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三
水曜日。
家庭科室へやってきた。
週一の移動教室でくる以外には、とんとご用事のない家庭科室。黒ヤギさんは白ヤギさんに訊ねるまでもない。
入室すると、洗剤の臭いがした。
何度もいうが、ぼくは紳士なのだ。オンナノコから交わされた約束事をブッチするわけにはいかない。と啖呵を切りたいところだが、断る口実が思いつかなかった単なるヘタレである。
しかし――よもや、こんなことになろうとは。
自分は喰うがわであって、まさかヒツジだったとは夢にも思わないオオカミさんのぼくはとてつもなく焦っている。赤頭巾ちゃん助けて、PLZ!
「それでは、切開を始める!」
素手にメスという、衛生管理ゼロなイデタチで白面さんが、ぼくの腹のうえへと、のそっりと現れた。
ぼくは、いま家庭科室のステンレスの天板に縛り付けられた状態だ。
がっちりと鎖で緊縛されている。そんな、こんな大人ちっくプレイはまだはやいよ! とか思いつつ、彼女の顔をしたから見あげる格好を強制されている。下方から眺めると、彼女の瞳の色がなんとなく赤味がかっていることに気付いた。が――いまはそんなことはどうでもよい。
メスが徐々にぼくのはだけさせられた腹部へと迫る。
これは――ジョーダンなのか?
白面さんを見る。
とてもジョーダンとは思えない顔。というよりは表情から感情が読み解けない。あえて読解すれば、マジメな感じだろうか? やっぱり、ジョーダンじゃない! マジメな顔でメスとか危険すぎる。
「ちょっと待って! 話せば解る!」
「そう……。じゃあ――」メスがいったん引っ込む。「私はホモ=サピエンスを研究している。いままでサンプルを採取しようと思っていたんだが、私にも倫理観というものがある。無闇に解剖をするような無粋はしないよ。安心するといい。だけど、あなたはすでに要件を充たしているのだ」
「意味が解らない!」
ペン回しの要領でメスを指の間で回転させる白面さん。
うっかり失敗して取り落とし、ぼくの腹にずぶりとつきささらないだろうかと、ヒヤヒヤだ。脂汗がでてきた。ガマの油売りが小躍りし出しそうなくらいの、滝汗モード。まさに人体ナイアガラ。
「愛があればなんでもできる。いち、に、さん、東京ラブストーリーッ!」
「愛とかないしッ!」
「それはおかしい。あなたは私にラブレターをよこした」
「loveとlikeは違う!」なんつうモンギリ型の定型句テンプレート! けれど、こんなことばしか浮かばなかった。
「では、あれはライクレターなのか?」
「そんなの、初めて聞いたわ!」
「ならやっぱり、ラブレターでいいのだな?」細動するメス。きらんと光る刃。「切開を始める」
なんという、焼け石に水(*誤用?)。
焼け石に水?
なるほど……。水ではなく、大水ならいいわけだ。
どんなに高温の石だろうが、そいつぁ岩じゃない。巌でもない。大水の前には手も足も出ないはずだ。堤を壊し、堰を粉砕する大水のように振舞えばよい。ようするにクリティカルヒットを与えればよい。なんて、かんたんな話!
「ちょっと……いいかな?」
「なに?」
ぼくは見本市での一件を思い出していた。
これは賭けに違いないが、おとなしくアジの開きになる気など毛頭ない。なにしろ、ぼくは全身麻酔すらかけてもらってないのだ! 魚には痛覚がないので、活け造り状態でもすこしも痛くはないが――、ぼくのばあいは痛いんだ。人間だもの。みつを。
「きみがぼくのギャグで笑ったら、解放してくれない?」
逡巡してから、白面さんは応えた。「いいよ」
これで確定。
彼女は笑いに関して興味があるとみえる。当人のセンスは愚にもつかないが。
「ひとはパンのみで生きるのではない、と言うよね?」
「イエズスね」
「じゃあ、なにが必要だと思う?」
「聖書によれば、神の口から出ることばに浴する。これはギャグだと思う。食べるという意味の口、と、発音するという意味の口、の」
「ギャグになってないような……」
「だってパンの話でしょう? イエズスもなかなか諧謔趣味があったみたいだ。さすがは大工の息子で、ニート(*彼は三十路まえまで定職についていなかった)」
「ケーキでも食ってろ!」
「それはフランス革命時の創作と言われている。是が非でも王政を悪にせねばならなかったから。けれど、さっこん賑わいを見せている、マリー=アントワネットの名誉回復というのは承服できない。なぜなら、彼女を悪役にしておかないと、いまの民主的な地盤が揺らぐことになるから。たとえば、アドルフ=ヒトラーはナポレオン=ボナパルトと同じく投票によって独裁者になったわけだけれど、敗戦後、ドイツ国民は彼を悪の祭壇に祭った。自分たちで指導者にしたてておきながら、だ。ナチスにマインドコントールされたと主張することで国民は免罪符を得た。じっさいのところ、彼は英雄のはずだ。ナポレオンはいまでもフランスの英雄に違いない。もちろん、英雄というのは大殺戮者であるばあいが多いから、ナポレオンを英雄視するのはフランス人と日本人くらいのもので、いささか滑稽ではある。とうぜんのようにほかの欧州諸国ではボナパルトは侵略者でしかない。もっとも、宣伝省という着眼点といい、ヒトラーがマインドコントロールをおこなっていなかったという保証はない。むしろ、その手腕はすばらしいとほめたたえるに値するだろう。けれど、彼が軍需によってでも、ドイツの不況を救ったのは事実。ひるがえって、日本人というのは愚かだった。国民総懺悔なんてバカなことをしたために、いまだに謝罪と賠償と言われ続けている。――のちの歴史が判断する。もしくは、歴史家の判断にゆだねるというのはよくある言説だが、ときに英雄すらも悪人に、ましてや無辜のものを罪人にする覚悟が必要なのだ。そもそも、なにが悪であり、なにが善であるか? というのも難しい問題だし、近代国家というのは国民を洗脳することから始まる。ワイマール共和国時代、ドイツの医師で社会衛生学者のマックス=ヒルシェは民の社会化、つまりは国有化を提言している。だから、共和制フランスの教科書ではマリーは悪でなくちゃならない。そう、教育すべき。これは議論の余地の問題ではない。議論してはならないのだ。近代国家の歴史教育が一種の洗脳であることは、ぎゃくに議論の余地がある。たとえば、日本では西欧諸国に負けず劣らず義務教育の開始が早かった。明治には成立していた。これをほめたたえるムキがあるが言語道断だ。国家による教育とは、さきも述べたように国民化へのプロセスだ。早期に義務教育を開始したからこそ――」
「もういい!」
まったく、どこの思想家だよ。あたま痛い。
社会科のセンセーだってここまで講釈を垂れないぞ! こんなに講釈したら、睡眠どころか永眠する生徒がでちゃうからなぁ。
白面さんは見るからにうなだれて、
「残念。というか、なんの話だったか?」
「パンいがいに、人生にはなにが必要って話ッ!」
「パンきり包丁?」
「そのまま食え! 千切って食え! くそ硬いバケットだろうと、千切って食え! 文明の利器使用禁止!」
「むぅ……」白面さんの柳眉が毛虫のようにうごめく。そして、彼女は自分なりの回答を得たらしい。してやったり、との感情があらわれるのがありありと解った。「バターだ! バターがないとそのまんまのパンなど食ってられない!」
「甘いな。ふふ」
「なんだって!?」
彼女の顔を色取る驚愕に、ぼくは歓喜した。すでに伏線も撒いた。あとは回収するだけである。ギャルゲにおける好感度の数値をあげていく作業よりもカンタンだった。まったく、白面さんはやりやすい。
ギャグエンペラーの手にかかれば、おちゃのこさいさい、ヘのカッパである。カッパの河流れである。
「いっしょにパンを食べてくれるひとさッ!」
しゅんかん、ぼくは華麗極まるスマイルをつくった。
「甘ぁぁぁいッ!」白面さんが叫んだ。「なんという三段式ロケットギャグ。そのペイロードには笑いが詰まっているんだね!」
「そうかな……」
意味不明な解説をありがとう。
白面さんが笑った。「じゃあ、パンを食べよう」
「はいぃ?」
「いっしょにパンを食べる。だから、カンパニーなんだよ。Com-pan-y!」
「そうなんだ……」
「ちょっと待っていてほしい。いまから焼く」
「いまからかよ!」
「大丈夫。すでに小麦粉は用意されている。麦穂を刈るところから始める必要はない」応えつつ、ぼくの拘束をとく。ふぅ……これで自由の身だ。ああ、空気おいしいなぁ。生きてるって、ス☆バ☆ラ☆シ☆イ。
「そりゃ、どんなに手作りにこだわる蕎麦職人でも、蕎麦刈りからはしないような――」
「そこの棚に入っている」
白面さんの視線に追従すると、調味料などが詰まった棚があった。調理実習でお世話になる水屋だ。あたりまえのことだが扉には盗難防止のために施錠されている。ちいさなサイズの南京錠ではあるが、家庭科教諭の許可もなく開けられるものだろうか?
ぼくの疑問はすぐに氷解した。
彼女は鍵はもっていなかったが、鍵と同じ結果をもたらすものはもっていた。ハリガネである。
それもただのハリガネではなく、ちょっと奇妙なかたちをしている。ピッキング犯が好んで使用していそうな、専門化されたものだった。きっと正式名称もあるのだろう。識らんけど。どこかから取り出したのか、杳と識れぬハリガネを鍵穴に差し込んで、ものの数秒。南京錠は陥落した。
「破城槌は城門を破った。では、敵陣へ吶喊する」
スルーだ。スルー。きゃっせん。
ぼくは白面さんをそのまま観察することにした。縞々パンツを見つめるようなしたたかな眼差しで彼女の一挙手一投足を観察して判明したことは――予想外にも、彼女の料理の手際のよいことだ。人間、見た目で判断してはいけない。ぼくはひとつだけ人間的に成長したのだった。
ちゃちゃちゃっとかろやかな手並みでバターと卵を混ぜ、そこに強力粉とベーキングパウダーを加えていく白面さん。その顔はいつものように無表情でクールなものに戻っていた。
突然、ボウルの中身をかき回す手をとめ、彼女は振り返った。
「食うなよ?」
「食わねぇよ! ちゃんとできてから食う」
「てっきり、孔明くんは、ナマ生地ですら食っちゃうイヤシンボーなのかと思ってたよ」
なんという偏見。そして勝手な設定。ぼくはジェントルメンだと何度いったら解るんだ? って一回も口に出してはいないか。テヘヘ。
できたパン生地はしばらく寝かさなくっちゃいけない。最低でも半時間くらいはかかるかもと白面さんが言った。ぼくらはパン生地がふっくらとなるまで暇になった。だからといって、
「腑分けの続きをしよう」
「しねぇ!」
「やはり、ダメなのか?」しょぼんとする白面さん。
「ぼくを笑わせないとダメ」
「それは難しい……」
「修行あるのみ! 粉骨砕身で臨みたまえ」
「いいの? 粉骨して砕身していいの? 孔明くんを漢方薬にしていいの? でも漢方薬になる原料としての要件は、胎児の死骸もしくは凌遅刑によって肉を削がれたものの肉片と……」
この子、どうしたらいいの? ぼくはどうすればいいの?
変な子のあいてを、どうしてしなくっちゃなの? なにかの天罰なの? 原罪でも贖っている最中なの? アダムとエヴァのバーカ、バーカ!
「どうしたの?」
「なぁ……」
「なに?」白面さんは首をかしげた。綺麗な赤目がぼくを見てくる。うっかり、愛らしいとか思――ってないからな! ぼくは一途、ぼくは一途。ぼくは一途な好青年……自己暗示完了。
「どうして、ぼくの身体を引き裂きたいわけ?」
「もしかして、童貞?」
脈絡がないなぁ……。と呆れつつも、
がしかし、童貞というぼくにとっての悶絶的禁止ワードに絶句してしまいそうになったのも事実だった。ここは毅然とした態度で臨むべきだ。ぼくは深く息をつき、強健さでもって言い放った。「悪いか?」
白面さんの手がぼくの肩に置かれた。仕事をしくじった部下をなぐさめるような優しい手つきでぽんぽんと肩をたたいてくる。そして、
「大丈夫。童貞はステータス」
「工ー!」
腰砕けになった。
アッパーがくると思っていたら、キックを喰らった。そんな感じ。身構えて試合に挑んだところ、じつはボクシングじゃなくムエタイだった。まさにこれ。ムエタイでは性転換したボクサーがいるが、金的は有効か? 有効なのか? まあ、それはいい。それよりもだ。まーた始まったよ!
「そもそもだよ、孔明くん。童貞、処女というセックスに於ける日本語の言い別け、弁別が恣意的。たとえば、キリシタンの文書では童貞という語が好まれる傾向にある。それは、もとを質せば英語のヴァージン、ラテン語でいうところのウィルゴーの訳語として童貞が生まれたから。ウィルゴーおよびヴァージンはどちらも男女の別なく用いられる。チェリーボーイにしても、チェリーは男性用の侮蔑語ではない。キリシタン文書では童貞マリアとも書かれる。童は、男女の別なく用いるからね。そして、日本列島における童貞の区分には、さらに酷い様相を呈している。素人童貞、いわゆる性風俗以外での性交渉を持たない男性へのののしりさえある始末。これは、男は女を食すべきという考えが根底にあるのかもしれない。「据え膳食わねば、なんとやら」などということばもある。しかし、多くの宗教的な価値観ではけっして童貞は悪いことではない。イスラームにおいては、気軽に女性に触れることさえ禁忌であるし、カソリックでは童貞を推奨する傾向にあり、また、アメリカでも結婚するまで性交渉をしないことが清く正しいとされるむきもある。仏教でも同じ。仏教では女人を忌避する、悪魔的な存在であるとするアイデアルがあるのもそうだが、女人を拒絶するあまりに、衆道などがはやった。痔というのは、やまいだれに寺と書くが、ここには直接的な比喩があると見て間違いない。しかしまた、いっぽうでワギナ=デンタータといったことばもある。これは、歯の生えた女性器、つまり、男性の性交渉への忌避感を表したものだ。古代ローマでは、性器同士よりもオーラルセックス、イラマティオーやフェラティオーがはやったのはいうまでもない。これが、さきにのべたワギナ=デンタータに対するものか、かたや、ダイレクトな性的交渉をなるたけ抑えるのが美徳でったのかは解らない。ローマ、アンシェント=グリークではホモセクシャルが横行したのだから。童貞を軽くみるというのは、女性の自発的な性的解放や価値を貶めるとも逆説的には考えられるし、また現代日本において女性がヤラハタなどというのは、男性の獣性を喚起するようなおろかしい行為とも取れる。現代の風俗産業は爛熟している。しっかりした場所ならば性病の心配はないし、ポルノにしてもネットでかんたんに手に入る。私は思うんだが、公娼制度というのはある意味で有益でああると考える。そうなると、プロというのは成立しえるが、いまは直接的な性風俗は事実上黙認されているにせよ、してはいけないことだ。「偶発的にベッドインした自由恋愛の帰結」といういい訳が通る。つまりは、線引きが難しい。素人だと思って抱いた女がAV出演していた、なんてのはお笑い種ではなく、毎年発売されるAVの数を考えればけっこうまっとうな確率を持ちえるのではないか? とすれば、わざわざ素人の女を求めるということにさしたる価値があるのかどうか、その根本を疑うべきかもしれない。オナニーというのは、聖書のオナンを――」
「もういい!」
こっちのペースが乱れまくりんぐ!
これが俗に言うKYってやつなんだな。KYってなんの略だっけ? かわいそうな幼女? うん、たぶんそうだ。ぼくの現在の心境はまさにかわいそうな幼女なんだもん。うえぇぇん。
「あ、そろそろいいかな」
白面さんの壮絶なる有無をいわせぬマシンガントークによって、半時間があっと言う間に経っていたのだった。彼女は、ボウルのなかの生地を覗き込むと、「うん。いい感じ」と言った。とてもうれしそうな顔をしていた。