミ帽子をいじった。それから、短めのスカートを軽く叩くと踵をかえし、
「残念だなぁ」
と言って立ち去った。
とりあえず、一難は去った。
白面さんのちっちゃな背中がひどくちいさく見えた。廊下の幅が異様さをもって巨大化していた。廊下がぐにゃりとまがったかのような錯覚に囚われた。するといつのまにやら、彼女はいなくなっていた。
罪悪感がした――気がしないでもないような気がしないでもなかった。