2-6
コンビニの大便用トイレのごとく男女兼用のトイレのまえには、見たことのあるオンナノコが立っていた。
アクセがジャラジャラ。
「こんにちは。孔明くん」
ぼくはスルーしようとしたが――
「どこへいくの?」
手首を掴まれた。
腕に幾重もはめたリングがかちあう。鳴る。
「なにか、用かな?」
「用? もちろん。私は、あなたからラブレターをもらったのだ」
オンナノコは白面さんだった。
ネコミミっぽい帽子を被っているので、遠目にも実のところ判然としていたのだが、気付かないフリをするつもりだったのだ。けっきょく、儚くも失敗したわけだが。
白面さんは、あまり表情の読み取れない仏頂面で、
「安心していい。私は、いまは邪魔しない。縄架黒紐はいわゆる境界例だ。いや、単に精神薄弱と言っていいかもしれないが。じっさいのところ、精神医学というのは医者の鑑定によって結果が著しく異なってしまう、およそ科学とはいいがたいものだ。骨董品鑑定のほうが、まだマシというレベルですらある。精神医学との結びつきも強い精神分析なんてものは、エセ科学の最たるものであるし、その手法すら、スピリチュアルと大差はない。ようは、ユングのように数式で精神を記述するか、霊魂うんぬんを持ち出すか、といった些細な違いではない。科学のガワをかぶった呪術だ。そんなものは宗教だな。しかし、人間というのは心的にいって脆いことも確かだ。理論的裏づけがどうであれ、私はあまり気分のよくないことはしたくない。だから――」
いきなりの長口上。
ぼくは辟易した。
衒学趣味も大概である。
しかも先輩がアレなひとだと識っている? もしかして有名なことだったのか? ぼくが無知だっただけなのか?
識らぬがホトケとはよく言ったものだ。
「ん? ちょっとした独自ソースがあるのだ」
「そう――なんだ」ぼくは気圧されていた。
長口上自体もそうだし、仏頂面でつらつらと説法されれば門前の小僧も習いたくなくなるものである。
「ところで、釣堀というのは――」
またしてもなにやら長々と語りそうなので、ぼくは言った。「おもしろい話をしてよ」
「それは、ギャグというヤツか?」
ピンと、帽子のフチから覗く髪が跳ねた。なんだか、耳がよっつあるみたいでおかしい。
「そうだよ。笑いは地球を救う」
彼女は量子力学的難問に苦戦する物理学者の顔をした。きっと、いま彼女のなかでは超弦理論の宇宙ひもについてだとか、インフレーション宇宙論だとか、タイムマシンと因果律の関係とか、どうして手動灯油ポンプが醤油チュルチュルという正式名称なのか? とかそんなことがめくるめくっているに違いない。
懊悩。
やがて顔付は、F=maが理解できない物理履修中の学生のそれに変じた。
「お手本を見せてほしい」
ぼくは咳払いをした。
見せてやろう。我が渾身のギャグ。
ぼくはこれでも、ギャグキングと言われているのだ。脳内で。脳内美少女たちに拍手喝采を浴びているのだ。とくと見よ! ぼくのギャグ!
「ヘイ、ジョン。となりの家に塀ができたってね!」
白面さんがぼくを興味深そうに覗き込む。「うん。それで?」
十分にタメをつくったところで、
「ウォール!」
爆笑は起きなかった。しかし、快哉があがった。
尊敬と崇敬のこもった、矢のように熱い視線の驟雨がぼくを襲う。
「うおおとウォールをかけた斬新なギャグ!」ぱちぱち。「素晴らしい! 私をこんなに笑わせてくれるなんて! 解った。宇宙へいこう」
「は?」
「だから、宇宙へいきましょう。私はあなたに惚れた」
しょうじき、意味が解らない。やっぱり先輩とは別の次元でアレなひとだと思った。グゥの根も出す気力がおきない。
変な帽子に、ごつごつアクセ。見た目からしておかしいじゃないか。先輩と違って。先輩は見た目はリストカッターには見えないし。白面さんは外見からして完全にアウトだ。ワイルドピッチのうえに、ピッチャー返しだ。
ぼくのヴィクトリー=オヴ=モテロードは棘の道らしい。ドリルのような棘がびっしりと生い茂っていて、ぼくを苛むんだ。バツゲームから始まった二枚のラブレターがさらなるスパイラルを生んでいる気しかしない。
「邪魔しないんじゃなかったの?」
「気が変った」
――変んなよ。
「じゃあ、おもしろいギャグをいえたら宇宙へいってやろうじゃないか」
「いいだろう」
白面さんは不敵ににやつく。ネコミミ帽子のさきっぽをいじり、
「となりの家にカキができたってね!」
「ほう。それで?」
「それ、柿やないねん。牡蠣やねん。となりの柿本さんは牡蠣の養殖してんねん」
「……」
「どうだ?」
「ここは南極点かな?」
ふ……。ドシロートが。なんでも大阪共和国の言語にすればいいってもんじゃない! 大阪なんて新幹線で福岡にいくために素通りしたことしかない東京モンが考えるような実に浅はかな考え方だ。まったく、片腹痛いわ!
「む……。垣と見せかけて、あえて垣じゃないという。この高度なギャグを理解できないのか! となりの垣に柿たてかけたという早口言葉ともかけているんだぞ! ギャグというのは認識、常識のズレを楽しむもののはずだぞ! これだから、ホモサピエンスは――」
「いや。そもそも音声的に、垣、牡蠣、柿。全部いっしょだし。口頭じゃ、まったく解らない。0点とつけるのもおこがましいわッ! マイナス一万点! 青天井ルールじゃなくてよかったな!」
ぼくの反論不可能なパーペキ論破に、彼女はむすっとふくれた。
それから、
「帰る! カエルが帰る!」
帰るのかと思いきや、数歩歩くと立ち止まった。
期待感丸出しの表情で、
「どうだ?」
「お帰りください」
「I’ll be backだからな! つぎにあうときは、私はT-800じゃなくてT-Xだと思えよ!」
「なんだったんだよ。もう……。まあ、T-1000じゃないだけよしとしてやろう」
自分でラブレターを出しておきながら、先輩以外には冷たいぼくなのだった。
ぼくは一途なんである。冬ソナでいえば、ユジンくらいに一途なんである。かわいそうなサンヒョク。パク=ヨンハ(*サンヒョク役の俳優)とか、いつの間にか歌手になってるしさ。関係ないか。
先輩を待たせては悪いと、手短にショウベンを済ませようとしたところ、足元に紙切れを見つけた。なんとはなしに拾ってみると、白面さんからのものだった。
『水曜日。家庭科室で待つ』
なぜ――休み明けの月曜日じゃない……。まったくわけの解らん女子だ。
冬町の好みを疑う気はないが、ぼく的にはナシだ。あり得ん! さて、彼女からいかにして逃げるか水曜日の朝までに考えなくっちゃ。
池へ戻ると、先輩が走ってきた。
「遅いよ!」
「ごめんなさい」
「ほかの子と会ってたりしないよね?」
「え?」
こいつ――エスパーか?
「だって、茂木くん。その――」
やっとぼくのジェントルメンっぷりを評価する女性が現れたようだ。
嬉しいじゃないか。エスパーだっていいや、と思った。もうなんでもこい。宇宙人でも地底人でもなんでもこい。※ただし美女および美少女に限る。
「――じゃなかった。そうじゃないの!」
先輩は急に取り乱すと、池のほうを向く。
釣竿が泳いでいた。
シュールだ。
「先輩……」
「だって、釣り方解らなかったんだもの」
「先輩はかわいいなぁ」
うっかり口に出てしまったことを悔いた。こういう科白はこころの声にとどめておくべきだった。
案の定、先輩はすごく恥ずかしそうに照れた。
そして、釣果はマルハゲだった。